<検索エンジンで辿り着いた方へ>
トップページは
こちらです!


クラシックブーム 投稿者:プロメテウス  投稿日:10月 6日(土)16時21分07秒
ソニーがプレイステーション2で発売する「ブラボーミュージック」の影響で、某ダンスマ○アのがユーロビートをブームにした時のように、クラシックにもそういう事が起こるといいですね。これにも期待してます。(笑)

http://www.scei.co.jp/sd2/bravoes/


 投稿者:益野大成  投稿日:10月 6日(土)08時48分32秒
 『ある「飢餓」の〜』の後半で書いた、“個性的で完成度が高いことと多数へのアピールの強さが一致するタイプの芸術家”は、“自分の詩は難解なのか?”ということを考えていた私がたどり着いた、単なる夢想です。音楽において、従来的手法を深化させて更に新しい感興を生み出すことの困難さは私も感じております。まして、あれほど西洋音楽(ロマン派)が隆盛した後では。

 いしづかさんが名前を挙げられた方々に関する感想をちょっと書きます。

 原博氏は幾つか聴きましたが、残念ながら私はダメでした。いかに何でもこの復古調は…、という曲もありました。(私から見た)西洋音楽のシンドイ部分がゴッソリ残っている、と言えるかも…。
 矢野顕子はあんまり聴いたことないですが…。それでも聴いた限りではもちろん不快じゃないし面白いものもあり、大変に才能のある人だと思います。でも何か“少女漫画的なロマンチシズムを延長したお母さん的感性”の歌、と受け取れてしまい、「もっと先鋭でクールに」などと言う私の方の俗っぽさといいますか、私の嗜好と合わない部分も少々あるように思っております。
 ナイマンも少し聴きましたが、あのサックスと弦の刻みのクレシェンドに、私好みの「アニマ(精気)」を感じるものの、音色や構成にコントラストがないのが飽きにつながると思いました。映画音楽では美しいメロディーや、面白い民族舞踏的フレーズも書いているので、それと組み合わせたりしてみればいいのにナ、等と思ったり。でもその映画音楽も『コックと泥棒とその愛人(すいません、題名うろ覚えなので違っているかも)』は暗いモノトーンでしたね、確か。映画的にも中世の寓意画みたいでイマイチでしたけど。

 どのみち芸術とは他者との出会いです。他人の書いたものなんだから分からないことが多いのは当たり前です。自分とぴったり来るということにあまりにもこだわりすぎるのは良くない(そういうものは自分で作ればいいわけだし)。
 ぐだぐだ言うなら自分で労を惜しまず探し、投資も惜しむべきでないことは重々承知しております。昔も今も、それが正道です。ただ、作曲家の方から歩み寄ったって全然悪いわけではない。もしも、そういう芸術を志向している人がいて、そのことに何か引け目を持っているならそんなもの持つ必要ないですよ(逆に多数へのアピールを何か低いことのように見ている人は少し考えて欲しい)、というくらいのつもりで書いた文章でした。もっとも、先に書いたとおり、この道は実に厳しいでしょうが。

 追伸:『2 「苦行」について』で書いた聴取上の困難については、どうしても「調性」の話を避けて通れないように感じたのですが、私はそれこそ知識がないのでやめておきます。ただ、「調性」を出すと、結局「調性」の話しかしない感じになるのですが、そうではなく、もっと広い土俵(たとえば「旋法も含めて音階の意義」、などというふうな)で話した方が実りがありそうな気はしています。

3 クセナキスなど  投稿者:益野大成  投稿日:10月 6日(土)08時45分56秒
 ベートーヴェンとクセナキスとの距離のくだりは、書いているときから「比喩がマズイなあ」と思っていた部分だったので、御指摘を受け頭を抱えております。正直に言いますが、私はクセナキスはほとんど聴いておりません。衛星放送やテレビで流れていたものを2度ほど断片的に聴いただけです。「ロック」という言葉についてもそうですが、とにかく現代の音楽についてもロックについても不案内なので、「ウワー、難しそー」と思ったクセナキスの難解インパクトの強さと、大人達がまだ本気で眉をひそめていた頃の(私の子供の頃)のロックを念頭に書きました。この部分の効果的比喩がなかなか出てきません。個人的には武満の幾つかを初めて「理解した」と感じたときに見えたその異様な(従来と比べて異様なという意味です)音楽把握のインパクトの方がずっと強かったのですが、ベートーヴェンと武満じゃ「今さら武満が新しいだとお?」という違和感を与えるような気がして書けなかったのです。

 私個人の感想(つまり私の仮定した「置き去りにされた層」にとってではなく、という意味です)としては、今年、確か「題名のない音楽会」でやたら面白い音が聞こえたので茶の間のテレビを見に行ったら、クセナキスのピアノ協奏曲をやっておりました。その時、音響的に面白いということだけでなく、「この曲は強力な推敲を経たものだ」と直観しました。つまりある価値観とその価値に対する強力な意志があると。「敬遠してきたけど、やっぱりホンモノなのかなあ、この人は」と思いました。確かにあの力感溢れる肌触りや意志的構築を感じさせるテクスチュア(音の織り地)はベートーヴェンに似ているかもしれません。ただ、しばらく聴いていて「これをずっと聴くのは苦痛」と思ったのも事実です。繰り返しになりますが、「慣れてしまえば」とはいっても、その慣れるのがずいぶん大変だと思いました。私以外でも、シンドイと感じる人が多いのではないかと。(ただ、私としては、いつか時間がたっぷり余ったら聴き込んでもいいと思いました)。

 私は、NAPPさんやいしづかさんのように「1割の傑作を探しながら聴くのが楽しい」というのは大変高い境地で羨ましく思います。私は、どうも苦痛は苦痛です(傑作にぶつかったとしても)。「報われる苦労」という表現がありますが、報われる喜びはあるにしても、私自身にとってはやはり苦労は苦労ですというのが実感でしょうか。

2 「苦行」について〜続き  投稿者:益野大成  投稿日:10月 6日(土)08時44分04秒
“『現代音楽の難しさ』などは聴覚上の不慣れを難しさと勘違いしたための共同幻想ではないのか? ”

 ということについて、つまりその“聴覚上の不慣れ”こそが、私の使った「難解」という言葉の真意(少なくとも大部分)だったのではないか、と思います(前述したように、ここがいしづかさんと私の相違点ということになるでしょうか?)。いしづかさんにとっては、さほど困難な事ではないかもしれませんが、私から見れば、あるいは私が仮定した「置き去りにされた層」にとっては、これを越えるのが困難だと私は思うのです。そもそも理解するという行為の大部分は、もしかしたら慣れることではないか。慣れるとは(感覚レベル、または非意識のレベルで)すでにおおむね理解していることではないか? 少なくとも感覚的に慣れてしまえば、否定的なものにせよ肯定的なものにせよ、理解は容易です。

 その作品の指向や構成という事よりも、「新しい響き」自体がそもそもある思想性を帯びたものであり、その違いの方に私や、現代音楽苦手の人の目(耳)が行ってしまうのでしょうか。
 というか、このことを考えているうちに、音楽とは外見的な「音響のスタイル」そのものなのではないかとさえ思いました(偏った考えですね、でもそれくらい強く思ったということです)。新しい音響スタイルに対する違和感。価値と価値との衝突。これを突破するのがなかなかシンドイのだと思います。仰るとおり、外国語を習得るよりは遙かに容易だとは思いますが、外国語習得と比較されるこのことは、やはりある種の人々にとって容易ならぬ事なのではないでしょうか。

 しかし、これは困難だろうと時間がかかろうと慣れる(理解する)しかないと私は考えます。(ここが大事なところですが)「自分にとって困難だから価値がない」と考えるのは短絡です。だからこそ、せめて「9割が駄作」の方はナントカならないか。批評やマスコミの誘導はないものかと。そう思ったのです。いしづかさんの仰るように、現代音楽がはるかに手に入りやすくなった昨今ですが、たとえば私の住む札幌ではどうなのでしょうか? CD屋巡りもままならない私としてはよく分からないのですが…。

 しかし環境が整ってきた(逆に見れば整いきってはいない)今日この頃こそ、更なる“誘導”に力を注ぐまさに潮時なのでは! とやや積極的なことも考えました。ベルリンフィルにラトルが行くことを聞いたときに、私を含め多くの人が「レパートリーの更新は世界的な潮流である」と感じたはずです。今こそ熱心で親切な啓蒙活動が非常に効果的であり、また“望まれて”もいるのではないでしょうか。(いしづかさんのお書きになった文章も、その一環ではないかと私は思っています。)

 現実的提案としては、作曲されて、30年くらい経った音楽については、駄作か傑作か、ある程度の評価もできているだろうから、そこら辺に絞った啓蒙活動があればな、と思いました。

2 「苦行」について  投稿者:益野大成  投稿日:10月 6日(土)08時42分24秒
”現代の聴衆のほとんどが、また吹奏楽関係者の多くが( 耳触りの良い悪いという尺度を度外視すれば )そうした「きつい状況」に立っているという「事実」を忘れないで頂きたいものです”(いしづかさんの10/2の文章より)

 ということについてですが。

 「9割までが駄作」であるのは確かにどのジャンルもそうだと思います。ただ、それに加えて「響きが新しい(耳になじまない)」という事が加われば、苦行というものじゃないかなあ、と思ったわけです。他ジャンルでは、駄作なりに耳あたりの良さというものが配慮されていることが多いと思うのです。いしづかさんは“度外視すれば”とお書きになっておられますが、私はこれを度外視しないということで「苦行」という表現を使ってみたのでした。まあ、耳障りは悪くないけど駄作、という音楽を聴くのも、それはそれで確かに苦痛ですが。

 いしづかさんの論旨が

 “『現代音楽の難しさ』などは聴覚上の不慣れを難しさと勘違いしたための共同幻想ではないのか? ”

だという事は了解しております。それは私自身のここ数年の結論ともぴったり一致するからです。ただし、そこから先が違うのかもしれません。というのは、私は「耳になじまない響き」に慣れることは、そう簡単だと思えないからです。今回、いしづかさんの文中の

“虚心に聴き込むことすら出来れば( ←ここが重要 )、2〜3回も聴けば自分なりの楽しみ方を発見できたりするものです。”

 という部分を読み、私はいしづかさんの仰るような「虚心に聴き込む」聴き方を確かにしてこなかったかもしれないと思いました、いや、虚心ではあったつもりですが聴き込んでいるとは言い難かったです。
 ただ、言い訳になりますが、もう学生時代、あるいは独身時代のように音楽を聴く時間も金もありません。また同時に、聴き込んだとしても、「2〜3回も聴けば自分なりの楽しみ方を発見」できるかは大変疑問です(少なくとも私の場合)。それを乗り越えて聴け、ということであれば、私はともかく、多くの人の支持はないように思います。ナンダコリャ、と思うものを2回3回と聴き込む事自体がなかなかできない。それくらい一般ユーザーというのはお気楽で怠惰かつ保守的じゃないかなあ、と思うのです。

 投稿者:益野大成  投稿日:10月 6日(土)08時41分06秒
 ※この1〜4の投稿は、いしづかさんの10/2の投稿を読んで書いたものです。

 いしづかさん、初めまして(直接お話しするのは初めてだったと思います)。益野と申します。どれくらい話が噛み合うか、なかなか難しいですし、下手をすると感情的になりやすい話題だと思いますので、私なりに気を付けて書きますが、誤った、あるいは失礼な表現があれば御指摘下さい。

 まず、御了承願いたい点として、『ある「飢餓」の存在を推測する』で述べた私見は、最大でも「そういう一面の真理がある(限界的真理)」という程度の正しさしかないだろう話であるということです。この文章は、誰かの肥やしになるというか、視点の可能性を提起するつもりで書きました。いしづかさんに喧嘩を売ろうとか、全面的に否定しようという意図は全くありません。どころか、『ある「飢餓」〜』の冒頭で書いたとおり、いしづかさんの主張については、おおむね賛同しております。

 また、文中にも書いたことですが、「置き去りにされた層が存在する」という推測そのものが誤っているかもしれません。立論中最も弱いのは、在来クラシックを好む層について「彼らだって、内心では同時代の清新な音楽を聴きたいのだが…」とした部分です。これは正直怪しいかもしれない(少なくともこの層の全員ではないように思われる)。
 次に、そもそも「在来クラシックを好む層」という括りがいい加減である、あるいは存在も怪しい、という事もあります。私にしてもきちんとした調査なりをしているわけではありません。

 ただ。いしづかさんの挙げられた“チューバ協奏曲のCDを高校生に貸した話”を読んで、これは「置き去りにされた層」が存在することの傍証にはなるなと思いました。ある時代が終わる時、その時代を支えていた人達が丸ごと没落し、全く違った層が次代を担うこともあると思うのです。先入観の少ない新しい耳の持ち主たちがやってくる…。
 しかし芸術の話ですから、“没落”というのは言い過ぎだし、音楽が好きな人々には違いないのだから、誰かこの人達のために上質の音楽を書いてみたら? あるいは逆に新しい音楽へのナビゲーターとして腕を振るっては?(いしづかさんもそういうおつもりであの文章を書かれたのだと私は理解しております) と考えたのでした。まあ、余計なお世話かもしれません。私も含めて、静かに古典芸能愛好の層になっていったって、別に悪いことじゃない。

 「飢餓」をどうやって満足させるか、についても、いしづかさんの仰る

“過去の知られざる名曲を発掘する、というのも一つの選択肢です。そうすることでクラシックファンの持つ「飢餓」の殆どは癒されてしまうものでしょう。”
“ジャンルに拘らずに音楽を聴くのなら、素晴らしい調性音楽を見つけることも出来るでしょう。…中略…ジャンルの壁を飛び越えることを厭わなければ、「飢餓」を満たすことも容易なはずです。”

 というやり方で結構イケるかもしれません(どちらにせよ自分に合ったアーチストを捜すという意味では同じですし)。

 でも私としては、もう少し先鋭かつすぐ分かるタイプの音楽(いしづかさんの上記提示よりもうちょっとゲンダイ寄りな音楽)ないかなあ、というつもりもあったのですが

“プーランクみたいな天才というのは、そう簡単には出て来ないものなんです”

とのお説は(私はプーランクはほとんど知りませんが)至極もっともだと思います。

補足2 投稿者:プロメテウス  投稿日:10月 6日(土)04時01分56秒
課題曲5制度のレスで。
NAPPさんの投稿は途中から、課題曲に関する話しではなくなっているようでした。
すみません、読み間違えました・・・。(T-T)

補足がだらだらと続いて、申し訳ないです。

補足 投稿者:プロメテウス  投稿日:10月 6日(土)04時00分08秒
ユン.イサンの事で「頑張ってますよね」と書きましたが「頑張ってましたよね」が表現的にはいいですよね。なにしろ、亡くなられているわけですから。

こんくーる 投稿者:プロメテウス  投稿日:10月 6日(土)03時57分47秒
>> 一切の制限を無くした、「課題曲5制度」に期待しています
>私は実はあまり期待してません(笑) たしかに課題曲としての幅は広がるでしょうから
>現在よりもはるかにましになるであろうことは期待するのですが、それが「吹奏楽の新し
>い表現」に直結するかは疑問です。「一切の制限がない」なんて嘘っぱちで、例えば「S.
>Saxが6本必要」だとか、そういう極端はことは課題曲という性質上絶対にありえない。こ
>ういった媒体による表現ってのはオケでは絶対に無理で吹奏楽にしかできないことなんだ
>から面白そうなんだけどなぁ(こういうのはプロにぜひやってほしい。全ての作品がマチ
>ュアに演奏可能である必要なんて存在しないはず)。

あの・・・。
アマチュアのコンクールで、アマチュアに演奏可能である必要なんて存在しないってのは、一体???

>あと、やっぱり音楽作品としてある程度の説得力を持つためには、曲の長さは12分くらい
>は必要ですよ(短くてもいいものはいいんですけど、それでもね)。課題曲(というより
>コンクール制度)の限界はここにあるのでは。

よくはわからないのですが、この辺りは作曲家の腕によるのではないのですか?
「深層の祭」はすごかったと思います。確か、4分弱の長さですよね。

コンサート 投稿者:プロメテウス  投稿日:10月 6日(土)03時51分05秒
現代音楽のコンサートって少ないですよねぇ。
プロオーケストラが年に何回くらい現代曲を演奏しているのでしょうか。
私が知ってる一番最近のものでは神奈川フィルのです。
武智由香さんとか、韓国の作曲家の人とかが作曲されたらしいですが・・・。
(↑都合が合わず聞きにいっていないんです)

>junさん
私もユン.イサンは大好きです。
氏は、北朝鮮国立交響楽団の指揮をした事もあると聞いています。
韓国人(西ドイツ人!?)なのに、頑張ってますよね。

ISCMより 投稿者:NAPP  投稿日:10月 6日(土)03時50分25秒
 10月3日、横浜みなとみらいで開催されたISCMのオープニングコンサート「吹奏楽の祭典」を大学院ゼミの準備も兼ねて聴きにいってきました。演奏は洗足学園ウインドオーケストラ。
 まずは聴衆の少なさについて。ISCMが日本で行われ、しかも吹奏楽の回がある、というのは実に画期的なことではあったが、聴きにきているのは関係者および演奏者の家族とおぼしき人ばかりで空席も目立つ。吹奏楽コンクール全国大会と期日が近かったのもあってか、吹奏楽系サイトで話題にあがることもほとんどなく、吹奏楽関係者の意識の低さがまず気になった。
 1曲目はハンガリーの作曲家、ラシュロ・サリー(1940〜)の作品「ストラヴィンスキーの思い出」(1981/1991)。演奏時間5分ほどのこの作品は吹奏楽というよりも管楽アンサンブル作品といったほうがいいかもしれないが、その編成が個性的。正確な編成は覚えていないが、Fl1,Ob1,Cl4,Sax4,Hrn4,Trp8,Trb4といった感じではなかったろうか。かなりバランスが個性的であり、BsnやTubaなどが入っていないのも特徴的(打楽器もない)。編成だけみたところでかなり期待したのだけれども、作品としてどうだろう?正直「失敗作」という感が拭えない。演奏も酷かったのでその点を差し引いて考えても、管楽器である必然性が感じられなかったし、偏った編成によって何か特別なことをしようとしていたわけでもない。ハーモニーの合間にTrpの上行的な短いパッセージが打ち込まれていく、という構成法も別にこの編成でしかできない、というわけでもないし、低音が欠如した中音管楽器のみによるハーモニーというのは音が濁りすぎて正直聴くに耐えない。
 2曲目は「吹楽II」で初演されCDも出ているので知っている人も多いであろう小鍛冶邦隆「ポルカ集・タンゴ集I」。この曲は周期を微妙にずらした「脱臼したリズム」がとても魅力的な曲なのだが、それだけに演奏は実に難しい。洗足WOは少し早めのテンポ設定に果敢に挑戦し、がんばっていた。東京佼成と比較するのは酷というもので、たしかにそれと比べると危ういところもあったが、演奏としてはよくできていたと思う。 この曲は日本のISCM入選作初の吹奏楽作品(余談だが初期のISCMではシュミット「ディオニュソスの祭」も入選している)。日本における吹奏楽史において重要な作品となったことは記憶しておきたい。ところで細かいことだがこの曲は吹楽では「ブラスバンドのための」だったが今回は「バンドのための」に変更。タイトルに「I」が付け加えられたのは最近ピアノと室内オケによる「II」(内容はほぼ同じ)が書かれたため。これについては以前この掲示板でも話題にしたはずだ。
 3曲目はレスピーギ「ローマの松」。なぜ国際現代音楽祭という大舞台でこのような作品を演奏してしまうのかが不思議でならない(演奏団体推薦作品らしい)のだが、ここらへんに日本の吹奏楽関係者の視野の狭さを感じる。世界の楽壇の失笑を買ったこと気付いてすらいないのだろう。余りにも腹がたったので抗議の意味もこめ、演奏前に席を立った(私は二階席最前列の真ん中で聴いていた)。よって演奏がどうであったかはわからない。

 ISCMは今月10日まで開催されていますが、吹奏楽関係者が注目すべきイヴェントとしてもう一つ、7日の14:00からある「こどもみらい2001 コンサート1」でしょう。「こどもみらい」は「童楽」の世界版。すなわち「現代音楽と教育」の結びつきを追求した、ロンドンシンフォニエッタなどで研究と実践がなされているプロジェクトです。サウンドスケープ論や即興演奏理論の応用でもあるこの方法論を吹奏楽でやろう、というのが7日のコンサートの最後をかざる「ザ★みらいブラス!!」(このさいタイトルには目をつぶろう)。「吹楽III」において東横小学校が行ったのと同じく坪能克裕と瀬尾宗利のプロンプターによる集団即興が行われます。演奏はグラールウインドオーケストラ、文教大学吹奏楽部、横浜市保土ヶ谷小学校、横濱ジャズプロムナード2001より特別参加者、一般公募による参加者、村井秀清(ジャズピアニスト)です。「吹奏楽で音楽教育」というのを考えている人はぜひ聴きに行ってください。私はどうしても外せない用があるので聴きに行けないのが残念でたまりません。

レス 投稿者:NAPP  投稿日:10月 6日(土)03時48分33秒
 活発な議論、大変嬉しい状況です。引き続き御意見のほどを。
 私のほうからも思ったこと、追記したいことを。

> 結局、現代曲は「マニア」のものか
それを言ってしまえば、聴衆の数の差はあれ、吹奏楽は「吹奏楽マニア」のものだし、クラシックは「クラシックマニア」のもの、ジャズは「ジャズマニア」、J-POPは「J-POPマニア」のものでしょう。「マニア」という単語がしっくりこなかったら「○○好き」や「○○愛好家」、「○○オタク」などに置き換えてもいいです。自分と嗜好の異なる人には理解してもらえないことは音楽に限らず必ずあることだし、他人の嗜好についてとやかく言う権利は誰にもない。それだけのことだと思うのですが。
 とにかく大事なことは、まず自分と同じ嗜好を全ての他者に求めないこと。「知ってもらうきっかけを作る」ことはとてもいいことだけれど、「知ったけどやっぱりだめ」という人にはそれ以上強制することはできないはずだし、また、知ってもらおうとしている人の努力を踏みにじるような行為はやってはいけないことだと思うのです。
 あと、「現代音楽」のごく一部しか知らないのに全ての現代音楽を同じように見てしまうのは絶対に避けてほしいですね。全ての同時代音楽が「内向的」なのではなく強烈な外向性をもった(吹奏楽受けしそうな、か)ものもたくさんあるんですよ。共存させているものすらあるんだし。

> 一切の制限を無くした、「課題曲5制度」に期待しています
 私は実はあまり期待してません(笑) たしかに課題曲としての幅は広がるでしょうから現在よりもはるかにましになるであろうことは期待するのですが、それが「吹奏楽の新しい表現」に直結するかは疑問です。「一切の制限がない」なんて嘘っぱちで、例えば「S.Saxが6本必要」だとか、そういう極端はことは課題曲という性質上絶対にありえない。こういった媒体による表現ってのはオケでは絶対に無理で吹奏楽にしかできないことなんだから面白そうなんだけどなぁ(こういうのはプロにぜひやってほしい。全ての作品がマチュアに演奏可能である必要なんて存在しないはず)。
 あと、やっぱり音楽作品としてある程度の説得力を持つためには、曲の長さは12分くらいは必要ですよ(短くてもいいものはいいんですけど、それでもね)。課題曲(というよりコンクール制度)の限界はここにあるのでは。

>結局いい作品と演奏への出会いがあるかどうかでずいぶん
>変わっちゃうような気がします
 まさしくその通りだと思います。どこかにとっかかりができると、そこから辿っていくことは楽しいものです。では、どうやってそのとっかかりに出会うか、というとこれがなかなか難しい。今は便利な時代になりましたので、ネット上の掲示板などで「自分はこれこれこういう傾向の曲が好きなんだけど、そんな感じの現代曲って何かある?」と訊くのがてっとりばやいかな。


>ももたろうさん
 私はあのメンバーを、外で活動している音楽家として評価しているつもりなので容赦なくいきましょう。
 あの作曲家には固定ファンのようなものがついてしまっているので客観的な評価というのが実に得にくいと思っています(ある意味では吹奏楽の現状に似ていなくもない)。以前も言いましたが、アンケートに回答をしてくれる、という人は好意的な人ばかりである場合がほとんどです。そういった「身内の評価」ではなく、もっと外部からの客観的評価を得るためにも、もっと様々な客層にアピールしてもらいたいものです。そうした意味でも、この掲示板に集まっているような「現代音楽好き」な人や「現代音楽懐疑派」の人たちには、「現代音楽」を自称しながらも「私の音楽は全ての人に受け入れられる」と豪語する彼の作品はぜひ聴いてもらいたいものですね。私としても、どのようなレスポンスがあるのか実に興味深いところです。

>jun さん 投稿者:ちんぴら指揮者  投稿日:10月 5日(金)23時13分53秒
>結局いい作品と演奏への出会いがあるかどうかでずいぶん
>変わっちゃうような気がします。
そのとおりです!
しかしそんな出会いの場を門前で敬遠するのは勿体ないと言いたいんですよ。
聴いてみて気に入らなきゃそれはそれで悪いことではないのですからね。
実際junさんも「好みじゃない」なんて言いながらヘンツェが気に入ったりしてるでしょ?
ちなみに僕がそれまで興味の”キョ”の字も抱いていなかった現代音楽に一応目を背けないようになったきっかけは高校時代に金昌国さんのフルートリサイタルで福島和夫さんの「瞑」を聴いて大ショックを受けてからです。

http://www2.odn.ne.jp/~cau62570/


盛り上がってますね 投稿者:Jun  投稿日:10月 5日(金)22時42分03秒
じっくり読もうと思ってこのページと前ページをプリントアウトしたら、A4版の紙で20枚以上になりました(笑)。読みこむのも大変だこりゃ。

あんまりアバンギャルドなヤツは好みではありませんが、だからといって「現代音楽」は聴かないわけではありません。けっこう前にN響がヘンツェのオペラを演奏会形式でやってましたが(BS)、ああいうのも意外と好きだったりします。
『饗応婦人』も割に面白かったですし、7〜8年ぐらい前に佼成WOがユン=イサンの『無窮動』を演奏したときも、感動した覚えがあります。
食わず嫌いは世の常ですが、結局いい作品と演奏への出会いがあるかどうかでずいぶん変わっちゃうような気がします。私の場合は大学1年の時の『遠い呼び声の彼方に』(武満徹)と英国のモーリス・パートという作曲家の「交響曲第1番」(世界初演だった)が、いい出会いだったでしょうか。三善晃さんの『アン・ソワー・ロワンタン』というのも3年の時に演奏して、思い出深いです。

あのー 投稿者:プロメテウス  投稿日:10月 5日(金)16時50分31秒
今の現代音楽は、まだまだ甘いと思うのは、私だけでしょうか・・・。(^^;
もっともっと前進していって欲しいんですけど。

最近、どうも、作曲家もびびりだしたようで、逝ってる作品が少ないですよね。
吹奏楽コンクール課題曲も「饗応夫人」以来、さっぱりですし。

私は、一切の制限を無くした、「課題曲5制度」に期待しています。
2003年からでしたっけ?

現代音楽がマニアの音楽かと 投稿者:いしづか  投稿日:10月 5日(金)00時59分23秒
訊かれれば、おそらくそれは正しい認識なのでしょう。ただし、「クラシック音楽もまたマニアの音楽である」のと同様の意味でです。優れた音楽であっても、限られた数の聴衆にしかアピールしない場合は数多くあります。すると、マニア度というものは、聴衆の数で計られるものなんでしょうが、「現代音楽的な音響に親しめる人の数」と「いわゆるクラシックファン」の数を比べても、そう大差はないというのが昨今の状況です。いまや、「現代音楽を聴く人々」は「クラシックファン」の部分集合では無いし、クラシック界の外部にいるそうしたファンは、クラシックファンが想像するよりずっと多いのです。

タワーレコード新宿店にあるどの吹奏楽のCDよりも、クセナキスの「ペルセポリス」のCDが売れている。信じられないかも知れませんが、現代音楽に高い親和性を示す人は、かくも大勢いるのです。「ひょっとしたら、吹奏楽のオリジナル作品よりも、コアな現代音楽の方が所謂エンターティメントに近いところにあるのかも知れない」。そういう視点を持って現代音楽を聴くと新しい発見があるかも知れませんね。

あと、聴いたことが無い曲をあれこれ言うのは、聴くもの(あるいは表現の受け手)としての最低限のモラルに反していると私は思います。それは、対象が現代音楽であれ、吹奏楽曲であれ、モーニング娘。であれ同じこと。「吹奏楽オリジナルな作品ってマーチだけでしょ?」とか、「吹奏楽ではホルンは後打ちしかやらせてもらえないんでしょ?」とか言っている人が、「吹奏楽の芸術的価値」を語っても説得力が無いのと同じですね。まあ、表現の自由って奴で、別に語るのは止めませんが、恥をかくだけだから止めておきましょう、と老婆心ゆえに忠告しているんだと解釈しといてください。

たとえば 投稿者:いしづか  投稿日:10月 5日(金)00時35分30秒
新しく届いた吹奏楽コンクールの課題曲が4曲とも酷い曲だった場合。大抵の人は、「今年はちょっと酷いなあ〜」とか、「なぜ○○みたいなマトモな作曲家に委嘱しないのか」とか、「募集の条件に問題があるからかなあ〜」と、反応するわけで、「やっぱり吹奏楽はダメだ」なんて突っ走った感想を漏らす人は殆どいないわけです。

それは、「そこでたまたま選ばれた4曲が吹奏楽の可能性を全て表現している」なんて事はありえない事と、他にも良い曲がある事を皆が良く知っているからでしょう。

現代曲についても同じことで、ある演奏会で演奏された曲目が、現代音楽シーンを代表していて、それらを聴けば現代音楽を俯瞰するに十分なんてことはありえないわけです。

私が不思議なのは、そういう演奏会を聴いた人が、「今回はハズレでしたね」という感想ではなく、「現代音楽はやはりダメですね」という感想を露にするところなんです。現代音楽と一口に言っても、その作風は多岐に渡っているわけで、90%あるクズのうちの一つかも知れない何曲かを聴いただけで、全てを否定するのは論理の飛躍としか言いようが無いのです。そういうところに「思い込み」や「固定観念」の存在を強く感じます。

紹介ありがとうございます。 投稿者:ももたろう@オフィス・ザ・ピアノ  投稿日:10月 5日(金)00時01分10秒
NAPPさんから紹介のあったカプースチン演奏会マネージャです。
こちらで宣伝するつもりはございませんので(恐縮ですし)あえて内容や日時にはふれませんが、NAPPさんの御好意で載せていただきましてありがとうございます。ほんと感謝です。
カプースチンのいいところは音楽のジャンル関係なしに聞いたらとりあえず現代人がノリやすいところでしょうか。だからこんなのも一応クラシックということできちんとしたホールで生ピアノ演奏にふれるのには良いかも知れません。(長く聴いていられるかは人によるとおもいます。)

ただし、自分の価値基準がはっきりしている方々には賛否両論あるのが現状です。

でも、食わず嫌いはしないで聴いてから判断していただきたいのでその点ではNAPPさんのご意見は一つの目安になると思います(お手柔らかにお願いします>NAPPさん)

とにかくありがとうございました。取り急ぎお礼まで。

http://rat.freecom.ne.jp/~the-pian/


>如月 綾香さん 投稿者:ちんぴら指揮者  投稿日:10月 3日(水)23時16分55秒
HPの方に遊びに来ていただきありがとうございます。その上下記のような丁寧な文章まで頂き恐縮です。m(_ _)m

>「結局、現代曲は「マニア」のものか」…
残念ながらそれも現実なんですよね。従来音楽は感覚的なもので哲学ではないと思うんですが一部の現代音楽には理屈や実験的な試みのみを目的にしたようなものもあるのも感じます。
(要するに聴衆との距離があまりにあり過ぎる曲も多々見受けられます)
>「聴いてから文句を言いなさい」
これは少々誤解を与えたかな?実際は「聴いてみてから判断しましょう」の方が真意です。
結局は合うか合わないかの問題ですから、「僕には合わない」となってもそれはそれで悪いことではないと思うんですね。
ところで私自身は断じて「現代音楽マニア」ではございません。従ってその方面に詳しいかというと全くそんな事はないんですね。しかし演奏にしろ鑑賞にしろ同時代の音楽に理由もなく目を背けると言うのでは寂しいものがありますよね? 例えば幾つかの実験的な現代音楽を聴いたイメージで武満徹作品を「わけわかんなさそうだし・・・」と片づけては損はあっても得はなさそうです。
そんな意味で「懲りずに何度か聴いてみて判断してみては?」と思うのです。合わないと思えばしばらく離れても良いでしょう。いろんなのを聴いてしばらく年数が経ってから聴いてみると印象ががらりと異なることもないとも言えませんし。
>「現代曲を受け入れられない人に対する「固定観念」ではないのかな?」
これは良いこと書かれますね。ズシリときましたよ。
今後ともよろしくお願いしますね。

http://www2.odn.ne.jp/~cau62570/


コンクール全国大会結果を見て 投稿者:如月 綾香  投稿日:10月 3日(水)22時08分31秒
こんばんは、お久しぶりです。
…考えてみれば、登場頻度月一です。

ちんぴら指揮者さんのHPにて、コンクールの結果を見させていただきました。
「ダフニスとクロエ」は、相変わらずの人気ですね。
私が吹奏楽をやっていた頃、「著作権騒動」で「ダフニス…」がコンクールから消えたことを考えると、隔世の感です。
それと、「ダッタン人の踊り」がたくさんありますね。「ダッタン人…」は、昭和の時代にはたくさんありました。しかし、平成に入って火が消えたかと思ったのですが…。
レパートリーが一回りしたんでしょうか?(笑)
逆に、リードの曲が消えてますね。全国大会が「アルメニアンダンス」だらけだった私の現役時代には考えられないことです。
何故か、歌劇「トスカ」がいくつかありますね。楽譜が出版されたのかなぁと想像しましたが。
それとともに、プレイヤーは、どれぐらいオペラの内容を知っているのかなぁ…と。

それはさておき、プログラムの中で、とても懐かしいのを見つけました。
高校の部で金賞を受賞した福島県立磐城高校の「中国の不思議な役人」(バルトーク)です。
私が確か高校3年生だった頃(昭和57年?)、この組み合わせを東北大会で聞きました。ものすごい衝撃を受けました。特に、トロンボーン2本の掛け合いの部分で、2本の音色・音量ががほぼ一緒。まるで、1本でやっていたようでした。トロンボーンをやっていた者にとって、あれは本当にショックでした。
この年、磐城高校はやはり全国で金賞でしたね。

話は変わりますが…
現代曲についてたくさん書いてありますね。
私も、現代曲はダメなんです。
今週の月曜日、私が多少関わったコンサートがあり、アジアの現代曲も何曲か取り上げられ、最後は「展覧会の絵」でした。
私の周りには、クラシック音楽にほとんど縁のない人達ばかり。
感想は「俺には合わないね」「眠い…」「何か知らない間に終わっちゃった」etc。肯定的な意見の人は、残念ながら1人もいませんでした。
しかし、「展覧会の絵は良かった」と付け足す人がほとんどでした。
これが現実なのかな…と思いましたよ。

最後に、これを書いたら皆様にお叱りを受けそうですが…
「聴いてから文句を言いなさい」的な意見を見かけました。それまでの文章から、筆者の現代曲に対する熱意はとても感じられたのですが、残念ながら「結局、現代曲は「マニア」のものか」…という感を受けました。
私のような、現代曲を理解できていない(「しようとしない」の間違い??)人間にとって、「新しいモノを受け入れられないのは「固定観念」にとらわれているから」「新しいモノを認めている人への羨望だ」と大上段に構えて言われれてしまっては、「はぁ、そうですか…」としか言えないですよ。
それこそ「現代曲を受け入れられない人に対する「固定観念」ではないのかな?」と思ってしまいました。

長文になってしまいましたので、これにて失礼します。

http://members.goo.ne.jp/home/kisaragi-ayaka/


全国大会結果 投稿者:ちんぴら指揮者  投稿日:10月 3日(水)18時49分17秒
遅まきながら全国大会の結果と演奏曲目をアップしました。
関心のある方はご覧ください

http://www2.odn.ne.jp/~cau62570/


そして、「飢餓」とは? 投稿者:いしづか  投稿日:10月 2日(火)17時20分26秒
> 従来のクラシック音楽に親しんでいてかつ新しい音楽になじめない層の
> 「飢餓」を知ることです。

まず、「大衆性」という言葉の定義について。これが、メディアの発達によって先進国では誰しもが音楽を娯楽として享受できるようになった1950年代以降と、それ以前では、全く違う意味合いを持っていることは明らかですね。野村あらえびすが評論家として活動出来たのは、流行作家故の財力で一般庶民とは比較にならない程のレコードを手に入れることが出来たから、という時代と、普通のサラリーマンでも一生かかっても聴き尽くせない程のCDを集められる現代では、音楽受容における「大衆性」の持つ意味合いが当然変わります。メディアが音楽受容の形を確実に転回させているのです。また、3日と間をおかずにCD屋に通い詰め、面白いCDを物色しているコアなリスナーと、「レッスンに関連のある曲以外のCDを買うくらいなら、合コンに着て行く服を買う」と宣う、某音大ピアノ専攻の女の子では、どちらが音楽における「大衆性」を持った存在だと言えるのでしょうか?「大衆性」というものを一概に定義するのは非常に難しい。さらに、「クラシック音楽の大衆性」とは、クラシック音楽を聴く聴衆が、日本人全人口の1%にも満たないという現状の中での「大衆性」であることにも注意が必要です。それを踏まえた上で幾つか気付いたことなど‥‥。

1、従来のクラシック音楽に親しんでいた人間が、新しい音楽に馴染めないとしたら、その理由は何なのか?音楽自体が進み過ぎてしまったせい?私はそうではないと思います。1950年以前には、音楽の進化に聴衆が追い付いてこれるような環境があった。それ以後は、そうした環境が失われてきただけでしょう。新しい音楽の魅力を的確にアピールする人間がいて、誰もが新しい音楽に簡単にアクセス出来るようになったなら、状況は変わってゆくでしょう。事実、10年前は首都圏or京阪神近辺に住んでいなければ現代音楽のファンを続けることはほぼ不可能でしたが( 輸入盤LPを入手することも、コンサートで実演を体験するのも、そうした地域に住んでいなければ難しかった )、現在ではインターネット通販等で現代音楽のCDを入手するのも簡単になりました。ネット上の掲示板を読めば、普通の音楽ファンが現代音楽に親しんでいる現状を知ることも出来る。このことが現代音楽の普及を強く後押しするのは明らかでしょう。事実、大都市の大型CD店では、クセナキスのテープ音楽が、凡百のクラシック音楽CDよりも大量に売れたりしているのです。一般の聴衆が現代音楽に正当な評価を下すのは、これからだと私自身は感じています。新しい音楽に馴染めなかった人間に新しい音楽の魅力を伝える。「前衛」がエンターティメントとして聴かれる可能性が見えて来た今、これも「飢餓」を癒す方法の一つであり、相当の効能を持っていることは疑いありません。

2、もちろん、何度聴いても無調や偶然性といった語法に慣れることが出来ない人がいるのも事実でしょう。「いかに良いものであっても、万人に受け入れられるとは限らない」。クラシックには良い音楽が沢山あるわけですが、クラシック音楽を聴く人、というのは全人口の1%以下ともいわれていることからも、そのことが良く分りますね。さて、クラシック音楽界以外の世界をも視野に入れながら20世紀の音楽史を見廻すなら、20世紀もやはり「調性音楽の世紀」だったことがわかるはずです。19世紀には無かったジャンルで、調性音楽は独自の進化を遂げているのです。ジャンルに拘らずに音楽を聴くのなら、素晴らしい調性音楽を見つけることも出来るでしょう。才能のある調性音楽の書き手なら、クラシック音楽界にいるよりも他ジャンルにいる方が報われる時代です。19世紀後半に、ヨハン・シュトラウスやアーサー・サリヴァンのような作曲家が担っていた役割は、現在ではポピュラー音楽に分類される音楽の作曲家が担っていることも見逃せません。素晴らしい調性音楽を聴きたければ、そうした才能を追いかければ良い。とりあえず、矢野顕子の弾き語りでも聴いてみられては?ジャンルの壁を飛び越えることを厭わなければ、「飢餓」を満たすことも容易なはずです。優れたポピュラー音楽に比べれば2流としか評価しようのない調性音楽がクラシック界に濫乱したとしても、そうした「飢餓」は癒されるものではないでしょう。原博氏みたいに、「クラシック音楽界独自の方法論( =機能和声 )を駆使して、新しい調性音楽の歴史を作って行くんだ」という意気込みを持つ人には期待をしたいところもあるけど、それが生半可なことで実現出来るとは思いません( 古い方法論を深化させて新しい事をやるより、新しい方法論で凄いものを作る方が一般に簡単だからです )。吉松氏が過去に書いたそれなりに優れた作品が、戦後前衛の方法論を調性の枠内でやってみる、という「新しい」手法によって書かれていたのも示唆的です( 氏の近作が駄作ばかりなのは、私も全く同感ですが )。プーランクみたいな天才というのは、そう簡単には出て来ないものなんです。

3、19世紀初めは、演奏会で聴くことが出来るレパートリーの殆どが同時代の作品でした。対して、現在では、古今東西あらゆる音楽を聴くことが出来るわけです。現代に面白い曲が無いというのなら、過去の知られざる名曲を発掘する、というのも一つの選択肢です。そうすることでクラシックファンの持つ「飢餓」の殆どは癒されてしまうものでしょう。事実、多くのクラシックファンは、クセナキスやノーノ同様、吉松やナイマンにも興味が無いわけで‥‥。確かに、クラシックの名曲をあらかた聴いても、なお癒せない「飢餓」を持つような人はいるわけですが、そういう人は、案外「前衛」もすんなりと受け入れてしまうものだったりします。現代音楽はロマン派とは遠く離れているけど、バッハやベートーヴェンとは意外な親近性を持っていたりするものなので、自分の耳を頼りにクラシックのコアな部分を楽しんでいる人なら、先鋭的なポピュラー音楽のファン以上に現代音楽に高い親和性を示す場合もあるのです( 音楽自体よりも、クラシック音楽の「既に確立した評価」や権威を愛する人は、それが聴きやすいものであれ、前衛であれ、現代音楽なんて聴かないのでしょうが )。

苦行ですか‥‥(笑) 投稿者:いしづか  投稿日:10月 2日(火)17時13分39秒
書いたものの、nappさんの書き込みを読んで、投稿しようかしまいか迷ったものですが、これが無いと話が中途半端になりそうなので、投稿しておきます。「傑作が1割しかないのは」の後にくるはずだった文章です。

> 「芸術発展のための苦行」はちょっとカンベンして欲しい人は多いでし
> ょう。仕事で聴いてる訳じゃないですから。

 苦行?そうでしょうか?少なくとも私は楽しんで現代音楽を聴いているのですが‥‥。実際、スパークの作品集などを聴いているより、ノーノの作品を聴いている方がリラックス出来ます( 特に80年代以降の作品はお薦め。これらの作品には前人未踏の「美」があります )。そして、自分がそんなに特殊な人間だとも思いません。ノイズやテクノの専門店で他の客を見回しているときに、私と同じように音楽に接しているであろう人々を良くみかけます( 彼等が抱えているCDを見れば、そういうことはわかりますよね )。

 新しい音響に慣れるのに2年も3年もかかるというなら、それは苦行でしょうが、虚心に聴き込むことすら出来れば( ←ここが重要 )、2〜3回も聴けば自分なりの楽しみ方を発見できたりするものです。実に簡単なことなのです。しかし、世の中には、そうした簡単なことすらせずに( 虚心に音楽に対峙することすら出来ずに )、現代音楽に対する評論や意見を書いてしまう人々がいるのです。そして、そういう人が書くものを読んでしまうと、本来簡単なことが殊更難しく感じられたりする。それだけのこと。それに、私はなにも「芸術発展のために」現代音楽を聴け、と主張しているわけではなく、見知らぬ世界に勇気をもって少し足を踏み出すだけで、「現代音楽が楽しめる」ようになる人が大勢いるだろうから、ああいった入門用の文章を書いているだけです( それによって、吹奏楽に新しいレパートリーが加わるだろう、というのは、あくまでも副次的な話に過ぎません )。

 さて、「現代音楽は難しい」といったことを再三に渡って繰り返されておられますが、そもそも、「『現代音楽の難しさ』などは聴覚上の不慣れを難しさと勘違いしたための共同幻想ではないのか?」というのが私が寄稿した文章の要旨でありました。

 クラシックファンとは違った聴覚経験を持つ人間からしてみれば、通常のクラシック音楽よりも現代音楽の方が解りやすい場合もあるのです。「現代音楽は難しい」なんてのは一つの主観に過ぎないわけでしょう?クラシック( 特にロマン派 )ばかり聴いている人には、あまり理解頂けないようですけど‥‥。私が先の文書で名前を挙げた一流ロックミュージシャン達が、いわゆる新ロマンを標榜した「聴きやすい現代音楽」よりも、前衛のコアな作品をリスペクトしているのには、そうした理由もあるのです。

 私は知人の高校生にヴォーン・ウィリアムズとラッヘンマン、それぞれのチューバ協奏曲のCDを貸してみたことがあります( 別に他意があったわけでは無く、私が所有しているチューバ協奏曲のCDなど、その2枚しかなかったからなのですが )。彼女は、いわゆるクラシック音楽にはほとんど興味が無く、聴き手としてはJ-POP を中心とした音楽生活をしているようですが、驚いたことに「ラッヘンマンの方が面白かった」との感想が返ってきました( ヘルムート・ラッヘンマンについてはご存知ですね?特殊奏法を駆使して、ノイズに満ちた魅惑的な音世界を構成する、ドイツの現代音楽作曲家です )。こういう、クラシックファンには想像もつかないような尺度で音楽を聴いている人が生まれ始めている事実をまず認識しておきましょう。

 クラシックファンが「現代音楽が難しい」と考えてしまうのは、伝統的なクラシック音楽との距離を常に計りながら曲を聴いてしまう観賞の態度に原因がある場合が多く、ラッヘンマンやクセナキスのようなコンセプトが明瞭で個性的な音響を持つ音楽というのは、かえって「わかり易」く、数回も聴けば自然と耳に馴染んでしまう場合もあるのです。まあ、慣れればその「距離」も大したものでは無いことがわかるはずなんですけどね。ここで繰り返しますが、耳に慣れない音響に慣れることは、耳に慣れない言語に習熟するよりも遥かに簡単なことなのです。何年もガマンしないと現代音楽の個性的な響きに慣れることが出来ない、なんてことはありません。確かに、その際に頭の中のしがらみが邪魔をして、理解を遅らせることもあるでしょう。むしろその方が問題なんですよね。まあ、そういう人はえてしてポピュラー音楽の凄い部分も正当に評価することが出来なかったりするものですが‥‥。思い込みによって凄い音楽を正当に評価出来ないということは、対象が複雑な音楽であれ、逆に単純な音楽であれ起こり得るものですからね。第2次大戦後、ガーシュインがヨーロッパで注目され始めた頃、サード・ストリームの連中が「ガーシュインなどがアメリカ音楽の代表として紹介されるのは国辱ものである」と主張をしていたのを思い出します。シェーンベルクがガーシュインとテニス友達として付き合いつつ、ガーシュインがリズムを扱うセンスを「天才的」とまで称賛しているのとはえらい違いです。

まず質問を 投稿者:いしづか  投稿日:10月 2日(火)17時05分36秒

> しかしながら、ベートーヴェンとロックの距離より、ベートーヴェンと
> クセナキスの距離の方が遠いのではないでしょうか? 

 ここでクセナキスを引合いに出してらっしゃいますが、これは、クセナキスのどの作品をお聴きになっての感想なのでしょうか?これは是非お答え頂きたい。

 何度かお聴きになった上で、「ベートーヴェンとロックの距離より、ベートーヴェンとクセナキスの距離の方が遠い」と結論を出されたわけですよね?

 正直言うと、私にはそうは思えないのです。テープ音楽はともかくとして、彼の管弦楽曲やアンサンブル曲を聴いて思うところでは、ベートーヴェンとストラヴィンスキーとの距離が3程度だとすると、ベートーヴェンとクセナキスとの距離は4といった程度でしょう( 加えて言うなら、グレインジャーの自在音楽とクセナキスのテープ音楽との距離は0.5といったところでしょうか )。また、アルディッティ弦楽4重奏団による、ベートーヴェンの「大フーガ」ではじまり、クセナキスの「テトラス」で終る素晴らしいアルバムを聴いていると、バッハとヴェーベルンが遠そうにみえて近いところにいるように、ベートーヴェンとクセナキスとの親近性も感じられてきます。2人を結びつけるキーワードを1つ挙げるなら、「ポリフォニックな音の処理」でしょうか。ベートーヴェンは対位法の技術によって、クセナキスは音組織を樹形図的な構造をもって構成することによって、それを実現しているところに差があるのですが。

 あと、ついでですが、クラシックにもバッハからスッペにいたるまで、様々な作曲家がいるように、ロックにもビートルズから灰野敬二まで様々な音楽家がいるわけだから、「ロックとベートーヴェンとの距離」なんて計量がナンセンスであることは指摘しておきましょう。

傑作が1割しかないのは‥‥ 投稿者:いしづか  投稿日:10月 2日(火)17時04分29秒
> まず第一に「響きが新しい(耳になじまない)」上に「傑作は1割かも
> しれない」音楽を聴くのはツライ。という点があります。芸術の守護者
> を任じていた貴族(パトロン)でもなければ、それでメシを食っている
> 批評家でもない、単に音楽を享受したい者(つまりユーザーというか消
> 費者)がほとんどの現代の聴衆にとって、これはきつい状況であること
> は間違いない。

 9割はクズなのは、なにも現代音楽に限らないと思うのですが。

 現代音楽界に地殻変動のようなものが起こって、誰もが調性的な音楽を書き始めたとしても、発表される作品のうちの9割は、ゴミとして時代が進むにつれて淘汰されることになるでしょう。

 また、数多くの「聴衆」が、「傑作は1割かも知れない」音楽を日々聴いていることを忘れてはいけません。歌謡曲だって、ロックだって、ジャズだって、映画音楽だって、テクノだって、ノイズだって、日々発表される音楽の9割はクズなのに変わりは無いのです。「評価の確立した音楽を聴く人達=クズを聴くことを出来る限り避けようとする人達」であるクラシックファンなどは、はっきり言えば少数派なわけです。多くの音楽ファンが、知ってか知らずか、日々膨大な量のクズを含む音楽を聴いている。それが同時代の音楽を聴く者の宿命でしょう。もちろんそれは、吹奏楽曲を巡る現状に関しても同じ事が言えて、毎年のように発表される吹奏楽の新曲のうち9割は( いや、おそらく99%は )クズなわけですよね。

 「ほとんどの現代の聴衆にとって、きつい状況」と言われるが、現代の聴衆のほとんどが、また吹奏楽関係者の多くが( 耳触りの良い悪いという尺度を度外視すれば )そうした「きつい状況」に立っているという「事実」を忘れないで頂きたいものです。

re:ある「飢餓」の存在を推測する 投稿者:NAPP  投稿日:10月 2日(火)03時46分04秒
>益野さん
 おそらく多くの人が自らのものとして感じているであろうスタンスからのご意見、ありがとうございました。大変意義深いものとして読ませていただきました。

 レスの前に断っておきたいのですが、私は勿論いしづかさんと同じような考えを持つ人間なのですが、益野さんが書かれていることも、とてもよく理解できます。当然、私はどちらかが正しいとは思わないし、どちらも間違っているとは思いません。どちらの主張も、それぞれの培ってきた音楽観から導き出されたものであって、それが人それぞれであることはむしろ喜ばしいことであることは言うまでもありません。
 これから書くことは、益野さんはすでに十分にご承知のことだと確信していますが、書かせて下さい。

>「芸術発展のための苦行」はちょっとカンベンして欲しい人は多いでしょう。

 たしかに、限られた資産から出資して手に入れるのですから、「ハズレがない」ことを願って(選んで)聴く機会を作る(演奏会に行く、CDを買う)のは仕方がないと言えるかもしれません。 しかしながら、「ハズレかもしれない」ことを覚悟で出資している身としては、この「川の砂利から砂金を探す」ような作業自体に喜びを見出している、という側面も否定できません。買い物をするときに「目的のものを買う」のと「福袋を買う」の違いに近いかもしれない。「結果が分かっている」ことに対する喜びと「結果が未知である」喜びの性質は異なるものですが、その「どちらがよい」ということはないはずです。どちらにより喜びを感じるか、ということにすぎないのですね。

>新しい音楽に積極的にコミットする(「分かる」「感動する」と発言する)人々に
>対する嫉視、さらには劣等感の裏返しとしての反発を持つ人も実際問題として存在
>するでしょう

 それは、その前提として「新しい時代の音楽は、昔の音楽に比べて優れているものだ」という誤った考えが、その人たちのどこかに存在してしまっていることの顕われだと思うのです。本当に自分の好きな音楽が素晴らしいものだと信じているのであれば、現在形の音楽と比較しても劣等感を持つこともないだろうと思うのです。少なくとも私は同時代音楽よりも古典音楽の方が「理知的ではない」とか「表現性がない」とかそういうことは絶対に思いません。

>「批評家」「ジャーナリズム」

 現代音楽とこれらの結び付きは実に難しいことです。「○○のようだ」と形容する対象も少なく、何らかの体系付けを行うにも今この瞬間でさえ無数の分岐が行われているのですから(そしてその大半が淘汰されてしまう)。また、「その後」が分からない以上、音楽史学的な考証を加えることも半分(それまでのこと)しかできず、結局一般の聴衆と対して変わらない立場からでしかアプローチできない。 これら2つの理由から「整理」することができず、効率的なイントロダクションが非常に難しいことは「現代」ならではのことだと思います。むろん、そこを何とかしてほしい、と思わずにはいられないのですが。

>「進歩史観」的な風潮

 先にも書いた通り、少なくとも私はこういう考え方が大嫌いなのですが、私個人がそうでも仕方がない。やはり、現代の作品というものがいかに過去の作品の上に立脚したものであるか、というのがきちんと理解されることが大切なのではないかと思います。
 この夏にモーツァルテウムに留学したピアノの友人は、シェーンベルクの十二音音楽とバッハのクラヴィア曲集との共通性についてビッチリ教え込まれたそうです。これがどういうことを意味しているかは明白ですね。

>私は無調だの12音だのはやっぱりあの暗さがイヤな感じ

 これは余談なんですけど、十二音技法が開発されたのとレスピーギが「ローマの松」を書いたのでは、後者のほうが後なんですよね。でも、十二音が「前衛」でローマが「古典」扱いなのは年代順でなく作風別でカテゴライズする音楽学のトリックです。「暗さがイヤ」と印象で判断してくれるのは嬉しいです。

>「私だって、ベートーヴェンの展開くらいは分かる」「主題の循環くらいは楽しめる」
>という層が、実は置き去りになっているのではないか

 しかし、その「置き去り」になってしまった人たちには、余りにも遠くに行ってしまった人たちを遠望して嘆くよりも、自分の足元を見て、一歩一歩を確実に歩いて「いつのまにか」追い付いていてほしい。「中略」していきなり遠くにワープさせられても混乱するのは当然ではないでしょうか。道程の途中においしそ〜な団子屋があったらそこに留まっていても誰も咎めませんよね。 まぁ、「地図がない」という現状は否定できませんが。
 あと、遠くにあるものは集合体として把握され、個々については詳細には認知されないものですね。たまたま聴いた同時代音楽が性に合わなかったからといって、無数の傾向のある全ての同時代音楽を性に合わないんだろうと推測してしまうのは意外によくあることですし、避けてほしいことです。それって、へたくそな中学校(失礼!)の吹奏楽部の演奏を聴いて、全ての吹奏楽の可能性を疑問視してしまうのと同じことだと思うのです。


 以下、私の自論によってレスに代えさせていただきます。それは「観点によって名曲の定義は常に変わる」ということです。
 例えばショパン。ショパンのピアノ曲においてその大半は音楽的展開というものが実に乏しいものです。ただ単に原旋律をやたら装飾しているだけで本質的な意味での展開を成していない。極論すれば作曲的にはある意味で稚拙である、と言えるわけです。しかしながら、同じ曲についてピアニストに言わせれば「これほどピアニズムの可能性を引き出した曲はない。これは名曲中の名曲である」とのこと。ここに「作曲的観点による名曲」と「ピアニズム的観点による名曲」のズレが生じています。どちらが正しいか?という質問はナンセンスです。
 同じようなことは、いわゆる「大衆性」と「芸術性」との間に生じるズレについても当てはめることができるのではないかと思います。例えば「乙女の祈り」や「エリーゼのために」。何をもって「名曲」といいますか?何をもって「幼稚な曲」といいますか?
 大事なのは二点だと思います。
 まずは自分のスタンスを明確にすること。自分は何をもって音楽を判断しているのかを明確に(言語化して)持っておくこと。
 もう一つは、別の観点による評価を理解すること(賛成する必要はない)。自分の価値観が他の人にも当てはまるとは決して思わないこと。
 この二点を踏まえた上で、自らの音楽論を確立できたなら、例え反対の立場にいる人にもそれなりに理解をしてもらえると信じています。
 私は今年の5月に益野さんとお会いできたとき、益野さんが私が以前推薦した作品をきちんと聴いてくださっていて、それについて「いいんだけど」と前置きをしつつも「ここが不満だった」とはっきり述べてくださったのがとても嬉しかったですし、敬服しました。こういう方の意見は大事にしたいですね。

 最後、これは余談(というより宣伝?)なのですが、
>B級と見られがちな娯楽性の強い作品にスタンスをおきながらA級の牙城に迫る者は
>居ないのか?
 近年急速に注目を集めている作曲家にカプースチンというのがいます。正直、私の観点からはA級かどうかは大いに疑問なのですが、多くの大衆(というかピアニスト)の支持を集めているロシアの(自称)現代作曲家です。たしかに古いジャズの語法を用いた独特のピアニズムはピアノ弾きの人にとっては魅力的なのだろうし、このタイプの曲が好きな人には「ノリノリで聞ける」のでしょうね。私の仲間がこの作曲家の作品だけを集めた演奏会を11月6日に行います。興味のあるかたは聞きに行ってあげてください。下記のサイトで作曲家の紹介なども見ることができます。
http://rat.freecom.ne.jp/~the-pian/
 私のこの作曲家に対する本音を聞きたい人はメールください(笑)