近(現)代美術

 
 上野の森美術館で行われているMOMA美術展に行って来た。N.Y.のMOMA(The Museum of Modern Art)が改装中なんだそうで、その所蔵作品のいくつかを、日本に貸し出したのである。入っていきなり目に飛び込んできたのがゴッホの”オリーヴの木”。1889年、すなわちゴッホが自殺する前年に描かれた作品だ。この時代の苦悩するゴッホの精神が、そのまま渦となってカンヴァスをのたくっている。もちろん、あまり気持ちのいい作品とは言えないかも知れないが、私にすればどこか共感するところがあって、引きつけられる一品と言える。従来からこうした狂気を含む作品には、無条件に引かれる私である。

 その隣に掲げてあったのが、セザンヌの”モンジローの曲がり道”。この、印象派を代表する作家の作品が、何故MOMAにあるのか、一瞬首を捻るのは私だけではあるまい。恐らく、これは一種の比較対照のために出してあるのではないかと思う。この作品、じつはゴッホより後の1898年に描かれたものだ。だが、その2年後、すなわち20世紀に突入した直後から、世界の美術の潮流は激しく変わってしまった。今や、カレンダーにでもなければ、誰もセザンヌのような絵を描こうとする者はいない。その萌芽を兆していたのは、セザンヌより10年前に描かれたゴッホの絵であったのである。

 だが、正直に言って、その後の20世紀美術を云々出来る資格は、私にはない。おおかたの人と同じく、一言で言って”理解できない”というのが本音だからだ。
 例えば、白いキャンバス上縦横直角に何本かの線を引っ張った作品がある。そこに出来る升目のいくつかが、青や黄色、赤の色に塗りつぶされている。これは、絵画なのだろうか?あるいは、キャンバスの所狭しと灰色や灰緑など、まるでヘドロか排煙のような色を塗りたくったものがある。これは、なんと表したらいいのだろう・・・?

 こうした作品群を、従来の美術、絵画の延長として捉えられないのは言うまでもないことだ。例えば、薔薇という題の絵があって、そのキャンバスが一面に引かれた線と升目で覆われていたとして、そのどこが薔薇なのかを図上で示すことは難しい。かつてセザンヌが描いたような、自然のの山、風景をそこにこじつけるのは、端から意味のないことだ。

 ではこの図?絵画?の示すところは何か。それは、画家の心に浮かんだ心象そのものという他はない。従来の画家は、その心、人間性を在るものに託して描いていたのである。風景に託し、静物に託し、人物に託した。人物を描く場合も、その容貌、顔形を描く中に、深い心の人間性を偲ばせたのである。だが、20世紀の画家達は、そのやり方を放棄した。もう彼らは、己の心情を何かの形に託そうとは考えなくなった。心の内に沸き上がってきたもの、形を成さぬ、カオスそのものをキャンバスに現そうとしたに違いない。それが、この複雑な絵の具の塗りたくりであり、白い上に引かれた線である。そうしたものから、私たちは直接、画家の心の内を感じ取らなければならない。画家の心に浮かんだ姿形のない情念、想念、感情というものを、何らかの形で受け取り、己の中に再構成するのだ。何か、見慣れた形に託されていないから、それは非常に難しい。我々が受け取った通りを、画家が感じていたとは限らない。だがそれは構わないのである。画家の心に渦巻いた想念が、渦となり、線となってカンヴァスに乗り移り、それがまた我々の心を突き動かしたとき、そこには新しい何かが生まれるのだからだ。現代抽象美術とは、恐らくそうしたものであろう。抽象、という言葉がよくないのかも知れない。図形は何も抽象していない。心の内の形のない想念を、そのまま現したに他ならない。
 
 と言うものの、この日私は風邪をこじらせて、熱で頭がぼうっとし、絶えず黄色い痰を吐いていた有り様だった。どうして他人の情念を感じ取ることが出来ようか?私がゴッホの狂気に一番感銘を受けたのも、曰く当然だったのである。
(2002.1.24)
 

Vincent van Gogh, The Olive Trees. 1889


Paul Cezanne, Turning road of Montgeroult. 1898

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