気 ま ぐ れ 日 記 −5−


2003年

2003年.....乳がん5年目のつぶやき

HP公開後もいろいろ悩んだり、 日々思うこともあります。

そんな私の近況や、考えていること などを、書いています。




'03.1.3 ---ついに5年生だぁ!!---
術後、丸4年を経過した。手術をした12月、一時外泊で過ごしたあのお正月・・
年の変わり目は、あれから、ずっと私にとって特別な季節になった。父が最後の闘病を病院でしていたのも、やはり同じ時期だった。

去年も、ある意味激動の年だった。いつも激動だが・・・(~_~;)
私生活では、パートの仕事の契約が切れ、無職(TOT)の悲しきプー太郎となり、細々とHP作成をはじめたけど、かなりヤバイ状況になったし。
ガイアを上映するという大きな目標に向かって一直線だったけれど、今年はこれといって目標はない(笑)。 でも、きっとまた何かo(^o^)o ワクワクすることが待っているに違いない。

とりあえず、今年やろうと思ってること、やることが決まっているもものは・・・
えっと・・・
○去年、活動に立ち上がった乳がんの患者会「VOL-Net」の活動
○支えあう会「α」の世話人としての活動
○うぃんままにそそのかされて乳がんバドミンターの団体戦に参加
○定職探し
○バレーボール

あらら、やることいっぱいじゃん(爆)


’03.1.28 ---そのちんの旅立ち---
2003年1月28日火曜日午前9時45分、集○会のメンバーのひとり、そのちんが旅立った。

2001年の12月、千葉県千倉にある病院のホールでクリスマスコンサートをしたころから、そのちんの病状は深刻なものになりつつあった。ガイアの自主上映を決め、最初のミーティングを5人そろってやろうと2002年1月東京のホテルに集合するはずだったその前日、そのちんは緊急入院をした。
ガイアの打ち合わせどころではなく、私たち4人は、川崎の病院へとそのちんを見舞った。幸いじきに退院し、通院での治療を続ける事になった。

8月31日に上映会にむけて、それぞれが担当を決め、そのちんは、電話での申込窓口に手を挙げた。
上映会当日、ようやく5人がそろう。そのちんがいつでも横になれるようにとソファのある小さな部屋も用意した。

でも、その日のそのちんは、受付を担当し、そっとサポートしてくれる妹さんやご主人の心配をよそに生き生きとしていた。赤いバンダナに集○会のロゴ入りの赤いTシャツ姿のそのちん。気力は人をこんなにも元気にしてくれるのかと驚き、また感謝した。

その後も、そのちんは、入退院を繰り返しながら、病気と闘っていた。

12月の半ば、京都旅行の報告も兼ねて、集○会全員でそのちんのお家に泊まった。
2003年年が明けて早々、緊急入院の知らせがご主人から届いた。その日から、私たちはできるだけそのちんのところへ行き、共に時間を過ごした。ご主人や妹さん、ご家族のみなさんが一丸となってそのちんを支えていた。私はその外側からほんの少しでも支えるお手伝いができたら・・・そんな思いだった。

そして、そのちんの旅立ちの日はやってきた。
静かに眠るような旅立ちだったと・・・

そのちんは、たくさんの人と出会い、たくさんのファンがいてアイドルみたいな存在だったけど、私にとってのそのちんは、アイドルではなく、ひとりの人として出会った友達。

いろんなことがあった。意見の違いや、考え方の違いもたくさんあった。
でも、そのちんが私に見せてくれた生き方、−そのちんらしく生きること−を私は決して忘れないと思う。

また、いつかきっと会えると信じて、私は私らしく生きていこうと思う。


'03.2.5 ---本当の関係---
そのちんの葬儀も終わり、表面上は日常へと戻った。でも、心が戻りきれず悲鳴をあげてしまったのか、風邪をひいて寝込んでいる。寝込んでるくせにこうやってPCに向かっている自分って・・・???

ずっと考え続けていた。迷い続けていた。

昨年、12月に京都へ行ったとき、柳原和子さんから、一冊の本をいただいた。
メイ・サートンの「総決算のとき」という本だ。
私はこの本にのめりこんだ。末期のがんにおかされた一人の女性が残された時間で−本当の関係−が何かを知っていくというような内容だった。
主人公と母親との関係が、自分のことと重なり、私は深く考えさせられた。
人と出会う・・・ということへの私の思いと重なった。

そして、そんな中でそのちんの残された時間に深く関わる立場になった自分とそのちんのこれまでの関係がいったいなんだったのかをも考えた。

そのちんが逝ってしまったあと、そのちんがちゃんとたいせつなことをご家族に話してきたことを知った。そのちんにとって、ご家族は「本当の関係」にあった人たちだった。そのことが私はとてもうれしかったし、うらやましくもあった。
そのちんの心とご家族の心は、私たちが思うよりずっとずっと近くで強い絆をもって結ばれていた。「本当の関係」を、他人と結ぶ人もいるだろう。必ずしもそれが家族だとは限らない。でも、そのちんは、その関係をご家族と結び大切に育ててきたのだとおもう。

私は自分がそのちんと本当の関係だったとは思えずにいた。きっとそのちんもそうだったと思う。魂が触れ合うような近さにはなりえなかったように思う。そんな私がこうしてそのちんの近くで残された大切な時間を共に過ごして良いのだろうか・・ずっと悩み続けていた。そして、私は、父を見送ったことで学んだ家族の立場の孤独さ、不安を思い、ご主人やずっとつきっきりで看病を続ける妹さんを出来る限りサポートしようと心に決めた。そのちんを支える仲間として同志のような気持ちでいた。

そのちんは、見事に自分らしく生ききった。そして、見事にその生を終えた。
私のいろんな思いや迷いを吹き飛ばすほど鮮烈で圧倒的な存在として「死」を私に学ばせてくれた。今はただ素直に「そのちん、ありがとう。よく頑張ったね。」そう言いたい。

「私と出会ってくれてありがとう。」
本当の関係がどんなものだったとしても、そのちんが見せてくれた生と死は私にとって本当のものだったと思う。


'03.3.25 ---県立佐原病院勉強会---
冬ごもりしていたが、いつのまにやら季節は初夏(~_~;) 木々の緑が目に鮮やかな季節になった。
このところ、ちと電池切れ状態で、無気力な日々が続いていた。

県立佐原病院で、柳原和子さんを講師に迎えての勉強会があり、竜院長から「まゆりんも来い!」(笑)とのお誘いを受けて、泊りがけで参加させていただいた。

今回の柳原さんの話で、もっとも印象的だったのは、「不完全な医師と不完全な患者が、不治であり未知の病に立ち向かっていく」という言葉だった。新著である、「私のがん養生ごはん」にも書かれているこの言葉に、私はとても共感した。
共に病に立ち向かう。がんというやっかいな病気に試行錯誤しながら共に向き合っていく。それしかないのだ。唯一の正解など誰にもわからないこの病気なのだから・・・と私も思う。

その後、ある医師から、医療者と患者では、経験が違う・・・という反論があった。医療に素人であるあなたたちが、いったいどれだけのことを知っているのだというようなことを言われた。回数だろうか。深さに意味はないのかと私は思った。医師と私たちの知識レベルや経験が同じだと言っているわけじゃない。不完全な医師というのを否定的に捉えているわけではない。むしろ、医療者に完璧を求めていたであろう患者も変わろうとしているとわかってもらいたかった。

竜院長が、
「インターネットの中を見てみれば、患者さん達がどれほど必死の思いで勉強しているか。どれほど、自分の命を見つめて闘っているか。勉強が足りないのは、そんな患者さんたちを知ろうとしないでいた我々医療者ではないのか・・」

患者のために完璧であり続けようと医療者も必死に違いない。患者に命を託され、必死に治療し、それでも多くの死を看取り、無念の思いにとらわれた経験を数多く持つであろう多くの医師たちに、たとえ医師でもできることとできないことがある。それでもいいです。一緒に闘ってください・・・そう私は言いたい。


'03.5.6 --- 迷い ---
4月、このサイトのアクセス数が、20万を突破した。どんどん乳がん体験者の新しいサイトが誕生して、私の体験など古くて(笑)、もう誰の役にも立たないだろうなぁなんて思いながらも、縁あってこのサイトへつながってくださった多くの人を思うと感謝の気持ちでいっぱい。

ネットだけでなく、実生活でも、乳がん関係の活動や相談にのることも多く、また、縁あって「がんに克つ」という雑誌の乳がん誌上相談室のページを担当させていただいている。この4年、多くの仲間と出会い、乳がんに真っ向から向き合ってきた。私は、乳がんになって、はじめて病気や医療に関心をもったわけではない。ずっとずっと昔から、なぜか、命や病気、とりわけがんに対して異常なくらいの関心を持っていた。そして、長い時間をかけてがんという病気、命に向き合う知識や考え方を積み重ねてきたと思う。そして、ネットという媒体のおかげで、自分が経験していないあらゆることを、数え切れないほどの仲間から学ばせてもらってきた。

けれど、このごろふと思う。迷う。確かに私の体験など、ちっぽけなものだ。超早期で全摘こそしているが、リンパも取らず、放射線も抗がん剤も経験していない。
そんな私が、再発を経験している人や、抗がん剤で苦しむ人たちの相談にのったり励ましたりすることが、果たしてどうなのか・・・。
経験していなければわからない・・・。そう言われてしまうとき、私は言葉を失う。
わかるとは私も思わない。話を聞き、その人自身が自分の心を整理して答えをみつけるためのほんの少しのお手伝いなのだと思っているだけだ。どれほど、時間をかけ、言葉を選び、耳を傾けても、
「あなたは、軽いじゃない・・・」そのひとことが私の心に突き刺さる。
そしてまた迷う。


'03.11.10 --- 11月10日という日 ---
4年前の今日、一人の友が旅立った。

ネットをきっかけに出会った彼女と私は、偶然にも生年月日が同じ だった。鮮烈な印象を私だけでなく多くの人の心に残してくれた。

彼女を忘れずにいてくれる仲間からメールが届く、彼女ととても深い つながりを持った仲間とそれぞれの場所で彼女を思う。

数字の不思議を思ったのは彼女との出会いからだ。

同じ日に生まれたこと、私の父の旅立った日は1月11日、1という 数字が3つ並んだ日にお父さんは旅立ったんだねと 彼女がくれたメール。そして、その同じ年、1が3つ並んだ日に、 彼女もまた旅立っていった。

彼女が今の私を見たら何って言うかな・・。きっと思いっきりの笑顔 で「まゆりん、だいじょうぶだよ。ニコニコゲラゲラワッハッハさ!」 と言って背中をポンと押してくれるだろう。

「マム、頑張るからね!見てろよ〜」
写真に向かってつぶやいた。


'03.12.1 --- 丸5年の検査 ---
今年の12月で、術後5年を迎える。乳がんは10年の経過観察が必要な病気だけど、最初の目標は5年だった。40歳で手術を受けて、すぐに父の不治の病と真正面から向き合う一年を経て、父を見送った。

私の乳がん騒動を発端として、5年、さまざまなことが起こった。哀しいことつらいことがたくさんあった。いろんなこと、いろんな思いを抱えながらやってきた。

診察室で、主治医と話しているとき、なぜだか突然涙がポロポロ出た。
自分でもちょっとびっくりした。そもそもの乳がんは幸いにもDCISだったため、データからいえば再発転移の確率は非常に低い。でも、検査のたびに健側に異常があり、細胞診はあたりまえ(笑)生検もやった。ハラハラしながらの5年だった。

ところが、これですんなり終わらなかった(^_^;)
主治医が再度マンモの画像を見直したところ、あれれれ・・・
よくよく目を凝らしてやっとやっと見えるくらいの怪しいものが・・・(苦笑)

主治医とかわりばんこに虫眼鏡で写真を何度も見て、いろいろ相談して、さらに詳細な検査をすることに決めた。5年前の私なら、半年後にきます〜なんて言って逃げたかもしれないけど(笑)、心配して鬱々と過ごすより検査してはっきりさせましょう。。なんてみんなにも言ってるんだから、自分が逃げてちゃだめだよな〜と思った。

実は、この診察日11月26日は、5年前に乳がんの診断がついた日なのだ。
おーっし、5年前のあの日に借りを返すぞーみたいな強気で臨んだけど、あえなく返り討ち〜ヽ(´ー`)ノ ・・・と、いうわけでもないか。
ま、検査してみなくちゃ、なんともいえないもんね。

私の場合一番気をつけなくちゃいけないのが、健側への新しい発症。だから、注意深く検査を受けてきた。結果はシロと出るかクロと出るかわからないけど、今思い悩むのはやめておこう。結果が出てから考えようと思えるようになった自分がいる。ちーっとは、成長したのかなぁ・・・。成長するなら、背が伸びてほしいんだけどなぁ・・。と、いつも言ってるか、このセリフ(-"-)