「松林屏風図」

 
 昨夜のNHKスペシャル「松林屏風図」には鮮烈な衝撃を受けた。日本の水墨画にこのような固有の美を体現したものがあったとは知らなかった。

 とはいえ、私はそもそも、日本画というものに対してなにほどの知識も、関心も持っていなかったのである。日本画を知る人にとっては、この絵はすでに有名なのだろうから、今更驚いている私の無知を笑っていただければ、それでよい。

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 先般所用のついでに、京都の寺をまたいささか観てきた。見事な庭園で有名なその寺には、部屋ごとに、狩野一派の華麗な襖絵、壁絵が連なっている。中には、それらにちなんで最近、有名な絵師が描いたというものもあった。その何れもが、金襴の内に咲き誇る桜吹雪、朱や緑に塗られた神社仏閣をちりばめて・・・俗悪に尽きる。そして、日本画といえば私は皆そのようなものと思いこんできたのである。

 いや、馬鹿だなおまえは雪舟を知らないのかいと言われると困る。確かにそうだ。日本画の本質は、むしろ雪舟のごとき禅画の侘び、寂にあるだろう。だが、それはそれで私の好みからすると、また違うのである。ずしんと来るものがない。何か、和尚さんが裏で抹茶を点てているような気がする。

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 だが、この「松林屏風図」には正直、ずしんと来た。一目見るなり、ほおお、という声にならない声が漏れて、後が続かない。幅6,7メートルはありそうな広大な空間に、ぼうっとかすむ霧に浮き出た松が数本。その幹にしたところが、枝振りにしたところが、全て極端に単純な一振り、二振りの筆の運びでぼかされた単色の墨にすぎない。画面の殆どは空白で、そう、「無」が画面一杯を占めている。

 単に松のぼかし方を言うのであれば、例えば馬遠の「華灯侍宴図」のそれに似るであろうか。また空間の取り方、墨の省略を言うなら米友仁にどこか近いかもしれない。だが馬遠も米友仁も、こんなにまで物凄まじくはなかった。彼らの雄大な画界は、一つの空間の広がりを描いているのであって、これほど突き詰めて内なる叫びを現してはいなかった。何か踏み込んではいけない意識下の世界、生々しい虚無、そこに立つ人間のぎりぎりの矜持。当時安土桃山の華麗な売れっ子画家の一人だったという等伯が、ひょっとしてまさか描くつもりではなかったもの、人に見せようなどとは思ってもみなかった内奥の精神を、あるきっかけで憑かれたようにさらけ出してしまった。こんなモノが己の内に潜んでいることを、果たして日頃の等伯は気付いていたであろうか。
 

 いや、これはむしろあのムンクの「叫び」にも比すべきか。ムンクはその叫んでいる「魂」を表すために、殆どのっぺらぼうにまで単純化し、かつ歪めた”顔”を描いたが、ここでは魂自体が松となって叫んでいる。むろんそのどちらも、全く森閑として音一つすらしない叫びであるが。あるいは「叫び」などという何かから”発した”ものではなくて、元々の存在そのもの。茫漠とした鬱勃とした心的内淵の中ですっくと立つ人間の生きる証。この松は、さながらミケランジェロの掘り出したかの若者のごとく立っている。あるいは、一個の汝窯の洗のごとく畢として存在している。

 確かに、この絵は我が国絵画史上最高の傑作であるかもしれないが、おそらく、これは他の日本画の流れからは全くはずれた、比べ様のない孤高の存在として扱うのが適当と言う気がする。なるほど、日本でこそ生まれ出た絵ではあるのだが、だがしかしこれはもう既に日本画ではない。他のどんな絵のジャンルにも当てはまらない、ただ等伯の「松林屏風図」なのである。
 

                                                                                                                                                    KOH
 


 

 
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