「文藝春秋」の1月号にダニエル・キイスと宇多田ヒカルの対談が載っています。72歳のキイスと16歳の宇多田が互角に話しているのがおもしろく、キイスもあることについて「この答えにたどりつくまで、私は72年かかった。あなたはどうして知ったのかな」と絶賛しています。
いくつかの論点について対談が進められるのですが、先に『対話の世紀へ』を書いたばかりなので興味深かったのは、暴力の問題です。キイスは「最近、私が気になっているのは若い人たちの暴力です…この問題の責任は誰にあるのか」と問い、重要なのは「子どもの教育」であるといい、「他人の視点から世界をどう見るか」を教えることが一番大切だと思う、といっています。キイスは「共感」(empathy)という言葉を使い、相手を気の毒だと思うシンパシー(sympathy)と区別して「相手の痛みを感じること」である、と定義します。そして宇多田の"Lullaby"という曲を取り上げ、「曲のテーマは、他者に共感するフィーリングだと思う」といっています。
アドラーも「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」(『個人心理学講義』、p.189)という意味での「共感」が重要である、といっています。しかしアドラーは、僕が理解するところでは、他者に共感する「フィーリング」というだけではなかなか越えられない私と他者との隔たりを強く意識しています。
それどころかそもそも相手を理解することは不可能である、と考えているように思います。不可能だけれどもなお共感を重視し、さらにそれにとどまらず「言葉を使うコミュニケーション」が重要である、といっています(岸見『アドラー心理学入門』pp.169-171)。
わからないことを前提にわかろうとすること、簡単にわかると思わずわからなければたずねてみる、話し合ってみる、そういう意味での「対話」(ダライ・ラマ14世)が究極的には力が支配する世の中を終わらせることになれば、と思います。