「モリーの吹奏楽」補遺
〜益野大成さんによる〜


 この文章は、2004年の4月29日から5月1日にかけて当サイトの掲示板に「草稿」として投稿して頂いた文章を、以前に掲載させて頂いた「モリーの吹奏楽」の補遺としてまとめて掲載させて頂いたものです。


INDEX

草稿1
○西洋文明・西洋音楽
○軽いまとめ

草稿2
○ポリフォニーについて

草稿3
○私の不満

草稿4
○その他の可能性

草稿5
○軽い音楽・重い音楽

追伸



草稿1

 ここでは、『モリーの吹奏楽』を踏まえた上で、あそこに書かなかった事柄をも書きます。なぜ書かなかったのか? 話のスケールが大きすぎ、本来なら学者級の人間が語るべきだからです。しかし誰も語らないようなのでやります。当然ながら論理や事実に未熟・過誤があるはずですが、素人のウワゴトは大いに嘲笑・訂正いただくとして、願わくば世の吹奏楽認識への何らか良い影響になってくれれば、と思っています。

○西洋文明・西洋音楽

 西洋文明、ことに近代のそれの特色は「一つの土俵で一元的・抽象的に処理する」ことだと思います。たとえば近代西洋文明最大の成果である「自然科学」は、全ての現象を数学という土俵で一元的・抽象的に処理しています。西洋では音楽においてもこのような傾向が強いと思います(キーワードを挙げれば「同じ」「同質」「一元的」「抽象的」)。
 その結果、まず「同一音色の演奏媒体を重視する」傾向が見てとれます。ピアノ・弦楽四重奏・オケの弦合奏部がそれです。「同一の音色=音色から解放される」ことで、音は音高・音長・音強に還元されて抽象的把握がなされ、リズム・メロディー・ハーモニーという抽象概念で語ることが可能になります。とくに同一の音色によって発せられる音響(仮に“音塊”と呼びます)のあり方である和声表現が重んじられ、「和声“学”」などという抽象的なものも成立しました。「どのような和声を用いているか(どのような音塊のあり方であるか)」ということが作品を分析する上で非常に(最も?)重要になりました。顔や手足を欠く彫刻を「トルソ」というそうですが、トルソ的な芸術といえたかもしれません。大雑把にいって、音楽の主流はバッハ後にポリフォニーからホモフォニー(旋律+伴奏)に転換しその後ホモフォニー極盛期に入りますが、しかしホモフォニーとは言うものの伴奏部の方が(トルソとして)旋律より重要という場合も多いように思います。メロディーは和声塊の一部であったり、あるいは名目上の主役であるとか。

 このようなあり方ではない、もっと別の音楽を考えるとどうなるのか。均質な音塊による音楽でないもの、抽象的でないものとは? 様々な選択肢はあるでしょうが、その受け皿としての最有力媒体が“吹奏楽“なのではないでしょうか。

 冒頭で書いたように「同質的な音塊音楽」が西洋文明の伝統的なあり方なのだとすれば、「吹奏楽は非西洋文明的な音楽媒体である」となるのではないでしょうか。我ながら非常にスケールの大きな話です。


○軽いまとめ

 オケに比べて弦楽部を欠くこの編成には中心的な楽器群がない。または設定しづらい。すなわち吹奏楽の世界には巨大かつ抽象的な音塊がない。つまり具象性の高い世界です(この場合の具象性とは音色を指します)。具象性(音色)の復権、いや登場といっていいかもしれません(音楽の中心に「音色」があるという思想は、初めてなのではないでしょうか?)。

 また、具象性とは別に「中心的な音塊が無いのだから、一元的な音楽は向かない」という風景も見えてくる。つまり複中心の音楽たとえば在来のスタイルでいえばポリフォニーへの接近も、ごく自然なことと理解することができます。


草稿2
○ポリフォニーについて

 「しかしポリフォニーは現在の吹奏楽編成の成立以前からあり、合唱やオルガンという音塊媒体(合唱はほぼそれであり、オルガンも中心的な音色が存在するという意味ではオケ同様音塊媒体の亜種と考えることができる)の世界で非常に繁栄もしていた。非音塊的な吹奏楽に向いているスタイルだと本当に言えるのか」

 という疑問が浮かびます。それについてはこう考えます。「昔のポリフォニーは、ポリフォニーの一形態に過ぎない」
 つまりカノンやフーガに代表される「同じもの」(また出てきました)が一定間隔で追っかける形なら、整然たる音楽という意味で一種の「抽象音楽」であり、音塊媒体がお似合いだった。また追っかける旋律を作るには非常な計算能力が必要であり、それは厳格な「規則」となって音楽の取っ付きをますます抽象的なものとした。その上そのようにして生まれたメロディーは全然メロディアスではないことも更に抽象性を助長した。またこれとは別に当時の楽器製作技術では、自在に音程を操れる“使える媒体”は人声やヴァイオリン属など音塊媒体しかなかった。

 吹奏楽におけるポリフォニーはもっと自由なもの、と考えてみてはどうかと思います。抽象性を排するとは音色を尊重し際立たせることと、ポリフォニーというと思い浮かぶ「厳格な規則」にあまり縛られない方法を考えるという事です。そこで在来のものとしては「異楽器による対旋律」がクローズアップされる。対旋律は「同じ」旋律が「規則的追いかけっこ」をしていません。それからもっと自由な「装飾」というあり方も注目されます。
 この吹奏楽のポリフォニーは、いままでの「音色の無い抽象的な線を追う」同質音塊内におけるそれではなく、「異なった色彩の線を追う」ものであり、別の言い方をすれば「各々の線の“色“も“動き”も違う」それです。これは予言ではなく、第一組曲ではその可能性が既に実現しており、グレインジャーでは更に意識的に使われています。しかし、それを受け継いだ人はどこか? 皆あまりにも鈍感だったのではないか? 結局さっさと伝統的な西洋音楽に取り込まれたのではないか? というのが私の思いです。

 さて、この新しい吹奏楽のポリフォニーのうち対旋律についてですが、(私の知識では歯が立たないのですが)過去にこの「ほとんど対等でかつ異なる動きの旋律線が同時に動く」スタイル(線的ポリフォニーというとらえでいいのかな?)が主流をなしたことはあるのでしょうか? 
 少なくともホモフォニー極盛期であるロマン派時代の後、このスタイルの重要性は増したと思うのです。ポストロマン派さらにいえばポスト西洋音楽のスタイル。このとらえが正しいなら、吹奏楽こそがこのスタイルの受け皿としてクラシックに新しい血をもたらすものではないか。

 新しいジャンル・形態は必ず新しいスタイル・技法更には新しい思考を持ち込みます。これまで「クラシックと吹奏楽」を論ずる人は、あまりにも旧来のクラシックの規範(抽象と一元)からしか語ってこなかったのではないか。吹奏楽の持っている新しさに注目しないなら、確かに吹奏楽をクラシックに入れる意味はないでしょう。旧来クラシックならオケのほうが優れている。というかオケで発達したのが旧来クラシックなのだからそりゃ当然そうなる。

 吹奏楽という編成の特殊性は、「音楽的な目的なしに生まれてしまった」ことではないでしょうか。オケという形態が、作曲家のああしたいこうしたいという“目的”が先にあって拡張充実されたのに比べ、吹奏楽は「音が大きいから」「行進できるから」という実用的理由のみがあり、音楽的要請がさほどないのに誕生発達してしまった。いったいこの形態にどのような本質と可能性があるのか、を後から探求することになったのですが、そういうやり方には誰もなじみも興味もなく、また実際の所時代の風も吹奏楽には吹かなかった。


 次に「装飾」については、古い形式の中に先行する様式がありました。パッサカリア(シャコンヌ)です。これは「同じものが追っかけあう」形でないだけに、カノンやフーガより自由度が高い(作曲者はより任意の装飾を施せる)。なぜホルストが第一組曲の重要部(第一楽章)にこの形式を採用したのか。その意図は今となっては分からないのですが、じつに慧眼であったと私は思います。
 パッサカリアの復活は、異楽器合奏体による新種のポリフォニーの萌芽というだけでなく、“オスティナート(繰り返し)”の復権でもありました。普通、これはラヴェルの『ボレロ』をもって嚆矢とされるのでしょうが、『ボレロ』はポリフォニックな要素が乏しく(だからこそ受け入れられたのだろうが)、第一組曲の方が(伝統的なパッサカリアの様式であり過ぎる難点はあるものの)重要だと思います。
 パッサカリアを改変する。すなわちスピードを上げ、主題は三拍子でもバス声部でもなくていいのだ、と腹を括れば、ソナタでもリート形式でもない違った音楽があらわれるわけです。そして“繰り返し”とくれば“身体”が見えてくる。心臓の鼓動をはじめ、「もの」である肉体は繰り返しから成り立ち、また肉体は繰り返しを好む。ダンス然り行進然り。肉体は繰返すことによって安らぎ、繰返すことで亢進する(“ノって”ゆく)。また吹奏楽の音は明確性が高く、身体運動ヘの指示力が強いと予想される(私はダンスと管打楽の親近性をこのように仮説しています)。これも吹奏楽の強みの一つでしょう。


草稿3
○私の不満

 しかし吹奏楽には罠がある。それは管打楽器の持つ「大音量」「音の明確さ(線の明確さ)」です。音圧・暴力性・エッヂの立った描線に魅力を感じ、テュッティでホモフォニーまたは2声ポリフォニーなど比較的単純な形で曲を書いた場合、吹奏楽はその「複中心性」「音色の対等性」を失い、全てがブレンドされた暗く灰色の音に堕してしまう。ネリヴェルのように暴力性と聖性を叩き付ける非情で衝迫的な表現を必要とする作曲家にはそれは必要だろう。ホルストの第一組曲第三楽章のように曲のクライマックス形成が必要な場合も致し方ないだろう。しかし、吹奏楽にそれしか見ないは困るのです。私は「大音量」や「描線の明解さ」より「複中心性」「音色の対等性」の方が大事だと思う。多種の音色とその併置状態をもっと重視して欲しいのです。吹奏楽は現状よりもっと清新であり、そしてもっとスカスカでいい。大音量は“塗りつぶし”志向の結果であることが多く、そして塗りつぶしは音塊の発想である(前記ネリヴェルのようにそこに特別な意義を見い出すのなら、それはそれでいいが)。また、そもそも吹奏楽の塗りつぶしというのは弦のそれに比べてどこか軽く儚い聴取感ではないだろうか?(これも自覚して用いるのならよいのですが)。作家が吹奏楽を選ぶ理由が大音量と明確性であるのなら、作家はその特性がオケのそれとは違うことにも留意せねばならない。

 多少くどくなりますが明確にしたいと思います。
私の不満は何だろうか? それは管楽器に関しては、たとえかなりの作曲家であってさえ「描線の明確さ」に目がいってしまい、結果「管楽器なら何でもよいのだ(鋭い描線を描ければ何でもよいのだ)」的な発想に陥っているのではないかということです。つまり「線」は重視するがそれに「色」がついていることを無視または過小評価する状態。これはテュッティを志向し過ぎることの弊害ではないかと思います(なぜテュッティを志向するのか? 理由の一つは、合奏体の機能を十全に使いこなしたい、すなわち「巧みな管弦楽法」の実践なのかもしれない。それが逆に作家の思考を縛る場合もあるのだが)。テュッティ内では、かなり大きな音が必要とされるため、管楽器を束にして(=色を殺して)使用するのではなかろうか。だからこの弊害を逃れ吹奏楽の「複中心性」を強調するためには、大音量を出せないようにorテュッティ中心にする気を最初から失わせるために、はじめから編成を小さくしてしまった方がいいといえる。

 補:私が「多種小編成」という概念を推奨する根拠は以上の「理屈」のみではありません。実際に聴いてみて「よいな」と思ったことにもよります。


草稿4
○その他の可能性

 音色を重視したポリフォニーの他に、吹奏楽の可能性はあるでしょうか? たとえば4管編成で管楽合奏を組んだ時、フルート属ならフルート属だけで4声体が書けることになる。そうして各楽器群が対等であるという特質を考えあわせると、「異なった和声音楽が同時に進行する」というポリハーモニー、あるいは多調的な音楽に向いた媒体ではないかと考えられます。4声体という“面”が同時に異なって動くというあり方。しかし、知識の乏しい私は、そういう音楽があるのかどうか知らず、またあったとして自分がそれを快いと感じるかどうかも全く自信はありません。
 上記のような過激(?)なものではなく、もっと自然なものを考えれば、様々な楽器の組合せを自在に使い分ける形だろうか。すなわち「個vs個」「個vs(中小規模の)群」「(中小規模の)群vs(中小規模の)群」などの形を様々に使い分けてポリリズム・ポリフォニー・装飾・交唱などする形。むろんテュッティの灰色も色彩の一つとしてなら用いる。

 その他「複中心」というコトバから発想される企画の多くは、吹奏楽という媒体で試行される価値があると思います。


草稿5
○軽い音楽・重い音楽

 また、これも非常にホットな論点だと思うのですが、私は

「吹奏楽というのはあまりシリアスな曲想に向いていないのではないか」

と思うのです。
 この場合私がいう“シリアス”とは、いわゆるバッハからマーラーあたりまでのドイツクラシックにおける“シリアス”です。堅固重厚なあの“精神美(すなわち抽象)”の世界。どうも私は吹奏楽の「軽さ」「多彩さ」はアレに向かないように思う。アレは弦による強固な塗固めが土台となり壁となり屋根となって出来上がったもので、塗り固めを否定し、掘っ立て柱にいきなり針金とステンドグラスというような吹奏楽的価値観と合わない気がする。また従来クラシックファンが吹奏楽に示してきた拒絶反応の大きな原因の一つもコレではないかと思う。事実ヴァグナーの吹奏楽曲は彩りに乏しいか(『葬送曲』)、重厚なマッタリ感がちと足りない(『誓忠行進曲』、イイ曲ですけどね)。またベルリオーズ『葬送と勝利の大交響曲』メンデルスゾーンの『葬送行進曲』も色彩に乏しい。まあ、“葬送”なんだからカラフルでないのは当たり前ということはありますが。

 その意味で現在私の中で浮上してきた課題は、「ホモフォニー勃興期にあって、なぜモーツァルト時代にハルモニームジークが栄えたか?」「モーツァルトの管楽合奏(フェネルは彼がウィンドアンサンブルを確立したとまで書いている)は吹奏楽的にいってどうなのか?」であります。前者については、単に「管楽器の小合奏が簡便だったから」「来るべきオケ時代の前触れにすぎない」という答えになりそうな予感がするが、後者はそれだけで片付けられない。モーツァルトはなぜ管楽合奏を書いたか? 吹奏楽的な(各パートの分離した)モーツァルト演奏は可能か? 

 ただ、多くの人が同意するだろう点として、モーツァルトというのはシリアス一辺倒の作曲家ではないということがあります。彼には荘重・深遠に終始しない曲が少なからずあります。同じく吹奏楽(この場合『序曲』特に展開部)を書いたメンデルスゾーンにも類似の資質がありますよね。
 更に話を広げるとグレインジャー、プロコフィエフ、ストラヴィンスキーといった吹奏楽に冴えを見せた作曲家も、たとえばベートーヴェン的シリアスとは一線を画す資質です。ホルストについては、チョット断定できないもののドイツ的な重厚さとは違うと思う。彼の盟友ヴォーンウィリアムスのほうが案外ドイツ的重厚に近いというか、彩りを感じさせない吹奏楽曲であります。私がヴォーンウィリアムスに対して「ほんのわずか落ちる」「つまらない吹奏楽サウンドの源流はここにある」と思ったのも、この彩りのなさ(資質的に言えばドイツに近い)ということもあるかもしれません。

 ただし、「ドイツ的な作曲家に吹奏楽は書けない」と考えると間違いでしょう。ヒンデミットの例もあります。音色が多少乏しくとも、いい曲は書ける。いい曲は何の媒体でやってもいい。ということもまた一つの現実です。あくまで一つの傾向。一つの見解として考えていただきたいです。


追伸

 ドイツクラシックの管弦楽の一つの到達点として、ヴァグナーのそれがよく引き合いに出されるわけですが、あれがいわゆるドイツ的な音の代表例かもしれない、と最近考えます。『タイム&ウィンズ』でストラヴィンスキーのことを「ヴァグナーのひとかたまり的なサウンドとぜんぜん違う」という風に書いていたのはそういうことなんじゃないかと思うわけです。ヴァグナーの管弦楽法は、結構色がないというか基本的に塗り固めの思考に拠ったものだと、この草稿の最後のほうを書いていて思いました。
 そうして、そう考えてみると「全然違う」ストラヴィンスキーは管楽合奏においてやっぱり非常に重要な人間じゃないかと改めて思うわけです。前記『タイム&ウィンズ』をこの春読み返した後に『春の祭典』を聴き、イーストマンの『シンフォニーズ』を聴き、「結構聴けるようになってきたな、俺も。ハルサイの頭のほうは実にスバラシイ音楽と感じるようになった」「でもシンフォニーズもっといい演奏ありそう」「じゃいっそ自分でやってみようか」などと無謀にも考え、とりあえず『シンフォニーズ』のスコアを注文したのでした。



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