随想 グラス片手に(2)

グラスを傾けて
まろやかな酒を味わいながら
静かに男が語る時
それはまさに優越の時

5 瘠せ我慢の説

 福沢諭吉に「瘠せ我慢の説」という論説があります。
 勝海舟と榎本武揚あてに明治24年に書いたものなのですが、勝や榎本が元幕臣の身でありながら新政府の要職についていたことに対する抗議文のようなものです。
 古来、日本には武士道があり、幕府が戦わずして城を明け渡し、薩長に政権を譲ってよかったのかと疑問を呈しています。そのことに一理あったとしても、その後敵のつくった新政府に力を貸すというのでは道理に合わないというものです。
 榎本にしても、彼は一応幕府の軍艦を函館に率いて抵抗しましたが、敢え無く破れてしまいます。戦いに破れたのは致し方ないのですが、その後やはり新政府の大臣まで務めるというのでは、同志として戦い死んだ者にどう言い訳できるのかという主張です。
 武士というのは、負けることがわかっていても戦うのが道理であり、その瘠せ我慢が大切ではなかったかというのが主題でしょうか。武士は食わねど高楊枝、これが武士の誇りであり節度であるともいえます。
 江戸幕府が大政奉還をし、ひたすら恭順して江戸城を明け渡したことは、勝海舟がそのように仕向けたとされています。品川での西郷との会談は、すでに筋書きが決まっていたともいわれますが、一つの山場でした。
 勝は、幕臣といっても小禄の下級武士でしたが、蘭学を学び世界の情勢を知るにつれ、そのときの幕府の状態ではとてもやってゆけぬと確信していたようです。
 脱藩の身であった坂本竜馬が、勝を刺殺しようと出かけその場で説得されて彼の弟子となったことは有名ですが、そうした竜馬らを集め神戸に海軍操練所をこしらえて、国の防御に役立てたいとしていた程の勝でした。
 後に勝は、咸臨丸を操って大平洋を渡りアメリカに行きましたが、この一行の中に福沢諭吉も、無理矢理艦長の木村摂津守の家来として加わっていました。勝は、自分が最高の艦長と決めていましたところ、その上に司令官として船には素人の木村摂津守がきましたから不満そのものでした。船酔いも手伝って、ほとんど船室に閉じこもっていたといいます。当時の福沢はとても勝に近寄ることも出来ない身分でしたでしょうが、そんな様子を知っていましたから勝をよく思ってはいなかったのでないでしょうか。
 維新の時、幕府が本気で戦いを行ったとしたら、簡単に維新が行われたかどうか分かりませんでした。勝のいうように、それこそ列強の餌食となっていたかも知れません。
 そんな状況を、福沢諭吉はもっともよく承知していた一人でしたでしょう。
 それでは、何ゆえに福沢は勝をとがめたのでしょう。それももはや維新も過ぎた明治24年になって、その頃勝はもう要職を引退した一隠居の身でしたのに。
 考うるに、そのころ勝は元気よく自分の身の回りのものに、自分の持論やら経験をよく喋っていました。その記録は、「氷川清話」や「海舟座談」にまとめられている痛快なものです。維新を自分一人で執り行ったかのような大袈裟な自慢話や、新政府の批判、人物批評など自由奔放というか、事情を知っているものには大法螺とみえたことでしょう。
 そんなことで、勝によい感情を抱いていない人たちがいたのでないでしょうか。福沢もきっとそうした感情を持ったのでしょう。そうでなければ、幕末を見事に演出した、国際感覚溢れた、福沢が説く世の中へ一歩近付けた人物を、まるで武士道が最優先するがごとき論法で非難するなど考えられません。
 勝の、福沢のいう「瘠せ我慢の説」に対する返事は以下のようでした。
 自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ないとして、
「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。」(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分は預かり知らぬことと考えています。)
 なんとも素っ気ないながら、維新の修羅場を潜ってきた大人物であれば、学問の世界ではもはや揺るがぬ大家の福沢であっても、何か歯車が噛み合わなかったようです。
 江戸城が無血開城され、わずかに上野の森に籠る彰義隊を官軍が大砲で攻めていた時、何食わぬ顔で休まず学生に講議をしていたという福沢に、この俺の気持ちが分かるものかという思いもあったのでしょう。
 榎本武揚の返事はもっと簡単。今は忙しくてそれには答えられない、というものでした。
 もっとも福沢諭吉の文章は、わかりやすさを旨としているためか冗長すぎるといわれます。「いかにも福沢の字句はやさしい。けれどもあんなくどい文章はない。もう分かったよと言うのにまだやっている。あれは明治以前にはなかったことだ。」(山本夏彦「完本 文語文」より)
 とすると、勝等の返答は内容はともかく、簡潔さにおいては常識であったかも知れません

 話は変わりますが、以前司馬遼太郎が松下幸之助と対談したのを読んだことがあります。
 そのなかで、司馬遼太郎が日本の土地投機を憂え土地は公有であるべきでないかといったようなことを言いますと、松下幸之助が言下に「先生、心配されなくとも今の相続税では土地はみんな国のものになってしまいますよ」と相手にしません。
 勝と福沢の場合とは違いますが、むかし山を削って海を埋めれば狭い国も広くなると提案した松下幸之助には、司馬遼太郎の心配も通じなかったようです。

6 日本一のコンコース

 日本一のコンコース。阪急電車梅田駅のことです。
 阪急梅田駅は、電車のホームまでのアプローチが長く実に不便です。これは万博の頃、正確には昭和41年から48年までの期間をかけて駅のホームをJR線の南側から北側へ移動したからですが、そのかわりこのホームに至る通路は画期的なものに変わりました。何本もの長い動く歩道に続く長いエスカレーターは近代的な感覚に溢れているばかりでなく、客を早く移動させる術でもありました。エスカレーターも人が停まっていたのでは階段の方が効率的ですが、「急ぐ人のために左側をあけて下さい」と歩くことを前提としています。現にそれが実行されています。
 最近では、どこの駅でも老人や身体障害者用にとエスカレーターが設置されて珍しくありませんが、ここの場合は客を早く移送して混雑を緩和することにひとつの目的があったようです。このようなエスカレーターで、東京では急ぐ人のために右側をあけるが大阪では左をあけるといわれますが、大阪の習慣は阪急の梅田駅のやり方が原因となっているかも知れません。
 しかし、阪急梅田駅の自慢はその玄関でしょう。
 ここを駅のコンコースというには駅から離れ過ぎていますし、正確には阪急百貨店の構内なのですが、改造以前はここがコンコースでしたし今も駅の入り口ということになっています。
 まず大理石の柱と壁で高い天井からは大きなシャンデリアが吊るされて、古めかしく重厚な感じがその入り口です。これは阪急百貨店が入っている阪急ビルの一部になりますが、かつてはここが阪急梅田駅のコンコースでした。覚えている方もいるでしょうが、すぐ奥に電車のホームが並んでいたのです。
 阪急百貨店は、我が国で初のターミナルデパートとして1929年(昭和2年)にオープンしました。これも正確には今のようなデパートという程のものではなく、食堂のあるマーケットであった様ですが、これがまた大評判となったと言われます。
 阪急ビルそのものは、阿部美樹志建築事務所設計、竹中工務店施工とのことですが、シャンデリアの吊るされた半円アーチ型天井部分は、平安神宮や明治神宮を設計した建築家伊藤忠太博士によるものだそうです。東西の壁面にはモザイクで絵が描かれています。東面に日西面に月、それらを挟んで青龍、朱雀、白虎、玄武の四神が配されています。またアーチ状の梁は、金色の金具模様で飾られた豪華なものです。
 ここに吊るされたシャンデリアは、駅の移設時に改造されたときといえば1972年(昭和47年)に新しくされ、直径が2.25m、高さ4mもある全面24Kの豪華なもので5基あります。当時の金で1基2000万円、3LDKのマンションと同じ値段だと騒がれたといいます。
 その奥が、コンコースの中核をなすグランドドームといわれるゾーンです。ここはU字型になっている阪急ビルの中庭に当たる部分を利用して改造時につくられたもので、細い4本の柱がゴチック風の教会の塔のように天井に向かって伸び、上部で大きく枝分かれして天井を支えた高い吹き抜け構造になっています。その柱の間の外に面した四方の窓はステンドグラスがはめこまれ、朝にはバロック音楽が流されている演出です。入り口の半円ドームが宮殿風であるのに対し、教会をモチーフしたつくりになっています。惜しむらくは、ゴチック風ながら現代的な材料で、それがためスレンダーな柱で優美さを出してはいるのですが、先の玄関とは一体感に欠けるかも知れません。
 この構造は、誰が考えつくり出したか、わずかな資料を調べただけでは分かりませんでした。ゾーンの一角に「阪急グランドドーム」という案内碑がありますが、それには何も書かれていません。
 さらに続いて阪急デパートと阪急グランドビルの間(これも正確には阪急百貨店の下)を抜けるのですが、これも自慢の130mです。中央に白い大理石様の柱が一直線に並んび、壁面が濃い褐銅色に統一されて、1階部分と2階部分の境は欄間風にしつらえた透かし模様の装飾を裏からの照明が効果的に浮き立たせています。「ロマネスク阪急」、ブロンズ額のショーウインドウといわれ、西側のデパートのショーウィンドウは、常に上品に人目を楽しませる飾り付けがなされているのも見事です。東側のグランドビル側も、銀行等の窓口がありますが派手な看板はなく同じような渋い色調に統一されております。
 建設後こうしたつくりが立派すぎるという意見があったようですが、私はこれまでの駅としては決して豪華すぎるということはないと思います。昔の国鉄の東京駅、名古屋駅、大阪駅にしてもつくった当時は豪華なものだったとおもいます。広いコンコースに高い天井、決してつくりは貧弱なものではありません。  ところが、最近JRでは広いコンコースにむやみやたらと安っぽい売店を出しています。乗客の便利を考えたわけでなく、商店街にして儲けようという形のようです。駅ビルに商店街をつくらせただけでは、まだ物足りないのでしょうか。
 実は、このところを言いたくて阪急梅田駅を、日本一のコンコースとして取り上げました。
 以上述べた阪急梅田駅のコンコースでは、最近のある特定の場所、期間を除けば、こうした安っぽい施設など当然ありません。
 駅というものの機能、あり方に特定の定義はないのでしょうが、多くの乗客が利用する大きな駅では、それなりの威厳、品格を備えていることが大切だと思います。たかが電車という乗り物ですが、公共の乗り物として乗客にマナーを要請するならば、駅そのものにそれなりの緊張感があってもよいと考えます。
 阪急梅田駅からは、JRや阪神電車、地下鉄への乗り換え客が沢山おり、それぞれがまた違った通路を通るため皆がこの立派なコンコースを利用するとは限りませんが、私なんかは多少遠回りでもここを歩くことで楽しんでいます。この通路を歩くことで仕事に取り組む意欲を与えられ、仕事の疲れを癒してくれる、大袈裟に言えばそんな雰囲気なんです。(参考文献「阪急百貨店50年史」「75年のあゆみ」(阪急電鉄)ほか)

7 どうする、日本語

 インターネットの普及によってグローバル化が一気に進み、世界の共通語となっている英語の必要性がまたもや強調され出しました。英語を第二公用語とするという案が出て、もはや捨てておけない状況です。
 アジア各国をみて、日本が英語後進国になりつつあるといわれますと焦りさえ感じます。
 そんな時、日経ビジネス6-19号において梅棹忠夫氏が、日本語をやめて英語になどということはできないが、漢字をやめて日本語をローマ字表記にした方がよいという持論を展開しています。この論は明治に前島密が主張したもので新しいことではないそうですが、それでもさすがにその後の同誌で読者からの反論が掲載されていました。漢字は表意文字として便利であるという点がその主張の論点です。私なども、とっさに仮名だけの日本語など論外だと思いました。
 しかしながら、梅棹氏にいわせれば、漢字をそのように使用してきたのはここ1000年のことであるというのです。確かに万葉の頃では、漢字は表音文字として使用されていますし、それ以降でも口語文として仮名が用いられています。別に漢字を用いなくともという理屈はあります。本家本元の中国が革命によって文字まで変えてしまったとなると、どうも日本がこれにこだわるのもどうかとなってしまいます。
 ですが一気にローマ字表記にと言われると、何か抵抗があります。

 最近山本夏彦の「完本 文語文」が評判です。文芸春秋等に連載された氏のエッセイ等をまとめたものですが、これを読むと今の日本語が実に頼り無いものであることがよくわかります。
 日本語は、明治のはじめまで漢文で書くものであったということがその1です。仮名で書くものもありましたが、それは主流とは言えません。その漢文で書くことをできる人は、鴎外、漱石を最後としていなくなったと言っています。
 そして、文語文です。これも明治の時代になくなりました。あっという間だったようです。樋口一葉の小説は全て文語体ですが、あと10年生きていたら口語体の小説を書くことになっていたろうといいます。それほど急激に口語文が普及したようです。やはりそれほどに便利で易しかったのでしょうか。
 しかし、一部には文語文が残りました。わが帝国陸海軍はすべて文語体だったそうです。また一般の人のなかに候文で書いていたひとも結構いたといいます。
 文語体は、声を出して読むものだそうです。それに合うように朗々たる字句でできているのだといいます。昔は書物は声を出して読んだのだそうです。現在の口語体になって、黙読するようになったと言います。
 そういえば私が子供の時、前の家に老夫婦が住んでいましたが、いつもおじいさんが声を出して新聞を読んでいました。私は、おじいさんがおばあさんに読んで聞かせているとばかり思っていましたが、あるときおばあさんが留守だというのに、おじいさんが声を出して読んでいるのを見ていぶかしく思ったことがありました。
 声を出して読むということは、聞いていても耳によいということになります。
 これも経験があります。学生時代しばらくバイブルクラスに通ったことがありました。あの当時は、聖書も口語文と文語文が適当に使われていた時代でした。牧師さんによって好きな方を用いていたのでしょう。これを比較すれば、もう判然とします。たとえ言葉が少し難しいといっても、文語体の方が重みがありますし有り難い気分がします。実にメリハリがあります。現在の口語体の文章では、神の声もお母さんの説教程度にしか聞こえません。
 「天にまします我らの父よ、願わくば御名をあがめさせ給え、御国を来らせ給え。……」
 「天にいます私たちの父よ、御名があがめられますように、御国が来ますように。……」
 何でもない主の祈りの冒頭を比較してもかくの如しです。
 要するに山本夏彦は、漢文がなくなり文語文がなくなって、日本語が実に貧しくなってしまったというのです。外国語をそのまま用いて訳する能力もなくなってしまった。怪し気な日本語が横行し、日本語の手本とするNHKのアナウンサーさえその変な日本語を平然と使用する時代。
 自分も山本夏彦にあきれられる一員でしょうが、何となくわかるような気がします。
 氏は、いまさら文語文に戻れと言っているのでなく、また戻れるわけもないとしていますが、ついこの前まで日本人が実に豊富な語彙を駆使し、簡潔な表現力を身につけていたことを知るべきだと言っています。
 確かに、その通りでしょう。明治という革命は、日本語もすっかり変えてしまいました。そして、今度の戦争で漢字制限を行い、さらに変えました。
 そんなことを知れば、もはやローマ字表記でもいいかという気になる程の変化です。
 私は、これからの日本語をどうすべきかという意見は持ち合わせていませんが、少なくとも昔の日本語にちょっと触れてみたい気になりました。(2000.7.16)

8 歯医者

 最近どうも気になるのですが、ある歯医者へ歯の治療に行きましたら、横で「どうしますか、抜きますか、そのままにしておきますか」と聞かれている御婦人がいました。察するにその方は迷っているらしく返事がありません。やがて、「どちらがよろしいでしょう」と弱々し気な問いかけがありました。
 やられているな、と私は同情してしまいます。
 実は,私は歯医者への通院暦40年というベテランです。学校を卒業してすぐから、歯医者のお世話になっています。あまり人に言えない歯槽のう漏という厄介な歯というより歯茎の病気ですから、ずっと歯医者さんに厄介になってきました。
 誰でも経験のあることでしょうが、まず歯の磨き方が悪いと言われ、歯の磨き方を教えられます。
 私の場合最初に行った歯医者さんに、君の歯は40才までに皆なくなりますと宣言されましたから、今思えば当たらずとも遠からずとはいうものの、転勤生活を続けている間に各赴任地でほぼ一本づつ着実に抜いていって、現在それでも辛うじて数本が残っている状態であります。
 その間、おそらく10箇所近くの歯医者さんにお世話になっているでしょうが、医学の進歩といおうか技術の進歩は確実にあったように思えます。当初のころは、まことに乱暴なものでした。そのままの技術であれば多分40才で総入れ歯となったことでしょう。嘘か本当か知りませんが、金歯を入れる患者でなければ大事にされないなんていわれる時代でした。
 歯の磨き方が悪いとは、今と同じように注意されましたが、丁寧に磨き方までは教えてくれませんでした。こちらもそんなことわかっているというつもりでもいましたが。そのうち、行く先々で教えられるようになり、60歳を越えたいまになってさえも、歯の磨き方を指導してもらっています。若い看護婦さんが親切に教えてくれますから、もう神妙に言われるままに従わざるを得ません。
 最初の頃は、それでも一生懸命に磨きはしましたが、あまり効果の程がないとわかるや、ごく普通の磨き方にしております。一日毎食後になんてことはしていませんし、せいぜい朝と夜だけで済ましております。
 そんなことはどうでもよろしいので、いまここで言いたいのは、当時私が若いせいもあったのでしょうか、それともむかしの患者に対する接し方に問題がありその後是正されたというのでしょうか。その当時は、どこの歯医者でも患者に「抜きますか、どうしますか」などと聞かなかったと思うのです。私の場合、「こりゃだめだ、全部抜こう」などといって、多い時は一度に3本抜いたこともありました。もはや触るだけで抜けるような状態でしたが。
 さすがに家内が心配しましたが、何かあると凄く痛む苦痛を取り除くにも、抜いてしまうのが一番と思ったものでした。歯がなくなった時の不自由さもわかりますが、歯があっても使えない苦痛も大変なものです。少しは我慢して抜かずにもたせたとしても、1年もすれば抜ける運命だというのが、経験上わかるようになりました。残り少なくなってきますと、少しでも長もちさせようと努めるようにはしましたが、あまり利き目はありませんでした。
 そんなことは歯医者さんは心得たもので、わからぬわけはないと私は思っています。
 昨今、歯は抜くべきでない、少しでも長もちさせるべきだとか、すぐ抜いてしまう歯医者はダメだといった記事が見られるようになりましたが、その頃からでしょうか、患者自身にくどいように判断を迫るようになったのは。私のように何十年も歯医者に通っているものには即座に返事が出来ますが、知らないものには難問でしょうね。
 誰でも抜かなくて済むのなら抜いて欲しくないが、抜かなければ痛いのを我慢しなくてはならない。そのへんの兼ね合いがわからないわけです。もうすぐにダメになるでしょうから抜いてしまいましょう、と言えば納得するところを、なぜか患者に結論を出させるこの対応の変化はどんなところからきたのでしょう。
後の災いを避けるためでしょうか。患者からとやかく言われ、後にトラブルが起きないようにする。
 医者としての判断は、この場合下してはいけないことになっているのでしょうか。歯1本抜くのさえ、患者に遠慮して対処しなければならないとしたら、患者の意志を尊重していると言えば立派ですが、どうも無責任であるようにも思えるのです。たかが歯のことですから、患者の好きなように対処すると解釈すべきでしょうか。
 私の知人が、心臓に関係する手術を行うことになりました。
 以前10年程前に、それに関連した疾患で入院したことがありましたが、その後は何ごともなく済みました。最近医者から心配することなく生き長らえるなら手術が必要だし、今の状態のままでは何かが起きる可能性があるがどうするかと判断を迫られ、迷った結果手術することにしたというのです。70歳を越えたところで、今さら手術でもあるまいと反対する人もあったようですが、本人は手術する方を選んだようです。
 こうなると、たかが歯が一本というわけにゆきません。高度な知識も必要でしょう。それに命に関わります。もちろん医者としては手術の結果に自信があるから選択を迫ったのでしょうが、私などは手術をしなければ絶対にダメですと断言してもらわなければ、手術するなんて気にはならないだろうと思ってしまいます。そして手術することを避けた結果何ごとかが起こった時、医者はせっかく手術をすすめたのにというのでしょうね。

   私どもの職業にも同じようなことが言えます。
 家の修理を頼まれる時、やり出すと思わぬところで余分の仕事がでてきます。つい出費が嵩んでくることになります。このとき専門家の立場で、それだけではやがてこちらも傷んでダメですとはっきり説明すべきでしょうが、ついどうしましょうと判断を任せることがあります。余分の金が要ったと非難されることを恐れ、結果的にお客さんに判断をまかせることになっているのです。
 十分説明してならわかりますが、素人の相手にいきなりでは困ることになります。せっかく専門家に頼んだのに、また別の人に相談しなければならないと言う変な状況になってしまいます。後のトラブルを避けるために十分説明することは大切ですが、専門家を信頼するという気風がこれでは薄らいでゆくばかりでないでしょうか。(2000.10.15)

9 衆愚と民の声 

 ついこの前の事でしたね。
 ちょっと気の利いたマンションが、購入後瞬く間に値が上がり億ションと化してしまったり、路地裏の狭い敷地をとんでもない値段で買い漁る不動産屋が横行したのは。何でも東京23区で広大なアメリカの国土の何分の一かが買える計算になってしまう等と言われました。
 それが架空の話であることはわかっていたのですが、ともすると日本の土地、なかんずく東京というところはそれほどに値うちのあるところであると、なにやら知らないものは馬鹿ではないかという具合でした。さすがに都知事が、旧国鉄用地の払い下げに横やりを入れたりしましたが、これとて本質的にそんな値うちのある土地ではないというものでなく、あまりの値上がりぶりに公共事業がやれなくなってしまうという心配からでした。
 それがバブルだということに気付いたときは、もはや抜き差しならぬ状態になっていました。
 日本の景気が本当の実力と思い込み、アメリカ何するものぞ日本を見習えと論ずるをみるに至って、なるほどそんなものかと感心したりしていたものです。
 そんなとき、ひょんなことから1年に3度程アメリカを旅する機会がありました。
 もはや、日本の景気がバブルであったとある程度気付いた頃であったと思いますが、どうもアメリカの様子は聞いていたのと違うのです。街は活気が満ちており、決して貧相な雰囲気でありません。大きな街のダウンタウンは、どこも天を突くような摩天楼が聳え、これが都市というものだと主張をしているようで圧倒されたものです。
 シカゴ、ロスアンジェルス、サンフランシスコはもちろん、テキサスのヒューストンでも結構な高層ビルがひしめいています。コロラド州の砂漠の中にデンヴァーという街があります。ニューヨークのマンハッタンなら、土地に限りのあることだからわからないでもないのですが、この広大な土地を控えているところでも遠慮なく天を突くような高いビルをどんどん建てていました。
 東京では、新宿西口にわずかながら高層ビル群が出来ていた頃です。元気がないといわれるアメリカで、どの大都市でも同じように巨大な高層ビルが建ち並んでいるのです。このエネルギーは、アメリカの国力そのものであろうと感じざるを得ませんでした。これは少し違うな。そう思わざるを得なかったのです。

 話はひるがえって太平洋戦争末期。誰が、この戦争に日本が勝つと思っていたでしょう。
 当時のおとなたちは、いまとなればかなり違った感想をいうでしょう。
 だが、当時小学生にもならない私でも、それも実に辺鄙な片田舎で、ごく普通の高等教育さえ受けなかった私の身の回りのものが、堂々と日本の敗戦を予想している言動を行っていたのを目撃しています。
 私の父は、徴用で名古屋近郊の飛行機工場へ狩り出されていました。敗戦のかなり前、昭和17、18年頃でしょうか。そのころ「アメリカは数分に一機の飛行機を造っている。これではかなわない。」と言っていたのを聞いたことがあります。数分というのを具体的に何分とか言っていたのですが、そこまでは憶えていません。幼い私には、飛行機が魔法のように数分で、パッと出てくると思って驚いたものでした。父はアメリカの事情に詳しいわけでもなく、飛行機製造の技術者でもない。単に単純労働をさせられていた臨時の労務者であります。おそらく現実の戦機は、日本が敗色へと移項していたことでしょうが、一庶民の父など知るはずはありません。
 その後、父は病を患い田舎に引っ込んだのですが、父から戦争に関しての感想など聞くこともありませんでした。あるいは、日本の勝利を信じていたのかも知れませんが、私には父のアメリカにはかなわないという、何気ないことばが気になっていました。
 父の病気と強制疎開ということから、三重の片田舎に住むようになりましたが、そんな田舎でも雰囲気は戦時色に覆われており、一般の人たちさえ軍事訓練と称して、竹槍の訓練などが行われていました。
 考えてみれば敵兵に竹槍で向かうというのですから、これは数百年前の百姓一揆あたりに等しい。たとえ米軍の上陸があったとしても、少なくとも相手が銃というものを持っていないなどとは誰も考えていなかったでしょう。そして現実には、成層圏を飛行機雲をなびかせて、B29がはるか上空から焼夷弾をばらまいていくのです。私の伯母なども、そんな訓練で皆んなしてわいわい騒ぐ楽しみを得ていたでしょうが、馬鹿らしいという考えは絶対にもっていたと思いますね。その証拠に、誰かさんは真面目にやっていたとか、指導者となる隣組みの役員である誰某さんも御苦労なことで、と冷やかし半分で話していたことを記憶していますから。
 そして、沖縄が米軍に占領された時、その伯母ははっきりと「日本の軍隊は何をしているのか。沖縄まで取られてどうするつもりだろう。」と非難めいた口調で話していたことを思い出します。明らかに日本の敗戦を予測していたと思うのです。8月15日の玉音放送の後、「やっぱり負けたか」と言ったのもこの伯母でした。赤紙一枚で夫を大陸に送り込み、若くして未亡人となったこの女性の頭脳はどこまでも冴えていたのです。
 新聞が何を書こうが、ラジオがどう放送しようが、その隙間からわずかにこぼれ落ちる真実の情報から、一般庶民は適格な判断を下していたということができます。

 日露戦争の後、ポーツマスでの講和条約を不服として新聞などは政府を猛烈に非難しました。それに乗じて一般大衆も騒動をおこす。日比谷公園での争乱事件から日本は軍国化の坂をかけ下りたと、司馬遼太郎は大衆と大衆運動を起こさせた新聞等に辛い点数をつけています。情報を的確に伝えない政府も悪いが、それを正確に言ってしまえば有利に講和が結べないという事情がありました。それでも四囲の状況を賢く分析すれば、日本の立場はどのようなものかわかったに違いありません。
 そして、今回のバブルです。驚く程の値段で土地を買い漁り、マンションを建て、別荘を造り、ゴルフ場をオープンさせました。造ったのは企業戦士であり、被害にあったのもその戦士達と大衆であります。密かにおかしいと思ったものは多分どこにでも居たことでしょう。
 最近、有名小売店で売られていた外国有名ブランド製品の95%が偽物であったと報じられました。売った方もだまされたと言うが、買った方もだまされたのです。店を信用したのはもっともですが、異常に安価なブランドものに飛びつく態度はどちらも同じことです。もちろんその中には、安すぎる、おかしいと思って買わなかった人たちがいたと思いたいものです。
 街の市場は古臭い。百貨店もダメ。スーパーだってと流行を追っているうちに、真面目な商売人は居なくなりあわてることになるでしょう。安いよ、安いよとあおられているうちに、本当の価値さえわからなくなってしまうのが人情です。ブランド製品を持つ不自然さ、不似合い具合に気付かないほどの若い人たちであればなおさらのこと。
 民の声は神の声。それを衆愚にするかしないかは、一体誰の責任でしょうか。(2000.12.1)

10 道頓堀の雨に別れて以来なり

 田辺聖子の力作「道頓堀の雨に別れて以来なり」の文庫本が刊行されました。
 永年中央公論に連載されていたものが、1997年に単行本となって、今度文庫本として刊行されたものです。文庫本となれば気楽に読めると、今一度通して読んでみました。
 川柳作家岸本水府を中心とした近代川柳の評伝というべきものですが、川柳を文学としての地位まで揚げようとして切磋琢磨した人たちの存在を知ると同時に、彼等の作品を通して日本の大正、昭和時代の世相を余すところなく描いている情景が心憎いばかりです。
 冒頭に、水府と夢声の対談を引用し、夢声が古川柳からうまいと思うものを2、3句言ってもらえないかというのに、
 うれしい日母はたすきでかしこまり
 れんこんはここらを折れと生まれつき
 目ぐすりの貝も淋しきおきどころ
とこたえ、夢声が
 吉原があかるくなればうちはやみ
 町内で知らぬは亭主ばかりなり
などはどうですというのに、それは川柳でなく狂句というんです、と一蹴していることを紹介しています。
 この逸話が、水府たち現代川柳人が、川柳を一流文学にしたいと世間の人の誤解と戦ってきた主題を物語っています。徳川夢声をして、未だ川柳の何たるかを知らぬ恥をさらしているといえます。水府もがっかりしたに違いありません。今までの苦労は何だったのかと。この対談の話は、小説の最後のところにも出していますから、著者も余ほど焦れったい思いをしたのでしょう。
 何年か前に、中央公論に連載されていたことは知っていましたが、今回文庫本で通読して私自身川柳を全く知らなかったことを教えられました。俳句が花鳥風月を詠む5、7、5の最短詩であるのに対し、川柳は同じ5、7、5ながら、季語にとらわれない人間諷詠であり、よろこび、かなしみ、笑い、矛盾、皮肉、軽快、あこがれ、理想を思う存分に奏でるものと水府はいいます。陋劣なテーマ、エロ的素材、汚穢な語はだめという考えが本格川柳であるというのです。トイレ、便所、放屁などは論外。
 先に夢声があげたような、一見皮肉があって面白いと思えるものも、その裏にぞっとするような不安があり、誰かを馬鹿にしたからかいがいけないというわけです。わかるような気がします。さらに数句あげてみます。
 ことさらに雪は女の髪へくる
 汚れてはいるが自分の枕なり
 あの時の恋はよかった角砂糖
 ぬぎすててうちがいちばんよいという
 あるようでないようで不平あるのなり
どうでしょう。なんとも言えないうまさであります。情景が、気分がよくわかります。自分にも思い当たります。ほのぼのとするところがあります。
 私は川柳にというより、三重県の鳥羽市に生まれたとある岸本水府に興味をもったのですが、実はその水府は父親の勤務の関係でたまたま鳥羽で生まれたに過ぎず、両親は徳島県出身で子供の時やがて大阪に住みつくこととなりますから、三重県人とは言えないことがわかりました。私の持論であるのですが、徳島、和歌山、三重には黒潮の流れに沿ったところからかなり似通ったところがあり、水府の他人の心情を心憎いまでに汲み取った言動は三重県人の中にも多分にあるものなのです。ですが、人生の大部分をしめる生活地は大阪で、この大阪を詠むところで名を挙げたと言っても良いのですから、水府はやはり大阪人というべきでしょう。
 水府は、当時の宣伝広告マンとしても活躍しました。名もない「福助足袋」を、宣伝だけで全国的にひろめたのです。今でも残っているのでしょうか、「グリコ」の「一粒300メートル」というロゴは、川柳で培われた感覚で、今でいう名コピーライターとして名を馳せました。
 さて、川柳ですが、その発生は江戸であります。18世紀の中ごろの秀句を集めた「柳多留」の、最初の部分を選句した柄井川柳の名前から川柳と呼ばれているのも不思議なことです。短歌、俳句が現在、文学、文芸としてみられるのに比較して、川柳は一段下のものとみられているというのが一般的でしょう。ところが、大正から昭和にかけては、現在でもかなり盛んですが、驚くばかりに庶民の中に流布され隆盛を極めたようです。
 人の人情を織りまぜて詠うのですから、素人にも取っ付きやすいということもあるのでしょう。それだけに、良き指導者がいないと、下陋に落ちる可能性もあり、現実に現在もそのジレンマにあるようです。
 1995年、全国で374の結社を組織する全日本川柳協会が、川柳の現状に「苦言」を呈するとして、4項目の協会見解をまとめ発表しています。
 「川柳は、人間の心や社会の動きを五・七・五の十七音字でつづる短詩型文芸です」
 「川柳は、人の心に強く訴える内容を、できるだけ平易な言葉で表現することをめざします」
 「川柳は、くつろぎの文芸ですが、文字遊びや語呂合わせではありません」
 「川柳は、作者の個性を大切にします。ふざけた雅号や匿名はやめましょう」
と呼びかけています。
 川柳ブームに乗って、量は拡大していますが質が伴わないという協会の悩み、それが水府たちも悩み苦しんだところでした。
 文学の大衆化と質の問題です。
 水府は、川柳は高度な教養を要するといっています。本を読み、知識を広め、時流を知らなければ解せないというのです。田辺聖子も以前「川柳でんでん太鼓」という本の中で、川柳を教科書にという意見があるが、川柳の心が若い子供達にわかるものでないと述べています。人生経験を積んだものにはわかるその人生の機微は、子供にはどう解説してもわからないといっています。たとえば
   話し合えば女に負けること多し
をあげています。なるほど。
 とにかく、川柳の名句に当たってみましょう。ということで我がホームページのインデックスに「ぶらり川柳」をしばらく続けてみます。(2001.3.24)

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