イェヴゲーニー・アリェクサーンドラヴィチ



 ムラヴィンスキーの事である。先日、もう先から調子の悪かったCDデッキの代わりに、新しくDVDデッキを購入した。そこで、早速レコード屋(と言っても、今やレコードなど置いていないわけだが)へ行き、DVDのソフトを何枚か購入してきたのである。クラシックコーナーを覗いてえらく驚いた。かつて、常に“幻の”という冠を付けて語られていたムラヴィンスキーの演奏が、大量に、コーナーまで設けて売られていたからだ。これについては、最近何処かで読んだ記憶がある。ソ連が崩壊し、ロシアが混沌資本主義に突入する中で、かつてレンフィルムの倉庫の奥深く保存されていた貴重な資料が、次々と西側に流れているというのである。もちろん、中には正規のルートで公表されたものもあるに違いないが、それ以外にも、半ば強引に、闇のような形で世に出た資料も数多いらしい。そうした中で、特に人気が高いのが、今世紀最大の指揮者の一人とまで言われながら生前はなかなか録音が発売されず、また自身病弱だったこともあってその演奏にも人々が接する機会の少なかった、ムラヴィンスキー指揮、レニングラードフィルハーモニーの音楽である。

 私にとってもムラヴィンスキーは、生前ついに聴く機会を逃してしまった惜しむべき巨匠であり、長年思いは深かった。初めて私が聴いたクラシックのシンフォニーが、彼の指揮するショスタコーヴィチの交響曲5番であったことは、その後の私の音楽歴を決定的に支配することになった。2度、彼の日本公演のチケットを購入したのであるが、2度とも彼の体調不良などで中止となり、ついに聴けなかったのである。
 ムラヴィンスキーがどんな人なのかは、だから彼の音楽で想像するより他はなかった。彼の著書やインタビューなどと言ったものも、当時全く手に入る見込みはなかったのだ。レコードジャケットに登場する彼は、常に厳しい風貌をして、気難しい巨匠の顔であった。音楽は正確、冷徹、無駄なものは一切排除しているにもかかわらず、一部の西側指揮者に見られるようなスポーツのような音楽ではなく、その精神の巨大さに圧倒されるような、真にマエストロなのであった。
 ムラヴィンスキーはまた、ショスタコーヴィチの最大傑作、交響曲第5番を初演したことで名高く、したがって両者には特別な関係があると見なされていた。しかし一方で、ショスタコーヴィチの死後に出た彼の“証言”では、ショスタコーヴィチはムラヴィンスキーを傲慢な指揮者として排斥していた。そうした両者の関係が実際のところどうなのかと言うことも、当時全く謎のままだったのである。

 興味深いことに、そして驚くべき事に、このほど出た幾枚かのDVDのなかには、ムラヴィンスキーの長時間に渉るインタビューさえ含まれている!公の場での証言の常として、彼も決して一線を越える話はしていないのだが、それでもムラヴィンスキーが語る姿を、今こうして映像で見ることが出来ようとは、夢にだにしなかった奇跡と言えよう。その中で、彼は一言、意味深長なことを述べていた。すなわち、ショスタコーヴィチの交響曲の初演を彼は何回か手がけたが、作曲者ショスタコーヴィチと指揮者ムラヴィンスキーが時間を掛けて、何回も綿密に打ち合わせをしたのは、この第5番だけだったというのだ。その他の曲は、そうした必要性を感じなかった、と彼は漏らしている。さらに、両者の交流が、少なくとも日常的な友人付き合いというものではなかったことも、いくつかの発言から明らかである。彼らは、非常に時たま、会うに過ぎなかったのだ!これは、生前のムラヴィンスキー、ショスタコーヴィチ両者について諸外国で作り上げられていた幻想と、明らかに異なった事実といえよう。

 しかし一方で、彼はいくつかの忘れがたい思い出についても述べていた。一つは、第二次大戦末期に書かれ、戦争の惨禍と仄かに見えた将来への希望を託した第8番の交響曲の初演の模様である。リハーサルの時、曲が非常に難しかったために、練習は暫時休息を取らなければならなかった。ムラヴィンスキーは誰もいない客席へ降りて、通路を一人で行ったり来たりしていたのだそうだ。そうすると、立ち会っていたショスタコーヴィチがその同じ通路を、反対側からこれまた行ったり来たりし始めた。そうして何度か無言ですれ違った後、作曲家は突然指揮者を呼び止めて、独特の手振りを交えてこう言ったというのだ。「この曲をあなたに進呈したい」。
 もう一つの思い出は、もっと間接的で、しかしより幻想的なものである。ある年、ムラヴィンスキーとショスタコーヴィチは、同じ別荘地に滞在していた。ちなみに、ロシア人の常として、夏の一定期間は皆別荘に行くのである。その別荘地でのある晩、ムラヴィンスキーは偶然ショスタコーヴィチの別荘の脇を通りかかった。すると、窓の明かりに照らされて、作曲家が寝食を忘れて忙しく仕事をしている姿が影絵となって映し出されていたのだ。その影法師は、作曲中のスコアから既に書き上げたスコアへと、忙しく行ったり来たりを何時までも繰り返していたそうだ。後に彼の最後の交響曲となった、第15番の作曲に携わっていたのである。作曲家はこのとき、既に重い神経の病に冒され、四肢は痙攣と麻痺が進行していたのだが。この最後の交響曲も、ムラヴィンスキーが作曲者の息子で指揮者のマクシム・ショスタコーヴィチと同時に初演し、彼に進呈されている。ウィリアム・テルやワーグナー、またショスタコーヴィチ本人の様々な作品からの引用をちりばめ、自らの人生とヨーロッパ音楽の歴史を静かに回顧するような、不思議な作品であり、ムラヴィンスキー自身、この曲は演奏するごとに解釈が変わっていく、初演時と今(インタビュー当時)とでは曲の姿がかなり変化していると語っていた。

 こうしたいくつかの話からすると、少なくとも指揮者は、作曲家を深く尊敬していたことは間違いないらしい。また作曲家も指揮者の実力を実際に評価していたのだろう。しかしだからといって、彼らはいわゆる刎頸の友ではなかったし、時に批判の言葉も飛び出すことも充分ありうる、つかず離れずの関係だったと考えられる。おそらく、同じように気難しく、同じくらいに天才である彼ら二人が、日頃の人間関係にどっぷりつかったまま長年音楽の仕事を共にしていくと言うことは、そもそも不可能だったのだろう。

 ところで、ショスタコーヴィチの証言にある“傲慢”と言うことだが、このDVDにはまたムラヴィンスキーのリハーサル風景も豊富に記録されている。その様子を見る限り、彼のリハーサルは実に綿密かつ細緻なものだが、しかしオーケストラとの関係において彼は何ら“傲慢”な様子は示していない。年を取って、巨匠となってからのものであるからかも知れないが、いたって淡々としたものであった。ムラヴィンスキーとレニングラードフィルは、戦前、戦後を通じ実に50年もコンビを組んでいたのである。傲慢であって出来ることでは無かろう。

 さて、KOHユS WHOが久々に更新されたと思ったらこんな話である。一部の好事家以外、なんの事やらちんぷんかんぷんと言った次第であろう。だが、所詮このKOHユS WHOは私個人の興味の赴くまま、自由に書きつづる個人ページなのである。久しぶりの更新にあたり、そのことを再確認したい必要もあって、あえてこんな話を載せてみた。
(2003.11.27)

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