1999年10月・・・義母の事故死と父の誕生日

北海道に住む夫の母が車にはねられて亡くなったという突然の知らせ。 子供達3人を連れ、 急遽北海道へ飛ぶ。
父は、このところ安定していたが、「俺も本当なら行かなければならないのに、申し訳ない。」ととてもつらそうだった。

父の命が限られてしまっていることに必死になっていたところへの突然の悲報。 悲しいことがあまりにも続いて、世の中すべてを恨みたいような気持ちになった。

そんな中でも、父は少し安定しており、2月の時には考えることもかなわなかった 68歳の誕生日を迎えることができた。
私達は深い悲しみとささやかな喜びの入り混じった気持ちで父の誕生日を祝った。

MSコンチンついに240ミリ/日 ・・・けれど、座薬を使う回数は一日に1回〜2回へと減らすことができ、 父の生活自体は楽になった。


1999年11月・・・後半よりガクッと悪くなってくる

13日に歩いて数百メートルのところにある市役所の駐車場で農林まつりがあり、 お天気が良かったせいか、父が行ってみようと言い出した。みんなびっくりしたけど、 うれしくて、みんなで出かけ、吹奏楽の生演奏を聞きながら、お昼を食べ、花や木をブラブラ見て回った。

花の苗をいくつか買い、この花が満開になるまで、父が生きていられる ようにと心の中で必死に神様に願った。

★11月18日

強い倦怠感を訴える。 居間のソファに横になっている時間が多くなる。それでも父は、昼間は寝室の ベッドに寝ようとはしなかった。ベッドに入ったら、そのまま本当の病人にな って、寝付いてしまうと恐れていた。

★11月22日

診察日に父が自分で車を運転して、病院に向かった。時間つぶしにブラブラ 近くの店を見て回ったが、疲れて歩くのがつらいと、自分でも悲しそうだった。

父は定年後歩く事を最大の趣味とし、毎日のウォーキングを欠かさなかった。
冬にはスポーツウェアに身を包み帽子をかぶり、ラジオのイヤホンを耳に入れ、 背筋をピンと伸ばして、颯爽と歩く。

父の歩くスピードはとても速く、近所でも評判の“歩く人”だった。その父が少し 歩くのも苦痛を感じるほどの体力の衰えに心底ガンという病気を憎んだ。



★11月23日

夜NHKでドラマを見た。山崎努さん、いしだあゆみさん、筒井康隆さん などが出ており、死、ガン、残された人々など、重いテーマのドラマだった。
このドラマを見て、父が何を思ったのかはわからない。それからの父は、 母や私にしきりに人生のことや、病気のことを語るようになった。

このドラマを見た日、母と人生についてしみじみ語り 合ったそうだ。 「 母さんと結婚してほんとうに俺は幸せだ。」そう言って、「 俺は本当に 大丈夫なのか?」と、母をドキッとさせたそうだ。

夜中に痛みが出ると母が一階の冷蔵庫に座薬を取りに降りる。父は寒い中 いつ声をかけてもすぐに目覚めて座薬を取りに行く母に、「今の俺は母さんが いなかったら、一日も生きていられなじゃないか。」と言った。感謝の気持ちを 素直に言葉にできる父だった。



★11月24日

ドラマを見た次の日、いつものように居間のソファーに横になっていた父が、 私をそばに呼び「 お前に聞きたいことがある。」と言った。 私は父が自分の病気について不審を抱き始めている事を感じており、 本当のことを言ってくれと言われたらどう答えようとドキドキして父の言葉を待った。

昨日のドラマを見てどう思ったか?と父は私に尋ねた。 そして、「 俺は母さんのことが一番心配だ。俺がもし死んだら母さんを 頼むな。」・・・ 父はもう覚悟していたのかもしれない。

私の病気のことに触れ、今自分が病を得て、娘の私の心の中が少しわかった ように思うと言った。「おまえもこんなに不安なのか?」と問いかけ、 「うん、あんまり先のことは考えられなくなったから、今日と、明日、 一週間や、1ヶ月そのくらいは きっと何事もなく、大丈夫って思うことにしてる。」 と言うと、そうだなってうなずいた。

これ以降、入院するまで、父は母や私や妹としきりに話したがった。 今話さなければ・・・という切羽詰った思いだったのかもしれない。



★11月26日

義母の納骨のために再び北海道へ飛ぶ。出発を前にして心なしか 父の顔が黄色いように見える。このごろ少し太ってきたとうれしそうに お腹を見せる父だったけれど、いよいよ 腹水がたまってきたのではないかと 後ろ髪を引かれながら夫と2人北海道へと飛んだ。

飛行機を降りてバスに乗り込み窓の外の景色を見ていたら、ふいに涙が あふれて止まらなくなった。ずっとこらえていた涙が後から後からあふれて、 夫の手を握ってずっと長いこと私は泣いていた。心の中で「父さん、父さん、 死なないで!」と繰り返していた。


 
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