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続・旧ソ連の作曲家 投稿者:プロメテウス
投稿日:10月16日(火)21時04分45秒
>NAPPさん
色々とありがとうございます。結局のところ、ソ連で活躍をした、有名な作曲家では・・・
プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、グリエール、ハチャトリアン、ストラヴィンスキーといった感じでいいのでしょうか。プロコフィエフは晩年には国内で活躍していましたよね。
ソ連の作曲家は、それこそ色々と言われるのですが、私は文句無しに好きなんです。
これは、思想とか哲学とかではなくて、好みに合致しているといった理由です。
ソビエトの国歌も、世界の国歌の中で一番好きですし。(^^;
これから半年は、「ソビエトづくし」で行こうと思ってます。(笑)
アン・ソワ・ロワンタン 投稿者:べし
投稿日:10月16日(火)19時50分36秒
はじめまして(初書き込みだった気がします)。
ちょっとむかし(10/5)のレスですみません。
Junさま
>三善晃さんの『アン・ソワー・ロワンタン』というのも3年の時に演奏して
それは、武満、三善、春の祭典というプログラムの演奏会でしたか。
新響も日本人作品を熱心にやっていますが、ちょっとこれにはかなわないなという感じの演奏会でした。
《アン・ソワ・ロワンタン》も、もっと知れていないといけない作品です。
たしか《響紋》のひとつ前のオーケストラ曲ですね。
作曲者がイマイチ気に入らなかったりすると、ぜんぜん世に出ないこともあります。
CDも楽譜も出てないので、なんとかしてほしいものです。
re:「旧ソ連」の作曲家 投稿者:NAPP
投稿日:10月16日(火)19時42分47秒
グラズノフを旧ソ連の作曲家と言うのは異論があるかもしれませんね。1928年までペテルブルク音楽院の院長をしていたのですが、28年以降はパリで活動をしているわけですから(ちなみに22年には人民芸術家という称号をもらっている)。プロコ、ショスタコの師でもあるから多大な貢献をした、と言えば入れてもいいけれど、それを言うならリムスキー=コルサコフ(1844〜1908)も入るのか?
ラフマニノフも難しいですね。旧ソ連時代はずっと国外で活動しているのですが、スターリンが第一級作曲家として迎えようとしていた、ということを考慮すると入れてもいいかな、という気になる。
ということで、「ソ連国内で活動していた」という風に限定すると数が減る可能性は高いです。
ハチャトゥリアンは問題ないと思いますよ。「プラウダ」といえばプロコ、ショスタコを批判した、というイメージが先行しますが、ハチャトゥリアンを新進気鋭の作曲家として売り出した機関誌でもあるんです。
ふろんめさんのサイトのリストに載っている作曲家で十分だと思いますよ
訂正とか 投稿者:プロメテウス
投稿日:10月16日(火)18時37分09秒
「NAPP」と呼び捨てになってしまっています。
「NAPPさん」です。すみません。m(_ _)m
「旧ソ連」の作曲家 投稿者:プロメテウス
投稿日:10月16日(火)18時35分51秒
>谷口さん
書籍の紹介、ありがとうございます。
70年代発行の洋書というのは、入手が難しいですね・・・。
>NAPP
同じく、ありがとうございます。
以外にもたくさんいるのですね。殆どの人が亡命してしまったと思っていたので、ハチャトリアンやグラズノフも旧ソ連の作曲家だったというのは知りませんでした。その後、いろいろと検索をしてみた所、下記のホームページにて、年表のような物を発見しました。クラシックファン程度であれば、そのホームページに記載されている作曲家程度で大丈夫でしょうか。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/fromme/kali/rusart.html
訂正と 投稿者:NAPP
投稿日:10月16日(火)17時30分18秒
>「作曲者→演奏者→視聴者」の関係
の中で
そのような「苦行」を演奏することに楽しみを見い出しているアマチュアの人達に
は、
そのような「苦行」を、演奏することに楽しみを見い出しているアマチュアの人達に
ですね。読みにくかった。
「ライトクラシック」や映画音楽については、ホント情けないほど知識がないのですが、ピアソラなどの扱いはどうなるのでしょうか?
なんとなく吹奏楽で今現在作曲されている曲の大半がここに分類されるような気がするのですが。
だいせいきょ〜 投稿者:NAPP
投稿日:10月16日(火)17時05分50秒
油断してたらこんなにたくさん・・・・・ 大盛況感謝です。色々な立場や視点からの意見が一つの場所でぶちかりあうのはいいですねぇ。
全ての方にレスをつけてる余裕がないですので、特に気になった点を中心に書きました。ゴメンナサイ。こうなると管理人といいうより1読者ですな(笑)
>如月綾香さん
>理想はたくさんの現代曲を聴いたあとに感想を述べるということですね。
(いしづかさんへのレスより)
そういった「批評基準」のことではなく、ほんの一部を聴いただけで全体を否定してしまう「批評態度」の問題だと思うのですが。 それはともかく・・・・・
>「良いもの」と「クズ」の選別は誰の判断ですか?
まず「良いもの」というものが基本的には人によってそれぞれである、ということが話を難しくしていると思います。先日私はピアノの「名曲」の例を出しましたが、あのように、受け手側の立場(好みだけではなく)によって「名曲」の基準が大きく違う。音楽批評の難しさの一因はそこにもあるわけで、批評する人には「自分がどの立場からその音楽に接しているのか」ということを明確にしておいてほしいものです。
しかし、あんまりそんなことばかりを言ってると何も言えなくなってしまうわけで、一応、万人に通じる普遍的な共通項(個人的嗜好を混ぜない客観的判断によるもの)を見い出さなければいけない。それは、例えば既存の音楽作品と比べた場合に見受けられる独自性など。すると、やっぱりムズカシー文章になってしまう可能性が高いし、「比較する対象」をたくさん持っておかなければならない(「客観的な判断基準」についてはコラム「音楽大学に在籍して思う」にもちょっと書いてるので御参照ください)。
音楽批評はじつに難しいものです。音楽はもともとが超言語的なものですので、それを言葉という枠のなかに嵌め込んで第三者に魅力として伝えるのはムリがある。それでも何とかしないといけない、音楽ジャーナリストの人達には「がんばってください」としか言えません(笑)
付け加えると、ゲンダイオンガクヒハンをしている人に対する「批判の批判」は、「現代音楽を受け入れられない」ということを非難しているのではなく、「個人の嗜好を一般論に飛躍させる」という批評態度が非難されているのだと思います。
>映画音楽は好きだがクラシック音楽はどうもダメという人に「好きな曲は?」
>と聞いたら、その曲の元曲がワーグナーの「ワルキューレの騎行」だった…
>という話もあります。
プロメテウスさんの文章にも同様の文章がありますね。確かにあまり意識しないところで現代人は様々な「現代音楽」や「クラシック音楽」に数多く触れているわけで(「2001年宇宙の旅」にリゲティ「アトモスフィール」が使われているのはあまりにも有名)、潜在的な愛好家というのは多いのでしょう。そこを利用すれば「宣伝」は確かにやりやすい。
でも、ここで一つの疑問が生まれます。それは「君が好きなのは実はクラシックなんだぜ」と言うことが「クラシックを特化している」ということになっているのではないか、ということです。「音楽は音楽。ジャンルの壁はない」という考え方と「クラシックにもっと親しんでほしい」という考え方の間の微妙な点です。どっちがいい、というものでもないとは思うのですが、なんだか自分の中で釈然としないものが。
また、どんなに多くの人に好まれている音楽(例えば多くの人が挙げているように映画音楽や劇中音楽)でも、「クラシック」とか「現代音楽」というレッテルを貼られてしまった途端に敬遠されがちになってしまうのは、もはや音楽的な中身よりも、そこを離れて言葉のイメージだけが先行してしまった故のことだと思います。こうなるとどうしようもない。
>しかし、現代曲の作曲家やファンが、一般の人(言い方は悪いですが…)に
>対して、その魅力を「わかりやすい言葉」で知らせているのでしょうか?
「現代音楽」に限らず、そもそもが抽象的な存在である音楽作品を「言葉」で伝えるのはほとんど不可能に近いことだとは思いませんか?例えば古典派やロマン派の音楽作品を、全く音楽的知識のない人に対して、その魅力および「他の作品とどこが違うのか」を全く予備知識を必要としなくても理解させることができるでしょうか。現代音楽に限ってそのようなことが多く言われてしまっているようなのは、なぜでしょう。
>では、現代曲の作曲家がどれぐらい「外」にアピールしているんでしょうか?
>これは、私の仕事上の感覚では、ヨソのジャンルに負けているんじゃないか
>と思うんですよ。
それは言えてます。まぁ、作曲家にはそういうことが苦手な人が多いから、と言っちゃえばそこまでですが、そのためにアートマネージメントという職業があるわけで(ここらへんは音楽のみならず現代美術にも言えること)。 これだけだとあんまりなので、一応もっともらしいことを書かせていただくと、作曲家自身の売りこみがそのまま採用されることは、第三者による客観的判断という「振り落とし作業」が欠落することになるので、一度客観的かつ専門的な視点からの選定を受ける意味で、見識あるアートマネージャーの目を通しておきたい、と思うのですが。 アートマネージメントの方法については門外漢なのでよくわかりませんです。
>プロメテウスさん
>「旧ソ連の作曲家」
帝政ロシアと冷戦終結までの間(1922〜1991)で、ということですね。有名どころではハチャトゥリアン、ラフマニノフ、グラズノフ、カバレフスキ、シュニトケ、ミャスコフスキ、シチェドリン、アレクサンドル=チェレプニンなど(グバイドゥーリナ、ペルトは含むか?)。マイナーどころではニコライ=チェレプニン、ウストヴォルスカヤ 、デニソフ、モソロフ、ニコライ=ロスラヴェッツ、イッポトリフ=イワーノフなど。もっといるはずですけど、ざっと挙げたかぎりこんなもんですか(あまりウラ取ってないので自信ないですが)。
旧ソ連の作曲家は現代音楽連盟ASMとプロレタリア音楽集団APMの二派に分かれたり、全ソヴィエト作曲家連盟に統一されたりして興味深いのがいっぱいあるんですけど、なかなか資料がないんですよね。筑摩書房から井上頼豊著の「ソヴェト音楽の三十年」という本が出ていたのですが、かなり以前のものなので現在でも手に入るかどうか(ソヴィエトではなくソヴェトなんですね)。
>「作曲者→演奏者→視聴者」の関係
私が演奏者に望むのは、消費者ではなく供給者であってほしい、ということです( >誰かさん)。視聴者には色々な嗜好の人がいるわけだから、彼等に供給される音楽は多種多様であるべき。しかし、演奏者が自らの嗜好のみで演奏する音楽を選別してしまったら(=消費してしまったら)、視聴者にはその結果しか届かない。そんなところからは音楽の多様性など生まれようはずもない。 だからこそ、演奏者には自分の嗜好とは別に音楽的価値のあるものに対する選定眼を持っていてほしいし、好みでないものも演奏してもらいたい。しかし、そのような「苦行」を演奏することに楽しみを見い出しているアマチュアの人達に要求するのは心苦しいので、そのためにプロの演奏家というものがいるはずなんですよね。自分の好みだけで演奏会プログラムを決めてしまうのはどうなのかなぁ。
>三者関係が壊れていたという事はないはずです。どこからの情報でしょうか。
「三者関係が壊れていなかった」というのも初耳ですが。通説は通説であって全てを語っていない。Mozartが「自分の理想とする架空の聴衆に対する音楽」も書いていたことも「通説」の一つとしてありますよ。
>壊れだしたのは、音楽が無調へと進み始めた頃からです
となると、リストが1885年にピアノのための「無調バガテル」を書いたころから、ということになりますが、えらい昔のことですね。その後百年以上たってるわけですが、その間にどうなっていたでしょう。
私見 投稿者:谷口昭弘
投稿日:10月16日(火)16時42分11秒
> 20世紀前半まで、あるいは50年代くらいまで、「軽音楽」「ライトクラ
>シック」などと呼ばれていた分野が、その後急速に衰退しましたよね?
>あの需要は実はもっとあったのではないか、というのが今回の仮説です。
カーメン・ドラゴンやアンドレ・コストラネッツの復刻が進んでいるところを見ると、軽音楽を懐かしく聴く聴衆層は存在しているのかもしれませんね。コステラネッツは最近聴いてますけど、なかなか面白いですよ。案外安易っぽくない。
ポピュラー音楽自体も、戦前はスウィング調のビートを持ったものだけがおそらくそれまで席巻していて、違うジャンルに走った人も多かったんではないでしょうか。軽音楽の根はミュージカルとかにもあったでしょうし。
60年代以降は、クラシックとポピュラーの境目がはっきりしてきたことが原因の一つではないでしょうかね? ポピュラー音楽が多様化し、スイング系以外のジャンルも増えたでしょうし。クラシックとの境界線のような響き、オケの響きが古いという感覚があるんじゃないかなあ。ラテン・バンドのブームもあったみたいですしね("I Love Lucy"みたいなテレビ番組もありましたしね)。明確に世代交代があったんではないでしょうか。ジャズにしても、スイングバンドとビバップ以降の連中は分かれたでしょうし。
確かに軽音楽世代は、結局取り残されたような形になるのかな。結局はイージーリスニングや映画音楽の方向に行くというか。いしづかさんがお挙げになった方向でしょうかね。映画音楽のコアな部分でないマンシーニもあったでしょうし、スタンリー・ブラックもあったでしょうし。もう少しクラシカルなら、西のハリウッド・ボウル、東のボストン・ポップスは、現在も続いているし。ポピュラー音楽史もジャズ/ロックを中心に見ると、結構見えてこない部分がありますね。
>「聴きやすい現代音楽」の聴衆
やはりクラシック系の聴衆が多いんではないですかね。定期公演で取り上げても、あまり抗議が起こらないだろうし、新しい曲はちょっとダメという人にはありがたい。クラシックの伝統は続いて欲しいんだけど、無調っぽいのはダメって言う人は、やっぱりいますよ。若い人も多いのでは? Argoのジャケを見る限り、軽音楽の世代を狙ったとは考えにくい。私もラジオではやってるし (^_^;;
現代音楽に不満を持った人たちの逃げ場、みたな存在でもあるんではないでしょうかね。親しみやすさは欲しいけど、ポピュラーにしたくない。ポピュラーに親しんだ人に、クラシックを味合わせたい。いずれにせよ、クラシック側の論理であるように思います。それが良かろうと、悪かろうと。
もちろん、「カタいこと言わずに、もうちょっとクラシックのオケでポップしようぜ」っていう人もいると思いますけど。アメリカの場合、作曲家はだいたい、そんな感じじゃないですかね。これも、善し悪しは別として。
まあ私個人としては、やれ現代音楽はダメだの、聴きやすい現代音楽は安易だのという争いにならなければ、とりあえずは良いと思いますけどね。
http://mailer.fsu.edu/~ataniguc/index-j.html
というか 投稿者:のの
投稿日:10月16日(火)15時14分31秒
「聴きやすい現代音楽」がそういう風に位置づけされ直されれば、正統現代音楽へのルサンチマンから罵詈雑言とクオリティの低い音楽を垂れ流している人々が淘汰されるのではないかと思って。
クラシックも、水膨れ状態から脱すれば、ビッグビジネスにはならなくても、最高水準の音楽が部外者にもアクセスしやすくなって(現在では、消費財の奥にひっそり佇んでいる状態)、長い目で見れば新しいファンの獲得にプラスになるはず。
昨今のハリウッド系映画音楽(昔はまた別)は、現時点での「聴きやすい現代音楽」よりはましでも、かつてのライトクラシックの水準には達していないと思うのですが、いかがでしょう?
Re:ひとつの仮説 投稿者:いしづか
投稿日:10月16日(火)14時54分30秒
確かに、ライトクラシックが斜陽化し始めたのは、50年代の初めくらいでしたね。ルロイ・アンダーソンの「ブルータンゴ」が、クラシック系レコードとしては初めてミリオンセラーを記録したのが丁度その頃で、その後は爆発的に進んだ「ポピュラー音楽」の普及によって、市場を奪われてしまった感があります。
でも、そうしたライト・クラシックの後継者は、既に映画音楽の世界に数多く登場しているというのが私見です。
ヘンリー・マンシーニやエンニオ・モリコーネ、あるいはもっと最近のジョン・ウィリアムズやジェリー・ゴールドスミスといった作曲家が、そうした市場を握ってきたわけです。「ブルータンゴ」を100万枚売ったアンダーソンの後継者に相応しいのは、「スター・ウォーズ」の2枚組LPを100万組以上売ったウィリアムズであって、そうした人達に商業的には全く敵わない「聴きやすい現代音楽」の作曲家達では無いと思うのです。
ひとつの仮説 投稿者:のの
投稿日:10月16日(火)13時36分30秒
歴史のふるいを抜けたクラシックも、優れたポップスもたくさんあるのに、「聴きやすい現代音楽」を一体誰が求めているんだろう? と思っていましたが、ふと思い当たったので書き留めておきます。
20世紀前半まで、あるいは50年代くらいまで、「軽音楽」「ライトクラシック」などと呼ばれていた分野が、その後急速に衰退しましたよね?
あの需要は実はもっとあったのではないか、というのが今回の仮説です。
それは別に、「ゲンダイオンガクの陰謀」(苦笑)などのせいではなく、大量生産・大量消費時代への対応を迫られたクラシック音楽産業界が、ポピュラー音楽の水準の急速な向上で軽音楽は陳腐化した(ダサくなった)と判断して、それまでは限られた聴き手のための音楽であったクラシックを、高級感を武器に大量生産するという戦略に転じたからなのですが、そこで疎外された層が、「聴きやすい現代音楽」の聴衆なのではないか、ということです。
「クラシック離れ」というのは、「宣伝や教養主義に乗って、背伸びしてクラシックを聴くのはもうやめよう」という聴衆の意思表明で、その層が上記の意味での「聴きやすい現代音楽」に流れるのであれば、むしろ大量生産・大量消費以前の本来の姿に戻ったということで丸く収まるのではないでしょうか。
そうなると変なのは、「聴きやすい現代音楽」の供給者たちが、本来のクラシックに属する「現代音楽」を非難攻撃するという図式だけですね。
ついでにもうすこし 投稿者:のの
投稿日:10月16日(火)11時50分06秒
「芸術」を特別に分離したから、補集合を「芸能」とか呼んだだけで、別に音楽が2種類に分かれたわけではないのでは。
「ポップス」というのはまた全然別な、音楽の大量生産・大量消費が可能になった20世紀後半以降の概念ですね。この時から「賞味期限」が発生したわけです。で、全然独立なので、「クラシック」に分類されている商品の大半の消費のされ方はポップスと同じだし、一方「ポピュラー音楽」に分類されている音楽の中にも、賞味期限が存在しないものはもちろんあるわけです。
それはおそらく 投稿者:のの
投稿日:10月16日(火)11時35分07秒
「無調以降」を享受する聴き手の層は「クラシックファン」じゃないんですよ多分。知り合いのジャズ好きで、「セリー音楽ってクール!!」って人、結構いますよ。モーツァルトのピアノ協奏曲20番あたりからは、元々の顧客の封建領主層には受け入れられなかったけど、最晩年〜死後に新興市民層に受け入れられたように。
「芸術音楽」が分離したのは、顧客が特定少数の封建領主層から不特定多数の市民層に変化した時期で、無調とは関係ありません。
今は古典、当時は現代 投稿者:プロメテウス
投稿日:10月16日(火)11時05分07秒
確かに、今の古典音楽は、当時の現代音楽でありましたが、三者関係が壊れていたという事はないはずです。どこからの情報でしょうか。初耳です。
バッハは、当時の人々に教会で聞かせるために作曲をしたし、モーツァルトも当時の人々を楽しませるために作曲をしていた。というのが通説のはずです。「音楽人口か少なかった、音楽がこれだけしかなかった」というのもありますが、少なくとも、三者関係が壊れていたことはないと思います。
壊れだしたのは、音楽が無調へと進み始めた頃からです。だからこそ、所謂「ポップス(芸能音楽)」と「クラシック(芸術音楽)」の2つに分かれてしまったのではないでしょうか。
う〜ん 投稿者:のの
投稿日:10月16日(火)10時48分37秒
「作曲者→演奏者→聴取者」の関係と言うけれど、J.S.BachやMozartやBeethovenやDebussyの、今日では代表作とみなされている作品も、作曲当時には「関係性が壊れていた」ことを忘れてはいけないでしょう。
「宣伝」に関しては、賞味期限があるものには必要だけど、そうでないものには必要ない(すべきではないとまでは言わないけど)と思います。
オリヴェロスの電子音楽のように、いまや本人は忘れているようなものでも、凄ければちゃんと復刻しようという人は現れるわけで。
聴衆に迎合しているかどうかというのは、はっきり言って副次的な問題だと思います。つげ義春も好きだけど新田たつおも好きというか、それは単なるスタイルの問題で、大切なのはクオリティが高いかどうかだけでしょう。「聴衆に歩み寄っている」ことで、クオリティの低さを正当化しようとするような音楽家は嫌です。
「わかりやすい言葉で知らせる」というのはかなり疑問です。そういうことが可能なのは、煎じ詰めればその程度のレベルの内実しか持たないということでしかないのでは。今日でも全く古びていないロックミュージシャンたちは、奇抜なファッションやショッキングな発言やスキャンダラスな私生活を売り物にしていたかもしれないけど、自分たちの音楽に関しては、そういうことはしていなかったと思うし。
聴衆はどこに消えた?(笑) 投稿者:やぶいぬ
投稿日:10月16日(火)08時42分07秒
「いわゆる現代曲」の広報・周知やリスナーの参入ということに関しては、実は、私はそんなに悲観してなかったりします。
最近は、ラジオの「電気グルーブのオールナイトニッポン」で育って、コーネリアスや山本精一や中原昌也やらのお奨めディスクから入門して、「スタジオヴォイス」や「Quick Japan」や「BT(美術手帖)」誌をガイドにして、自分で現代曲のアルバム探してDJとしてかけてたりする大学生や専門学校生などからじわじわと増えていってたりする現実があると思うからです。
そういえば、吉松隆センセイが「ゲンダイオンガク(←必ずカタカナ表記する)はもう終わり」と唱え続けて、はや20年。お説によれば「ますます大衆から離れていって」とっくに死滅しているはずのゲンダイオンガク、こんな風なリスナーの拡大を招こうとは、ノストラダムスも気がつかなんだ、といったところでしょうか。
閑話休題。
たしかに、いわゆるクラシックプロパーのリスナーではない一般ピープルの中から、不協和音や非楽音ではない、なんと言うか“美しい現代曲”(変な言い方だ)のリスナーになりうるひとというのは、潜在的に存在しているのでしょう。さて、それでは、彼らはどこから参入してくるのでしょうね。
以下は推測なのですが、アニメや映画のサントラや、ゲームのBGMをオーケストラで演奏したのとか、コミックの“イメージアルバム”(という不思議なものがあるのです)などから、なのかな?と考えたりします。そういう音楽の作曲家さんというのは、劇伴以外のシリアスなオリジナル曲というのを発表したりしないんですかね。んで、ファンの子が、「詩織萌え〜〜」という段階から一歩踏み込んで、そういう楽曲を楽しんでくれるようになってくれるといいな、と思うのです。映画ファンや特撮ファンの中には伊服部や武満の曲の演奏会には行く人がいるみたいですし。
僕は完全に門外漢なのでここらへんの事情は全く分からないんですが。
アニメ誌やゲーム誌や声優誌の音楽コーナーに、上記の電グル→スタジオヴォイス→現代曲、みたいなルートというか回路にあたるものは、ないのでしょうかね。そこらへん、どうなんですか?>綾香さん
いきなり振ってみたりして (笑)
旧ソ連時代の作曲家:書籍 投稿者:谷口昭弘
投稿日:10月15日(月)23時03分09秒
ソビエトの音楽というと、こういうのがありました。現在手元にないんですが。確か、割とマイナーな作曲家が網羅的に扱われていたと思います。昔、ある古本屋に山積みになっていたんですが、Amazon.co.jpなんかだと、検索に引っ掛かりません。
園部四郎『ロシア・ソビエト音楽史話』創芸社、1976年
英語だと、次の本が代表的だそうですが、私は持っていませんし、入手が困難ともきいています。
Boris Schwarz, Music and Musical Life in Soviet Russia: 1917-1970, 2nd ed. New York: Norton, 1973.
ご参考までに。
http://mailer.fsu.edu/.~ataniguc/index-j.html
三者関係 投稿者:プロメテウス
投稿日:10月15日(月)22時44分06秒
「作曲者→演奏者→視聴者」の関係については、よく言われていますよね。
特に、現代音楽批判では「この関係性が壊れている」という発言が耳にタコができる程、言ってます。
ひとつの原因として、前衛作曲家の存在があると思います。
なにしろ、彼らの場合は「面白そうだと思ったから」という考えの下、作曲という行為をしているというのが大多数です。
もしも、三者の関係を保ちたいのであれば、以上の事から、歩み寄るべきは作曲家だと思います。
ですが、私は作曲家が歩み寄るなんて事は論外、もってのほかだと思います。
芸術は大衆迎合であってはならないと思います。芸術は、日常に風穴を開け、世界を冷静に観察する物だと思います。だからこそ「もっと別な表現があるのではないか?」「今のままで本当にいいのか?」という考えが出てきます。
そこから、激しい音・ものすごい和音・考えられないリズムが出てくるのだと思います。
その音・音楽はもちろんの事、音楽の前進に貢献をしていきます。
同時に、私たち自身の音楽観を叩き壊し、否定し、そして再編してくれるのだと、私は考えています。
もしも、迎合した作品を作るとするならば、音楽はもとより、私たち自身も何も成長せず、進歩せず、変わっては行かなくなってしまうと思います。
実は使われていた課題曲 投稿者:プロメテウス
投稿日:10月15日(月)22時26分49秒
昔の番組で「炎のチャレンジャー」というのがあったのをご存知でしょうか。
あの番組で「挑戦者募集」という案内をしている時のBGMが、「コーラル・ブルー」という昔の課題曲でした。(^^;
「課題曲もやるなぁ」と思ったりしました。(笑)
>閉鎖性
クラシックは閉鎖しているのではなく「単にCMが足りないだけだ」と、私は思っています。以前、NHKでやっていた小さな番組で、曲に合わせて、とても面白いCGアニメーションが映像で流れているのがありました。これは良い番組だな、と正直、思いました。子供達へのクラシック導入としては、良い案だと感じました。
ところで、大規模なイリュージョンをしながら、クラシックの演奏をする団体がありますよね。団体名は忘れてしまったのですが、指揮者や奏者が空中を飛んだり、ものすごいライトアップとレーザー光線でバリバリにステージを飾ったりしている団体です。あれも、面白いなと思いました。確かに、「ホンモノ」ではないかもしれませんが、クラシックに興味を持ってもらう、ひとつの手段としては有効ではないでしょうか。同じようなのに、某ディズニーシーのパレードもありますね。あのパレードは「なんちゃら・シンフォニー」という物だったと思います。
ソビエト時代の作曲家 投稿者:プロメテウス
投稿日:10月15日(月)22時13分47秒
教えてクン的書き込みで申し訳ないのですが、宜しいでしょうか。
旧ソ連の作曲家について知りたいのですが、下記に挙げた作曲家以外で、知っている作曲家がありましたら、教えて頂けないでしょうか。
ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキー、グリエール、プロコフィエフ
「ロシアの作曲家」ではなく「旧ソ連の作曲家」を探しています。
どうぞ、宜しくお願いします。
横レス、失礼します 投稿者:谷口昭弘
投稿日:10月15日(月)15時37分06秒
閉鎖性の問題は、この掲示板で繰り返される議論ですね。吹奏楽にせよ、現代音楽にせよ。
>理想はたくさんの現代曲を聴いたあとに感想を述べるということですね。
量を重ねると、現代曲の多くがつまらないということを、身をもって (^_^;; 体験できるとは思います。でも、例えばモーツァルト全作品をCDで揃えたとして、その中でいつも聴く作品ということになると、どのくらいになるのかなっということも考えてしまう訳でして。名曲というのは、すでに多くの人が「良い」と思ったものの集合ですし、ましてやモーツァルトとハイドンだけが古典派時代の作曲家ではなかったはず。ではその時代の音楽の総体と自分が向き合っているかというと、これは分からない。過去の名作と現在の駄作を比べてしまう恐れは充分にあるのではないかな、と、そういうことではないでしょうか。オケのコンサートに載るのは無難な曲ばかりですが、現代音楽のコンサートに載るのは、一番無難じゃない曲だったりする訳で。
>それはどれぐらいの量を聴けば批判OKなんですか?
もしも如月さんがクラシックをお好きでしたら、「クラシックなんてつまんない、大嫌い」って言う人に、自分が「そう判断する前に、このくらい聴いて欲しい」というくらいの量ではないでしょうか?
>「良いもの」と「クズ」の選別
最終的には自分が「良い」と思うものが「良いもの」になってしまうんですが (^_^;; まあ、そこはもうちょっと考えて、他の人はどう考えているのかなっという余裕があれば、とりあえずよろしいんではないかと。
>しかし、現代曲の作曲家やファンが、一般の人(言い方は悪いですが…)
>に対して、その魅力を「わかりやすい言葉」で知らせているのでしょう
>か?
モーツァルトやベートーヴェンを聴く時に、まずはモーツァルトやベートーヴェンの伝記を読むのか、作品論を読むのか、楽譜を分析するのか、と考えると、いや、どうして現代音楽だけ「言葉」に頼らなければならないのか、という疑問も出てきてしまいます。「聴かなければわからない」というのは、そういうところから来るのではないでしょうか。まさしく「哲学が聴きたい」訳ではない。ベートーヴェンの耳が悪かろうと良かろうと、交響曲や弦楽四重奏曲は素晴らしい。そういうことではないでしょうか。私みたいな人間が、将来どんなに分かりやすい楽曲解説を書こうが、所詮は刺身のツマくらいでしかないのでは、と思ったりもするんですが。いや、そのツマを作るのも大変なんですけどね (^_^;;
>これを怠ると、そのジャンルは世間から遊離し、結局「マニアのもの」でしかなくなる
>んじゃないかと思います。
作曲家の方はできるだけ多くの人に聴いてもらいたいと思ってるんじゃないですかね。いや、もちろん「分かる人だけに分かってもらえれば、それで充分です」って人もいますでしょうけど。ただ宣伝の仕方というのが、やっぱりあるんでしょうね。露骨に「売らんかえ」のプロモーションはみっともない、流行に乗っているだけではいやだ、みたいなところもあるんでしょう。新しい客を狙うのは一つの方法だけど、その方法を使ったことによって、固定客が逃げていったらどうするか、マニアックなやり方が好きな人が大半だったらどうするか、その辺の駆け引きもあるのではないかと。難しいですね。
>特にプロの人は、「どうせ言ってもわからないんだから…」と言うべきではないと思います。
とりあえず言ってみるけど、それで拒否されたなら、それ以上は進まないでしょうね。その経験が重なると、自然とこういう反応になってしまう方もいらっしゃるのかな? 言うと余計「哲学だ」とかいって誤解されてきたという経緯もあるのでは?
現代音楽はマニアのもの? 投稿者:如月 綾香
投稿日:10月15日(月)14時05分30秒
こんにちは。
以前、私が書き込んだ内容についてレスをいただいていますので、お返事したいと思います。
>演奏にしろ鑑賞にしろ同時代の音楽に理由もなく目を背け
ると言うのでは寂しいものがありますよね? 例えば幾つかの実験的な現代音楽を聴いたイメージ
で武満徹作品を「わけわかんなさそうだし・・・」と片づけては損はあっても得はなさそうです
(ちんぴら指揮者さん)
確かに仰るとおりです。
私も、クラシック音楽のファンとしてだけではなく、仕事上の必要から聞いています。
(…と言っても、ここに書かれておられる皆さんからすると「聞いていない」に等しいとは思いますが)
全然聞かないで批判するのはどうかと思いますので。
>そういう演奏会を聴いた人が、「今回はハズレでしたね」という感想ではなく、「現代音楽はやはりダメですね」という感想を露にするところなんです。現代音楽と一口に言っても、その作風は多岐に渡っているわけで、90%あるクズのうちの一つかも知れない何曲かを聴いただけで、全てを否定するのは論理の飛躍としか言いようが無いのです。そういうところに「思い込み」や「固定観念」の存在を強く感じます。
(いしづかさん)
仰るとおり、理想はたくさんの現代曲を聴いたあとに感想を述べるということですね。
そうでなければ、思い込みや固定観念で批判しているだけだと。
しかし…
それはどれぐらいの量を聴けば批判OKなんですか?
90%のクズと仰ってますが、「良いもの」と「クズ」の選別は誰の判断ですか?
その書き込みをした人の音楽嗜好と聴取量をどうやって量っているのですか?
「そんなものは定量的に計れるものじゃない」
まさに、そのとおりです。
そういう意味で、「固定観念」という言葉で片づけられるのは、結局「批判者に対する批判」でしかないように感じます。
そう言う意味で、この間の
>「現代曲を受け入れられない人に対する「固定観念」ではないのかな?」
ということを書いたわけです。
>> 結局、現代曲は「マニア」のものか
>それを言ってしまえば、聴衆の数の差はあれ、吹奏楽は「吹奏楽マニア」のものだし、クラシックは「クラシックマニア」のもの、ジャズは「ジャズマニア」、J-POPは「J-POPマニア」のものでしょう。
>自分と嗜好の異なる人には理解してもらえないことは音楽に限らず必ずあることだし、他人の嗜好についてとやかく言う権利は誰にもない。
(NAPPさん)
はい、仰るとおりだと思います。
他人の嗜好を無視し、否定することは良くないことです。当然、私はそれに気を付けて書き込みをしたつもりでいます。
誤解のないように「マニア」発言について少し補足しますが…
あの書き込みは、「マニア」だから悪いというつもりは毛頭ありません。
現代曲は、メディアとの融合…例えばNHKのドキュメンタリーや歴史物に、映像とともに使用されており、普段私たちが気付かずに耳にする機会があります。これについて、誰かが批判しているといったようなことを目にしたことはありません。そういう意味では、一般の人に受け入れられるチャンスは思うよりたくさんあるように思います。
クラシック音楽と映画音楽の関係もそうですね。映画音楽は好きだがクラシック音楽はどうもダメという人に「好きな曲は?」と聞いたら、その曲の元曲がワーグナーの「ワルキューレの騎行」だった…という話もあります。
しかし、現代曲の作曲家やファンが、一般の人(言い方は悪いですが…)に対して、その魅力を「わかりやすい言葉」で知らせているのでしょうか?
わかりやすい言葉で、わかりやすいシチュエーションで魅力を伝えること。これは決して「市民に迎合する」ということではありません。良いものだと思っているのならば、それを外の人にも伝えること…これを怠ると、そのジャンルは世間から遊離し、結局「マニアのもの」でしかなくなるんじゃないかと思います。特にプロの人は、「どうせ言ってもわからないんだから…」と言うべきではないと思います。
「聞かなきゃわからん」とか「○○の曲を聞いていないのに批判するな」ということではなく、もっと違う「伝え方」があるんじゃないのか…。
一般の人は、決して「哲学が聞きたい」のではありません。
NAPPさんは、どのジャンルにも「マニア」が存在すると仰ってました。確かにそのとおりです。
では、現代曲の作曲家がどれぐらい「外」にアピールしているんでしょうか?
これは、私の仕事上の感覚では、ヨソのジャンルに負けているんじゃないかと思うんですよ。
「宣伝?普及?そんなことはする必要がない」という御意見でしたら、平行線を辿るのでこれ以上やめておきます。
長文にて失礼しました。
http://members.goo.ne.jp/home/kisaragi-ayaka/
補足 投稿者:谷口昭弘
投稿日:10月15日(月)08時58分32秒
>今は現代音楽の一作品として普通に聴けますが
これは《ハルサイ》ではなくて、吹奏楽の作品の方です。のけぞるといっても、「これは音楽ではない」などという「高尚」なレベルではなく、「どうやったらこんなの演奏できるの?」とか「間違えた音とか、聴いて分かるんだろうか」ということを考えていたように思います。一方、記憶としては、当時音楽の授業で鑑賞したフルトヴェングラーの《英雄》とか、ハンス・ホッターの《冬の旅》なんかの方が辛かったっすねえ。「長い」というのが、その時の印象かな。今から考えると、随分感受性がなかったっすねえ、いや、今もどうかな???
http://mailer.fsu.edu/~ataniguc/index-j.html
私からも(余計な?)一言 投稿者:谷口昭弘
投稿日:10月15日(月)08時41分36秒
現代音楽が難しい、とはよく言われるんですが、その中の一つの要素は、どうして不協和音があれだけ長く鳴っているのだろう、ということがあるのかもしれませんね。不協和音は解決されて、協和音が曲のメイン、そういう作品になれていると、一時的に使われるはずの協和音を延々と聞かされるのが、どうも分からない。ペルトのような作品だと、協和音で続くから、何となく親しみやすくて、「分かった」ような気がする。
でも、現代音楽をある程度聴いてくると、不協和音の使い方にも個性があって、それが見えてくる。良い作品と良くない作品という基準が、各自で出てくる。この段階になっていると、なぜか不協和音に抵抗がなくなっていたりして (^_^;;「慣れ」もあるかもしれません。
また、電子音楽・コンピュータ音楽というのは、西洋の音階からはぶっ飛び出たところもありますから、こういうのにハマると、反対に抜けられなくなることもありますね。録音できるものは何だって使えるし、音響合成(シンセサイズ)してもいい訳ですから、何が飛びだすやら分からない。
まあ、現代はメディアが発達していますから、どのジャンルの音楽を聴くかというのも様々で、クラシックの中でも一生を終えることができるので、それにどうこういう資格など私にはありませんけれど、結構現代音楽っていうのは私にとっては、面白いものです。私はシェーンベルクではなく、リゲティの《アヴァンチュール》から入ったんですけどね。うえ、何だこりゃってのがナイスなんです。変わったもの好きというか。ここまでくると「慣れ」というよりは、「趣味」の問題かなあ。
かつて高校んときは課題曲Aに、すごい不協和音の曲があって(《変容=断章》とかいったかな?、Bが和田薫、Cが間宮作品だったっけ、確かウチの高校はDだったんすけど
(^_^;;)のけぞってしまったんですが、おかげでその後《春の祭典》を聴いた時に、「フツーじゃん」になってしまい、良かったんだか、悪かったんだか
(^_^;; 今は現代音楽の一作品として普通に聴けますが、アルフレッド・リードやコープランドやニューサウンズからは、遠い世界だったしなあ(回想モード)。
注釈 投稿者:のの
投稿日:10月12日(金)20時58分56秒
下記は一般論で、この掲示板に書き込まれた方を批判するものではありません。
あ、でも、いまや「現代音楽」に分類されている音楽は総じてマイルドで、最もエクストリームな音楽は専らその外側に存在していることは意識しておかれた方がいいのではないでしょうか。
久しぶりに覗いてみたら 投稿者:のの
投稿日:10月12日(金)12時38分54秒
ものすごい盛況ですね。
「苦行」と感じるなら、別に現代音楽なんて聴かなくてもいいと思います。
ただ、だからって悪く言うのもいかがなものかと。世の音楽ファンの大半にとっては、クラシックやそれに類する音楽を聴くことはやはり「苦行」以外の何物でもないけど、別に彼らはわざわざそんなことは言わないし。
逆療法として、ボルビトマグースやインキャパシタンツなどを聴き続けるという「苦行」の後でクセナキスやノーノを聴くと、いかに「音楽的」で「美しい」かがよくわかるのでは、なんて思ったりもしますが(あ、私はボルビトもインキャパも大好きなので、そこんとこは誤解なきよう)。
(無題) 投稿者:NAPP
投稿日:10月12日(金)01時51分30秒
>山崎裕さん
>何か記録があるのであれば紹介していただけますか
すいぶん前のことなので詳しいことは忘れてしまったのだけど、音楽関係の雑誌の記事だっと記憶しています。学校の図書館ではなかったはず。
>それにしても、現代作曲家と演奏家の溝は深刻ですね。
>さらに聴衆を含めた三者の関係について考えさせられます
では、それに対して音大卒の演奏家としてどう思われるのかな?作曲家が歩み寄るべきか?歩み寄るべきは演奏家か?その根拠は?意義は?もうアマチュアではないのだから、明確な答えを要求したい。
カプースチンについて 投稿者:山崎 裕
投稿日:10月12日(金)01時39分13秒
話の途中にすみません。
10月6日NAPP氏のカプースチンに対する発言の中で、
〉「私の音楽は全ての人に受け入れられる」と豪語する・・・
とありますが、どこからそのような情報を得たのでしょうか?何か記録があるのであれば紹介していただけますか?
カプースチンは「私は芸術家ではないかもしれない」「日本で私の音楽に興味をもった人がいるなんて・・・」ととても謙遜なさる方です。とても、あのような発言をするようには思えません。事実を確認したかったので書き込ませていただきました。
それにしても、現代作曲家と演奏家の溝は深刻ですね。さらに聴衆を含めた三者の関係について考えさせられます。
(無題) 投稿者:NAPP
投稿日:10月10日(水)02時49分27秒
>コンクールが無かったら、多分、日本の吹奏楽はこんな状態に
>なってなかったと思いますよ。
たしかに現在の吹奏楽の発展の起爆剤としてのコンクールの貢献は否定できませんが、だからといってこれからもそうである必要はない、ということです。
>話題の中心が「課題曲5」なので
「話題の中心」なのかどうかは知りませんが、この初の試みがどう転ぶのか。まずは静観といきましょうか。あくまでも私はそんなに変わらないのでは。と思ってますが、期待だけはしておきましょう(笑)
>宣伝とは、テレビですね。週刊誌でもいいのですが・・・
テレビを使って宣伝をするのは資金的に大変ですよ。宣伝は、それにかかる経費を収入が上回らなければ意味がないわけで。
>ラジオでも、何でもガンガンCMしてました
佐渡のキャンディードのように使えればそれにこしたことはないのだけれど、それでも一般的な話題にはならなかったのでは?N響アワーのラストではよく現代ものの宣伝もやってるけど、あれぢゃダメか(笑)
ラジオやテレビといったブロードキャストを使うにはよほどのビッグネームがこないと無理ですよ。フランスギャルドの来日でさえそこまではやれないのに。3大テノールが現代音楽を歌う、とかだったらきっとやるでしょう(笑)
>私には、一度もダイレクトメールが来たことはないです
ネットまたは電話でチケット予約をし、会場引き渡しの形で購入すれば以後届くようになりますよ。別に私が特別な立場にあるわけではないです。
コンクール 投稿者:プロメテウス
投稿日:10月 9日(火)23時32分29秒
コンクールが無かったら、多分、日本の吹奏楽はこんな状態になってなかったと思いますよ。
また、それよりもなによりも、今の場合、話題の中心が「課題曲5」なので、コンクールにこだわっているというのが、最大の理由ですね。
宣伝とは、テレビですね。週刊誌でもいいのですが・・・。
内輪だけのダイレクトメールや、殆ど専門化してしまったクラシック関係の雑誌を指してはいません。クラシックのコンサートに行くようになって、3年になりますが、私には、一度もダイレクトメールが来たことはないです。(何故!?笑)
今年、ボストンポップスが来日した時の宣伝はすごかったです。ラジオでも、何でもガンガンCMしてました。「あの、ボストンポップスが4年ぶりの来日!!!」といった感じでした。かくいう私も、それで知って聞きに行ったクチですから。あれくらいやってくれると、嬉しいのですが。
「あの作曲家による、あの現代音楽が初演! さらに謎に満ちた難解曖昧模糊な世界!!」
ちょっと、無理があるでしょうか・・・。
>プロメテウスさん 投稿者:NAPP
投稿日:10月 9日(火)17時21分59秒
>その割には、クラシックコンサートに比べると、圧倒的にCMが少ないですね。
それはどのメディアでのお話でしょうか。少なくとも私はそう感じないのですが。
音楽雑誌などでは主要なコンサートのCMはほぼ全て載っています。まぁ、現代もののみをやるものより、いわゆるクラシックだけのものや、選曲が多時代にわたるプログラム(演奏家には古典と現代という垣根が聴衆と比べて少しは低いことの証でもある)がほとんどですので気付きにくいのは確かですが。
私のところに郵送で届けられるオーケストラや音楽事務所からのDMでも同じような感じです。
クラシックと現代の宣伝の量に差がでるのは演奏会場で配られるチラシくらいなものですが、これはチラシを挟むのもタダではないので、少しでも効率的に資金を使おうと思えばいたしかたないところ。それでも主要な現代ものの案内は含まれているはずです(一応、私は現代ものが含まれていない演奏会にも月に一度は足を運んでます)。
全体的にみて、現代ものには「知らない作曲家」が多いので「これは現代ものだ」と気付かないだけではないですか?(知らない名前の作曲家だから現代だとは限らないけど) あと、現代ものはシリーズで企画されるものも多いので、1つ広告を見逃せば10回分くらいを一気に見逃している可能性もありますよ。
>何にせよ難しいですね、現代音楽は
そんな漠然と言われても(笑) 理解がですか?企画がですか?
私にはペルトを理解するよりシューマンやブルックナーを理解するほうがよっぽど難しいし、企画宣伝だったら現代もクラシックも難しいです。
>>「深層の祭」など
>そうですね。確かに、他の作品もより良いと言わざるを得ないですね。
もっとはっきり書くべきだったかな。「深層」はたしかに吹奏楽の他の曲に比べると傑出した作品ですが、様々な媒体のために書かれている三善先生の全作品の中では完成度は低いほうです。「吹奏楽」という狭い枠で評価するのは危険な行為です。三善晃という作曲家の代表作を「深層の祭」だと他の耳の肥えた「クラシック音楽愛好家」に自信を持って言えますか? 「三善論」は書きだせばキリがないので今回はやめておきましょう。
>それこそ、せっかくですから、現代音楽は「より短く相手に伝える」なんて事の追求は
>してくれないのでしょうか。やたらと大きくなっていってばかりのような気もしますが。
でも、一曲やるのに一時間を超える作品が珍しくなかった後期ロマン派のころに比べるとたかだか半世紀もしないうちにだいぶスッキリして短くなったと思いますよ。あと、やっぱりたかだか5分程度で語り尽くせる命題ってのも底が浅いような気がします(そういうのも皆無ではない、ということは言っておきましょう)。ダリウス・ミヨーの6曲ある交響曲(5番は吹奏楽)はいずれも全楽章合わせて4〜8分という短いものですが、やっぱり「もう少し聴いていたい」と思うのは私だけでしょうか。「深層」にしても「あれだけの主題であれだけしかやらないのは勿体無い」と思ってしまいます。
あと、一時期には「時間を短く」ではなく「時間感覚を喪失させる」という探究の傾向があったことを付け加えておきましょう。
>私は素人ですから
それを言われると私も何も言えなくなってしまうのですが・・・・・ でも、私も単なる学生にすぎませんし、情報源のほとんどは一般の人と変わりません。それに現代日本の合唱の発展を担ってきたのはどちらかといえば素人の人たちです。
>「吹奏楽コンクールの実情にも会い、なおかつ音の探求もできる」という一石二鳥な
>ご都合的考え
なぜにコンクールでなければならないのかが分からないのですが。コンクールもいいけど、それだけが吹奏楽ではないはずです。そうした「枠」を設定してしまうことがいかに表現の幅を狭めてしまっているか、という意識が吹奏楽関係者に欠落しているのではと感じてしまいます。
充実してますね。 投稿者:やぶいぬ
投稿日:10月 8日(月)23時57分43秒
みなさん、こんにちは&こんばんは。
みなさんの書き込み、大変、興味深く、考えさせられます。
(ROMばっかですみませんが)
益野さんのご趣味は、私とは必ずしも相容れないとは思うのですが、ご意見は、たいへん真摯で誠実なものと受け止めました。
ちと時間をかけて読ませてください。
>しかちょんさん、はじめまして。
「現代音楽コンサート情報」メールマガジン、いいですよ。
毎回、2分割で来るくらい(「まぐまぐ」のメルマガの文字制限に入り切らない)大量の情報が載っています。
http://www.netlaputa.ne.jp/~hyama/ccrt/cmcinfo.html
曲の長さ 投稿者:プロメテウス
投稿日:10月 7日(日)00時17分47秒
>「深層の祭」など
そうですね。確かに、他の作品もより良いと言わざるを得ないですね。
それこそ、せっかくですから、現代音楽は「より短く相手に伝える」なんて事の追求はしてくれないのでしょうか。やたらと大きくなっていってばかりのような気もしますが。
何しろ、私は素人ですから、上記のようにしてくれると「吹奏楽コンクールの実情にも会い、なおかつ音の探求もできる」という一石二鳥なご都合的考えを持ったりもします。
コンサート 投稿者:プロメテウス
投稿日:10月 7日(日)00時13分54秒
あ。結構開催されてるんですね。(^^;
その割には、クラシックコンサートに比べると、圧倒的にCMが少ないですね。
多く開催されていても、認知度が低ければ、何にもならないわけで・・・。
例えば、「知らない奴が悪い」と言われても、私のような一般人には、そうは言われても・・・、という気持ちですし。
何にせよ難しいですね、現代音楽は。
ゲーム 投稿者:プロメテウス
投稿日:10月 7日(日)00時09分46秒
>>「ブラボーミュージック」
>でも「マエストロムジーク」でもだめだったしなぁ(笑)
そういや、そんなのがありましたねぇ〜。(笑)
でも、あれはかなり酷いゲームだったという記憶があります。(^^;
(指揮棒コントローラー(!)のいう事を聞かないなどなど・・・)
いっぱい 投稿者:NAPP
投稿日:10月 6日(土)19時19分28秒
嬉しいことに皆さんからの書きこみのペースが早いですので一度に読みたい投稿全てが表示されないようになっていると思います。頻繁に過去ログのほうを更新していますので、「過去ログコーナー」の今月のところをクリックして別ウインドゥで表示すると一度に読めますので御活用ください(そして一度接続を切断すればプリントしなくてもじっくり読めますよ >JUNさん)
私も時間がもっとあれば長文が書けるのですが・・・・・
>プロメテウスさん
>現代音楽のコンサートって少ないですよねぇ。
>プロオーケストラが年に何回くらい現代曲を演奏しているのでしょうか。
そんなことないですよ。室内楽も含めればほぼ毎日なんらかの現代ものの演奏会はあってます(もちろん現代以外演奏会のほうが多いですが)。オケも週に一度はあってます。在京オケなら少なくとも年に20回以上はやってるでしょう。紀尾井シンフォニエッタやいずみシンフォニエッタ大阪なんかだったら数えるのも大変なくらいやってます。当サイトからもリンクさせていただいている「音ヲ遊ブ」の「現代音楽コンサート情報MM」など御参照ください。
>私が知ってる一番最近のものでは神奈川フィルのです。
ずいぶん前ですね(笑) 神フィルは現代ものは少ないオケですね。ちなみに今日も横浜ではISCMがあってますし、サントリーでは吉松隆のオケ個展があってるはずです。
>よくはわからないのですが、この辺りは作曲家の腕によるのではないのですか?
>「深層の祭」はすごかったと思います。確か、4分弱の長さですよね。
ある意味でそれは正しいです。でも、確かに深層はすごい曲ですが三善先生だったらあれよりも「響紋」(深層と同じ路線なら「Vn協奏曲」)のほうがはるかに素晴らしい曲であることは否定できないでしょう。今求められている吹奏楽オリジナル曲は「吹奏楽ですごい曲」や「すごい課題曲」なんかではなく、「音楽界全体でみてすごい曲で吹奏楽という媒体による」、というものだと思うのです。
>NAPPさんの投稿は途中から、課題曲に関する話しではなくなっているようでした。
>すみません、読み間違えました・・・。(T-T)
いえいえ。私のほうこそ途中から問題をすり替えてしまったのは卑怯だったかもしれません。ただ、「吹奏楽の発展」のための手段が必ずしもコンクールによる必要はない、ということを言いたかったので。コンクールを通して、でも他にやりようはあるのかもしれませんが、私は今はあまり関心ないです。
>「ブラボーミュージック」
でも「マエストロムジーク」でもだめだったしなぁ(笑)
>益野さん
>ある時代が終わる時、その時代を支えていた人達が丸ごと没落し、全く違った
>層が次代を担うこともあると思うのです。先入観の少ない新しい耳の持ち主
>たちがやってくる…。
ふと思いました。いわゆる歌謡曲の世界でも、現代の「若い人」のためのポップス曲についてこれずに取り残され、いわゆる懐メロばかり聴いている「おじさん、おばさん」たちもたくさんいるわけですよね(語弊があったらゴメンナサイ)。クラシック音楽と現代音楽の関係と非常に似ているのではないでしょうか。違うのは一般的なマーケットが肩入れしているのが「先に進んだほう」(内容的な意味ではない)である、ということです。
>NAPPさんやいしづかさんのように「1割の傑作を探しながら聴くのが楽しい」
>というのは大変高い境地で羨ましく思います。私は、どうも苦痛は苦痛です
私は逆に「自分の本当に好きなものに集中して向き合える」という益野さんの姿勢も高い境地だと思いますが。
犬派の人に言わせると「猫は自分勝手で相手にしてくれないからイヤ」なんだそうですが、猫派の私に言わせると「そこがいいんぢゃないか」。どこを好きになるのか。それは結局人それぞれの自由であり、それが普通だと思います。
宣伝です。
11月29日18:30開演の東京文化会館「音楽大学・学生オーケストラの祭典」(東京音大と芸大の回)において使用される開演ファンファーレ、私の書き下ろし作品です(できたばっかり)。 私と芸大の作曲の人が一曲ずつ書きました。私のは40秒くらいでしょうか。うちの大学のブラスアンサンブル(4 Trp , 4 Trb)で演奏します。
うちの大学のブラスアンサンブルは12月5日にはサントリーで武満「ガーデンレイン」もやりますし、来年のコンポージアムの湯浅先生のオケ個展でも「あること」をやります(まだ秘密)。