そもそも「ジェンダー」とは何か。私はカタカナが苦手なので早速調べてみた。本によっていろんな解説の仕方があったのだが、まとめると「本来生まれ持った性に対して、後から社会的・文化的に持たされていく性」という解説に落ち着きそうだ。もともとは名詞の性(ヨーロッパ各地の言葉には、男性名詞とか女性名詞とかがある)を分けるときに使う術語で、最近では女性学用語のようになっている。
ここまで認識したところで、まずは「ジェンダー」基本図書。「ジェンダーの神話;[性差の科学]の偏見とトリック」(アン・ファウスト・スターリング著:工作舎刊)は、コテコテのアメリカフェミニズムの本。基本図書…なんだけど、私はあまり好きではない。ほんのちょっと前まで堂々とまかり通ってきた「科学的な」論が、とんでもない女性差別を含んでいることがよく分かる。これでは女性の科学者が苛立ちを覚えて当然だ。私も苛立った。でも、それらの「科学的な」論というのが、どうも白人男性至上主義のように思われてしょうがないのだ。有色人種の私としては二重に苛立ってしまった。一応出すけど、個人的にはおすすめできない。
「男と女 変わる力学−家庭・企業・社会−」(鹿嶋敬著:岩波新書刊)は、フェミニズム運動に対して、「女性の意識が変わって行くのに男性の意識変革がちっとも進んでいない」という啓発の書である。著者は日本経済新聞で家庭欄をずっと担当してきた新聞記者。なるほど、だからこそ男性側からの「フェミニズムに対する回答」として安心して読めた。ただなぁ、これが出版されたのが1989年なのだが、それから約10年を経た現在、状況がほとんど変化していないように見えるのは気のせいだろうか。
…と思っていたら気のせいではなかった証拠に、昨年にはこんな本が出ている。「OLたちの<レジスタンス>;サラリーマンとOLのパワーゲーム」(小笠原祐子著:中公新書刊)は、「オフィスにおけるジェンダー」を考えるのにいい好著。ゴシップ、バレンタインデー、受け身でしか仕事をしない態度など、一般職の女性たちがその立場を精一杯利用して会社に対して(ひいては男性優先の社会に対して)抵抗する様子がつぶさに書かれている。OLにしかできない、OLの立場を利用した「抵抗」によって、かえってOLの地位が下がっていく矛盾も指摘されている。私たちはいったいどうすればいいんだ。司書と言うのはこれでけっこう特殊な職業なので、ここに書かれているようなことは経験がないが、友人の話など聞いているとなんとなくこの本の内容と重なるところがある。ついでなので、ここで紹介されている「おじさん改造講座」(清水ちなみ著:文春文庫刊:既刊8冊)も出そうか。全国各地7千人以上のOLさんたちから集まったアンケート結果をまとめた
だけ、という他愛ない企画だが、週刊文春のロングセラーコーナーだった。ここでは、OLさんたちが社内の上司を冷ややかに観察して、元気にアンケートに答えている。おじさんたちにも一読の価値はあると思うのだが。
この際なので企業の中のジェンダーについてもう一冊。「たかがお茶されどお茶;職場のお茶くみを考える」(日本秘書クラブ能力向上研究会編:時事通信社刊)は、職場の中での「お茶くみ」に焦点を絞って、男女それぞれの立場からの発言を載せているだけ、というこれまた他愛ない本。だが、男性女性、それぞれが好き勝手なことを言っているなぁ、とつくづく思った。どちら側の発言をより「勝手だ」と思うかによって、読者のジェンダーに対する認識が分かってしまうという、けっこうこわい本でもある。
「男でもなく 女でもなく−現代のアンドロジナスたちへ−」(蔦森樹著:ケイ草書房刊)は、蔦森樹(たつる)の自伝。世の中にニューハーフとかゲイは多いが、この人は「男性としての意識を持っていながら、身体表現として女装する」という点で独自の位置を持っている。割と積極的に発言する人で、ジェンダーについて語るときには欠かせない。この人の場合、自分の精神史を語ることがそのままジェンダーについて考えることになっている。最近は「脱ジェンダー宣言」をしていて、今後の発言が楽しみな人だ。
蔦森氏ほど強烈かつ極端でなくても、社会の中で要求される男性像に息苦しさを感じている人は相当数いるようだ。そういった男性が集まって、自分に合った生き方を模索する団体がある。その活動報告とでも言うべき本が「オトコが『男らしさ』を捨てるとき」(豊田正義著:飛鳥新社刊)である。強がることよりも弱さを認める方が実は数倍勇気がいるのであって、挫けそうになったときに仲間がいるのは相当心強いものであると考える。それにしても、今の世の中は男性に対して、ものすごく過酷な要求を、しかも無意識のうちにしていることがよく解った。
ひとつ、面白い視点の本も紹介しよう。「男と女の関係学−家族のゆらぎの中で」(養老孟司;山極寿一;原ひろ子;大日向雅美著:学文社刊)は、副題にある通り、家族の中での性別分担について考えたものだ。1995年度に東京女子大学で行われた連続講演会をまとめた本である。脳ミソから見つめた男女、類人猿の家族関係、男女格差のない少数民族のフィールドワーク報告、母性研究と、ひとつの演題からこうも多岐にわたる話が出てくるものかと、ちょっと「目からウロコ」の本だった。
「メディアが作るジェンダー」(松泰子;ヒラリア・ゴスマン編:新曜社)は、あれっ、「日独の男女・家族像を読み解く」なんていう副題がついている。うーん、出版されてないうちから予約カタログショッピングをすると、たまにこうやって意外なものが来るなぁ。フェミニズムの本に限らず「日独」とは珍しい。こりゃ拾い物だったな。ここでいう「メディア」とは、新聞・雑誌・連続ドラマ・テレビアニメーション・コマ−シャル・1994年までに出版された文学作品をさす。これらはすべて、当たり前のように私たちの周りにある情報だ。これらのメディアに接しながら、心のどこかでイライラと引っかかっていた問題が明確にされていたり、全く見過ごしていた問題がずばりと指摘してあったりと、胸のすくような一冊。
今現在の男と女について考えるのだけれど、コトバというものに興味を持っている私としては、なんとなくはずせない気がするのがこれらの本だ。「一語の辞典
おんな」(中山千夏著:三省堂刊)は、古事記の神名に出てくる女性を中心に据え、漢字の中の女性、ことわざの中の女性にも触れている。女神がただの人間になり、だんだんおとこ以下の存在になっていく過程がよく分かる。おとこもおんなも、言葉やことわざといったものにとやかく言われ続けておとこやおんなになっていくのだ、という著者の主張が面白い。ついでなのでもう一つことわざ関係。「ことわざに現れた性差別;男と女のことわざ事典」(渡辺友左著:南雲堂刊)これは「一語の辞典 おんな」のなかで一章分しか扱われていない「ことわざ」の中の家制度や男女の性差別について、さらに詳しく調べた本である。ことわざは確かにすぐれた言語文化ではあるけれども、ことフェミニズムという観点から見たときにめまいがしそうだ。この本で詳しく述べられていることわざは、著者も書いているとおり一時代前の物ではあるが、現代に引き継がれているものも多い。なるほど、こういう蓄積があってジェンダーができていくのね、と改めて思う。
そういった言葉たちを紹介するにとどまらず、敢然と文句をつける本だってある。「『ことば』に見る女性」井出祥子監修:東京女性財団刊)似たようなスタンスの本に「きっと変えられる性差別用語」(メディアの中の性差別を考える会編:三省堂刊)というのがあるけれども、こっちの方はちょっとヒステリックな気がしてあまり好きになれない。「『ことば』に見る〜」の方は、執筆陣にも幅があって、「差別を減らすためにはどういう態度をとればいいのか」ということまで触れてあって好感が持てた。
さて、カタい本ばかり続いたので、最後はいっそ思い切って小説などはいかがだろうか。「ジェンダー城の虜」(松尾由美著:ハヤカワJA文庫刊)は、ちょっぴりドタバタのユーモアミステリー。物語の舞台になる「地園田団地」は、「伝統的家族制度に挑戦する家族」という奇妙な入居資格が要る実験的団地である。入居にあたっては、団地の設立者による面接試験(?)があるというのだから徹底している。その結果集まった住人たちは、主夫のいる家庭や血縁のいない契約家族、同性愛カップルなど、さまざまな形の家族である。直接物語の筋とは関係ないのだが、その「地園田団地」の住民に対する他地区の住民の反発がものすごくて、主人公が首をすくめるように過ごしている(彼の家は専業主夫のいる家庭である)、という設定が印象的だった。ナゾ解きは弱いけど、軽く読めて面白いからよしとしよう。