カルテット15番

 

 ベートーヴェンのカルテット15番がその第三楽章、Molt Adagioに差し掛かると、
それまで浮ついていたりイライラしたりしていた精神が思わず静謐を取り戻す。

 ヴァイオリンが何か民謡風の、昔話でもするようなゆったりとしたメロディーを
奏で始める。素朴な、しかしどこか気持ちを抑えたような静謐なその世界が続く内、
やがてその抑えられ、隠されていたものが何処からともなく高まってくる、そして
それは一瞬の閃きとなって目の当たり輝く、丁度厚く、暗い雲に覆われていた大地
に、一瞬雲の切れ目から日の光がさっと射すように。

   
                   
 
 

 以前小僧の神様さんがNIFTYの文学フォーラムで、我が国のレコード芸術の歴史
を論じておられた。確かに氏の言うとおり、戦後の世界的動向として、カルテット
も次第に即物的な、ドライな演奏が主流となりつつある。戦前、あるいは大戦直後
の古い録音を聴くと、現代の我々には些か聴くに絶えない、大時代的なこってりし
た味付けの録音があって、真に時の変遷を感じざるを得ないものだ。

 しかし翻って今このベートーヴェンのアダージョを聴くとき、そこにベートーヴェ
ンが込めたものが単にその音の組み合わせの興のみであったと信じる聴衆は、現代
においても殆どいないのではないか。これは確かに、何か暗い、そして深い諦めの
中に一瞬輝く、抑えがたい精神の煌めき以外ではあり得ない。その暗さ、その諦念
が現代の我々にも切実に共感しうるところのものであるからこそ、そして晩年に達
し作曲家でありながらまったく聴覚を奪われた彼、ベートーヴェンがその沈黙の世
界の中に、確かに聴き、感知した一瞬の啓示がそこに明らかに示されているからこ
そ、彼のこの作品は人々の心を、今でも深く揺り動かすものとなっている。そうで
なくてもしこれが、「ずっとゆったりとしたアダージョを続けておいて突然ちょっ
とだけ早さを変えたアンダンテを入れたら面白いかも知れない」などと言う作曲家
の純音楽家的な好奇心からだけ出来上がったものだとしたら、それがどうして200
年もの歳月を隔てた私達の心をこれほど揺さぶることがあろうか。

 芸術とはこうである。音楽とはこの様なものである。無論、不必要に油をたっぷ
り使って、香辛料でごてごてにした作品など見向きも出来ぬが、音楽というものの、
その本質がこうして時を隔てた人間同士の心の共鳴にあること自体は、今後未来永
劫、変わることはなかろうと私には思われる。
 
 
 
 

                          KOH
 
 
 
 
 
 
 

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