あ と が き



父の記録を書くのに1年余りかかりました。


春から秋までの記録は早く書き上げたのですが、冬=父のターミナル(終末期)を 書くときになって、私の指は止まりました。

父の記録を書き進める作業はとても苦しいものでした。

“父”というフォルダに入れた100通以上のメールを何度も何度も読みながら、そのたびに 泣きました。誰もいないとき、PCの前で声をあげて泣きました。

そして、このたくさんのメールを抜きにしては父の闘病を語ることは できません。

外科医 松本修先生

麻酔科医 高田宗明先生

島神経科内科クリニック 島雅彦先生

国立がんセンター東病院 呼吸器外科 吉田純司先生

先生方のメールを中心にようやく「冬」を書き上げました。
ここで転載したメールは100通を超えるメールのほんの1部です。



父は、闘病中口癖のように「パソコンの先生は何て言ってる?」と私に尋ね、 最後の入院をしてからは、「俺の(身体の)こと、頼むぞ、頼むぞ。」と私に言いました。

病気のことを父はほとんど主治医にはたずねませんでしたが、診察の後は必ず私に 説明を求め、私の話を一生懸命信じて、必死に生き抜きました。

けれど、結局私は何もできなかったのです。

父を助ける事はできなかった。たくさんのウソをつきました。

だから、闘病記は「父さん、ごめんね。」というタイトルになりました

いろんな「ごめんね」を父に言いたくて・・・・・。



父の発病以来、私は、自分の病気のとき以上にネットで情報を集めました。そして まず 能登・緩和ケア研究会のHPにたどり着きました

このHPに出あったことが父の闘病を家族全員で支えていくという決心を させてくれました。また、このHPを運営しておられる能登の麻酔科医高田先生に 思い切ってDMを出したことがきっかけで、 キャンサートークメーリングリストとい うガン専門のメーリングリストに参加することができました。

また、膵臓がご専門の松本先生は乳がんメーリングリストでもご一緒していることもあり、 DMでご相談させていたこうかと迷っていたときに先生のほうからDMをくださり、以後 父のこと、私のこと、いろいろと相談にのっていただきました。

ネットを通した多くの方とのつながりが私達家族の手探りのケアを支えてくれた のです。父は膵臓癌としてはとても静かに生を終える事ができました。
孤立無援ともいえる患者の家族である私達を励まし続けてくださった 多くのお顔も知らない方たちの温かい心の贈り物があったからだと 私は思います。

MLでの投稿やDM(ダイレクトメール)を実名でこのHPに転載することをお許し くださった先生方、ほんとうにありがとうございました。そして、ガンの闘病を なさっている患者さん、家族を看護している家族の方、またすでに大切な人を 見送った方、すべてのみなさんに心からエールを送ります。


最後に松本先生からいただいた言葉を書きます。

“そしてまゆりんさんは、おとうさんの分まで生きましょうね。”


乳がんの手術から2年目の誕生日、父に見てほしいと願いました。

45歳の私も、50歳の私も父に見て欲しかった。
そして元気に年をとっていく娘を見せたかった。

私は父の分まで生きていきたいと思います。



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まゆりんの乳がん騒動記