益野大成

モリーの吹奏楽[その2]
考えの概略 [本論]その1 その2 その3

 前回は、吹奏楽は「雑然とした、そのわりに多様性の幅の狭い合奏体である」という話でした。世の中良くしたもので、短所は長所の裏返しだと思います。吹奏楽のこのような特徴を、良い方に考えればどうなるか、ということについて書きます。

2. 吹奏楽の特長

 その1

 同じ「吹く」楽器の集合体ですから、「擦る」楽器が混ざっているオケに比べて、ある種明快な音楽ができる。という事が挙げられます。

 これはあくまで私感に過ぎないのですが、益野は「弦楽器はベタベタしている」「ときに暑苦しく、重苦しい」と感じます。“ベタベタ”については、実は奏法に問題があるようで、同じヴァイオリンでも「フィドル」と呼ばれるような(民族的な?)分野では、かなりこのベタベタが減っているのですが、それはここではおいておこうと思います。

 弦のベタベタに比して、管は描線が明快だと思います。ずっしりした密度感が無い分だけ爽快です。

 いうまでもありませんが、この特性を生かしたのが「マーチ」でしょう。明快な定型リズムに乗って歩くことの快感、一斉に同じ足取りで歩くことの壮観。しかも、吹奏楽にはそこそこ以上に色彩もあるので、耳も退屈しない。また、偶然ながら吹奏楽器なら行進もできる。

 私は吹奏楽は単にマーチだけでなく、リズムが重要な要素を占める音楽、あるいは明快さが必要な音楽に向いていると思っています。打楽器との相性も、弦楽器と比べれば雲泥の差で良いと言えるでしょう。
 
 明快な(という事は、多くは“単純な”)リズム、あるいは体感的なリズム、という事でいえば、「舞曲」がいいと思います。「マーチ」だって広義の舞曲でしょう。
 
 ミニマル的なものも面白いと思いますが、打楽器の方がより向いているかも知れません。明快さを考えるなら“リズム”だけでなく、美しい描線すなわち“メロディー”の重視もありましょうし、カラフルな“和声”の面白さもあり得ましょう(これらはグレインジャーが見事に当てはまると思います)。


 しかしながら、これだけでは弱い。明快さを重視した音楽は、吹奏楽の持つ「そこそこの統一性」を生かし、更に「そこそこの多様性」で味付けしたものですが、しょせんそこそこはそこそこに過ぎないとも言えるでしょう。例えば更に純粋なリズムのよろこびを見いだしたいのなら、打楽器合奏があるでしょうし、また金管楽器だけのブラスバンドの形態にすれば、更に音がそろってキレが良くなるでしょう。もちろん「中途半端も芸のうち」ですから、「音色の変化も歯切れの良さも楽しめる吹奏楽はいいのだ」と胸張って言えるのも事実ですが…。そこで・・・


 その2(最も大事な事柄)

 同じ「吹く」楽器同士ゆえに、互いに出しゃばり合い、殺し合い、ついには混濁してしまうことの多い吹奏楽ですが、この“互いに出しゃばり合う”事に注目します。全楽器が一斉に強奏してしまえば、どうしても混濁気味に聴こえてしまいます。そこで、そこまではいかせず、編成規模や奏者の工夫によって適度に制御した状態を作り出せば、

 幾つかの楽器が同時に聴こえる

という状態を作り出せるでしょう。手近な例では“対旋律”です。吹奏楽の妙は対旋律に代表されるポリフォニック(多声的)な表現にある、と私は考えます。これは互いに明快である(しかも音色は異なる)管楽器同士だからできるので、例えばオーケストラの管と弦で対旋律を作ると、片や明快な音、片や柔軟な音ということで、「地と図」みたいな役割分担的な関係(「主従関係」ともいえる)に聞こえやすくなってしまうように思います。確かにスケールも大きく納まりも良いのですが、「両方聴こえる」という鮮烈さにやや欠けてしまうと思うのです(「落ち着きがあっていい」という見方もできますが)。

 オーケストラにおける役割分担の妙については、「1.吹奏楽の分析とワルクチ」で書いたとおりなのですが、これをあえて「オーケストラは役割分担的にきこえて「しまう」」「主従的な思考になりがち」と取ることで、吹奏楽の中途半端さを生かす道が見えるのではないかと思うのです。

 吹奏楽におけるポリフォニックな音楽は枚挙にいとまありませんが、代表例はホルストの第一組曲のシャコンヌでしょう。ソナタ形式ではなく、あえてシャコンヌを採用した事(当然交響曲ではなく組曲と呼ばれる事になる)は、たいへんに重要だと私は考えています。

 まとめると

 吹奏楽の特徴は、「異楽器が同時に異なった動きをすること」そして「その異なった動きを聴き手が聴取しやすいこと」にあると思います。

 吹奏楽でよく言われる「色彩重視」とは、実はこういうことを経験的に表現したものではないか、と考えます。オーケストラの持つ色彩感に対抗するという意味に取ってしまうと、大きな間違いを引き起こすのではないでしょうか? 大きな間違いとは、例えばオケの編曲ものだけをやって得々としていることや、吹奏楽オリジナルとはいっても、オケ的な役割分担指向がかなり強い曲ばかりやること、などです。

 「1.吹奏楽の分析とワルクチ」で書いたことですが、オーケストラは音色の数からいっても、その役割分担的な組織性からいっても、吹奏楽を凌駕しています。だから吹奏楽で“オーケストラ的(役割分担的)”な色彩感を追求するのは不利というものだと思います。


 その3
 これは、その2で触れたポリフォニーの考えの亜流です。

 音が同時に聞こえ合う(行きすぎると相殺する)、ということは、音色のコントラストがあるということです。だから音を同時に発音するポリフォニーだけでなく、単純に音色の対比を重視したやり方。つまり“掛け声”のように、ひょいと異質な音が挟み込まれる手法や、ポリフォニーとまでは独立していない声部のあり方、すなわち“装飾”も重視すべきかと思います。

 もっとも、曲の流れの主たる部分ではなく「従」という位置づけになりやすい“掛け声”や“装飾”は、本来は「主従」の関係を作りやすいオーケストラ向けのものだと思います。あくまで「“掛け声”“装飾”をもっとずっと際だたせたい」という意図のもとにある場合のみ、吹奏楽の独自性として認められると思います。

 用例としては、これもホルストの第一組曲がもっともポピュラーでしょう。シャコンヌはこれにどんぴしゃりの装飾性の強さですし、インテルメッツォの装飾も陶然とするばかりの美しさです。

 その2とその3を成り立たせているキーワードは、

 吹奏楽は各楽器の対等性が高い

 ということでしょう。裏返せば「雑然として、かつ多様性の幅が狭い」ということです。イメージとしては「スターばかりひしめいていて団結性の乏しい集団」といったところでしょうか。

 あるいは「吹奏楽には中心がない(複中心である)」「吹奏楽には土台となる合奏体がない」というイメージも有効かと思います。



 まとめると、吹奏楽の長所は「音の軽快性・明快性」と「合奏内の楽器の対等性」ということになります。




 たとえば大きな構図の音楽を作るためには、どうしても黒子的なはたらき(見えてはいるが、一見みえてないように思われるもののはたらき)が必要なのかも知れません。オケでは、弦楽器がときにそういう動きをしているように思います。しかしそのようなことのできない吹奏楽では、だから大きな絵ではなく、やや平面的でもコントラストの利いた、中規模の絵を描くつもりでよいのではないかと思っています(遠近の利いた西洋絵画でなく、平面的でも色彩と描線の利いた浮世絵的世界)。スケールを大きくするための無造作なテュッティの多用も賛成できません(音の混濁、無秩序)。また、吹奏楽のなかで最も大きな同族楽器グループである“金管楽器”の扱いには、細心の注意が必要です。金管がいっせいに咆哮し出すと、多様性はかき消されるでしょう。

 で、この様な考えの行き着く先は、

 木管主体のウィンドアンサンブル

でありましょう。金管合奏によるパワーの付加を否定しませんが、しかし多くの場面テュッティは避け、というよりやむを得ないときだけ(混濁をがまんして)テュッティにする、くらいの考え。そして金管は“同族合奏を作る楽器群のひとつ”ではなく、なるべく“様々の異楽器の一つ”として扱う。

 私には『リンカンシャーの花束』の編成も大きすぎるような気がすることがあります(響きがスモッギーで殺伐となりやすい)。作曲者自身の編成指定ではあるのですが、思い切ってもっと絞ってやってみたらどうかと思う。



 むろん、以上の考えを逆手にとって、「スモッギーで無秩序な音を作りたいから大編成にする」「音のズレを積極的に取り入れたいから編成を増やす」という考えも当然成り立つと思います。

次回は、私の考えの背景的な部分について・・・


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