現在、飯田線の主力車両として活躍中の電車で、'82年(昭和57年)から製造され、翌'83年(昭和58年)2月より使用を開始、同年7月には飯田線に残っていた旧形国電を一掃し、飯田線の近代化に一役を買った車両
119系近郊型電車は、国鉄で2番目の1M方式・新性能電車として制作され(但し、郵便・荷物電車を除く)、車体構造は最初の1M方式電車・105系に準じ、座席は飯田線の運転条件を鑑みセミクロス・シートとし、耐寒装備、抑速ブレーキを付加、主電動機・制御装置は103系と同じMT55系を、駅間距離が短く線内の最高制限速度が低い飯田線の線路環境に合わせて永久直列制御で使用、低トンネル区間対策としてPS23を載せ、艤装品類は当時の国鉄の事情を反映し、扇風機、電動発電機(MG)は103・113系冷房改造にともなう余剰品を再利用し、クハ118の台車は101系の廃車発生品のDT21T型が使用されている。
田切〜伊那福岡間 '84.08.25 TM
また塗装工程の省略から、先に作られた身延線用の115系2000番代車と同様に、単色塗装の上にカラーテープを貼るという方法が採られた。しかしテープであるが故、乗客が故意にテープを剥がす等のいたずらが続発し、後にテープの粘着力を強めるなどの対策が行われたが(「飯田線色」と呼ばれる。[蒼(青)い飯田線]参照)末期には帯部分も塗装化とされた。
119系誕生と前後し、クモユニ147形式が101系電車から改造され、'83年(昭和58年)6月から使用された。しかし、'85年(昭和60年)3月、飯田線荷物列車運用の廃止で大垣区に転属し飯田線運用から撤退。また翌年'86年(61年)10月には鉄道荷物輸送の廃止により用途がなくなり、全車が静岡区に転属し身延線区間運転用の単行電車クモハ123-40番代に改造され形式消滅した。
'86年(昭和61年)東海道線・静岡地区区間運転列車「するがシャトル」用に2両編成×8本が飯田線から撤退、追って'88年(昭和63年)に3両編成(Mc-Mc-T'c)の中間に封じ込まれたクモハ119・9両が単行運転用に両運転台化改造がされ、クモハ119-100番代となった。のち、「するがシャトル」用車も全車飯田線に戻り、'90年(平成2年)頃からJR東海のCIにより、順次「JR東海色」に塗装変更され、現在に至る。なお、元「するが〜」車のパンタグラフはPS16パンタグラフに変更。
クモハ119-100番代 '89.01.16
平岡 TM
冷房改造は、「するがシャトル」用の16両は塗装変更と同時に冷房改造が順次行われ(一部非冷房のまま出場、のち冷房化)、改造法はAU75型集中型冷房装置を載せる方式で、電源用MGは特急電車の食堂車廃車発生品から流用した。
飯田線に残留した119系も'89年(平成元年)度から冷房改造が行われ、従来の方式に比べ、省エネ・低コストのインバータ・クーラーAU711を採用した。同方式は従来方式では電源確保が不可能な単行用クモハ119-100にも冷房化が可能となり、全119系が冷房改造を完了した。なお、インバータ・クーラー改造車は従来の番号+5000番となっている。それと同時に、上下段上昇式のユニット窓の下段固定化も施行された。
JR東海色化・冷房改造が一段落後、しばらくは119系に大きな変化はなかったが、1999年12月に突如、乗降客ドア開閉ボタン化改造車が登場の予告、同月中旬に実際に運転が開始された。しかも、ドア・ボタン化改造だけではなく、車外スピーカー設置、整理券発行機や運賃表示器等機器の設置準備工事が行われており、「ワンマン化」を前提としたものとなっている。車番は従来番号に+300を加えたもので、今のところ2両編成のインバータ冷改車のみが対象なので、結果的には5300番代という分類になる(Special
Thanks to ■飯田線 魅力発見
談話室■に関連記載をされた方々、画像は「JR東海色の119」参照)。2001年3月3日ダイヤ改正より、上記改造車により飯田〜辰野間の一部列車でワンマン運転が施行開始がされている。しかし、在来車の運転も行われているので、ドアの開閉から始まり、乗降位置、料金精算方法など乗客の混乱も見られる。最近のJR東海は新車投入サイクルが早くなっているので、新製から20年近く経つ119系に、これだけの投資をして、予備車もほとんどない現状のワンマン運転にはサービス低下などの営業面を含め疑問が残る。
JR東海発足以来、静岡運転所所属であった119系は、'02年(平成14年)3月23日付で大垣区所属と変更となり、定期検査などでの回送は、静岡区から大垣区へ変更となり、名古屋方面に顔を出す事が多くなった。車体の所属標記も静シスから海カキへ、また、一部編成番号も変更を受け、i1→E1、i2→E2…となり、ワンマン化により欠番であったi8〜i14はi15→E8、i16→E9、…と番号をそのまま上に詰め、i24→E17となっている。
永らく大きな動きを見せなかった119系も、思わぬ事件が発生した。2004年(平成16年)10月20日22時50分頃、飯田線羽場〜伊那新町間において台風23号の接近により線路近くの川が増水し、路盤が弛んでいたところに普通列車が乗り上げ、2両編成の下り普通列車が脱線転覆する事故が発生、車両は2両とも築堤より数メートル下の水田へ転落、乗客3名・運転士1名の計4名が軽傷を負い、使用されていた119系R4編成(クモハ119 ー5324+クハ118-5316)が大破した。
この事故によりR4編成が運用離脱となり、ワンマン車所要両数が不足するため、新たにE3編成クモハ119-5005+クハ118-5003を2005年9月17日付でワンマン化改造を行ってクモハ119-5305+クハ118-5303とし、新たにR8編成として使用開始をしをしている。
事故後しばらくの間、R4編成はJR東海浜松工場の構内に冷房、窓枠などの一部艤装を撤去された状態での留置が続いたが、2006年(平成18年)3月28日付廃車となり、新製から幾多の改造などを経たものの、1両の離脱・廃車もなかった119系に初の廃車が発生する事となった。
2008年以降、O番台(元「するが〜」車)のパンタグラフがそれまで使用されていたPS16から新製時と同じPS23への載せ替えが行われたが、これは時期から見て同時期に全廃されたJR東海の115系電車廃車発生品を利用したものと思われる。
2009年8月、中部天竜にある佐久間レールパーク閉園イベントの一環として、以前からファンの間から要望の高かった119系の登場時塗装化が行われ、E4編成が青に白帯のいわゆる飯田線色への塗装変更化がされた。但し、床下機器・台車回りJR東海の標準である灰色塗装のままで黒くされず、オリジナルとは若干印象が異なる。

119系復活飯田線色 '09.9.11 三河一宮〜豊川 TM
119系が製造から丁度30年となる2012年、3月17日に行われたダイヤ改正を前にした16日を最後に、以前からのJR東海のアナウンス通り、119系の定期運用が終了する事になった。(実際には3月31日に臨時運用に入ったものが最後の営業運用だった模様<情報提供…おぱさん>)
飯田線での運用開始からはギリギリ30年には満たなかったが、分割・民営など激動の国鉄時代末期・超緊縮財政の最中にリサイクル部品を活用し製造された、飯田線専用車種としては(国有化以降)唯一の車両でした。
後継車は、東海道線・中部地区で運用されていた213系を飯田線向けにトイレ取付などを施したものと、以前から徐々に勢力を広げていた313系となりステンレス車体が眩しい、大都市圏の車両と同じような光景となってしまいますが、どのような感じで飯田線の光景と馴染んで行くのかが興味深いところです。
引退した119系は一旦、JR東海・浜松工場のある西浜松に集結し、一部車両は1M式車両として貴重な存在なため、地方私鉄に譲渡されるものがあるようです。近日中にはその姿を見る事が出来ると思いますので、新天地での活躍も期待したいものです。
※番外編・ちょっと珍しい画像
上掲の画像は中央西線の寝覚ノ床付近ですが、橋梁上の車両を良く見ると通常この区間を走行する事はない119系電車で、'09年7月末に発生した落石事故で天竜峡〜平岡間が不通となり、飯田線北部で封じ込めとなった車両の検査入場をさせるため、中央西線経由で大垣車両区へ検査に向かう回送列車。通常使われる東海道線経由での回送が不可能だったための措置で、翌月12日には復旧となったため、極短期間だけで、しかも検査入場という一般に知られる事がほとんど無いという事で、珍しい光景となった。 '09.08.11 中央西線・寝覚の床付近 MY