SO-KANA / de-ga-show / ZOKU / Hospital

SO-KANA  仲井戸麗市

 そうです、その通りです。御存じのように、いや知らない方もたくさんいると思うけれど、片山広明は酔っ払いです。しようがねー大酒のみなのであります。何度私はその酔態を見てきたことだろう。演奏旅行の旅先のホテルのドアを何度夜中にたたかれたことだろう。その度に私は「関わっちゃいけない、この男に関わっちゃいけない」と何度自分に言い聞かせたことだろう。そして気が付けば現在もこんな男に関わってしまっている。

 さてその酔態のほんのつかの間の一瞬に見せる片山のスピード。重く、太くうねって、夜の壁をぶち破らんかとするかのような、短い爆発の一瞬の煌き。それは私がよく言うところのイメージとしての意識の爆発のスピード感ってやつだ。その時の片山を知っている人もきっといるはずだ。幸か不幸か私は、ステージで彼の横に立ち、爆発する片山に何度となく遭遇している。何人ものプレイヤーと私も関わってきたし、ステージでとなり合わせてきた。しかし何がしかの爆発の息吹を、その楽器やフィーリングから感じ取れるっていう一瞬を持ち合わせているというプレイヤーはそうは居ない。でも確実に何人かは居る。そして生意気にも片山は間違いなくその中の一人だ。圧倒的な音の洪水をふりまきやがる。テナーサックスからまき散らすその洪水が多少酒の香りを含んでいて、不愉快になることもあるが、何しろ音があふれ出ているのだ。「楽器をどー鳴らすかだなッ」てな一言を、ある時奴は私に言った事がある。この一言は私の脳天に大きくつきささった。

 私は片山広明の酔態の時、そしてステージでの爆発の時を知っているわけだ。だがもう一つ知っている奴の顔、それはテナーとワンカップ大関を持っていない時の片山だ。そんな時の奴はまるで迷い子の大人のように静かに私に話しかけたりするのだ。きっとそんなひとときの現実のもどかしさが、いつも奴の爆発のタンクをぶち破る起爆剤となっているのかも知れない。

 何年か前私は奴の初めてのソロ・アルバムを聴いた。重たく重たく爆発した、たった独りきりの静粛をイメージさせる音の洪水だった。当時アナログだった、A.B面の曲名は共に春・夏・秋・冬と題されていた。そして92年の夏、私は奴の突然の思いがけない新作を手にした。

 前作と同じテナーから、違う音を聞いた気がした。それは片山の意識の音色なのか、時間が生み出した新たな爆発のスケッチなのか・・・・ いやもしかしたら全く同じ音なのか・・・・ 片山よ! そーかな? どーかな? そーかな?、形はなんだっていいのだと思う。生き方や、まして音楽のかたちなど・・・・。片山よ、俺は今旅先の列車の中で君の新作を聞きながら書いている。ゆうべホテルで夜景を見ながら聴いた時と、違う音も聞える気がする。いろんな景色を感じる。きっとそれは自由であろうとすることの自由を感じ取ってるからかも知れない。

 なあ片山よ!! 俺は少し急ぐことも楽しんでいるんだ。君のあののんびりした風体で、少し急いでどっかのステージでも又いいのを聞かせてくれ。

 そーかなあ? 好きだ

 夜中に俺のドアをあのぶっといテナーで突然ノックしてみてくれ!!

92年夏 仲井戸麗市chabo.gif

 

 SO-KANA / de-ga-show / ZOKU / Hospital

de-ga-show 「音の元気」 友部正人

 ぼくは片山広明のテナー・サックスのファンである。でもそんなに古くからではない。ぼくは歌のない音楽をあまり聞かなかった。ぼくが片山さんの演奏をはじめて聞いたのも、MOJO CLUBのメンバーとしてだった。大きな風船のような音は、ロック・バンドの音にあっていないようであっていた。風船が切れて飛んで行ったとき、まさしくロック・バンドの音だった。それからというもの、片山広明という名はぼくからはなれなくなった。ぼく自身何度か、片山さんとぼくのステージで共演したことがある。だけど風船が切れるほどの場を持てたかというと、まだのような気がする。片山さんのあの大きな風船を大空に飛ばしてみたいものである。

 片山さんのソロ・アルバムが出てると知ってうれしかった。ぼくはすぐレコード屋に買いに行った。片山広明のアルバムを持ったまま街をぶらぶらした。その日、片山さんのソロ・アルバムをレコード屋で買った人は、全世界でもそんなにいないだろう。ぼくはうきうきしながら街を歩いた。空模様は覚えていないけど、見上げれば「そうかなあ」とつぶやくような空の日だった。

 浅草で食べたもんじゃ焼きの味よりも、そのときたのまれたこの文章のことをずっと覚えていた。でも片山さんはきっと、もんじゃ焼きのほうを覚えているに違いないと思っていたら、ちゃんとこの話がレコード会社からきた。解説などとても書けないので、ただの付録だと思ってくれたら気は楽である。なんで断わらなかったかというと、少しでも新しいアルバムを早く聞きたかったから。

 片山さんはなんにも説明などしない人だから、てっきり彼のソロだと思っていた。ぼくに林栄一のことを説明してくれたのは、豊橋のライヴ・ハウスの人だった。彼がいままで聞いたライヴの中で一番衝撃的だったのが、林栄一だったという。このアルバムが出たら、きっと彼は真っ先にレコード屋に走るだろう。たぶん世界で一番早く手にしたアルバムを持って、うきうきしながら豊橋の街を歩くだろう。

 今レコーディング中のぼくの歌と並べて「ノース・イースト」を聞くと、スピードの早さに目がまわりそうになる。たぶんぼくが歌だと思っている世界は、遥か彼方に置き去りにされる。音楽家だけを乗せたロケットは、わずか2分で大気圏を脱出して、もう宇宙で自由を手にしている。サックスは空気の豊富な場所ではより多くの空気を必要とする楽器なのに、宇宙に出ると空気なんてないほうがせいせいすると言っているみたいだ。空気は歌の言葉である。言葉はスピードを失速させる。言葉とダンスは踊れない、そんなまどろっこしさを忘れて、たまには思いっきり音を楽しもうじゃないか、ぼくには演奏家達の本音がひしひしと伝わってくる。そして言葉は少し後悔をはじめる。今まであまりにも演奏家の気をもたせすぎたのではないかと。言葉はおしとやかになりすぎた。空気であることの重圧から解放されて、もうちょっと自由に元気であるべきだ。苦脳にはずいぶん楽しませてもらいました。

 ぼくは以前、古澤良治郎の「ラッコ」が好きだった。口ずさめる愛らしいメロディは、くりかえせばくりかえすほど心地良かった。「あのころ」というアルバムのタイトルもよかった。この「あいたい」という曲にも、古澤さんの自前の美しさがある。自前というのは変かもしれないが、自分のお金でおいしいものを食べているという気がするのだ。たぶん古澤さんは、何度もくりかえされる思いをそのまま歌にしているのだろう。人の名をくりかえし呼ぶのに似ている。

 「夜の波止場」という曲は、いかにもそんな振り付けである。どこか古臭くてやばい感じを強調している。劇画タッチの音楽は、さっそうと風を切って波止場を歩きまわる。だが、どこまで行くのだろう。音楽のあいだ立ち止まらずに、同じ足どりで歩き続ける。聞いているぼくも同じ速度で歩いているせいか、風を感じる。上等の上着のすそが、風でかっこうよくひらひらする。 *クリックして右上へ

* 顔から足のつまさきまでそれはぼくではないのに、歩き続ける男にぼくはぼくを感じている。バリトン・サックスのボーッという音が船の汽笛に重なると、エコーをいっぱいにきかせたトロンボーンの音色が夜の海の色になる。そうなると画面は一挙に総天然色である。

 「チリ」という曲にのって、ぼくはマジシャンのようにステージに登場したい。赤いビロードのカーテンからロバが顔を出している。太股をむき出しにしたかわいらしいダンサーたち。だがぼくはこの曲にのって登場したら、何をすればいいのだろう。あまりに芸達者な曲のあとは、何もせずに御辞儀ををするしかないだろう。それでもまだ元気が残っていたら、ぼくはぼくの曲をおもむろにはじめよう。いつか大ホールでやるときは、きっとこの曲をコンサートの出だしに使うだろう。

 「ファンク」、ぼくはこの曲と、「花」の出だしが好きである。サックスは太い竹のような音がしているし、すみずみまでとても清い気がする。肺活量のいるサックスという楽器を、音をとぎれさせないで吹き続ける美しさにかなうものはこの世にはないだろう。アルト・サックスとテナー・サックスで一緒にメロディを奏でるのも、意外でとてもすてきだ。沖縄の曲じゃなかったとしても、この曲はすごくいい曲だったんだろうな。こうして楽器だけで聞いていると、ぼくは「花」を歌詞だけで聞いていたのではないということに気づく。くちづさんでいたのは、この歌の持つ心だ。

 「ゴー・カート・ツイスト」、アルトとテナーのサックスが兄弟のようでおもしろい。うらのほうで動きまわっているアルトのほうが弟か。なんだかお兄さんのうしろのほうで走りまわっている。この曲はどこかで聞いたことがある。この曲もなんだか花の曲のような気がするけど、題はぜんぜんちがう。南国の花びらの大きな花の名でもいいのに。脳裏の奥から引っ張り出してきた、懐かしい味がする。

 「あさめしまえ」、左のほうでずっと鳴っているギターの人が好きだ。特技をかたくなに披露し続けている。坂を登るとき、頭の中で鳴りはじめるあの音。ぼくとこの人は同じ部品でできているのか。片山広明の場合、朝飯前とは何時頃のことなのだろう。ぼくは朝の6時ごろのような気がする。公園に集まってきたお年寄りたちに、ラジオ体操のかわりにこの曲を聞かせよう。朝飯がよりおいしいだろう。和式の朝食には欠かせない冷奴、本日開店の豆腐屋の白い旗、青空に白い雲があるように、どこの街にも豆腐屋がある。そしてぼくの心には、片山広明の作った曲がある。

 もうずっと前のことになるが、チャールズ・ミンガスの「ティファナ・ムード」というアルバムが好きで、どこにでも持って行ったことがある。海を見ながら聞いていたら、海の底には楽団がいると思えたものだ。それほど音楽は振動を抱えていた。海が揺れるのは音楽のせいだと思っていた。この「de-ga-show」も振動を抱えている。活きのいい振動は、海草のように新鮮だ。ドレッシングなんてしゃらくさいものはいらない。自分の汗をドレッシングにして食べてしまえばいい。食べたものは自分の中で生き返る。体の中の海を揺すりつづける。空に青い月があるように、体の中には楽団がある。

 ずっとロックを聞き続けてきた耳には、「de-ga-show」は新鮮でした。音の元気に少し嫉妬しました。はじめは言葉のせいにしていたけど、歌に元気がなくなったとしても、けっしてそうではないんだという気がしてきた。言葉だって音に負けないくらい元気なんだと思う。ただ言葉には立ち止まるくせがあって、それでときどき元気を忘れてしまう。たぶん音のしないところが好きなんだと思う。音がしないのに聞こえてくるもの。言葉にはどうやらそんなところもある。ぼくにはこのアルバムの中の楽器たちが、そうではないところに集合したかったんだなと思える。ちゃんと音が聞こえていて静かな場所。音楽のためだけに音がある透明な場所。無限の可能性の中のひとつを、このアルバムは示していると思う。

友部正人

 

SO-KANA / de-ga-show / ZOKU / Hospital

<続>デ・ガ・ショー 忌野清志郎

 私はJazzは嫌いである。基本的にではあるがあまり好きではない。嫌いだ。

 なぜなら、ほとんどのJazzには歌がないからだ。歌入りのJazzというのも、これまた何だかよくわからん。ああいう、体力を使わないような歌い方は気に入らない。金持ちのバカな奴が、カクテルでも飲みながら聴いてりゃいいのさ。歌のないJazzの方がまだ真実味がある。切実な感じがする。俺は、ローランド・カークの音楽が大好きだ。あれはJazzとは思えない。完ペキなRock'nRoll に他ならない。ジミ・ヘンもぶっとぶような未来のBluesなのだ。

 私の音楽の好みは、わかっていただけたと思う。片山広明から、一文書いてくれと頼まれた。「いやー、ダメだ、ダメだ。Jazzなんか聴きたくねえぞ。ダメ、ダメ」と言うと、片山はいつものように............いつもこう言うのだが.....「Jazzじゃねえよ。俺にJazzなんかできるわけねえだろ、バカヤロ。デ・ガ・ショーだよ。デ・ガ・ショー!」

 ああ、de-ga-showか。いいなあ、デ・ガ・ショー、「デ・ガ・ショーなら書くよ。うん、書いてやる」と、俺は快諾した。

 de-ga-showはいいぞ。ビートがある。グルーヴがある。ブルースがある。ユーモアがある。なんだ、一曲目は、あの、サイケデリックなバンド、「デインジャー」を想わせるじゃないか。俺も参加させろ!俺のブルースをぶち込んでやりたい曲だ。片山、なんで俺をさそわないんだよ、こんな文章なんかで参加させやがって。メチャクチャなギターなら俺もうまいよ。M1-“でがしょうでないと”、な、な、なんなんだコノヤロー、まるで「デインジャー」じゃねーか、まったくもう。

 M2-“ボーッとする”は、まさに、ボーッとする曲である。ちょっと声が聞こえる。何だか通らない声である。いい雰囲気だ。

 M3-“OM”、これまた、デインジャー。やはり、そろそろ、俺のシャウトが出てこないといかんな。歌詞をつけるともっといい。流行のうすっぺらいダンス・ミュージックよりよっぽど、すばらしい曲になるだろう。いや、今のままでも、じゅーぶんいいけどさ。

 M4-“チャイニーズ・サーファー”は、これまた、ふざけた曲。de-ga-showの得意とするところの作品。軽快なリズムとギターは俺の好みのタイプよ〜ん。

 M5-“SUNA-KAZE”、風の音で始まる、ポップなヒット・ナンバーといったところ。こういういい曲が日本でなぜヒットしないのだろう。目の前に、景色が見えるような、映像を感じさせる名曲である。10分近くもある(ライヴでは30分くらいか?)大作だが、聴き終る頃にはすっかり、砂の中に埋もれてしまっている自分に気づくだろう。

 M6-“Blues de ga show”、非常に分かりやすく思わず口ずさみたくなるようなテーマをもった曲。歌詞をつけて、歌ってみたくなる。サウンドはシャープ。特にギターのカッティング、そしてソロと、思わぬ展開をみせて、聴衆を引きつける。やはり、俺のボーカルが必要な気がしてならない、いい曲。

 M7-“反射する道-Good bye,Uzattai Yatsu”渋谷毅アレンジによるこの曲は、3年前に亡くなった友人であるSAX奏者、篠田昌己を偲ぶ名曲である。作曲も篠田だ。メンバー全員の想いが伝わってくるような名演で胸が熱くなる。

 そして、気がつくと、M8-“鶴”へメドレーしている。このアルバムの最後の曲である。この包容力はすばらしい。自由で、哀しく、幸福感にあふれている。が、しかし次の瞬間片山の顔が空に浮かんだ。 ......ぶちこわしである。

「まったくなんであんな奴らにこんないい音楽が演れるんだろう」と俺はひとりごちた。いつものことである。

 de-ga-showのみなさんに「ありがとう」と言いたい。とてもいい音楽を聴かせてもらった。とてもいいものを見せてもらったよ。

95年12月 忌野清志郎(感謝 for de-ga-show)kiyoshi.gif

 

SO-KANA / de-ga-show / ZOKU / Hospital 

Hospital 吾妻光良

「え、お前まだ飲むの?それじゃ片山さんになっちゃうぜ」
「あ、知らない?片山さん酒やめたんだ」
「ええっ!嘘だろーっ!?」
「本当だって」
「どうしてまた?」
「何か飲み過ぎで入院しちゃったんだよ。」
「うわあ・・・! で、大丈夫なのかな?」
「うん、何か酒やめたら体調良くなったとか」
ってな会話を知り合いと交したのがかれこれ2ヶ月ぐらい前になるのだろうか。私も片山さんと何度かライヴでご一緒したことがあるが、いやあ、確かに良く飲んでいたもんなぁ。ライヴ・ハウスで演る時はリハが早く終れば本番までの間に夕飯を食いにいく、という場合が多い。まあ、私もそうだが演奏の時にはちょっとアルコールを入れておいた方が何かとよろしい、という人達は何か食いながらビール、というのがこれまた多い。だが片山さんの場合は、食わずに飲む、しかも日本酒を、と非常に独自の路線を歩んでいた。独自路線がものの見事に入院へと結び付いてしまったわけだが、そんな片山さんを励まそう、救いの手をさしのべよう、そしてどうせだからちょっとからかってみよう、という様な姿勢で作られた(のではないかと思う)のがこのデ・ガ・ショーと清志郎さんによるCD、その名もズバリ「ホスピタル」である。更正、とかリハビリ、とか真人間に戻る、というとどこかストイックで求道的、そしてもちろん健康的なものを連想してしまうが、ジャズ畑の人達ならではの性格か、それとも清志郎さんのカリスマのせいか、いい加減で逸脱的、そして不健康、ただし無茶苦茶楽しいCDに仕上がってしまったのである。以下簡単に1曲ずつ解説、というか感想を述べさせて頂こう。

1. スキダベ〜ハニードリッパー
 40年代のR&Bシンガー、ジョー・リギンスの大ヒットに、清志郎さんの即興的下ネタ歌唱が加わる。ストレートな下ネタなので家で聞くときはくれぐれも音量を上げ過ぎない様にしないと近所の人が赤面してしまう。古沢さんの軽やかなシャッフルに続いて出てくる片山さんと林さんのテーマ、ピッチがちょっと悪くないかって?ちッチッチ、ピッチはプライバシーの問題だ、という名言もあるぐらいで、ここには現代商業レコーディングが遥か昔に置き忘れて来てしまった「自由」がドカーンと存在している、という事の証なのである。清志郎さんの歌は、いつもの練られた歌詞、忘れ得ぬメロディ、といった様相は影をひそめ、さながらケンカ殺法に戻ってしまったジョー・ヤブキというラフ・ファイトを見せる。後で狂女の様な声を出す女性の存在感もなかなか捨て難く、このカオス的な雰囲気は個人的にはボ・ディドリー、マディ、ウルフという3大巨頭が集まったスーパー・スーパー・ブルース・バンドというレコードを思い出した。

2. ピクニック
 林さんの曲に清志郎さんが歌をつけたもの。何でこういう事が可能なんだろう!?と驚いてしまう。清志郎さんは、以前何かの本で「曲が書けないのは寝ちゃうからだ。俺は寝ない」と言っておられたが、私は1ヶ月起きててもこんな歌い回しは考えつけないだろう。唄が終ってサビのメロディにたどりつくまでのサックス・ソロは楽しいピクニックの人達の真ん中に突っ込んでいく暴走車のクラクションの様にも聞こえて一種恐ろしい。

3. オササ
 ドラムの古沢さんが書いたちょっとエスニック的なムードと不思議なリズムを持つ曲のリフにスキャット的な歌詞がかぶさる曲で、私の友人も似た様な感じで「裸のヨガ」というのを考案した事があったが、遥か昔に忘れ去られてしまった。途中のソロはフリー・ジャズ、というよりサイケ調になってしまうのがおかしい。

4. 門前払いの女(ヒロアキのバカ)
 出た!これ1曲だけでもこのCD を買う価値があると断言したい最高の山場である。片山さんのイントロはまるで「長崎は今日も雨だった」の様に、R&B界から突然日本の8トラック演歌界に移籍させられたサム・ザ・マン・テイラーの様に響き渡る。続く清志郎さんの歌は、R&B味を極力抑えた懐かしのムード歌謡風だ。後半の盛り上がり以降、内容が次第にねじ曲がっていき、とうとう完全に入院したヒロアキのストーリーになってしまう。そして東京パフォーマンス・ドール〜ミリオン・セラー歌手の篠原涼子ちゃんの粘着質の語りが加わって、最後はヒロアキ氏の一言でとどめの一撃だ。くだらない!余りにくだらなくて落涙するほど感激した。高校生以下、超社会人級、焼酎学生、いろいろ考えてもこの素晴しさを例える言葉を私は知らない。夫唱婦随、というスタイルのR&Bは多いが、3人でのかけあいとなると結構珍しく、ジョニー・オーティスの「ウェディング・ブギ」か、このCDの「ヒロアキのバカ」か、と長く語り継がれる作品となるだろう。

5. グリーン・ペッパー
 CD中、唯一のインスト・ナンバー、クールでファンキーな最もジャズっぽいナンバーだが、清志郎さんが吹くフルートが酔いまくったイアン・アンダーソン(ジェスロ・タル)の様で余りに熱演しているうちに周囲は一人また一人とフェイド・アウト、最後に残された清志郎さんの「あれ?」で終る。

 どうでしょうか、貴方も貴女も相当楽しんで頂けたのでは無いですか?私は是非この編成をライヴで見れる日が来ることを心待ちにしていますが、ヒロアキ、体も大切にね♪

吾妻光良 

SO-KANA / de-ga-show / ZOKU / Hospital