ウィーン・パリ滞在記
はじめに
1999年9月12日から24日までウィーンに行ってきました。この8月にシカゴで国際アドラー心理学会に出席するためにパスポートなるものを初めて作った僕はこりもしないで再び日本を出て行きました。シカゴから帰ったら『アドラー心理学入門』(KKベストセラーズ)のゲラが待っていました。涼しかったシカゴとは違って蒸し風呂のような暑い京都で地獄のような校正の日々が始まりました。今回のウィーンに旅立ったのはこの本が出版されるのを見届けてからのことで、売れ行きを気にしながらも、しかし4月以来ずっとかかりっきりだった執筆の仕事を終えたという安堵感の中での旅となりました。
最初のつまづき
9月12日関西空港11時のウィーンへの全日空とオーストリア航空の共同運行便に乗りました。家を出たのが6時20分。シカゴの時もそうだったのですが、朝方まで眠れませんでした。少し急いでいたのと、ぎりぎりまで電子メールを書くために朝方までコンピュータをしまわなかったことが後に大きな災いになりました。
電車に乗ってすぐに気がついたのはスーツケースの鍵を忘れたことでした。幸い、スペアキーを鞄に入れていたので大事には至りませんでしたが、最初から大きな失敗にがっくりしました。しかしこの時気づかなかったですが実はもう一つ失敗をしていたことに気がつくのはウィーンに着いて、ホテルでスーツケースを開いた時でした。
ホテルは古くもとよりモジュラージャックが電話についているということもなく、オーストリアのモジュラージャックを用意したにもかかわらずインターネットに繋げられずがっかりしましたが、忘れないうちに旅の印象を書きとめるべくコンピュータの電源に入れる時に失敗に気がついたのです。アダプターを忘れた…今回翻訳の仕事をしようと思っていたのにコンピュータが一瞬にして鉄の固まりになってしまいました。
しかし結果論ですがおかげでこの十数年ずっと電子メールのチェックをしない日はないといっていいのですが、電子メールを見ることもなく、しかも本も読まずに過ごしました。
ドイツ語、フランス語
今回、当初、ウィーンからアテネに行く予定を立てていました。ところが直前にアテネで大きな地震がありずいぶんと迷ったのですがアテネへ行くことを断念し、代わりにパリに行くことにしました。急に決めたことなのでホテルが見つかるか心配だったのですが、インターネットですぐに凱旋門の近くにあるホテルを見つけ、その場で予約することができました。しかし実際に予約ができたのかはホテルに到着するまで心配だったのですが。
急にパリに行くことに決めたので急遽フランス語を勉強しないといけないことになりました。最近、フランス語から離れていたので間に合うか心配でした。しかもフランス語は一度も話したことがないという…
ウィーンでもパリでも英語は通じます。とりわけホテルでは英語は通じますから英語で通そうと思ったらそれでもよかったのでしょうが、せっかくウィーンとパリに行くのですからできるだけドイツ語とフランス語を使おうと決めました。
ドイツ語とフランス語を使うことの問題はすぐに明らかになりました。向こうがこちらがドイツ語、あるいはフランス語がわかると思ってドイツ語、フランス語で話してくるということです。当然といえば当然ですがこちらが話すことは自分がわかることでしかありませんから話すことは実はそれほど難しいことではありません。ところが相手が何をいうかは予想もつきませんし、いわば直球で答えが返ってくればいいですが変化球で返ってきたらたちまち困ってしまうことになるわけです。
ウィーンへ
飛行機は予定より早く15時45分にウィーン空港に着きました。入国のための書類を書く必要もなく、気難しい顔をした係員が何もたずねることもなく黙ってパスポートにはんこを押してくれるだけ、何の問題もなく無事入国手続きが完了しました。シカゴに行った時には係員が「カンコー?」と日本語でたずねましたがそういうことすらありませんでした。後にウィーンからパリに行きますがその時にはパスポートの審査すらありませんでしたし、パリについてからも何も手続きは必要ではなくフリーパスでした(これはウィーンからパリだったからで大阪からパリだったら手続きは必要です)。
ウィーンと京都の時差は7時間。7時間得をしたことになります。ステファン大聖堂のすぐ近くにあるRoyalホテルにチェックインしました。日本に帰るまで都合6日このホテルに滞在することになります。古いホテルでしたが僕には快適でした。さっそくウィーンの街にくりだすことにしました。
大きさはわからない
海外に行くことなどまったく考えたこともなかった今までもウィーン関係の本をたくさん読んできました。アドラーの翻訳をするに当たって歴史的な背景も知らないわけにはいきませんし、たくさん読みました。
今回滞在したRoyalホテルの近くにあるシュテファン大聖堂も写真を見て知っていました。しかし一目見てその威容に圧倒されてしまいました。後に訪ねたパリの凱旋門もエッフェル塔についてもこんなに大きいとは思いもしませんでした。僕にはしかしシュテファン大聖堂の方が大きく見えたのですが。
グラーベン通りをウィーン大学の方に向かって歩きました。ウィーンの街はわかりやすく「へそ」にあたるシュテファン大聖堂を目標にすれば迷うことはないというような話を聞いていましたが、実際には地図をしっかり見ないで歩いているうちに迷ったこともありました。パリの凱旋門やエッフェル塔はどこからもよく見えましたがシュテファン大聖堂の塔は他の建物に阻まれ、そうなるとたちまち自分がどこにいるかわからなくなってしまいました。
後の話になるのですがステファン大聖堂だと思っていた塔が別のものだったようで確信を持って自分がステファン大聖堂へ向かっていると思って歩いているうちはよかったのですがどうも違うのではないかと思い至ったらとたんに不安になったことがありました。思い切って道をたずねました。丁寧に教えてもらえました。でもわからない…ドイツ語の問題ではありませんでした。全然理解できない様子の僕を見て「あそこはね(僕がシュテファン大聖堂だと思っていたところ)きれいなところですよ、そこにせっかくだから行かれてもいいですよ、で、シュテファン大聖堂だけどどう行くかは簡単じゃないの。ここからリンク(ウィーンの街をぐるりと市電が走っている)に出てそこで地下鉄に乗る、そうそれが一番」と教えてもらえました。なんと簡単なんだろう、そういう手があったんだ、すぐに教えられた通りに地下鉄の駅を目指して歩き一件落着。地下鉄はその後何度も乗りますが、どこでも行けるようになりました。
こんな僕が後にパリに行ったら道をたずねられたという(しかも二人に)…たずねる人をまちがっていると思うのですけどね。
さて、こうして地図を見ても写真を見ていてもウィーンのことをよくわかっていなかったことに最初の日から思い当たりました。これがアドラーが生きたウィーンなんだ!…たちまちウィーンの魅力の虜になってしまいました。
カフェ・グリーンシュタイトル
この日特に印象に残ったのは夕食のために立ち寄ったカフェ・グリーンシュタイトル。1847年に開店し1897年に一度取り壊されたこのカフェはその後同じ場所に再建されました。店にはたくさんの新聞と雑誌が置かれ、音楽も流れないカフェで何時間でも過ごすことができます。老夫婦が近くの席に座っていました。妻は新聞を読み、夫は何かの原稿を書いている。ほとんど言葉を交わすこともなく静かに時間が流れていきました。
ウィーンにはこのようなカフェがたくさんあります。アドラーもよくカフェで友人たちと夜遅くまで議論していたと伝えられています。アドラーもこのカフェ・グリーンシュタイトルに通っていたことを、最近メールをやり取りするようになったニューヨークのDr.Edward
Hoffmanがアドラーの伝記の中で書いています(Hoffman,
Edward, <em>The Drive for Self</em>, p.20,38 etc.)。一日の診察が終わってから毎夜のように通っていたようです。誰も12時前にアドラーが帰るのを見たことがなかったとか。
乗り降り自由
ウィーンでは地下鉄、市電も改札というものがありません。もちろん切符を買わないといけないのですが72時間券(150シリング、1300円くらい)を買っておけば三日間自由に乗り降りできました。時折検札があるようですが僕は今回の滞在の間一度も遭遇しませんでした。こんなことで経営は成り立っているのだろうか、と思ったりもしましたが、ずっとこのシステムが採用されているところを見ると不正利用している人は少ないのかもしれません。日本で同じことをしたらどうなるだろうと思わないわけにはいきませんでした。
後にザルツブルクに列車で行くのですが、発車のベルもなく列車は静かにホームを出て行きました。日本でのようなけたたましいベルもアナウンスもありませんでした。
シェーンブルン宮殿
9月13日。いよいよ本格的にウィーンの散策を始めました。まずはシェーンブルン宮殿へ。ウィーンに行ったら誰もがまず行くところの一つでしょう。朝早く行かないといけないという助言をもらっていたので早く行きました。僕が宮殿を後にする頃には団体の観光客で一杯になりましたから、この日の最初の訪問地にしてよかったと思いました。幼いアドラーはこの宮殿にしのびこんで遊んだということです。
イヤホンで説明を聞くというようなことはこれまで一度もしたことがなかったのですが、思いがけずおもしろく、説明がなければただ何となく通り過ぎてしまう部屋を時間をかけて見学することができました。
アドラーも著書の中でしばしば引き合いに出す皇帝フランツ・ヨーゼフは一年の大半をこのシェーンブルン宮殿で過ごしました。ヨーゼフはまず息子を失いました。皇紀エリザベートは旅に出てほとんど皇帝の元にいることはなく、ついにはイタリア人のアナーキストに殺されます。皇帝は一体どんな思いでくる日もくる日も執務に明け暮れたのか。
急ぐたびでもなく時間はたっぷりあるのでグロリエッテまで昇ることにしました。後に毎日何時間も歩くようになりましたがこの日はウィーンに来て二日目。日本では医院を退職して以来ずっと毎日本の執筆にかかり、ほとんど運動らしきものをしたことがなかったので20分かかるという表示を見てどうしようか迷ってしまいました。しかし苦労して(大げさ)昇ったかいがあって少しかすんではいましたがウィーン市内を眺望することができました。
アドラーの診療所へ
昼になったので一度ホテルに戻ることにしました。ホテルの近くのスーパーで昼食を買いました。高額な紙幣を出したわけでもないのですが、まだ小銭の持ち合わせがなかったので紙幣を出したら、細かいお金を出してくれないと困るわよ、おつりはないんだから…と文句をいわれました。僕の前の人が1000シリング紙幣を出していたからではないかと思うのですがこんなことがあるとストレスフル。ちょっとめげてホテルの部屋でパンとジュースの昼食を摂りながら(今回こういう食事が多かったです)昼からはアドラーの診療所の後を訪ねるべく地図で場所を確認しました。
ホフマンのアドラー伝を出してきて通りの名前を再確認。降りる駅もまちがいなかったのですが、駅を降りてからが大変。さてどこにその通りがあるのかすぐにはわからなかったのです。ベンチに二人で腰掛けている老婦人に訪ねることにしました。Czeringasseという通りの名前を上手に発音できず難航。親切に教えてもらえました。どうもありがとう、さようなら、と挨拶をしていざめざす通りへ。しばらくまた迷いましたが、ありました、ありました。下町にある診療所跡の建物には一枚のプレートが打ちつけてありました。ウィーンの建物にはこのようなプレートがあちらこちらにあり、建物の由緒が記されています。アドラーの診療所跡にはこう書いてありました。
IN DIESEM HAUSE
LEBTE UND WIRKTE
ALFRED ADLER
GEB.7.2.1870 GEST.28.5.1937
BEGRUNDER DER
INDIVIDUAL-
PSYCHOLOGIE
この家で
生き、働いた
アルフレッド・アドラー
1870年2月7日生まれ 1937年5月28日死去
個人心理学創始者
はたして今のウィーンの人がこれを見てアドラーがどんな人かわかるのでしょうか。博物館まであるフロイトとはずいぶんと扱いが違うように思いました。
ここに診察にくる人たちは貧しいことが多く、時にはアドラーは診療費を取らなかったこともあったようです。1897年にライサと結婚してすぐにレオポルトシュタットのツェリン通り7番地に診療所を開きました。そして同じ建物の中に新居を構えました。この頃のアドラーは勤勉で一日も休むことなく診療と勉学に励みました。

夕方、オペラ座でチャイコフスキーのエフゲーニー・オネーギン(Eugen
Onegin)を見ました。この日は人気歌手が出演するとのことで満席でした。ロシア語は残念ながら一言もわかりませんでしたが熱演に魂を揺さぶられました。
9月14日。この日は朝ゆっくり起きました。ケルントナー通りを南へ、ゲーテの像などを見に行きました。昼食は中華料理店でラーメン(久しぶりにお腹がふくれた?)。その後、美術史美術館へ。ルーベンス、ブリューゲル、ベラスケスなどの絵に圧倒されました。
夜は翌日のザルツブルク行きに備えてスーツケースのパッキング。また同じホテルに戻ってくるのでスーツケースは預けていくのですがいずれにしてもスーツケースに服やその他広げてしまった本などを元に戻さなければなりません。それがなかなか入らない…今回、帰るまでに何度もパッキングをすることになります。その後眠ろうとするのですが朝方まで眠ることができませんでした。CNN放送をずっとつけっぱなしにして朝を迎えました。
ザルツブルクへ
9月15日。ザルツブルクへ旅立つために西駅へ。早く着きすぎてしまいました。列車の中で旅行記をまとめるべくノートを買いました。指定席を取ったのですが車両が特に分かれているわけでなく座席の上にある座席番号を示す札に予約済みと書いてあったらその席は予約席であるということです。かりにそう書いてあっても区間外であれば座ることができます。
前に書いたように時間になったらベルが鳴ることも放送もなく静かに列車はウィーンを後にしました。窓の外はどこまでも畑が広がっているだけで思いがけず単調。三時間半でザルツブルクに到着しました。駅前は工事をしていて歩きにくく少しも観光地らしくないので駅の近くにあるはずのホテルを最初探し当てることができませんでした。
ようやくたどりついたZum Hirschenというホテルの部屋はきれいでした。問題はフロント。どの人もひどく無愛想でRoyalホテルでの対応とは違うので戸惑いました。パスポート番号まで記入させられていささか不愉快。しかし鍵を預けて外出する時に恐れをなくして声をかけたら(お願いします、と)思いがけずにこっと笑いかけてもらいました。考えてみれば向こうにしてもこちらを用心していても当然だったのでしょう。
この日は道に迷いさんざん。もちろん地図を持っているのですけどね…それでも何とかザルツブルクの旧市街をまわることができました。小さな街ですぐに端から端まで歩けます。もっともここに至るまでがなかなか遠くて、僕は歩いたのですが、バスを利用した方が賢明だったかもしれません。ホーエンザルツブルク城に登りザルツブルクの市街を眺めたり、主な旧跡をまわりました。
歩き疲れてカフェへ。隣に座っていた大学生らしいカップルが声をかけてきました。ドイツ語を話しますか? ええ、少しなら(そういっておかないと大変なことになるという教訓を得ていたので)。実は僕たち、ザルツブルクなんとかというお菓子を注文したのだけど(これは一人では注文できない)お腹が膨れてしまって…よかったらあなたに食べてほしい、と。全部食べられないの? そうなんです、食べられないのです…というような妙な会話を交わしそのお菓子を食べることになりました。残念ながら甘すぎて僕も食べることはできませんでした。
ホテルに帰る時にまたまた迷いました。自信があったのですが…結果的には思いがけずザルツブルクの新市街に行くことになりミラベル宮殿へ行くことができました。
なんとなくこれでもうザルツブルクはいい、というような気分になってしまってホテルへは早く帰り、スーパーで仕入れた食事を部屋で。早々に眠りに就きました。
翌朝の朝食はウィーンのホテルよりは豪華。しかし一般的にいうとヨーロッパでの朝食は簡素。パンとハムとコーヒーとジュースくらい。卵は好きか、とたずねられ好きだ、といったらゆで卵が出てきました。
10時過ぎチェックアウト。結局もう一度ミラベル宮殿へ行き、ベンチに座って昨日買ったノートを持ち出しこれまでのことを記録しました。
帰りの列車はコンパートメントになっていました。すいていたので僕は当然誰も座っていないところを選んで座ったのですが、ウィーンに帰るまで何人もの人が入れかわり立ちかわり入ってこられました。僕が書いているのを見てドイツ語で書いているのか、とたずねられました。いえ、日本語なんです、というのがきっかけで少しその人と話すことになりました。ホテルのフロントでは英語は通じますが、こういうところではまずドイツ語しか通じません。若い人は別なのかもしれませんが。
今回ウィーンに行っている間ずっと好天に恵まれました。ザルツブルクも天気がよくウィーンに帰る列車の中はかなり暑くなりました。セーターがいるような日があるということを聞いていたのですが、結局25度前後の日が続き、僕としては暑くもなく寒くもなく快適な日が続きました。日本に帰ってほどなくウィーンは10度くらいの日があってこうなるともうすぐに冬になるのだとか。カフェでは外に座ることもできましたが、今ごろはもうそういう光景は見られないのかもしれません。
楽友協会
ザルツブルクからウィーンに戻った日の夜は楽友協会に行きました。ブルックナーの第3番(Bayerisches Staatorchestra, Zubin Mehta)。ズビン・メータの指揮ということかすぐに売り切れました。席は前から二番目。こんなに間近の席に座ったことはなく、メータの指揮がよく見えよかったです(音響的にはどうかと思いますが)。この日はこの長大な交響曲が一曲だけ。アンコールはありませんでしたが拍手はいつまでも鳴り止むことはありませんでした。学生の頃、ホルンを演奏していましたから、またオーケストラで演奏できたら、と思いました。この日のウィーンは暖かく、屋内は暑いといっていいくらいでした。隣に座っていたアメリカの人が(なぜか英語を聞くとほっとしました)汗をふきふき聞いていました。オーケストラが大きな音を奏でると深い眠りから覚め、大きな体をゆすって聞いている姿は印象的でした。
もう地図を持たなくてもホテルまで戻れるようになっていました。ケルントナー通りをまっすぐ歩けばいいだけでしたけどね。まだ宵の口で人通りは大きく、あちらこちらでギターを弾いたり、バイオリンを弾いている人がいて人だかりができていました。ウィーンは治安はいいので夜歩いていても安全でした。ホテルに戻る前にライトアップされているステファン大聖堂の写真を撮りましたがぶれていて残念でした。
帰ってから翌日からのパリ行きに備えて再びパッキング。迷ったのですが、3泊してまたウィーンに戻ってくるのでスーツケースはホテルに預けることにしました。
パリへ(1日目)
9月17日。パリへ出発。空港まで何の問題もなく行けたのですが、一つ大きな失敗をしたことに気づきました。いろいろわけがあって現金をスーツケースの中に残してきたことに気がついたのです。幸い財布の中にお金はありましたし、その気になればパリでもクレジットカードで現金を引き出すことはできたので、ま、何とかなる、といい聞かせたのですが、こたえました。そのためというわけではないのですがパリに行ったのに贅沢な食事はしませんでした。
アテネに行くつもりだったのですが、直前に予定を変えパリに行くことにしましたが、フランス語だけの問題ではなく精神的には準備ができていませんでした。しかし文献でしか知らなかったパリに思いがけず行けよかったです。
パリ行きの便がかなり遅れました。ドゴール空港に着いたのは5時くらいになりました。市内に行くためのリムジンバスの乗り場がすぐにわからず広い空港内をうろうろしているうちに二人の人に、市内に行くにはどうしたらいいのか、とかたずねられました。よりによって僕なんかにたずねることないよ、と思ったりもするのですがパリに行くとわりとこういう経験をする人が多いそうです。パリに着いたその日からパリジャンだ、などと思ってみたりしたのですが…ウィーンでも感じましたが、誰もかまってくれたりはしません。パリの地下鉄で朝から横になって寝ている人を見かけましたが黙って隣の席に移動するくらいの反応はありますが、そういうことをしていてもあまり注目されることはないように思えました。
やがてバス乗り場を見つけ、凱旋門に到着しました。僕が予約していたホテルはここから二分ということでしたが、凱旋門から放射線状に伸びるどの道にホテルがあるのだろうと地図を出そうとして何気なく目を上げたらそこがもうめざすCarnot通りでした。迷うことなくホテル(Hotel Stella)に着きました。
問題は前に書きましたがこのホテルはインターネットで予約を入れておいたということです。正直少し心配でした。しかしフロントで初めてフランス語を話したら(少し長い文という意味ですが)思いがけずちゃんと通じ(こんにちは、えっと3晩部屋を予約してあります。キシミといいます、というくらいですけど)、しかも既にインターネットで予約をしてあったので改めて用紙に記入する必要もなく、すぐに鍵を渡してもらえました。
既に夕方でしたがせっかくですからパリの街に出て行くことにしました。パリはウィーンと違って大都会だ! これが第一印象でした。
シャンゼリゼ通りってどんなの? とすっかりお上りさん気分で散策開始。それが…実に大きいのです。コンコルド広場の方に向かって歩いていきましたがいつになっても到着しません。途中、道を横断したのですが、右折してくる車が横断歩道に全速力で突っ込んでくるような気がしてすっかりこわくなった僕は途中で引き返すことにしました。こんなことで明日からどうするんだ、と思いましたが、この日はこれで退散。それでもホテルに戻ったら9時をまわっていました。こんな長い時間歩き回っていたとは思いませんでした。帰りにパンと飲み物を手に入れ、部屋で食べ寝ました。
パリ二日目
9月18日。car rougueという二日間乗り降り自由の観光バスに乗ってパリをまわることにしました。トロカルデ広場を出発するということなのでそこまでは地下鉄で行かなければなりませんでした。carnetという回数券を買いましたが結局あまり使いませんでした。地下鉄を乗りこなすつもりだったのですが、ウィーンのに比べはるかに複雑で断念してしまいました。
このバスは二階建てバスで放送が流れるというもの。フランス語、英語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語で同じ内容のメッセージが次々に流されます。日本語はありません。幸か不幸かどの言語も程度の差はありますが多少なりともわかりますから頭が混乱しました。ラテン語の先生がヨーロッパでラテン語だけを使ったという話を聞いたことがありますが(日本でもラテン語しか話されないので困りましたが…)実際通じるのだろうな、と思いました。後にルーブル博物館に行きましたが、食堂でここにすわってもいいですか、と問うと、喜んでという返事が返ってきました。でもその人はフランス人ではなく、イタリア人だったりするわけです。切符を買う時英語とフランス語をあまり得意でないスペインの人にバスのシステムを説明したら喜んでもらえました。
トロカルデ広場からまずエッフェル塔へ。15分止まっているいるとのことだったので降りたのですがこの日パリは寒く、エッフェル塔の先は見えませんでした。こちらにきて初めてジャージを着なければなりませんでした。
その後、ノートルダム寺院を経由して、オルセー美術館の前で降り、セーヌ川を渡ってルーブル博物館へ行きました。パリではどこも長蛇の列。ルーブルでもピラミッドのある地上の入り口には長蛇の列ができていました。ガイドブックの情報が役立ち、地階からの入り口を見つけました。待つこともなくすんなり入れました。おそらく一生かけても見きれないほどの絵画、彫刻…休み休み時間をかけて鑑賞しました。
パリ二日目−三日目)
9月18−9日。ルーブルで僕が一番見たかったのは、サマトラケのニケー像でした。高校生の時習った倫理社会の先生がルーブルに行ったら必ず見てくるように、といっていました。先生はその当時既に70歳くらいで、生涯一度も洋行をしたことがありませんでした。にもかかわらず、ヨーロッパのことには非常に詳しく、教科書に出ている写真、例えば、ローマの写真を見て、このお寺の向こうにある通りを真っ直ぐ行くと…というように見てきたかのような話になるのでいつも驚いていました。先生が尊敬するカントがやはり生涯ケーニヒスベルクという小さな街を出ることはなかったのですが(その街を毎日同じ時間に散歩をしたのでケーニヒスベルクの人たちは時刻を知ることができたという話が伝えられています)、一度も訪れたことのない都市について非常に詳しい知識を持っていて、学生たちはカント先生はいつ旅行に行かれたのですか、と質問したほどだったといいます。
僕が高校を卒業して数年でその先生は亡くなられ、結局一度も日本から出ることはありませんでした。僕も同じ運命をたどるところでしたが、幸い勇気を出して今回、シカゴ、ウィーン、ザルツブルク、パリに行けたことを今更ながらよかったと思っています。
その先生のお勧めのニケーですから広いルーブルをまず最初に案内図を頼りに探しました。驚いたことに、他の絵画、彫刻もほとんどがそうなのですが(ミロのビーナスも)、ガラスケースに入れられることもなく階段の踊り場に置かれていました。ずいぶん長い時間、この像の前で過ごしました。
ルーブルへは次の日も行きました。二日目は前日見なかったギリシアの壷などを丹念に見てまわりました。
ルーブルを出てチュルリー公園やコンコルド広場など主な観光スポットへ。チュルリー公園のベンチにぼんやりすわっていたらアジアの女性が英語で写真を撮ってほしいと話しかけてきました。ウィーンに出かける前の日夜遅くまで息子が旅行中にトラブルに巻き込まれないためにどうしたらいいかという講義をしてくれ、その中で、カメラを渡して写真を撮ってもらったりしては駄目だと息子はいうものですから僕はその教えを忠実に守っていたのですが、突然写真を撮ってほしいといわれ驚いてしまいました。もちろん引き受けたのですが、とっさに、では今度は僕の写真を撮ってくれませんか、とお願いしました。知らない人に写真を撮ってほしいと頼んだのはこの時だけでした。
疲れて帰ってホテルの部屋から外を見たら雨が降り出していました。この雨はその晩ずっと降り続いていました(ような気がします)。
翌朝チェックアウト。このホテルに滞在して満足しています、と行ってステラホテルを後にしました。後はリムジンバスに乗ってドゴール空港に行けばよかったのですが、この空港はオーストリア空港とは違って(オーストリア空港は日本の地方の空港のような雰囲気)広くて乗り場も分かれていますからどこで降りるかしっかり確認しないといけないと思って何度も運転手さんに確認しました。数日の滞在ではフランス語が上達しませんでしたが、度胸だけは少しはついたのかもしれません。
再びウィーンへ
またも出発が遅れましたがウィーンに無事戻ることができました。シュテファン大聖堂を見た時には家に帰ってきたかのように感じました。
夜はオペレッタへ行きました。シュトラウスの『ウィーン気質』でした。筋が複雑な上にせりふが聞き取れず残念でしたがオペラとはまた違った面白さがありました。終わったのは遅く10時半くらい。帰りのバスではお年寄りのカップルをたくさん見かけました。日本ではこんな時間にはあまりこういう光景を見ることはないと思いました。
旅も終盤に近づきさすがに少し疲れてきました。バカンスに来たのに疲れては意味がないと思い(バカンスは真空という言葉が語源です、つまり空っぽになるのがバカンスです)、予定していた21、22日のプラハ、ブタペスト行きは断念することにしました。
今回の滞在はいうまでもなく一旅行者としてごく短い期間、ウィーンやパリのごくごく表面に触れただけですから、実際にいざこれらの土地に住もうとしたら大変であろうことは想像するに難くはありません。スーパーで並んでいたら突然レジが閉鎖になり、気がつかずに並んでいたら、そこはもう使わないからこっちに並んでよ、といわれたことがありました。僕はただただがっかりするだけでしたが、僕の前に並んでいた若い人は舌をならしていました。それでも他にどうしようもないのでいわれたところに並びなおすわけですが、こういうことですら僕には慣れない経験なのでストレスに感じてしまいました。お札を出したら文句をいわれた話は前に書きました。こういうことは別にウィーンのことというより、ただ生活者としての僕の未熟さに起因しているといわれたらそれまでですが。しっかり主張しないでも、思いやってもらえるというように考えていると、すぐに取り残されてしまうのだろう、と思いました。
最近(というかもうずいぶん前からなのですが)、中学生の息子が非常に主張的になってきて、何でもはっきりというようになりました。そんなこと思っていても口に出さないでよね、というようなことでもはっきりいうものですから、親に遠慮してあまり主張しないで育った僕としては戸惑うことも多いのですが、むしろそれくらいはっきりいっていかないと、いわゆる国際社会では生き残れないのかもしれない、と思いました。君はなんでもはっきりいうよね、といったら、でもその方がはっきりわかるからいいだろうという答えが返ってきました。たしかにその通りです。
さて、残り少ない日々をどう過ごそうか迷ったのですが、パリから帰って次の日から、また続けてプラハ、ブタペストに行くだけの力(体力というより、気力)は残っていないことがよくわかったので、21、22日はウィーンでゆっくり過ごすことにしました。
21日は雨の降る少し肌寒い日でした。午前中にベルヴェデーレ宮殿へ。上宮のオーストリア・ギャラリーでクリムト、ココシュカ、シーレの絵を鑑賞。ココシュカの描いたアドラーの肖像画があるのですが、残念ながらここにはありませんでした。高校の美術の授業をここでしていました。生徒たちは床に腰を下ろし、先生が解説をしていました。
夕方、本屋へ。前から手に入れたいと思っていた本を手に入れることができました。アドラー関係の本も当然その中に入っています。『アドラー心理学入門』の「はじめに」の中で(p.9)でリディア・ジッハーのエピソードを紹介しました。ジッハーが読んだ『神経質について』を手に入れることができました。シカゴでこれの英訳本を手に入れることができたのですが、ウィーンで原書を手に入れることができ、うれしかったです。
翌日は午前中、市立公園へ。ヨハンシュトラウスの像などを見ました。その後アドラーもよく引き合いに出すプラータ公園へ。映画『第三の男』で有名になった観覧車に乗りました。一つのゴンドラがバスくらいあって、二人で乗るようなものではありませんでした。公園にはこの日はほとんど人が見あたらず、閑散としていました。
こうして夢のようなウィーン滞在はいよいよ最後の夜を迎えました。
京都へ
名残惜しいウィーンからいよいよ帰ることになりました。ロイヤルホテルの受付の人たちとはもう顔なじみ、バイバーイと声をかけてもらえました。久々に重いスーツケースを持って地下鉄、バスで空港へ移動しました。ところがバスの到着の場所が違っていました。建物に入ると人の山。何やら放送がされているがわからない。見ると銃を持ったオーストリア軍の兵士が各所に立って空港へ人が入るのを阻止していました。空港が閉鎖されていたのです。何があったのかは結局わからなかったのですが、二十分くらい待っていると閉鎖が解除されました。早く着いたのでコーヒーを飲んでいた時ふと隣の席を見るとパンとコーヒーが。人は座っていません。コーヒーは飲んだ後がありました。空港が閉鎖された時僕はまだ空港の中にいなかったから中に入れなかったのですが、退去命令が出て注文したものを食べることもできないまま外に出なければならなかったわけです。
この閉鎖による影響は幸いあまりありませんでした。貨物を積むのが遅れその分出発が20分ほど遅れましたが。日本には台風が来ていることをニュースで聞いていましたがそのために出発が延期になることはありませんでした(途中で引き返すことができるのかな、と心配でした)。
帰りは行く時とは違ってつまらないです。山のような仕事が待っていると思うだけで憂鬱。しかしこんなに長く家を空けたこともなかったのでしかたないことです。ただひたすら帰りの飛行機の中では寝ていました。
隣にどこの国の人かわからなかったのですが(ドイツ語も英語もあまりわからない様子だったので)若い女性と二人の子ども(男の子、5歳くらい)が座っていました。長時間静かにできるのかと見ていたのですが一度も大きな声を出したりぐずったりすることもなくおとなしかったので驚きました。母親も何度か子どもたちをトイレに連れて行かなければなりませんでしたが、一度も子どもたちに大きな声を出すこともなくむしろ声を潜めて話しかけていました。
やかましかったのは一列前に座っていた二人。初対面で40代後半の男性が娘くらいの年齢の女性と話をしていました。大学の教員らしい男性は機内の照明が落とされてからも延々と講義(!)をします。本人は気づかれてないのかもしれませんが、よく通る大きな声で僕はすぐに眠りについたのですが何度か目が覚めた時も延々と話が続いていて驚きました。5時間くらい話が続いた後で、近くにすわっていた同じくらいの年配の男性が近づいていって「静かにしてくれないか」と。やっと講義は終わりました。
朝早く関空に着きました。この後台風の影響ではるかや飛行機が運休するのですが、影響が出る前だったので無事家まで帰ることができました。誰もいないと思っていたら台風で休講になったという子どもたちがいて迎えてくれました。
一度の旅で人が変わるわけではないでしょう。アリストテレスはいっています。一羽の燕が春を作らない、と。しかし思ったのですが、日本にいた時とは違う自分を知ることができ貴重な体験でしたし、何度かこういう経験を重ねれば少しは変われるかな、とは正直思いました。
パリで歩いたら、君はパキスタン人か、とたずねられました。どうしてそんなふうにたずねられたのかわかりませんが、日本という国から自由になって生きていけたらそういうのもいいなと思いました。しかし実際には前にも書きましたが大変なことで、旅でかいまみたわずかな一面だけでこういうことを軽軽に決めてはいけないでしょう。
パリで客死した哲学者森有正が経験と体験は違う、と繰り返し論じています。一度の経験をその後何度も何度も同じ言葉で語るというのであれば、そういうのは「体験」であって、その後の自分の生き方とともに意味づけも変わっていくような「経験」とは一線を画しています。
今回の旅が僕にとって経験になれば、と思います。(Sept, 1999)


(上左)滞在先のHotel Royalからのウィーン市街の眺め
(上中央)シェーンブルン宮殿
(上右)ウィーン西駅。ここからザルツブルクへ旅立った。
(左)ホーエンブルク城からザルツブルク市街を望む
(上左)ザルツブルクのミラベル宮殿。ここのベンチに座って旅の記録を書いた。
(上右)楽友協会近くのカフェからリングシュトラーセ(環状道路)を望む。街路に椅子が置かれている。

(上左)エッフェル塔。この日は寒く塔の頂は厚い雲で覆われいた。
(上右) サマトラケのニケー。ニケーはギリシア語で勝利の意味。これを見るためにルーブル博物館を訪れたといっても過言ではない
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