久しぶりのブックトークは疾風怒濤アホあほ企画の「中国歴史物」である。何が疾風怒涛なのかはよく分からないけれど、とにかくアホあほ企画なのだ。中国の歴史小説というと、本屋のかなりなスペースをドワッと占領していて「どうだ!」とエバっている気がするのね。それで棚に近寄ってよくよく見てみると、その棚の本には「五巻」とか「十三巻」とか平気で書いてあったりする。五巻があるということは一巻から四巻までがあるはずであって、全五巻ならまだいいのだけれど十三巻ですよ十三巻。いやはや、さすがは「白髪三千丈」の国である。人も事件も時代背景もバカヤロ的にスケールがでかくて「それらを丁寧に書いてたらとても一冊じゃ語りつくせんけんね」てな具合になるらしい。そんなエバりくさり活字中毒患者御用達的本棚を見ているうちに激しくハラが立ってきて「なんだコノヤロ、私は忙しいんだ、いちいちこんな大河ドラマにつきあってられっか」なんて言っていたら、あっという間に時間が経ってしまった。こんなことならごちゃごちゃ言っていないでガシガシ読めばよかった。
さて、今回ガシガシ読みをしたのは「中国の歴史物」ということだが、この中には『三国志』関連本は含まれていない。というのは、ずっと以前にやっぱり「アホあほ企画」として『三国志関連本ガシガシ読み』をしたことがあるからで、それ以後も三国志本はいっぱい出ているのだけれど、ワタクシ的気分としては、もうこれだけ読めば充分だろうと思うのだった。というわけで三国時代のものは省かせてもらったので、『三国志』ファンの人はこの先読み進めてはイケナイ。いや、読みすすめてもいいけれども『三国志』は出てこないからそのつもりでいるように。
前置きはこのくらいにしてちゃっちゃと紹介に移ろう。
疾風怒濤バカヤロ的中国歴史物の最初を飾るのは、誰がなんと言おうと孔子でなければならない。今そう決めたのだから仕方がないのである。その後何千年にもわたって中国本土はおろか朝鮮半島や島国日本までキビシく支配した儒教思想の親玉である。なんとなく「輝け!中国五千年思想家大賞」といった感じがワタクシ的にはあるのであった。孔子についての資料といえば、弟子が書き残した『論語』が量的には一番を誇るわけである。だから小説も孔子自身が主人公なのでなく、儒教教団の弟子を通して見たセンセーとしての孔子がどうしても多くなるのである。『孔子』(井上靖著:新潮文庫)は、語り手が自分で「名もない弟子」とか言い放って第二章になるまで誰が語っているのかすら分からないケッタロカ的不親切設定なのである。もっとも私はモノを知らない女であるから、語り手の名前が分かったところでサッパリ見当がつかないときているのだから不親切設定もヘッチャラなのであった。ここに出てくる孔子儒教集団は、とにかくヤケクソ的に陽気な人たちである。琴を持たせりゃすぐ歌うし、そもそも何もなくてもすぐ踊るのである。なにより孔子が「わかい」のが繰り返し語られる。「わかい」というのは「若い」でなく「稚い」のであって、本当にこれが『論語』の中で仁だ孝だとシカメツラシくムツカシげなことを言っているオヤジと同一人物かと激しく混乱するのである。
最初に思想家が出てきてしまったから次も思想家にしよう。『墨攻』(酒見賢一著:新潮文庫)は「ぜーったいにこっちからは攻めんけんね、でも攻めてくるならショーブしてやるぜオラオラ」と言う墨子の物語である。主人公は熱心な一信者で、ウスラ城主の求めに応じてたったひとりで城も人心もズタボロな国の防衛をする。そのナミダぐましい努力はいっそ見ていて気分がいいのだが、それはサーカスの綱渡りよりももっとアブナカシズムに満ちている。はたして城は最後の最後で内側から崩れてしまうのだが、その死のまぎわにも「ひとつ学んだぞ」と言いながら倒れる主人公の、ドンヨク的学びに一生奉げます的人生が奇妙に心地よかったりもするのである。南伸坊のホノボノ的カットもミスマッチの妙をかもし出していてヨイ。
守りにつかせたら無敵を誇る傭兵的戦闘集団墨子を相手にすさまじい戦いぶりを示した小説がある。『白起』(塚本史著:河出書房新社)がそれで、この白起という人は戦国時代の秦、つまり始皇帝が出てくる二世代くらい前の秦で活躍した武将でモノスゴク有名らしいのだが私はよく知らない。なぜこんな有名かというとですね、秦と趙が戦ったときに趙の降伏者(ここに大量の墨子集団も混じっている)四十万人を生き埋めにしてしまったという鬼畜的大量虐殺をしたらしいのですね。だからどちらかといえば「悪評高き」と言った方がフンイキ的にはピッタリ来るのである。そんなヒトをヒトとも思わないような所業がなぜできたかというと彼の頭の中で凡人はタダの粘土人形らしいのである。「オレは四十万人のヒトを殺したのでなくて、四十万個の粘土人形を土に戻しただけだ。モンクあっか」ということらしいのだからこっちとしては「いやはや、そうですかそうですか」となんだかよくわからないことをつぶやいてヒレ伏すしかないのである。そういう「オレ以外全部バカ」哲学を実践していく白起は当然ながらひどく孤独で
、なんだか最後まで安易な感情移入を許さないような鉄壁の守りがあるような気もする。
白起とほぼ同時代のヒトに孟嘗君田文がいる。『孟嘗君』(宮城谷昌光著:講談社文庫)は、タイトルロールの孟嘗君田文よりも、彼の育てのお父ちゃんの白圭の方が数倍目立つという、ちょっと変わった本である。なにしろ全五冊中の三冊で白圭がほとんど主役を張っているのだから本当の主人公が誰だったのかうっかり忘れそうになるのである。
白起がヒトを殺す天才とすれば田文はヒトを扱う天才というか、めったやたらといる食客、まぁ要するに居候ですね、それを抱えてヘーゼンと養っているあたりからしてなんだか一歩間違えればウサンクサさ爆発のフトコロの深さなのである。もし現代日本でそういうことをしたら、たちまちのうちに近所のオババから「なに、あのウチったら得体の知れないヒトがいっぱい出入りして、ひょっとして新手の宗教団体かしら」てなことになるのである。したがって孟嘗君は現代日本ではゼッタイに英雄にはなれない。それはいいのだけれど、この男は何か困った事態が起こると必ず養っていた食客が「実はワタクシこれこれこういう術が得意でして…」などとトツゼン言い出して、結局その食客の得意技によって助けてもらえるのである。この「実はワタクシ」のあたりが面白くてやがて腹立たしいのである。結局タダほど高いものはないというか、メシのお代はカラダで払ってもらうけんね的なケチっぽさを勝手に読み取ってしまうのだった。
その点でいえば、前半の主役だった白圭は格段にカッコイイのである。ちょっと立場がヤバくなると身分を変えたり名前を変えたり闇に潜んだりして自分の才覚でちゃっちゃとのしあがっていく。新聞連載中、白圭の人気がやたらと高くて困った、と作者が書いていたが、人気が高くて当然でしょうアナタ、と私などは激しくうなずくのであった。
中国大陸が一つの国に統一された後、あっちこっちの異民族と戦う方にエネルギーが向けられていく。ゾクに「東夷・西戎・南蛮・北狄」といわれているが、この方向以外の漢字はすべて「ケダモノ」という意味である。つまり漢民族というヒトたちはですね「わしら以外みーんな人間以下だかんね」とエバリくさっているのである。「てめェらいったい何サマなんだよォ、バカバカ」と言いたくなるような驚異的サベツ的根性丸出しなのだった。
「ケダモノ」のなかでももっとも縁が深いというか、しばしば漢民族を悩ませているのが匈奴とか韃靼とか言われる北の国の遊牧民族である。漢の時代に匈奴のもとに行ったまま帰ってこなかった漢民族有名人が二人いる。ひとりは李陵でもうひとりは王昭君だ。
『李陵』(中島敦著:角川mini文庫)の面白さは、タイトルロールの主人公と対照的なもうひとりの主人公司馬遷を出してきたところにある。直情型典型的脳ミソ筋肉質武将である李陵は、匈奴の捕虜になってそれなりに幸せに暮らしていたりもする。むしろ辛い思いをしているのは複雑系典型的知識人下っ端官僚の司馬遷なのである。司馬遷が宮刑(後宮に出入りできるようになる刑=宦官にされる刑)を受けたと聞いても、李陵の方では何も感じていないのだから司馬遷よシミジミ哀れなり、という感じなのである。近代日本で複雑系知識人を自覚していた中島敦が誰に感情移入して書いたかは、容易に想像がつくところではある。
王昭君は李陵よりも二世代くらい後のヒトで、漢の後宮にいた、まぁ、要するにですね、一度も皇帝の寝室にはべったことのない(らしい)女性なのですね。ある日漢と匈奴の和平のために…とかいって匈奴の単于(王様のようなエライ人)の妻になるように皇帝から命じられる。このヒトについてはホントーに昔からいろんな中国文学のネタになっていて京劇のネタにもなっているらしいがよくは知らない。遠い北の国で、漢に戻りたいわヨヨヨ…と泣き伏す柳腰の美女というのが基本なのだが、ちょっと待てと私は言いたいのである。王昭君が「薄幸の美人」だったという証拠はどこにもないのであって、あるいは美人でなかったかもしれず(まぁ後宮にいるくらいだから美人じゃないことはないだろうけれど、柳腰だったかどうかは知らない)、あるいは遠い祖国のことなんかチラリとも思い出さないくらい幸せだったかもしれず、「アンタらが王昭君を気の毒がるのはアンタらが北の国をサベツしてるなによりの証拠だろーよ、えェッ?」と言いたくなるのである。そのあたりのワタクシ的フマンをイッキに解消してくれたのが『王昭君』(
藤水名子著:講談社)である。中島敦の李陵が長いものに巻かれろ的に匈奴に馴染んでいったのに対し、ここに出てくる王昭君は「あたし、前からこーいうとこに憧れてたんですぅ」とハートをまき散らしながら馴染んでいるところがなんだかすごく変わっていて面白い。
京劇のネタにされているといえば『風よ、万里を翔けよ』(田中芳樹著:中央公論社)のヒロイン花木蘭も人気ネタらしい。ディズニーアニメの「ムーラン」と言った方が通りは良さそうだが、要するにまぁ、男装して参戦した美貌の女武者なのである。この物語では割と京劇に忠実で、従軍中に男同士として親友になった賀廷玉という男と結婚してハッピーエンド、ということになっている。花木蘭は九年間従軍していたらしいのだが、ナゼそんなに長い間バレなかったのだ!?とか男もニブすぎじゃないのか!?など、鋭く素朴に突っ込みたいところは山のようにあるのだが、とにかくハッピーエンドだからこれでヨイのだ。ということにしておこう。
ところで中国では、異民族差別もさることながら、女性差別も相当なものがあるのだ。この際だからそこのところをキチンと申し上げておきたい。
例えば中国は自己申告五千年も歴史があるクセに女帝はひとりしかいない。しかも諡号に「皇帝」と言う文字も使っていないうえに「女帝の時代はオンナに振り回された不幸な時代であることよ」などと嘆いているのだからケツの穴の小さいハナシなのである。
例えば中国で女性が後世に名を残そうと思ったら、すんげぇ美人かすんげぇ女傑でなければならない。さっきの花木蘭のホカにも女性の武将や武者はいっぱいいたそうだが、正史に名前の載っている女性の将軍は、後で紹介する秦良玉しかいないらしいのである。
このほかほじくりかえせばまだいろいろありそうだけれど、キリがなくなりそうだからこのへんでやめとく。ちゃっちゃと紹介しなければ終わらない。
さて、唯一の女帝である。『則天武后』(津本陽著:幻冬社)は登場人物の面白さだけでもっているような小説だが、シミジミと武則天がキノドクになってくるのである。下の方の身分から成り上がっていくのも、権力を盾に好き放題を尽くすのも、中国の皇帝たち、特に新しい王朝を立てたヒトたちがみんなやってきていることであるのに、同じことをオンナがやったらナゼああも一大ヒンシュクになってしまうのかと考えていくと、やっぱりそこはそれ、モロにサベツ的構造という高いカベにぶち当たってしまうのである。オンナであることと皇帝であることは、中国ではゼッタイに両立しない。したがって彼女の周囲にはこれでもかこれでもかというほど血が流れるのである。
ところで私は天下の大ボケ女であるから、うかつにも則天武后のマゴが玄宗皇帝であることを知らなかった。まして「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の安倍仲麻呂が玄宗皇帝の時代のヒトであることも知らなかった。日頃ホン読みを自認しておきながらこのていたらくでは、なんともお間抜けさんであるよ、と激しく反省したのである。『翔べ、麒麟』(辻原登著:読売新聞社)は玄宗皇帝の時代の長安を見事に生きた阿倍仲麻呂を描いた力作で、もう大声ですすめて回りたいくらいのいい本なのである。安録山の乱にからんだ安倍仲麻呂こと朝衛の大立ち回りがなんと言っても見どころなのであるが、狂言回しの日本人青年が、もう何と言うか大ボケアホアホ『坊ちゃん』的オッチョコチョイで「どうだ!」といわんばかりの第一級の青春小説になっているのである。
まがりなりにも「歴史小説」を特集しているのであるからまっとうなものだけ紹介していこうと思っていたのであるが、「どうせたくさん出しついでだ、さあさあこれも持ってけドロボー!」てなわけで変な本も出血大サービス的に紹介してしまうのである。『吃逆』(森福都著:講談社)は宋の時代の首都開封を舞台にした推理小説である。しかもタダの推理物ではなくて主人公は吃逆(しゃっくり)をするたびに不思議な光景が見える、つまり透視能力があるのですね。そこを見込まれてというかつけこまれて、かわら版の新聞記者から探偵役を押しつけられるという連作短編集なのである。ミステリーと中国歴史物の二兎を追いかけたらついに一兎も得られなかった型の欲求不満が残るヘンな本だが、それなりに面白かったから許そう。「しゃっくり←→透視能力」という設定がきっちり活かされている「綵楼歓門(さいろうかんもん)」が輝けワタクシ的お気に入りナンバー・ワンである。
このさいきっちり申し上げておきたいのだが、どうも私は漢民族よりも北方異民族の方々の方が好みに合うらしいのである。今回紹介文を書くにあたっては、まぁ自分で言うのも照れくさいけれど、まぁけっこういろいろ読んでいるわけですね。その中で「あ、なんか好きだ」というのがあるとですね、北方関係がダンゼン多いのですね。
『耶律楚材』(陳舜臣著:集英社文庫)など読んでいると、ああ、私はやっぱり北方民族系が好きなんだわ、とミーハーかつシミジミと納得したりもするのである。耶律楚材本人はモンゴル人でなく、西遼の仏教徒なのであるけれど、いわば外国人である彼を側近のブレーンとして取り扱うチンギス・ハーンがめったやたらとカッコイイのである。チンギス・ハーンについては同じ著者のまんまな本があったりするのだけれど、ここはやはりちょっとひねて同国人からもモンゴル人からも「裏切り者」呼ばわりされていた耶律楚材のひねくれ加減の面白さを取りたいのである。というよりは、外国人だろうと異教徒であろうと使えるものはなんでも使っちまえ風なんでもごった煮型ドンヨク的多民族国家を作っていかなければ中国大陸なんかゼッタイに統一なんかできなかったであろうモンゴル人のせっぱ詰まり加減などが透けて見えるあたりワタクシ的にマルなのである。
中国では女性の武者武将将軍といったヒトたちがどうもそんなに珍しくなかったらしいフシがある。彼女らの多くは夫と一緒に従軍していて女性であることを隠している様子がない。『風よ、万里を翔けよ』の花木蘭のように未婚の娘さんが男装した例なんかは帰って珍しい逆黄金パターンになっているようである。しかし彼女らはみんな講談(演義と言うのか)や伝説に名前と武勇伝を残すのみで、つまり人口に膾炙しているけれどもホントにいたかどうかははっきりしない夢のスーパーヒロインたちなのである。その中で唯一「正史」に名前を書いてもらえた女将軍が明末の秦良玉である。
なぜ彼女が正史で取り扱われているかというとですね、明の歴史書は清が編纂しているというあたりに注目していただきたいのである。清は北方異民族女真族の国であって、北方のヒトビトは「チカラのあるもんはとりあえず認めちゃるけんね」という意見のモチヌシなのである。オトコだろうとオンナだろうと強ければとりあえずエライのだ。ここにも使えるものは何でも使ってやるぞ的寛大さを見たのであった。といっても調べたわけではないから本当かどうかは知らない。しかし私がそうやって信じているのだからそれでヨイのだ。
話を戻して『女将軍伝』(井上祐美子著:徳間文庫)は骨ばった大柄なオババ将軍秦良玉の回想録といった風に語られる。彼女も例に漏れず夫と一緒に従軍したクチで、人生の半分以上を北方異民族と戦ってきたのを思い出しているのであるが、そこはそれ回想というカタチであるから枯れた味わいというかあまり血なまぐささがなく、サラサラとテンポよく読めるのがいいのである。
その秦良玉が戦った相手の方である女真族の方からの建国記『韃靼疾風録』(司馬遼太郎著:中公文庫)は言わずとしれたヌルハチとホンタイジなのであって、それを日本人庄助と妻のアビアが見ているというちょっと複雑な造りの物語である。アビアは日本に流れ着いた韃靼公主であるけれども自国に戻ってみれば罪人の一族で、彼女を送ってきた庄助もまたヌルハチのそばでは国賓扱いなのだけれど日本にいれば罪人でという複雑さはうーむさすがに並でないのである。一つの国家が滅びて新しい国家が興って安定するまでのダイナミックさときたらそりゃもうタイヘンなのであって、壮大に長い複雑な物語を語りつくしたのち、最後の一行がシミジミと胸にしみいるここちよさなのである。
清の時代になるといかな小説世界といえど中国だけでおさまっているわけにいかなくなってくる。宣教師にはじまって帝国主義列強諸国がつぎつぎと押し寄せてくるのである。それが中国にとってヨイことであったのかワルイことであったのかという問いかけは難しすぎて語り出すと止まらなくなりそうなのでやめておく。ただ、西洋人としてごくごく初期の段階に清帝国にやってきた宣教師たちにもタイヘンな苦労があったのだろうと同情するにとどめる。『カスティリオーネの庭』(中野美代子著:文藝春秋)は、清の乾隆帝に仕えて、やたらめったら複雑怪奇精緻精密機器のからくり噴水付き庭園や遠近法のある絵画や西洋式時計などを職人のように作り続けたイタリア人宣教師カスティリオーネ(郎世寧)の生涯を描いた不思議な息苦しさを持つ物語である。
北の大地から風とともに北京へやってきて漢民族が「ややや」などといっているうちに清帝国をぶちたててしまった彼らではあるけれども、北京に腰を据えてはや百年近くたった王朝はもはや頽廃のきざしを見せはじめて、なんだか風に見放されてしまったようにも見えるのである。未知の世界からやって来たカスティリオーネは、どんよりとよどんだ宮廷のなかで単なる珍奇なおもちゃに過ぎない。広い広い、とてつもなく広い国土の全員が皇帝ひとりにヒレ伏すお国柄なのである。皇帝は異常なほどのきまぐれで西洋人を振り回して平気な顔をしている。カスティリオーネにも言いたいことはたくさんあっただろうてうんうん、と思うのである。
さきほどからちょろちょろ「京劇のネタにされてて」という言葉が出てくるのであるが『燕京(ペキン)伶人抄』(皇なつき著:角川あすかコミックスDX)は清代の京劇事情を知るうえで便利な本である。皇なつきの絵は特筆モノで美しくてそれだけでも一見の価値はあるのであるが、京劇役者を通して清朝の北京の光景を点綴したシミジミと渋い物語である。「弐巻」にあたる『女児情』では、西洋風モダニズム的フェミニズム型結婚観に揺れながらなおも旧来の家制度に呑み込まれていくオトメ心などがほんのりと切なく描かれていて単なる京劇狂いの物語ではおさまらなくなっているのである。
その頃宮中には則天武后と並び称される極悪オババ西太后が「何かモンクあっか!」といわんばかりにふんぞり返っているのである。時代は清帝国の衰退をカクジツに決定的にしていくのであって、上海には外国の租界がたくさんできて北京には外国人がたくさんすみついて無軌道型のさばり放題的デカイ顔をしているのである。『珍妃の井戸』(浅田次郎著:講談社)はそういう状況下の近代中国版「薮の中」ともいうべき謎解きミステリタッチの秀作である。探偵役をつとめるのが列強諸国の貴族階級の野郎四人というのも面白いし、それぞれの貴族たちがそれぞれのお国柄を端的に示すような性格をしているのもいかにも浅田次郎っぽいキャラクター造形になっている。彼らが行く先々で拾い集める証言の数々はいちいちハゲしく食い違って、いかにも中国自称五千年のワケワカメイズムに満ちているのである。「泣かせの浅田次郎」ならではのお涙ちょうだいもてんこ盛りであるが、ようやくたどりついた結末は日本人にとってけっこう痛い。
日中戦争直前の上海を舞台にした『南京路に花吹雪』(森川久美著:白泉社文庫)は絵柄からか題名からかはたまた「オトコ二人の友情」といういまどききしょいテーマ性からか、ナゼか耽美に読み間違えられるという悲劇性をそなえたハードボイルド系アクション少女漫画である。物語の導入部はミステリタッチで探偵役は硬派バリバリ人徳刑事型正義の新聞記者本郷とナゾの中国人セーネン黄子満のふたりがつとめている。この黄セーネンはジツは日本人と中国人のハーフであって、それが物語にフクザツに陰影を与えているのである。「反発しながら心のどこかで全面的に信頼しあっている二人のオトコ」というテーマは森川久美がよく出しているモティーフなのであるが、何はともあれとりあえずヒトの心など否応なしに呑み込んでいく時代の暗さのようなものを描ききったモンクなしの力作なのである。
「東洋の魔都」と呼ばれた上海を飛び跳ねるように生きて、やがて戦争に呑み込まれつぶされてしまったノーテンキ野郎アホあほケーハクカナシズムに満ちているのが『上海バンスキング』(斎藤憐著:而立書房)である。もともと自由劇場の吉田日出子のために書かれたような脚本ではあるのだが過去に舞台を観た頭で改めて文字で読むと、やはりマドンナの台詞を吉田日出子の声音で読んでいる自分に気がついて「うむむ」とうなってしまった。好き放題に面白オカシク生き抜いたアホあほジャズメンはそりゃ人生楽しくてよかっただろうが、その面倒を見る女性たちの胸中はどんなだったのであろう、マドンナは何を思って「悪い夢見てるのよ私たち」とつぶやくのか、それを思うと「ヤイコラ、シロー!胸に手を当ててよーく反省しなさい!」パンパン!と往復ビンタのひとつやふたつくらいかまして叱り飛ばしてやりたくなるのであるが、現実にシローみたいなオトコがいたら、私などはコロリとだまされていそうなクチだからあまりエラそうなことは言えない。
一方で、この不穏な時代の上海の国際的混沌アヤシズムだけを抽出して、見事に愉快的上質ミステリに仕立て上げてあるのが『『吾輩は猫である』殺人事件』(奥泉光著:新潮文庫)である。ここで跳ね回っているのは実は人間でなく猫なのであって、かの漱石千円札大人の名著『吾輩は猫である』の主役を張った名無しの猫が探偵役をつとめている。殺されたのはなんと苦沙弥先生で、名無し猫は列強各国の猫たちの力を借り、ついでに『吾輩は猫である』の文体まで借りて、苦沙弥先生殺しの下手人をアゲようと上海の街をトコロせましと駆け回るのである。もう少しで犯人がぁっ!というところでふたたび暗転して終わってしまうのもまたミソなのである。
さて、駆け足でドドドと中国自称五千年の歴史を本でたどってみたのであるが、トリを飾るのは『シャンハイムーン』(井上ひさし著:集英社)の魯迅先生である。実在の人物を評伝式喜劇に仕立て上げた本の虫井上ひさしならではの傑作である。ここに出てくる魯迅は小市民的臆病自虐嗜好方生真面目医者嫌いの愛すべき、しかし一緒にいると疲れる人柄である。自虐的内省のやりすぎで人物誤認症などというなんだか妙ちきりんな心身症になって、そのついでに失語症にまでおちいるあたりは爆笑の連続であるが、物語は面白うてやがて悲しく、終幕はナミダなしには語れないほどの感動の渦である。一度舞台で観てみたいのであった。
こんなにも長い長い紹介文を書こうとして律義にいろいろ読んでいたらすっかりアタマが中国になってしまった。さすがに疲れてそろそろ日本に戻りたくなっているのである。