うまく書けないのはまだきちんと考えられてないということかという質問を受けたことがあります。書きながら考えるという人がいます。このことは書くことが考えることの補助手段であることを示しているのであって、書くという行為そのものがそのまま思考であるということではありません。きちんと考え終えていたらすぐに書こうと思えば書けるのではないでしょうか。『創造の秘密』で書いたように、プラトンは書きながら考えるタイプ、それに対してプロティノスは考えたことを書きとめるタイプです。プロティノスは考察を最初から最後まで自分の心中で完成させておいてから書き始め、その様子は他の書物から転写しているかとばかり疑われるほどであったそうです。執筆の途中で誰かがきてもその人が帰った後再び、その中断した時間がなかったかのごとく書き継ぐことができたそうです。
アドラーはどうだったのでしょうか? Emory I. Gondorがある時、アドラーに雑誌に論文を書いてくれるように依頼しました。ところが原稿を貰いに行った時に、まだアドラーは原稿を書いていませんでした。「君に渡せる原稿はないのだ。でも書けると思う」すると彼は1時間で10ページもの原稿を書き終えました。しかも筆跡は見事なものだったそうです(Alfred Adler: As We Remeber Him, p.26)。経験上、こんなことはなかなかできないことです。
和辻哲郎が(波多野精一だったかもしれません)こんなことをいっています。薔薇の花を描こうとする時に、描くことを考えてはいけない。じっくり観察するのだ、するとやがて手がおのずから動き、薔薇の絵が描き上がる、と。
こんな感じわかるでしょう?…でも行為や行動は、見ることの代用であり、ものがよく見える時には、なくてもいいものであるとまでいうとちょっと(かなり)極論に聞こえるかもしれません。
「遠くのものはよく見ることができないから、近くまで歩いて行って、これを見なければならない。しかし望遠鏡があって、私たちの視力が補強されるなら、歩いていくという行動は必要がないことになるだろう。見るという目的から言えば、行為は時に補助手段の意味を持つことがあるというだけのものである。しかもこのような補助手段を必要とするのは、一種の不完全性のあらわれと見られるから、行為や行動は、程度の低い存在、微弱な生命や精神にとってだけ意味があるということになるだろう。」(田中美知太郎、『人生論風に』、p.134)。