わが友フロイス 井上ひさし著
ネスコ発行;文藝春秋刊 1200円+税
極東の地日本にカトリックを根付かせ、織田信長に謁見し、「日本史」という膨大な記録を残したイエズス会のパードレ・ルイス・フロイスである。タイトルからして熱心な農民キリシタンあたりの視点で書かれるかと思いきや、物語は「ルイス・フロイスの書簡」という、読者の意表をついた形ですすむ。ポルトガルの知識階級の家に生まれたポリカルポ・フロイスが、イエズス会の活動に憧れてイエズス会の修道士になって、ルイス・フロイスと名を変える顛末、インド教区での活動を経て日本に至るまでの日々、そして日本での生活など、フロイスの生涯が彼自身の口から語られるのが面白い。
時折フロイス宛の返信が混ざるが、時間と場所を隔てたやりとりは到底「対話」にはなり得ず、物語は終始一人称以前の独白で語られる。しかしこの本の面白いところは、要所要所に挟み込まれたイエズス会の記録である。これがあるために物語は一気に客観性を増し、一神父のベタベタした感情的な視点のみにおぼれることを防いでいる。
井上ひさしによる架空のフロイス書簡は、常に饒舌である。宣教師になるほどであるから雄弁だったには違いないが、それにしてもまぁ、と言いたくなるほどの長さを誇る。しかしこれは手紙であるから、日記のように毎日書かれているわけではない。ある手紙から次の手紙まで3〜4年経っていることも当たり前になっている。だから例えば紅顔のポリカルポ少年が若き青年修道僧ルイス・フロイスになるまでの間にはたったの一往復しかやり取りはない。その間に引き起こされたであろうすったもんだや、当然感じなかったはずがないフロイス少年の葛藤といったものが一切書かれていないから、一見ひどくそっけない。
行間ならぬ文間を読む楽しみについて触れた文章が、同じ著者の『自家製 文章読本』に収められている。文間というのは著者の造語だが、ここでは接続詞の使い方と関連して語り起こされている章である。著者の言に従えば、およそ全てのもの書きが取り得る文間の手法には「叙情性や物語性を生む深く抉れた真空」(接続言がなく、読み手が自身で文の意味をイメージしながら読む)「作者の感慨を間断なく横滑りさせて、読者を言葉の波に遊ばせる」(漱石の『草枕』はその代表例)「接続言を介在させて余白を千変万化させる」の三種類があるそうだ。『自家製
文章読本』の分け方を流用するならば、この物語は限りなく真空に近い、深い文間を持っている。読者は自分で自由にフロイスの心象風景を想像する自由を与えられているのである。
フロイスは65年に亘る生涯のうちの大半を日本で過ごしていたことになる。それだけ聞くと、全生涯を宗教に奉げ尽くした偉大な聖人を連想する。しかし井上ひさしが作り上げた彼は、まったく人間くさい僧侶だった。布教がうまく行かないといっては愚痴を言い、人を信じては裏切られてふてくされ、晴れやかに殉教するキリシタンたちを見つめてはその宗教心に嫉妬すら覚える、ごく普通の人間である。
だからこそ「わが友」という、冠せられている言葉がよく似合うのである。
「本のときどき通信」に戻る
トップページに戻る