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 ある「飢餓」の存在を推測する  投稿者:益野大成  投稿日: 9月29日(土)09時20分22秒
 益野です。こちらのHPに転載されたいしづかさんの文章を拝読しました。多少の考えを述べます。

 まずいしづかさんの主張についてはほぼ全面的に正しいと私は思います。穏当かつ行き届いた考察が、穏当かつ行き届いた表現でなされていると思います。時々「そうも言い切れないのでは?」という部分もありましたが、それは文章の主旨を理解させるための効果的な強調によるものであって、偏った視点であるとは思いませんでした。

 しかし、私自身は、どちらかというと新しい音楽が「分からない」者です。その立場から一言。

 まず第一に「響きが新しい(耳になじまない)」上に「傑作は1割かもしれない」音楽を聴くのはツライ。という点があります。芸術の守護者を任じていた貴族(パトロン)でもなければ、それでメシを食っている批評家でもない、単に音楽を享受したい者(つまりユーザーというか消費者)がほとんどの現代の聴衆にとって、これはきつい状況であることは間違いない。「甘い!」と一喝されようが、「芸術発展のための苦行」はちょっとカンベンして欲しい人は多いでしょう。仕事で聴いてる訳じゃないですから。
 第二に、一方で「苦行的投資はまっぴら」と言いつつ、新しい音楽に積極的にコミットする(「分かる」「感動する」と発言する)人々に対する嫉視、さらには劣等感の裏返しとしての反発を持つ人も実際問題として存在するでしょう。私にしても、いっときの感情としてそのような気分を持つことはないとは言いません。

 新しい美が登場した当初、それを理解できない人が居るのは仕方がないと思います。このギャップは完全に無くすことは出来ないと思いますが、ある程度埋めることは出来ます。その埋める作業をするのが「批評家」「ジャーナリズム」なのですが、どうもうまく機能していないように思えます。かの朝比奈翁はブルックナー演奏を嫌がる演奏家の面々に「ホラ、この部分、シューベルトに似ているだろう?」などと言って既成美意識との橋渡しに務めたそうですが、そのような親切な(センスのある)批評・誘導がまだ十分でない、またはあっても大きな勢力たり得ていないと感じます。それどころか、いしづかさん御指摘のような、後ろ向きの「反現代音楽」的な批評も登場している。

 もちろんそれら「反現代音楽」批評にも根拠はあると私は思っています。恐らく1950〜70年代はじめ頃までの「進歩史観」的な風潮。「分からない奴はおくれているんだ」といった不親切で傲慢窮まりない態度。あるいは旧来的なものに対する嘲笑には、皆ひそかに疑問と憤懣を持っていたのではないでしょうか? あるいはそのような尊大なことを実際に言う者は居なかったかもしれませんが、しかしあの時代、多くの人は「分からない」事を公言できず、ある者は「分からない」からこそ高く評価さえし、自分が「遅れている」者ではないことをとにかく示そうとしたり、またある者は「自分のような者には分からない」とひそかに思い、卑下的に諦めていた。その劣等感の記憶が今更のようにうずくのかもしれません。また、けなされた「遅れている」人達の恨みもあるでしょう。
(でも、私は無調だの12音だのはやっぱりあの暗さがイヤな感じ(笑)、もう充分古い音楽ですが、あれらの作品がネックだな)




話が少しそれました。それでその「反現代音楽」の批評なのですが、論理として破綻しているのは明らかであっても、それに快哉を叫ぶ者があるのはなぜか。そこを考える必要があると思います。

 私自身、自分の音楽経歴を振り返ってみて、最初は「退屈」「分からない」と思ったものが後には素晴らしいと分かるようになった、という体験を有しています。恐らく普通のクラシックファンなら皆そういう経験を持っているのでは? と思います(たとえば子供の頃コンサートでベートーヴェンを聴いて退屈で寝てしまったとか)。これを演繹して、「たいていのクラシックファンは、良い作品を知るためには多少の我慢はしようと思っている」としてみましょう。

 しかしながら、ベートーヴェンとロックの距離より、ベートーヴェンとクセナキスの距離の方が遠いのではないでしょうか? そしてその遠さゆえ、ちょっとやそっとの我慢では「理解」や「感動」に到達できそうにない。つまりそれくらい耳新しい(響きとして新しい)というか、なまじ音響に対する一定の評価体系を有しているだけに、かえって異様な響きとしか聞こえない面があると思います。
 つまり、努力する気はないでもないが、それにしても今まで聴いてきた音楽とかけ離れすぎている。誘導(前述の「批評」「ジャーナリズム」)もかつてのクラシック啓蒙ほどは熱心じゃない。

 「私だって、ベートーヴェンの展開くらいは分かる」「主題の循環くらいは楽しめる」という層が、実は置き去りになっているのではないか。彼らだって、内心では同時代の清新な音楽を聴きたいのだが、彼らの美意識に対応する作品は少ない、または「保守的」というあまり有り難くないレッテルを貼られてしまっているので、聴くのに二の足を踏んでしまう。結果彼らの不満(エネルギー)は鬱積し、ついに正しい出口が与えられないまま短絡的噴出に達してしまった(ちょうど原理主義テロのように)。それが「反現代音楽」の批評なのではないかと思います。テロは認められないが、その背景は大いに考える必要があるのと同じく、批評自体にはうなずけないが、その批評を成立せしめているエネルギーの存在は認めるべきでしょう。

 以上は、あるいは間違った推測かもしれません。だいたいが在来クラシックを好む層は保守的で、新しい音楽を求める潜在的エネルギーなど、彼らにはハナから存在しないのかもしれません。そもそも「これは意義がある、もしかしたら後世にも残る」と思った作品を集めてコンサートを開いても、客は60人くらいしか来ない(それも最高で)。という企画を繰り返す“一般の人とかけ離れた”男(私のことです)が、自分の心理を観察して得たこのような考え方に、どのくらいの説得力があるものか、怪しいのは当人も十分承知しております。

 それでももうちょっとおつきあい下さい。




 在来のクラシック音楽には親しんでいるが、新しい音楽にはなじめない人々。彼らには行き場が無いのではないか? 置き去りにされているのではないか? 

 これが正しい事態の把握であるとすれば、2つのことが言えると思います。

 一つは、新しい音楽に対する鑑賞の手引き(曲の厳選も)がもっと懇切になされること(ちょうどバーンスタインが子供達にクラシック案内のコンサートを頻繁に開いたように)。
 そうしてもう一つは、従来のクラシック音楽に親しんでいてかつ新しい音楽になじめない層の「飢餓」を知ることです。これが商業世界の話なら、「ここに一つの“市場”(あまり大きくはないが)が存在している」となるはずです。吉松氏の主張は(そのロジックは別にして)芸術家のスタンスとしては間違っていないと思います。彼はこの層の飢餓(市場)を狙っているのでしょう。問題は、作品がついていってないことだけだと思います。少なくとも(私は一回しか聴いてないですが)彼の交響曲はあまりたいしたものと感じなかった。

 確かに私たちは「飢餓」を持っているが、それは生半可なレベルの作品では満たされないのです。(しかし、吉松氏の交響曲については、また聴くとその良さが発見できるかもしれない。つまり現代音楽一般に対するスタンスと同じものを私は彼の作品に対しても持っていることを付言します)。

 実はグレインジャーや吹奏楽といった音楽(ジャンル)に対して、またはミニマル音楽に対して、私は上の飢餓を満たす“何か”を薄々ながら感じているのです。いしづかさんの仰るとおり「良い音楽は、初めてそれに触れる人々にも感動を与えるはず」では必ずしもないのですが、逆に「初めてそれに触れる人々に感動を与える」タイプの曲は名曲じゃないという定義も成立しないでしょう。作曲家の全存在をかけたが如くの作品は増える一方ですが、その重苦しさ。完成度を高めれば高めるほど作品の取っつきが悪くなるというのは芸術の抱えるジレンマですが、それにしても、質の高い軽いものに全存在をかける人はいないか。高度のB級作曲家というか…。私としては“初めてそれに触れる人々にも感動を与える”という側面を「パッと分かる」というふうに言い換えて考えています。“感動を与える”よりはもう少し先鋭的なイメージ。多くの人に即効的に訴える“鮮やかさ”。




 真面目詩人の典型とも見える杜甫がこんな言葉を残しています。 「私は今まで、どうやって人が驚く詩句を作るかということに腐心し続けてきた」 ケレン味のないイメージを持っていた人が実はケレンを追求していた。私にとって、実に意外の言葉でしたが、それだけにこの大芸術家の一面を活写した、いやそれ以上の深さを持つ言葉だと思います。
 彼は詩史に残る革新を成し遂げつつ、即効性を持つ表現にもこだわり続けていた。“人が驚く詩句”とは、“パッと分かる表現”と全く同じではありませんが、通じる部分を多量に持つように思います。そして“パッと分かる”分かりやすさのそばには“娯楽性”という概念もあるように思います。今年の5月、札幌でNAPPさんとお話しできたときに、期せずして「メロディー」の話が出ましたが、あの時「つかみ」といった言葉を出しながら話したのはこのことです。

 「個性的であればあるほど、皆が引きつけられるのだ」とか「完成されたものほど皆にわかりやすいのだ」と豪語する芸術家を時に夢想します。それは近代啓蒙主義(理性の共通性を信じた時代)に特有の存在に過ぎなかったのでしょうか。あるいは大衆社会に浸りきった私たち安易な受け手の身勝手な願望でしょうか。

 私は難しいもの(高度に個性的、かつ完成度の高いもの)を目指す芸術家を否定する気は更々ありません。そういう芸術も理解したいです。ただ私は口だけ達者な偽物と後世に残るべき本物を見分ける目が育っていないので、どなたかの御教示を望みます。

 と同時に、「低い層にも高い層にも強力にアピールする芸術」のことを、最近よく考えます。それはたとえばクラシックではベートーヴェンがそうであり、ポピュラーではビートルズ、畑違いですが宗教ではイエスや親鸞がその典型でしょう(反対に高い層に軸足がかかりがちなのは仏陀の悟り)。

 広く大多数に浸透するタイプの芸術と、そうでない芸術。この2つに単純な優劣など付けようもありません。カントの『純粋理性批判』と、ベストセラー小説とどっちが素晴らしいかという比較と同じです。存在意義と支持者数は常に比例するとは限りませんが、同時に、支持者数の多いものには多いものなりの理由と意義があるのも確かです。その時代の多数を喜ばせた事は、それはそれで有意義です。
 考えてみればベートーヴェンの後期弦楽四重奏と「ナントカ綺想曲」の類とを同じクラシック音楽で一括りにしてきたこと自体、驚くべき事ではないでしょうか? 方向がまるで違うのです。難解な哲学書、大河小説、先鋭な詩、パズルのような推理小説、ひねりの利いたエッセイ、お気楽な駄文体…どれにも可能性があり、共存できるわけです。音楽でも(今までそうだったように)B級と見られがちな娯楽性の強い作品にスタンスをおきながらA級の牙城に迫る者は居ないのか? そういうことは、もはやポピュラー音楽の専門芸であって、クラシックでは無理なのか? 逆にA級であっても常にある種の「分かりやすさ」を意識し、突き詰めてゆく者はいないのか? 特殊であることがそのまま多数へのアピールと化すタイプの者は居ないのか。
 むろん私は現在の、というより20世紀の音楽にすら疎い者なので、そういう人を知らないだけかもしれません。ご紹介があれば、喜んで聴きたいと思っております。




 最後は、ごく個人的な見解を書きます

 個人的には「大衆性と個性・完成度の両立」という分野の需要(飢餓)を20世紀に満たしていたのは、民族音楽系の作曲家であったのでは? と思っています。代用的ではありますがね。そしてそれは、ミニマルの大きな根の一つになったのではないかと思います。私の大好きな『タブー・タブハン』(マクフィー)を聴く度にそう思います。白日の下の暗黒、渦巻くが如くの陶酔的ヴァイタリティー!
 益野的には『タブー・タブハン』と同じか、もう少し前にヴィラ=ロボス(あんまり聴いてませんけど)と伊福部昭。横方向に少し距離を開けてグレインジャー(速いパッサカリアも書いてます)。さかのぼって『ボレロ』(ラヴェル)、更にさかのぼってブルックナー(ゼグエンツ=繰り返し)というところでしょうか。
 クラシックリスナーの中には「ブルックナーの、あの繰り返しがイヤだ」という声も根強いようで、「あれでイヤならその先は大変だろうな」などと余計なことを思ったりします(もちろん個人の嗜好について指図めいたことを言うべきでないことはわきまえております。単なる個人的感想です)。民族系が落ち着いてしまったようにも思える今日この頃、この分野を満たした人としてはひと頃のペルト(多くの人が言うようにグレゴリオ聖歌との類似性を感じる)、それからピアソラですか。

 難しいことを書く人は難しい故に冷遇されることがあるかもしれませんが、易しいことを書く人だって易しい故に大きく扱われないことが多々ある。難しいものが“分かる””ためには新しい感性や視点が必要ですが、易しいものを高く評価するためにも、やはり新しい感性と視点が必要です(ライトミュージックとしか呼べない作品が多いグレインジャーを好むようになってから特にそう思う)。

 正直、音楽理解のためにじっくりいろいろ聴いてみたいですが、時間も金も限られております。難しいもの、易しいもの、とにかく良いものをいろいろ聴きたいです。変な先入観を持たせるような批評はよくないです。入りやすくさせてくれる批評がもっと盛んになって欲しいですね。

 以上、音楽や創作(私の場合下手な詩ですけど)を通じてここ数年頭の中にあった“大衆性”とか“難解”についての考えを、いしづかさんの文章を読ませていただいたことをきっかけに書かせて頂きました。

うぅ 投稿者:NAPP  投稿日: 9月23日(日)18時31分53秒
 忙殺されていてレスができませんでした。ごめんなさいです。金曜には臨時のレッスンが入り、結局パーカーのライブには出かけられず。残念です。(今日のもちと無理っぽい)。悔しかったので、デレク・ベイリーのCDを一枚買いました(あんまり関係ないか)。 最近は何かとやることが多く、大変です(泣)

>ホルンオヤジさん
>武雄高校のご出身とか、そういえば数年前、吹奏楽コンクールで、学生指揮で、武雄高校が
>出場したことがあったような気がしますが、そのときの指揮者ですか?

 はじめまして!これを御存じということは、佐賀県のかたですね。ちなみに、私はあのときの指揮者ではないです。彼は同級生ですが。あのコンクールは音大の夏期講習会に重なっていたので私は出場していません。

>原曲のイメージを崩さず、さらに吹奏楽の特性を生かした編曲はなかなか難しいと感じて
>いました。

 編曲に関しては色々難しい問題があるのですが、いっそのこと「原曲のイメージ」という呪縛から解放されて全くベツモノのようなものを創るのも面白いですよ。当然そこにはセンスというものが要求されるのですが。


>藤掛廣幸関連
>ここに、作品目録があるのですが、「青春賛歌」というのは入っていないですね
 BJ別冊84には記載のある作品ですね。これによると楽譜は委嘱者所有となっているので何らかの事情で目録から外されているのかもしれませんね。1976年作で演奏時間5分。マーチだそうです。日本吹奏楽指導者協会が1976年に出した作品目録にはギリギリ載っていないみたいです。
 そうそう、以前「BJ別冊には作品リストに書いた以上のことは載っていない」と書いてしまいましたが、あとで確認したら「シャコンヌ」と「ノスタルジック・ラプソディ」の楽譜出版元が書いてありましたね。失礼。氏のサイトにも書いてあるのと同じですが。

 「現代日本のオーケストラ音楽」という演奏会は私は毎年聴きに行っているのですが、一般には「振興財団作曲賞」といったほうが通りがいいかな。演奏会というよりは審査会といった趣が強い。昔は招待作品も今みたいに1曲ではなかったんですけれどね。ちょっと選考が保守的(笑)。
 藤掛氏には「縄文詩」という管弦楽曲があるのですが、これ、エリザベト国際作曲賞を受賞しています。私はこっちも聴いてみたいです。ヨーロッパでの初演の後、1977年に東京シティフィルによって日本初演されているはずです(私は生まれてないなぁ)。しかし、どうして藤掛氏は作品リストから管弦楽作品を外してしまったのだろう?

>作曲の方には、一つの作品を書き上げるとき、同時にいろいろな、編成を予定して書かれる
>ことあるんでしょうか。

 人それぞれですね。私は曲を書く時にまず「この編成でしかできないことは何だろう」ということを考え、それに基づく楽案を立てますので、「どの編成でやってもいいよ」という作曲態度にはとても否定的なのですが。色んな人に演奏してほしい、というのは分からんでもないのだけれど、やっぱりせっかくの媒体の特性は生かしたいと思うのです。 で、会場などやその時によって音の違いがあらわれる、というのは演奏者や指揮者の解釈に委ねたいものですね。演奏というのは百回やったら百回とも違う結果になるのは当たり前なんです。と、あくまでも個人的な考えです。

>ある編成用に、書き上げた作品が、どれくらいの時間で、書き換えることが可能なので
>しようか。

 曲の性質にもよりますね。通常の奏法のみによって書かれた作品よりも、ある特定楽器にしか出来ないことが含まれている作品のほうがはるかに困難です。例えば「弦楽器のハーモニクストレモロでグリッサンド」とかある作品を吹奏楽にしろ、なんて言われたら寝込んでしまいます。あと、拡大編曲は簡単でも縮小編曲は概して難しいように思います。極端な場合はまた話が違いますが。

>オペラなんて、大変だと思うのですが。 なにか、例ありますか。

 有名なところではMozartのオペラはHarmoniemusik用に改編されたものが多数残っていますし、現在でも音源は簡単に入手できます。「コシ・ファン・テュッテ」や「魔笛」が有名ですね。
 
>以前、聴いたことなのですが、池辺晋一郎氏のことを何かの本で読んだことがあるのですが。

 オペラは少ないですが、カンタータにはそうした例が多数ありますね。まぁ、これはもともとピアノ伴奏だったのを管弦楽と吹奏楽の三者に書き換えたわけですから、そんなに特殊なものではないです(同様のことは他の作家にも多くの例があります)。池辺先生は現在オペラを二曲同時進行で作曲中なのだとか。つい先日はカンタータの新作が初演されたばっかりのはずだし、この先生はやっぱり特殊かなぁ。不肖の弟子にはそんな才能ないです(笑)


 ヤナーチェクの「左手ピアノとウインドアンサンブルのためのカプリツィオ」のCDを入手。この場合の「ウインドアンサンブル」というのは金管合奏+Flのことを指すのですが、なかなか面白い曲でした。このCDにはヒンデミット「ピアノと金管群とハープのための演奏会音楽」op.49も入っていて、こちらもなかなかでした。
 Nimbus Records NI 5103 「Hindemith・Janacek・Vackar」

 CDといえばフサ「プラハのための音楽1968」の管弦楽版のCDも手に入れたのだけど、こっちの感想はCD紹介のコーナーにそのうち吹奏楽版とあわせて書きたいと思います。ちょうどトランスクリプションの結果を考察するのにちょうどいい題材だし。でも、いつ?

 指揮者で東京音大講師でもあった松本紀久雄先生が9月はじめ頃に癌のため亡くなりました。まだ若い先生だったのですが・・・・・ 私も集団授業ではありましたが指揮を習いました。私にとって最初に指揮法を習った先生です。御冥福をお祈りいたします。

春の詩のこと他いろいろ。 投稿者:後藤  投稿日: 9月17日(月)21時59分39秒
 青春賛歌、岐阜北高等学校の委託作品だそうですが。
 私、一度聞いたことがなく、探しているのです。 
 
「春の詩」は、1990年6月6日水曜日、現代日本のオーケストラ音楽 第14飼演奏会、 外山雄三氏指揮東京交響楽団によって初演されています。
 主催は、日本交響楽団振興財団とありました。
 初演は、私岐阜から見に行きました。
 この曲の、原曲は、イタリアのコンクールに出されたそうです。
 同時に、マンドリン作品の構想もお考えで、広島専修大学が委託初演した、 「春の賛歌」という、作品ができあがったそうです。
 大編成のオーケストラ作品とし考えられていたそうです。
 「春の賛歌」という、マンドリンの作品がありますが。
 この作品が、生まれかわったものなのかしら・・・。
 
 マンドリン関係の方にには、「春の賛歌」が先か、「春の詩」が先かという話題があるそうですが、どちらも、同時進行でできあがったみたいですね。
 作曲の方には、一つの作品を書き上げるとき、同時にいろいろな、編成を予定して書かれることあるんでしょうか。

 藤掛先生の場合、ソロコンサートで、シンセサイザーを使われています。
 会場会場で、音の使い方、また、お客さんのメンバー等を考えて、同じ曲でも、
 「アレンジを会場でよお代えになることがあります。」 
 多分、先生がお好きな曲だろうなというものは、いろんなバージョンになります。

 そういえば、以前私、外山雄三さんの「ラプソデー」にはまっていたときがありました。
 打楽器の使い方が、オーケストラ、オーケストラによつてちがってました。
 また、同じオケでも、また、違うことかたびたび。
 それを聞くのが、楽しみでした。

 ある編成用に、書き上げた作品が、どれくらいの時間で、書き換えることが可能なのでしようか。
 オペラなんて、大変だと思うのですが。 なにか、例ありますか。 
 以前、聴いたことなのですが、池辺晋一郎氏のことを何かの本で読んだことがあるのですが。
 どなたか、教えてください。

藤掛廣幸氏のHP 投稿者:S.O.  投稿日: 9月17日(月)14時25分26秒
http://www2u.biglobe.ne.jp/~muse-f/index.htm
ここに、作品目録があるのですが、「青春賛歌」というのは入っていないですね。

個人的には、10年くらい前に何かの作曲コンクールに入選した管弦楽の「春の歌」?とかいう作品が好きです。作曲賞を取ったのは鈴木行一氏のゲンダイオンガク風の作品だったと思うのですが、私には、藤掛氏のロマンティックな作品がとても気に入ったのです。

はじめまして。 投稿者:ホルンオヤジ  投稿日: 9月16日(日)19時40分30秒
はじめまして、ホルンオヤジと申します。題名に「鳳凰」がつく曲を探していてたどり着きました。
データの豊富さや高度な音楽論に敬服します。武雄高校のご出身とか、そういえば数年前、吹奏楽コンクールで、学生指揮で、武雄高校が出場したことがあったような気がしますが、そのときの指揮者ですか?(間違ってたらすみません)
わたしも長年吹奏楽に携わっていて、アレンジ(オケの吹奏楽アレンジなど)もやっていましたが、事情があって、演奏活動を続けられなくなり、今は、もっぱらMIDIをやっています。
カットのこと、アレンジ時の移調のことなど吹奏楽の世界では、独特の変な風習がたしかにあって、原曲のイメージを崩さず、さらに吹奏楽の特性を生かした編曲はなかなか難しいと感じていました。
今後とも質の高いHP期待しています。長文、駄文失礼いたしました。

http://www.geocities.co.jp/MusicHall-Horn/1132/


私も質問 投稿者:NAPP  投稿日: 9月16日(日)02時21分13秒
月曜日が研究発表なのですが、分からないことがあるのでどなたか助けてください!

「ハイバーニコン」というバス・ホルン属の楽器でのちにオフィクレイドに取って替わられた楽器があるのですが、この楽器の使用されている曲をどなたかご存じでしたら教えて下さい。1835年のヨーク音楽祭でこれを使った曲があった、ということは分かったのですが、それが何という曲だったのかが分からないのです。
 あと、「コルネット」(CornetではなくCornettのほう)と「ビューグル」(無鍵のほう)と「トランペット」(いわゆる木製のやつ)と「ポストホルン」はどのような点で区別されていたのでしょうか。
 どなたか御存じでしたら教えて下さい。

>後藤さん
 はじめまして。
 藤掛作品の音源についてはよく質問を受けるのですが、当サイトの作品リストに書かれた以上の情報はちょっと所持しておりません。どなたか他のかたで御存じでしたらフォローお願いします。
 なお、バンドジャーナル別冊84は所持していますが、そこにのっている情報はすでに書かれている以上のことはありません。
 お役にたてなくてもうしわけない。

 一応、作品リストへのダイレクトリンクです↓

http://www03.u-page.so-net.ne.jp/kc4/napp/wind2.htm


はじめまして。/失礼いたします。 投稿者:後藤  投稿日: 9月16日(日)00時12分55秒
はじめまして。
後藤と申します。
10数年以上も、前から作曲家の藤掛廣幸先生のフアンです。
この、ページは、成瀬@藤掛フアンさんが書き込みされているのをみて、やってきました。
ちなみに、私マンドリン出身者でもなんでもありません。
今から、十数年以上まえに、現在千葉県在住ですが、岐阜県岐阜市にお住まいのころ、「ロマンス」と「銀河交響曲」という、シンセサイザーのソロアルバムを買って、お手紙を差し上げ、ご返事いただいたことからはじまり、お手紙を差し上げる機会が多くなりそれ以来のフアンです。

 成瀬@藤掛フアンさんが、「シャコンヌ」のこと、御存知の方見えませんかといわれてましたが、笹川賞とのことでしたので、現在の日本財団にお尋ねしてみたのですが、ご返事まちの状態。
 ノスタルジックラプソデーという吹奏楽曲、これも、笹川賞受賞とのこと、これは、1999年邑久高等学校の再演は見つけたのですが。
 シャコンヌの、音源、再演御存知の方みえませんか、  また。ノスタルジックラプソデーのほかの再演団体御存知の方みえませんか。
 不確かに情報なのですが、ノスタルジックラプソデーの原曲があるそうで 「カプリチオ」とい作品だそうで、浜松工業高等学校でが演奏されているらしいのです。
かなり、古いことですが、当時のこと御存知の方どなたか、おみえになるのでしようか。

 藤掛先生にお尋ねしたところ、ノスタルジックラプソデーは、吹奏楽作品の初めての作品とのことを聴きました。
 藤掛先生の、吹奏楽作品のことが、下記の雑誌に載ってるそうですが、探しておりますが、みつかりません、御存知の方みえませんか。

日本の吹奏楽 1984 作品編
出版地 :東京
出版者 :音楽之友社
出版年月:1984.5
資料形態:171p  26cm  1400円
注記  : 『バンドジャーナル』別冊

1 協奏的序曲  2 白鳳狂詩曲  3 ロックンマーチ は音源残ってるそうですが ともに、もってますし、3はマンドリン版ももっています。

 ただ、吹奏楽作品の、「シャコンヌ」「ノスタルジックラプゾデー」「青春賛歌」(岐阜北高等学校委託初演)他の吹奏楽作品の、音源がどうしても、みつからないのでを捜しています。 
 
 この掲示板ご覧のこただ、御存知の方、是非教えていただけたら、幸いです。
 よろしくお願いいたします。


長々と 投稿者:NAPP  投稿日: 9月15日(土)18時04分00秒
レス遅れてごめんなさいです。久し振りに大学に通いはじめたら、授業が終わって帰宅したら疲れ果ててそのままベットへ直行する日が続いてました。学校にいる間は気が張ってるのか元気なんだけどなぁ。どうも、私は知識つけるよりも先に体力つけないといかんらしい(笑) おかげで楽しみにしていた一昨日の東京シティフィルの定期(リゲティ「ロンターノ」と権代「Dies Irae/Lacrimosa」をやった)にも行けなかった。くぅ。

>プロメテウスさん
>そーですね。必ずしも、吹奏楽をする人がクラシック好きでなくてもいいんですよね。

 教育の現場である部活動においてはなるべく多くの種類の音楽に触れさせてあげて、その中から自分の趣味にあったものを生徒一人一人が自分で選択して興味を持つようになってほしいし、そのためには幅広いジャンルをレパートリーにしている吹奏楽というのはとても便利な演奏媒体であると言えるでしょう。だからこそ、興味をもつようになる「きっかけ」となる選曲においては、可能な限り上質なものを提供してあげたいものです。出発点が「代替品」で、それをそれと知らせずに(別に「代替品」であること自体が問題なのではない)歪んだ知識を植え付けてしまうようなことが果たして「教育的」なんでしょうかね。
 でも、しつこいようですが何度でも繰り返します。このように教育を意図して展開される音楽活動ももちろんすばらしいことですが、それだけであってはいけないはずです。吹奏楽は「単なる音楽の1ジャンル(というより演奏媒体か)」です。もっと多くの活動方針が並行して存在することもできるはずだと思うのです。

>ところで、本場ヨーロッパではクラシックの立場はどの程度なのでしょうか。
>やはり、マイナリティな世界なのでしょうか。

 教育の分野に限定すれば、欧米の現状と日本の現状を比べることはもはやナンセンスだと思っています。例えば、欧米での未婚の母親から子どもが生まれる確率が30%を超えているけれど日本でそれは2%に満たないし、アメリカでは読み書きのできない公立高の教師も増えている(松居和「家庭崩壊 学級崩壊 学校崩壊」参考。音楽関係者が書いた教育問題書籍として面白い)。社会的背景や宗教的背景、民族別の伝統的な文化などが大きく違うのだから、他国のシステムを日本が真似たところで効果的だとは思えない。 「欧米のシステムの方が日本のものより進んでいる」という時代はとっくに終わっているのだから、もっと日本の現状を見据えた独自のシステムや考え方を持たないと、日本の教育に明日はないと思っています。教育の現場で手段として使われる音楽にも同様のことが言えるのではないでしょうか。
 教育を離れて音楽全体を見れば、やっぱり世界的にみてもクラシック音楽はマイノリティだと思います。少なくとも私の知っている限りの国では。日本よりちょっとは関心は高いかもしれない(キリスト教が背景にあることも無関係ではないだろう)けどそれでもポピュラーなのは他のジャンルではないでしょうか。 ま、いずれにせよ「メジャーかマイナーか」なんて数の論理に頼らず、「好きなものは好き」と言い切れることが大事でしょう。


>ののさん
 ありゃ、勘違いしてました (^^ゞ
 21日はパーカーも勿論ですが、共演者がとても魅力的ですね。今のところいく方向で検討しています。
 他の日も視野にいれてスケジュールを再考してみようかな。ゼミの準備もがんばればなんとかなるだろうし。


 ノーテーションソフト続報。改めて情報を集めてみたら、私の中の「Igor優勢論」はあっけなく覆されてしまいました(笑)。Igorを開発していた会社が潰れたのも勿論ですが、Finale2002からはIRCAMが開発に参加しているそうですね。ますます現代音楽関係のライブラリが充実していくわけです(笑)。Maxとのデータのやりとりも可能なようにしていくらしいですし、これはもう決まりかな。
 そういえばIgorはどこぞのサイトでフリー版(ver−1.いくら)がダウンロードできるはずですよ。探してみてはいかがでしょう(もちろん公式のサイトです)?DTMマガジンの9月号にはFinaleの体験版がついていたはずだし、案外むりして買わなくてもそこそこのクオリティでよかったらタダで手に入ったりしてね。
 私も使っているProTools(HDレコーダとデジタルミキサーと簡単なエフェクタが一緒になったもの)もフリー版がダウンロードできますしね。まぁ、これは非常に専門的なうえにDLにかかる時間がすさまじいので普通の人にはとてもお勧めできませんけど。OSやスペックも限定されますしね。

 N.Y.の知り合いからは無事の知らせがありました。とりあえずは一安心。

個人的なお薦め 投稿者:のの  投稿日: 9月14日(金)23時39分39秒
もし行ければ、まず9/19にパーカーに行っておくのがいいと思います。
たぶん何度も聴きたくなると思うから。今回は、会場によって音響が大きく違うので、何度も通っても収穫はあると思います。

姜さんは、1つだけ選ぶとしたら9/23でしょう。30人程度の小さなジャズバーなので、間近で見られますから(電話予約すると、席をキープしておいてくれます)。姜さんは1年に2〜3回来日するし。

あれ? 投稿者:のの  投稿日: 9月12日(水)23時11分23秒
新宿ピットイン9/21がパーカー+大友、石川、松原ですよ(開演は公称7時半だけどたぶん8時頃、でも前売を買わないと立見になると思います)。9/19に麻布十番でソロもあります。

姜さんは9/20が無理でも、9/23下北沢があります。パーカーを9/19にすれば、9/21横浜というのもあります。

蝶々夫人ファンタジー 投稿者:プロメテウス  投稿日: 9月12日(水)22時18分54秒
いわゆる「ハイライト版」のような物なのですね。ありがとうございます。

そーですね。必ずしも、吹奏楽をする人がクラシック好きでなくてもいいんですよね。

ところで、本場ヨーロッパではクラシックの立場はどの程度なのでしょうか。
やはり、マイナリティな世界なのでしょうか。

レスなど 投稿者:NAPP  投稿日: 9月12日(水)21時03分56秒
>プロメテウスさん
>もう少し面白い状態だと、全国大会がどこであってるかも知らない部員がいます。
 「面白い状況」かどうか分かりませんが、そういう部員がいても不思議ではないでしょう。野球部の甲子園やラグビーの花園なんかは特別な例で、全国規模の展覧会がどこであってるか知らない美術部員もいるでしょうし、同じ朝日新聞主催の合唱コンクールの全国大会がどこであってるか知らない合唱部員もいるはずです。

>それを広く見ると、クラシック音楽自体が遠い存在なのでしょうか。
 前回も書いたとおり、吹奏楽部に入る生徒って、「音楽」が好きなのであって必ずしもいわゆるクラシック音楽が好きなわけではないですからね。むろん、興味を持ってくれれば私個人としては嬉しいけれど、それを全ての生徒には強要できないなぁ。で、音楽界全体をみれば「くらしっく」はマイノリティですよ。やっぱり。なんとかしたいとは思うけど、それより前に教育の現場では優先すべきことが他にあるはずです。

>だとすると、日本の現代音楽が栄えるはずもないと思ったりもします。
 別に吹奏楽部に入ったからクラシック音楽を好きになるわけではないし、クラシック音楽が好きな人が必ず現代音楽を好きになるわけではない。逆に言えば現代音楽を好きになる人が吹奏楽出身である必要もないわけで、「だとすると現代音楽が栄えるはずがない」というのはいささか短絡的というものでしょう。Mozartとかは嫌いだけど現代音楽は好き、という人だっていっぱいいますしね。

>プロの楽団には頑張って欲しいですね。
>でも、先陣を切っているのは、いつもアマチュア吹奏楽団という状態
>ですから、どうなるかわからないですね。
 まったくです。「吹奏楽は他の演奏形態より、それ以上でもそれ以下でもない」というのが私の主張ですが、だとすれば多少アマチュアを考慮しない活動というのもあっていいはずなのです。室内楽曲や管弦楽曲で「アマチュアに演奏されることを前提に書かれた曲」が占める割り合いは僅かです。

>“歌劇「蝶々夫人」”と“「蝶々夫人」ファンタジー”は、どう違うのでしょうか。
 佐藤しのぶが歌うときとかはオペラファンタジー「蝶々夫人」とか言いますね。確証はないのですが、歌劇は歌劇で、「ファンタジー」はハイライトを抜粋し再構成されたものではないですか?少なくとも、吹奏楽でよく演奏される「蝶々夫人ファンタジー」はそうですね。そういえば「カルメンラプソディー」とかもありますね。

>いしづかさん
>正直言って、佼成の新作委嘱に関する目利きは、ヤマハ吹奏楽団に
>負けていると思います。でも、そういうヤマハも、2年続けて
>長○淳に委嘱をしたりしてくれて、私的には幻滅なんですけど。
 そうした意味では、佼成の松下功先生への委嘱作品は注目しています。「飛天遊」などを聴いた限り、結構吹奏楽向きの作風ではないかと思っているのですが。
 「蒼天の滴」は聴いていないので何とも言えないのですが、やっぱり「いつものアレ」だったんでしょうか?来年に期待です(苦笑)

>ののさん
 エヴァン・パーカーの情報は、岡村さんのBBSで見て以来、ず〜っとかなり気になってます。が、20日は湯浅先生のゼミで行けません(涙)。21日の姜泰煥は大学院が終わってからすぐ行けば間に合うかな?


 N.Y.には私の知り合いのピアニストが留学しています。彼女の住んでいる寮は世界貿易センタービルと目と鼻の先なのです。まだ留学して日も浅く、言葉もまだ上手く聞き取れないときにあのようなことになるなんて。きっと自分の置かれている状況がどのようであるかを把握することも難しく、日本にいたときには想像もできなかったような厳戒体制を強いられ、どんな思いでいることか。はやい無事の知らせを、みんな待っています。

9月後半の公演では 投稿者:のの  投稿日: 9月10日(月)23時34分09秒
エヴァン・パーカー↓
http://japanimprov.com/japantour/evan/profilej.html

姜泰煥↓
http://japanimprov.com/japantour/kang/profilej.html

が絶対のお薦めです。吹奏楽にも欠かせないサックスの(パーカーはソプラノ、姜はアルト)東西の極北に位置する2人を続けて聴き比べられる、またとない機会です。

と、いうより 投稿者:いしづか  投稿日: 9月 9日(日)23時24分12秒
コンクール中心主義って奴が行き渡りすぎているのが問題なような気がします。

もちろん、現在の吹奏楽の隆盛にコンクールが果たしている役割は絶大だし、私自身も自分の後輩が何処ぞのコンクールで金賞を受賞したと言われれば嬉しい人間だから、コンクールの存在意義に関しては否定しません。

ただ、そのために吹奏楽一般がコンクールでの評価というステレオタイプな評価を目指しすぎる傾向にあるのは悲しいことです。音楽にはいろいろな可能性があるし、その事に気付けば、自分達の活動にも新たな可能性を見出せるかも知れないのに。

そういう時代にこそ、プロのバンドに頑張って可能性というやつを示してもらいたいんですけどね‥‥。正直言って、佼成の新作委嘱に関する目利きは、ヤマハ吹奏楽団に負けていると思います。でも、そういうヤマハも、2年続けて長○淳に委嘱をしたりしてくれて、私的には幻滅なんですけど。

曲名の質問 投稿者:プロメテウス  投稿日: 9月 9日(日)18時27分26秒
あの、普通な質問なのですけれど、よろしいでしょうか。
“歌劇「蝶々夫人」”と“「蝶々夫人」ファンタジー”は、どう違うのでしょうか。

どなたか、ご存知でしたら、教えてください。
宜しくお願いします。

もう少し面白いと 投稿者:プロメテウス  投稿日: 9月 9日(日)05時22分25秒
もう少し面白い状態だと、全国大会がどこであってるかも知らない部員がいます。
吹奏楽部とは、帰属心の弱い部活なんでしょうかね。
それを広く見ると、クラシック音楽自体が遠い存在なのでしょうか。
だとすると、日本の現代音楽が栄えるはずもないと思ったりもします。

プロの楽団には頑張って欲しいですね。
でも、先陣を切っているのは、いつもアマチュア吹奏楽団という状態ですから、どうなるかわからないですね。

レス集 投稿者:NAPP  投稿日: 9月 9日(日)02時53分39秒
>いしづかさん
 今回の件、本当にありがとうございました。実に内容に富んだ大論文で、非常に参考になりました。
 吹奏楽関係者はもちろんのこと、一般の音楽愛好家の人達にも、多くの方に読んでいただきたいものです。HTMLにして、どこかのサイトに半永久的に公開しておけることは意義深いことだと思います。私も色んな人がこのサイトを訪れてくれるように頑張って内容を充実させていかなければ、と決意を新たにしました。
 とりあえずは、今手がけている仕事終わらせなきゃ・・・・・ 次回更新は10月以降か?(苦笑)

>プロメテウスさん
 たしかに不思議、ですね。 理由は2つ考えられるでしょう。
 1つ。「吹奏楽」に限定した場合、参考とすべきプロの音源や演奏会があまり身近な存在ではない。あるいは吹奏楽で有名なのがプロではなくコンクール上位入賞する団体であるために、どっちかというとそちらのほうが身近だし興味がある。
 2つ。「音楽」に拡大した場合、吹奏楽がレパートリーとしているジャンルがあまりに多岐に渡るため、「なんでもできる」がともすれば「特徴がない」になっている。故に「くらしっくおんがく」のプロに興味が薄く、ポップスの方に興味を持っていても仕方がないことだし、それはそれでいいのかもしれない。
 まぁ、どっちにしても私のいる世界に興味を持ってもらうには、プロに頑張ってもらうことを期待するしかないわけですね。

吹奏楽部員 投稿者:プロメテウス  投稿日: 9月 8日(土)04時22分04秒
中学や高校の吹奏楽部員に、「何の曲が好き?」と聞くと、ほぼ90%の確立でポップスの曲名が帰ってきます。これは、まぁいいとして・・・。

最近聞いた演奏会は?と聞くと、「○○学校の定演」とか吹連主宰の演奏会などの返答があります。

ここで話しを変えて野球部の話しをします。「例えば、プロ野球の試合を全く見ず、せいぜい草野球試合しか見ない野球部員をどう思う?」と聞くと、「そんなのは野球部員じゃないと思う」という返答が得られます。

不思議だなぁと、いつも思っています。

吹奏楽関係者に捧ぐ現代音楽入門 投稿者:いしづか  投稿日: 9月 8日(土)03時08分11秒
さっそく載せて頂き、ありがとうございます。

少々説明を致しますと。

この文章は、もともと「クラシック招き猫」というBBSサイトに寄稿したものです。当初は、「現代音楽批判FAQ」と題して、巷に溢れるゲンダイオンガク批判の矛盾点を指摘する、それだけの内容でした。幸い好評だったようで、何人かの方から、「htmlファイルにして何処かへ置いといて欲しい」とのご意見も頂戴しましたが、何しろ自分ではHPを持っていないもので、寄稿先を探すことになったのでした。

今年の初めくらいに、NAPPさんと集中的にメールを交わしたことがあり、その際に、このHPに載せて頂けるかと水を向けましたら、快く載せて頂ける旨の返事を頂きました。ただ、もともと吹奏楽とは全く関係の無い文章だったものですから、吹奏楽関係者用にイントロダクションを作成しなくてはならない、と考えていたのです。

その作業が遅れに遅れ、今回ようやく発表出来るようになりました。NAPPさんには本当に長い間お待たせ致しました。そして、お世話になりました。ありがとうございます。

寄稿欄 投稿者:NAPP  投稿日: 9月 8日(土)02時28分03秒
を新設しました!記念すべき第一回目は、いしづかさんによる「吹奏楽関係者に捧ぐ現代音楽入門」です。皆さん、すばらしい文章ですのでぜひお読み下さい!

http://www03.u-page.so-net.ne.jp/kc4/napp/wind1.html#kikouran


サウンドエデュケーション論 投稿者:NAPP  投稿日: 9月 4日(火)16時07分52秒
>渡部先生
 反応ありがとうございます!
 タン・ドゥンは私はマルチメディア作家だと思ってますからね。例えば水の音にしても、音だけならあんな大掛かりな装置でなくても同様の結果が導けるのだけれど、あんな物を用意するのは視覚効果を重視しているからだと思うのです。「新マタイ受難曲」なんて音だけ聴いたらこのうえなくツマラナイ。

 誤解のないように書いておきたいのですが、タン・ドゥンのやりかたがまずかっただけで、サウンドスケープの考え方自体は音楽教育において非常に効果的な手段の一つであることは間違いありません。勘違いしている人が多いのですが、サウンドスケープ論というはただ単に「周りの音を聴いてみよう。色んな音がするね。感想書け〜。」などという単純なものではありません。新しく学習指導要領に加わったので、子どもたちにどう伝えるか悩んでいる先生たちも多いかと思います。ぜひ詳しく知っておいてもらいたいです。しつこいようですが、前回紹介した本をぜひ読んでください。
 サウンドスケープ論とは、人間(創造物を含む)と環境の相互の在り方を音を通じて考察するということです。必ずしも「自然の音を聴く」ことだけではありません。よく例に出される風鈴、ししおどし、水琴窟。よく考えると、これらは「自然の音」を聴いているわけではありません。自然現象を人工物で音に変換もしくは増幅し、それを聴いているわけです。そのことによってきっかけとなった「自然」を考える。それがサウンドスケープの「一面」です。 逆に、「人工の音を環境に同化させる」のも逆ベクトルを持ったサウンドスケープのもう一つの面です。BGMとかそういうものではない、独特のものなのですが、ちょっと言葉では説明しがたい。例えば東京オペラシティコンサートホールへ通じる階段であるとか、横浜みなとみらいホール前のアーケードとかにいくとよく分かるのですが・・・・・
 そして、これらを通じて「音のありかた」を再考し、創造力・想像力を高め、構築する力を養う。これらの授業をする前と後では、Chopin「雨だれ」を聴かせたときの効果は大きく違うはずです。


 子どもたちにとって「注意」が「興味」になるきっかけというのはどういうものなのでしょうか。「自分の生まれた国の文化」?未発達な子どもたちには今一つ魅力に欠けるかもしれません。私は、そのきっかけは「圧倒的なヴィルトゥオジシティ」だと思うのです。ごく身近な素材が超人的な技巧によって全く異質なものに変貌することを知ったとき、その素材が身近である分自分にもできる可能性があると知ったそのとき、「注意」は「興味」になるのではないかと思っています。これが可能にするのは、まさに専門教育を受けた職業音楽家が最適なのです。その意味ではタン・ドゥンが自分の身体を共鳴体にして石を楽器にしていたのは大いに評価できます。しかし、特別な装置を用意した瞬間、子どもたちには「別の世界のできごと」にすぎなくなってしまったと思うのです。

 身近な素材を利用し、想像もつかなかったような新しい世界を造り上げる。一番簡単なのはボディ・パーカッションであるし、打楽器奏者が一番やりやすい。でも、他の楽器専攻者でもアイデアによっては様々なことが可能であるはずです。例えば金管楽器奏者なら指で環をつくり、マウスピースの代わりにして様々な音を作ることができる。このとき大事なのは、既成の十二平均律に準じようとするのではなく可能な限りその呪縛から逸脱させること。アンブシュア変化によるグリッサンドの多用などは子どもにとっても面白い現象ではないでしょうか?これに手拍子・足踏み・口笛などを混ぜると、ちょっとしたものが簡単にできます。 作曲家なら身近なものを再構成し作品にすることができるでしょう。一番簡単な方法が「ヴォイスリズム法」。有名なところでは古谷哲也「野菜の気持ち」などは生徒たちにとって、とても親しみやすいものだし、同様のものにエルンスト・トッホ「世界地図のフーガ」などがあります。このアイデアを昇華させていくと湯浅譲二「テレフォノパシー」や武満徹「ヴォーカリズムAI」に行きつく、ということも特筆すべきことでしょう。

 ところで、この分野におけるエキスパートの現代日本の作曲家は誰だと思いますか? 意外(?)にも高橋悠治先生なんですよ。「童楽」において坪能先生と並んで積極的だったのは悠治先生でした。他にも一柳慧先生とかね。

 サウンドスケープ論やミュージックコンクレートを統合したサウンドエデュケーション論が一般に浸透したとき、現代音楽のありかたは大きく変わるでしょう。

「未来への教室」のタン・ドゥン、について 投稿者:渡部謙一(わたなべ けんいち)  投稿日: 9月 4日(火)10時38分23秒
私も同様に失望しました。ま、たぶんにテレヴィ曲側の企画めいたものがぷんぷん匂っていましたので、仕方がないとも思いますが。

日本ではだいぶ「本物」志向が強くなってきましたから、あの番組を見て本当に感心した人がどれだけいたかはだいぶ疑問です。自分も子持ちだから言いますが、現代の子供達は、いろいろな情報が身の回りの、手のとどくところにある分、とても怠惰で自己啓発能力や想像性に欠ける傾向にありますが、逆に、本当に良い物には人間の本能のひらめきを見せる事がよくあります。
この前娘を能に連れて行った時にもそう思いました。特に、ああいった日本の伝統芸能にある完成度の高さは、とても強い刺激になるようです。

ゆえに、これからは日本文化を含んだアジアの文化を背負った音楽家の時代だと思っているのですが、自分のアイデンティティーの認識を薄くしたり、偶然性とアドリブを取り違えた音楽を書く人達もかなり多くいらっしゃるようにも思います。アドリブには人間の確固とした意志があるから音楽に成るのであって、偶然と人間の意志を組み合わせることは簡単な事ではないのではないかとも思います。

だからこそなおさら、その番組はなにも進歩的ではなかったのだとも思います。

マス・メディアにもっと強力なイマジネーションで音楽番組を作ってくれる人がいるといいのですけれども。あれも人間の芸術作品になり得ますからねェ・・。

いろいろ 投稿者:NAPP  投稿日: 9月 3日(月)21時02分21秒
>ののさん
>ファーニホウはソロに近づくほど良く、ディロンは編成が大きくなるほど良いようです。

 なるほど。確かにファーニホウにはあまり独奏楽器として使われてこなかった楽器をソロにした作品によいものが多いような気がします。ディロンは大きい編成も小さい編成も聴いた事がないので、ご紹介いただいたCDなどから今度聴いてみようと思います。

>「新しい技法」ではなく「新しい世界の捉え方」が大切なのだと思います

 今の時代は「どう書くか」が先行してしまって、「なにを書くか」をしっかり持っている人が少ないような気がしてます。



 久し振りに掲示板が現代音楽づいているので、その関係ネタを。最近、管楽器ばっかりやってたので、このごろは弦楽四重奏を集中して聴いてます。先日、中古CDフェアをやっていたので、だぶっているのもあったけど何枚か買いこみました。リゲティ、カーゲル、ファーニホウ、ヴァスクスの弦楽四重奏曲集。そういえばヴァスクスも名前だけで曲を聴いた事がない作曲家でした。リゲティは「アンダンテとアレグレット」の入っているこのSony盤は聴いた事がなかったので買ってみました。
 しかし、一緒にハワード・ハンソンの交響曲2番とかショパンのスケルツォとか買ってるあたり、私、節操ないなぁ。
 ペンデレツキ作品集、500円(笑)

 先日NHKで放送されていた「未来への教室」のタン・ドゥン。なんだかとっても疑問の残る内容。「身近なものの音を聴く」というわりに、用意した楽器はシデロ・イホス(番組中ではウォーターフォンと一般化して言ってたけど)など、水を「媒介とする」ものであって、水音そのものを聞いているわけではないし、だいたい、あんな大掛かりな装置を必要とするものを見せられたところで、子供達は身近に感じただろうか?
 「環境音を録音する」という企画も、外に出て集めた音がすべてホワイトノイズ音だけだったのはどうして?集めた音はその後どう応用したんだろう?結局なんだったのかわからない。
 前者のやりかただったらマリー・シェーファーのサウンドスケープ論、後者だったらミュージック・コンクレートの本をよめば、ちょっと底が浅いことがよく分かると思います。
 あの番組の内容に関心を持ち、あのような教え方に興味を持たれた方は、音楽之友社から出版されている坪能由紀子著「音楽づくりのアイデア」(音楽指導ハンドブック)をぜひ読んでください。より詳しく、効果的な方法が紹介されていますよ。


 吹奏楽ネタ。芥川賞受賞者でもある菊地幸夫先生(響宴Iでも作品を発表されてますね)は、現在、国立音大の委嘱でオルガンと吹奏楽のための作品を書かれているとか。初演は11月だそうです。どんなんだろ?