益野大成

モリーの吹奏楽[その1]
考えの概略 [本論]その1 その2 その3

 この小論に書かれている私の考えは、1990年にその重要な部分が形成され、1996年に現在の形になったものです。今回はこれを

 1. 吹奏楽の分析とワルクチ
 2. 吹奏楽の特長
 3. 背景的な事


 という3章に分けて書いてみました。書き足りないところや、表現の至らないところもあろうかとは思いますが、まずはお読みください。


 表題『モリーの吹奏楽』は、この吹奏楽論をまとめる上で大きな力となったグレインジャー、特に『岸辺のモリー』への感謝の意を表すために付けました。 

1. 吹奏楽の分析とワルクチ

 はじめに〜オーケストラと吹奏楽との比較〜

  吹奏楽とその他の演奏媒体(主としてオーケストラ)を比較することから始めたいと
思います。

 私はこのことについては2つのことが言えると思います。

 <その1
 オーケストラが「(弦を)擦る」「吹く」「たたく」の3原理の楽器群で成り立っているのに比べて、吹奏楽は「吹く」「たたく」だけである。ゆえに吹奏楽の方が音色の幅(ひいては表現の幅)が小さい。

 このことは

 オケに比べると、吹奏楽の方が多様性に乏しい

 とまとめることもできましょう。

 具体的には、オーケストラの方がサウンドの奥行き(遠景と近景の描き分け)があること、などが挙げられると思います。オーケストラの方が描ける絵が大きく、豪壮・豪奢だと思います。

 <その2>

 “多様性に乏しい”のなら、逆に“均一性がある”のでしょうか? そうとも言えません。ひとつの音色で全音域をカバーしている弦楽合奏や弦楽四重奏、ピアノ等と比べると、吹奏楽は明らかに別々の音色(楽器)の集まりであって、均一性という点では遠くこれらの演奏媒体に及びません。つまり

 弦楽や鍵盤楽器に比べると、吹奏楽は均一性に乏しい

とすることができるでしょう。

 具体的には、均一性のある演奏媒体の方が、“音楽の中味”といいますか、例えば和声や転調、モチーフの扱われ方、微妙なノリの変化などを感じやすいように思います。聴き手にとって音色の違いに煩わされる必要がないし、音の立ち上がりや肌触りという(私はこれらをも広義には“音色”と呼びたいのですが)もそろっているので、音楽の中味に集中しやすいように思います。
「抽象的な音楽」「リズム・メロディー・ハーモニーの音楽」「音楽の骨格だけの音楽」というタイプの音楽を表現しやすいように思います。


 オーケストラについて更に考察する

 ここで、オーケストラについての考察をもう少しします。

 実はオーケストラは、多様な楽器の集合体であると同時に、上記“その2”で触れた均一性ある合奏体=弦楽合奏を抱えています。そしてオーケストラにおける管楽器は、ひとつの楽器属で全音域をカバーするという形を基本的には取っていません(とりあえず2管編成を念頭に置いています)。管楽器は同族を増やして音域をカバーすることよりも、それぞれの音色の違いを重視されているが如くです。
 つまり、弦合奏は均一感ある合奏をやり、管楽器は多様な音色でそれを飾る、という“設計”を感じます。このようにオーケストラは衆(弦合奏)と個(管楽器)を組み合わせることで「均一と多様を統合する」という、まさに総合的なあり方を実現していると思います。

 この“設計”が、具体的にどのような効果をオーケストラにもたらしているのか。このことを表現しようとすると、どうしても文学的というか、何か比喩的な表現にならざるを得ないのですが。

 「地と図」「描かれたもの本体とその背景」の関係

 服飾でいえば「布地とアクセサリ」の関係

 絵画に例えていえば、弦楽器が塗りつぶしをして管楽器が輪郭線を付ける。「線と面」の関係。あるいは、ぼんやりしたものを弦が、はっきりしたものを管がという分担。

 料理に例えていえば、弦楽器が脂肪や糖分でヴォリウム感を出し、管楽器がスパイスや調味料として味の性格を決める。

 弦合奏自体は、何か「量塊的なもの」「特に輪郭を定めない流動的なもの」「稠密性」そしてこの特性と親和性のありそうな、例えば「感情」「情念」といったものの表現をする場合も多い。→この特性そのものが「和声音楽」という事を表しているのだと思います。つまり一つのメロディーやリズムだけでなく、音の塊そのもののありかた(和声)で何かを表現しようとすることが。

 上記のようにオーケストラにおいては、多様と均一を統合するための、ある種の役割分担的な構造があると思いますが、それは結局はオーケストラの楽器の多様性に立脚するものだと思います。「擦る」と「吹く」という全く質感の違う音グループであるからこそ、このような分担がやりやすいように思うのです。

 「吹く」楽器しかない吹奏楽においては、例えばどのようにクラリネットを増強しても、思ったほどの効果は出ないように思います。つまり埋没してしまって音が立たないのです(サックスを増強する案については、クラリネットよりは有効だと思いますが、やはりオーケストラにおける弦合奏ほどの効果は疑わしいと思います)。

 また、各楽器に適した役割分担がなされているという点でも、オーケストラの役割分担は良くできていると思います。例えば「金管合奏が主体で、弦が飾り」という合奏体があったとしても、ちょっとスワリが悪そうな気がします。

 “個と衆” “地と図” “輪郭と塗りつぶし” “対象と背景” “近景と遠景” “面と線” “曖昧と明確”など、前述したように、挙げればきりがないほどオーケストラにおける役割分担の妙はあります。

 私のような一介の素人が書くのもなんですが、音楽史的には以下のように考えています。

 弦合奏のような、大きな均質合奏体を作るというアイディアは、ヨーロッパ音楽が、世界に先駆けて「和声音楽」を繁栄させたことの反映ではないかと思っています。またこのような発想は、鍵盤楽器(同一の音色で全音域をカバーする)の発達にも色濃く反映していることでしょう。 


 吹奏楽の特徴
吹奏楽は、単に音色の数が足りないだけではなく、足りないゆえに上記の“役割分担”という点でもオーケストラに及ばない。つまり多様な楽器を抱えている割に、多様であることのうま味が案外に少ないのです。同時に“均一な音色による合奏”のもつ良さ(音の立ち上がり・スピード感・音色、がそろっているので精妙なところまで聴きやすい)があるのかというと、それも鍵盤楽器や弦楽合奏等には及ばない。つまり中途半端である。というのが益野の結論でしょうか。

 まとめると

吹奏楽は均一とまではいえない、しかも多様性の幅の狭い合奏体である(雑然として いる)

 という事になり、分かりやすくいえば、中途半端であると思います。

 吹奏楽の弱点
“中途半端”は、具体的にはどういうところに顔を出すのでしょうか。例えば、音の混濁つまり「ダンゴになる」ことがそうだと私は思っています。

 多様な楽器を統一する(オーケストラで言えば“役割分担”する)ための仕掛けがなく、各楽器の音は溶け合いづらく、トンガッタ音の混合体として響く。つまりはスモッグ状に混濁してしまって、埋没する楽器も出てしまい、別にあんなに多くの種類の楽器を揃える必要がないと思えてしまう。「(吹く楽器という意味で)音色が近いがゆえに、互いに邪魔してしまう」ように思います。役割分担的にならないのです。

 さりとて、違った楽器の集合体であることは明らかなので(だからこそ上述「邪魔しあい」が起こる)、和声(調性)・強弱・長短だけで聴かせるような抽象音楽もどうもコナレがいまいちで、ガヤガヤした感じになりやすい。

 「それは腕が悪いからであって、吹奏楽自体の欠点とするべきでない」という反論もあると思います。それはそれでその通りだと思います。何事も、かなりの部分はプレイヤーの努力で補えると思います。しかし、そういう論の進め方をしていては見えない部分もあると思っての、この私論だと御了解下さい。

 それでは私は、「吹奏楽は全て悪く、オケやピアノはよい」と思っているのでしょうか? そうではありません。

#たとえば私は以前、管と弦が恐ろしく分離しているオーケストラ(もちろんプロですよ)を聴いたことがあります。曲はベートーヴェンの7番でしたが、この時ほど「本来的にオケは分離しやすい(原理の違う楽器の集合体だから)」という事を痛感したことはありません。

 次回は、「雑然とした、そのわりに多様性の幅の狭い合奏体である」吹奏楽では、どのような表現ができるか、という事を書きます。

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