きちきち四世   遠藤望森著
新風舎刊 \1262+税
ISBN 4-7974-1092-2

 怪しい絵本である。見開きページの右側に文章(テキスト)があり、左側には絵と手書き文字(セリフ)がある。テキストと絵は微妙に関連しているが、テキストとセリフはややイメージが異なる。
  「誰か」が「わたし」を呼んで、そうして「わたし」が始まる。他者がいて初めて自己を認識できる、とは哲学の基本である。言っている内容は哲学だが、言っているのは三白眼の怪しい鳥(この背景)である。卵からかえったばかりのカリメロ状態のときに「殿下と呼んで刷り込みをしよう」などと言われていて「刷り込みの意味が分からない」とつぶやいているが、そのわりに「殿下」という言葉の意味は知っていたりする。どうして生まれたてなのに「殿下」のなんたるかを知っているのかという疑問を抱いてはいけない。“彼ら”は生まれながらにいろいろ知っている。ただ知識が偏っているだけなのだ。
 “爺”から殿下と呼ばれ、へりくだられるから“わたし”は王子なのかと思い、ヒトから神様と呼ばれ、願いごとを押しつけられるから“わたし”は神様なのかと改めて思う。自己の認識とは、しばしば世界の認識よりもややこしく難しい。突然「救いとは救われる能力のことだ」と信仰の根幹を定義するような文言が出て来てびっくりするが、それを言っているのは(くどいようだが)やたらと目つきの悪いヒヨコである。このギャップの激しさがなんとも怪しい。
 ここはどこで自分はナニモノで、どこから来てどこへ行くのか、考えても考えても“わたし”には分からない。分からないから“わたし”は左側のセリフ部分で“爺”に問いかけるのだが、“爺”ははぐらかしてばかりで何も答えてくれない(それどころか逃げ出してさえいる)。右側にあるテキストでは、問いと思考を繰り返す言葉が連ねてある。“わたし”のつぶやきであると思うのだが、冒頭部分を除けば“爺”の思いと読んでもおかしくない。他人から問われたことに答えることは、自分のなかで改めて問いなおす行為にほかならない。「この世界は疑問であふれかえっている」と“わたし”はつぶやくが、それと同時に「まぁよかろう、いずれ分かるだろう」と開き直る。“爺”をはじめとする世のオトナたちは、疑問を封じ込めて考えることをやめているからこそ、かろうじて日常を保つことができる。テキストの後半部分を“爺”の思いとして捉えると、ひょっとして“爺”は答えをはぐらかしていたのではなくあえて答えなかったのではなかったかと邪推する余地もできる。
 タイトルの「きちきち四世」とは、最後の場面で“わたし”が自ら名乗る名前である。「誰か」から呼ばれて誕生した自己は、“あなた”(=爺)と“わたし”とに相対化され、更に別の第三者が介入することによって三人称になる。名前があるということは、他の誰でもない、この世にただひとりの“わたし”になるということだ。
 怪しい絵で笑って気分転換するにもいいし、「自分探し」に疲れた頭を休めるのにも有効そうな一冊だ。

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