「評論家」の定義は難しい。世の中には評論家がたくさんいて、自称評論家はその20倍くらいいる。みうらじゅんがあるTV番組に登場したときに肩書きが「崖評論家」になっていたのには驚いたが、とりあえず何かについて語れば「評論家」になるらしい。だったら私は「だるま評論家」か「栗きんとん評論家」になってしまう。書評は評論の範疇に入るのかとか、コラムとエッセイと評論の違いはなんぞやとか、評論について真面目に考えだすと、評論家という人たちの胡散臭さに気がつく。
この本は、1990年代に論壇デビュー、または論壇を越えてブレイクした批評家を出すは出すは、ざっと44人も取り上げてその仕事ぶりを紹介した労作である。著者は数年前に『不良のための読書術』という本を出して(現在はちくま文庫刊:\620+税)、そのどしょっぱつから「本は全部読むものではない」とぶちかまして議論を呼んだ人である。言っていることはどれもまっとうだったから、このどこが「不良」なのだろうかといぶかしく思ったものだ。それがまたぞろ「不良のための」というタイトルで書いたということは、著者はみずからを「不良」と規定していることになる。
取り上げられた評論家は、かの「ゴーマニスト」小林よしのりから「オタク学」の岡田斗志夫、長野県知事の田中康夫、漫画家の夏目房之介、フェミニズムの斉藤美奈子や「もてない男」小谷野敦までと、評論を本業としていない人までも含んで幅広い。中には小林よしのりのように著者が「嫌い」と公言してはばからない人もいるが、「嫌い」と言いながら『ゴーマニズム宣言』を精読する。著者のバランス感覚が窺われる。
著者はそれぞれの批評の方法や中身の特徴を語っていくと同時に「批評・評論とはどういうことか」ということも考えていく。たとえば著者は、評論には論点もさることながら表現の質(彼は「芸」と言っているが)も必要不可欠だと言っている。それぞれの紹介文を見ていると、著者がそれぞれの論者のどこに「芸」を嗅ぎ取ったかが窺われて楽しい。
しかし、各見開きに3〜4カ所は必ずある太ゴシック体の強調文字はいかにもじゃまくさい。著者および編集者が何をそんなにも強調したかったのかがまったく分からず(そもそもそんなに頻繁に書体を変えては「強調」にならない)、不良読者である私の目には、そんなにまで力を入れて語らなければ伝わらないと思っている著者の仕事そのものまで胡散臭く見えてしまうのである。