まゆりんのひとりごと


最終更新日 2004年9月13日

父さんが逝ってしまった後もいろいろなことを思い出します。

父の思い出や今思うことを書きとめています。
★2004年9月13日 --- 精霊流しとガイア ---

父の死後、お盆が終わると近くの川で精霊流しの真似事をするのが恒例になっている。父の灯篭一つだけ流すのは寂しいなので、夫の両親の灯篭も作り二つ一緒に川に浮かべる。
広い川にたったふたつだけの灯篭がゆっくりと寄り添うように流れていくのはあまりにも切ない。毎年、母の嗚咽とともに二つの灯篭を見送る・・。
私は、泣かない。母が泣くと私は決して泣かない。へそ曲がりだし。

8月の終わり、地球交響曲第3番の自主上映をやった集○会の仲間と久々の再会。
4人で第5番を見た。HANAさんと一緒に出かけたダライ・ラマの講演会の映像が流れる。

そして、さまざまな場面の中、精霊流しが映し出された。これまでの地球交響曲の出演者たち、星野道夫や野沢博士やジャック・マイヨールの名前の書かれた灯篭も数え切れない灯篭たちとともに流されていく。

私は涙があふれた。たくさんの灯篭が流れていく映像を見ながら、私の目は広い川をたったふたつの灯りが流れていくのを見ていた。
★2004年8月26日 --- 父を語ること ---

父の死後、家族の立場でその体験を語る機会を何度かいただいた。
最初は、看護学校の学生さんたちを前に、そして昨年は世話人として参加している支えあう会「α」の公開講演会ではCTMLでお世話になった国立がんセンターの吉田先生の講演の後、ネットで多くの人に助けられながら父を支えた体験をお話しした。
そして、先月仏教ホスピスの会に呼んでいただいた。

父との最後の日々を語ることは、4年以上がたった今でも心に重い。

日々の暮らしは父がいないということにも表面上は慣れ、何事もないような普通の時間が流れている。父のことは毎日のように考えるけれど、それでも毎日のあわただしさの中に少しずつ紛れているようにも見える。

けれど、それは決して忘れ去ることでも癒される傷でもない。

話をするためにサイトを読み返したり記憶の糸をたどったり・・・でも、いつも生々しく湧き上がる胸の痛みでその作業を続けることができない。

その日が近づいてくるにしたがって心の中に重い石が沈んでゆく。失った大切な人を思うことは哀しみと切なさを伴いながらそれでもどこかあたたかい。

私の体験は、たくさんの、そしてそれぞれかけがえのないたったひとつの物語のひとつに過ぎない。自分が、家族のだれかが、がんという病を得たときからたったひとつのその人たちの物語がはじまる。

仏教ホスピスからいただいた冊子にこんなことが書いてあった。
あきらめるという言葉は、どうにもならない不条理を明らかにすること・・・
そういう不条理に自分が置かれていることを受け入れること。

私の話を聞いてくださった方たちとの会話の中から、私はたくさんのものを教えられる。
つらいから逃げ出したい・・・そんな気持ちを抱えながらなぜ話をするのか・・
それは、話すことではなく、そのことをきっかけにさまざまな人たちから学ぶことやあたたかさを分け与えていることへの感謝なのだと思う。

「父の話をしている私の後ろにお父さんが見えたような気がするよ」
そう感想を伝えてくれた人がいる。

きっと、父は少し照れてながらこうつぶやいているだろう。
「何を言ってるんだか・・困った娘だ」と。
★2002年8月15日 --- 精霊流し ---

父が逝って3度目のお盆。田舎から届いた灯篭や供物、いつになく 父の仏壇はにぎやかになる。夫の両親も写真を立て父の仏壇のとなりに並べる。
迎え火を焚く日は、母も少しうれしそう。父のために、煮物を作りおだんごを作り、 娘達はきゅうりとなすで、父の魂の乗り物を作る。
父を偲んでお線香をあげに来てくれる人との思い出話にも花が咲く。

けれど、送りの日は悲しみにくれる。近くを流れる川に精霊流しに行く。 今年は夫が良い場所を探してきてくれた。川のほとりに立ち、父の魂を 見送る。母は泣きながらその光をいつまでも目で追う。
しばらくみんなで見送って、車に乗り、今度は川下の橋からその光を見送る。 母の背中にむかって、小さな声でつぶやく。「父さんの魂はいつだってそばにいるよ」

でも、見えない、聞こえない(T_T)
いつまでも癒えない寂しさ。父が逝って3年、心の中にずっと父はいる。でも、やっぱり 会いたい。声を聞きたい。もう一度父と、話し、笑い、一緒に酒を飲みたい。 父が生きていたら、71歳。おしゃれで格好つけしの父が70歳を越える。 なんだか、父には似合わない。父は一番父らしい時に人生の幕を引いたのかもしれない。 でもね、年をとって、颯爽と格好良く歩けなくなってもいいから、もっともっと 一緒にいて欲しかったな、やっぱり・・・。


★2001年3月8日 --- ホスピス見学 ---

2月に千葉県にあるホスピスの理念に基づく病院の見学に参加した。
病気になるずっと前からとても関心をもっていたことでもあり、実際に父の病気が わかってからは“ホスピス”を探したりもした。

けれど、父には非告知だったし、家の近くにはそういった施設もなかった。

房総の南端千倉という町にその施設はある。春先には色とりどりの花が咲き乱れ、 関東近辺からはお花摘みの行楽客がどっと押し寄せる。
ホスピス病棟があるそのクリニックは木造の平屋建ての一見和風旅館かと 思うような建物で、広々とした空間、やさしい木のぬくもりに満ちている。
病棟には大きなホールがあり、ちょっとしたラウンジ気分ですごくくつろげる。 間接照明やソーラーシステムを利用したほわっとした暖かさが居心地良い。
まだ新しいその病室を見て回っているうちに、いきなり私を襲ったのは、 「たとえ、こんな場所であっても私は死にたくはない!」という強い思いだった。
私はやはり、がん患者という自分を抜きにしては何も見ることができなくなって いるのかもしれない。

思わぬ自分の感情に涙がポロポロこぼれていくうちに、新しい感情がわいてきた。
父の姿がそこにあるような気がして、とても懐かしいような気持ちになっていた。 父が最後を過ごした病室は一般病棟の個室であり、決して緩和ケアを受けるための 施設ではなかった。でも、私たち家族にとってはあの病院のあの部屋が私たちの ホスピスだったのだと、思った。

家族の集まるところ、そこがホスピスなのだと思うようになった。





★2001年2月17日 -- お食事バトル第1ラウンド --

父の膵臓ガンがみつかるきっかけとなったのは父が糖尿病の典型的な症状を あらわしたこだった。血糖値は600もあり、入院治療と食事療法で血糖値を下げる ことからはじめた。
母は本と首っ引きでカロリー計算をし、父はかたくなまでに食事療法を実践した。
入院中は自分で毎回病院食を写真にとり、退院後に備えた。
飲めなくなったら死んだほうがまし・・なんていうほど大好きだったお酒もピタリとやめ、 大好きな甘いものも徹底的に排除した。

父の余命は3ヶ月と言われていた私達はせめて好きなものを好きなだけ食べたり 飲んだりさせてあげたい・・・そんな気持ちとのバトルが第1ラウンドだった。


-- お食事バトル第2ラウンド --

病状の推移とともに味覚障害が現れた。経口抗癌剤5−FUの副作用とも考えられ た。食べられなくなったらどんどん衰弱してしまう。抗癌剤の服用を中止し、味覚が戻ることに期待した。

それでも、長いこと味覚障害は続き、金属のような味がする、砂をかんでいるようだという 父は、食事時にイライラし、食卓にはピリピリした雰囲気が漂うようになった。 食事の時間は父にとっても家族にとっても恐怖に近い時間になってしまった。

味覚はその後少しづつもどってきたけれど、今度は食欲が無くなり、ほとんど食べられない 状態になった。母、私、妹、みんなで父の食べられそうなものを必死でさがした。
バナナ、ヨーグルト、カロリーメイト、この時期の父をかろうじて支えてくれた食べ物だ。

-- お食事バトル最終ラウンド --

最後の入院をしてからの父と母の姿はほんとうに見ているのもつらいことだった。
まったく食欲のない父、一口でもいいから何か食べさせたい母、食事の時間はまるで バトルのようだった。父も食べるということにこだわり、食べることが生きる証のように 必死に食べようとする。

そんな2人を見ているのが苦しくて、父には「無理に食べなくても大丈夫だよ。具合が 良くなったらまた食べられるようになるんだよ。」と声をかけ、母には「一口でも何か食べ てほしいと思う気持ちはわかるけど、無理したら父さんがつらいだけだよ。」と何度も話した。

食べなくても大丈夫という私の言葉に父はホッとしたようにうなずき、母もわかってると 涙を浮かべた。父は母のために、食べたかったのだ。母の喜ぶ顔が見たかったのだ。

最後まで父は中心静脈栄養をしなかった。栄養をとることが目的ではないのだ。父にとって 食べることは生きることだったのだ。





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