益野大成

モリーの吹奏楽[その3]
考えの概略 [本論]その1 その2 その3

 前回は、吹奏楽は「雑然とした、そのわりに多様性の幅の狭い合奏体である」という吹奏楽の特徴を、良い方に考えればどうなるか、という話でした。今回は、こうした考え方の背景的なことについて書きます。

3. 背景的な事

 その1

 これまで私が書いてきた、吹奏楽に関する考えは、多く古典〜ロマン派時代のオーケストラ(及びその音楽)と、吹奏楽を対比させる事によって得られたように思います。例えば益野は「オーケストラは、弦合奏が塗りつぶしを担当し、管が輪郭づけや彩りを担当する」と書きましたが、マーラーあたりになると、だいぶそういう感じが薄くなってきて、各楽器の使い方がずいぶん分離的・個別的、更にはやや対等的で「でっかい編成なのに随分スカスカと使ってるナア」という感じです。

 更に下がると、ストラヴィンスキーの『春の祭典』などには、その寮欄たる有様が吹奏楽的思考そのものという部分があります。この時期は管楽重視の作曲家が何人かは出てきたという感じです(ということは、それから何十年もたった現在は、ひょっとすると管楽のピークは終わってしまった?)。

 そういう意味では、「何を今頃時代遅れな事を口走っている」私なのかもしれません。


 その2

 ただ、オーケストラとか鍵盤楽器とかは(マーラーの例のように変化しているとはいっても)ここ200年ほどの音楽の、“急激に出てきた主役”にすぎず、その意味では、これらの演奏媒体と古典〜ロマン派の音楽との結びつきは想像以上に深いのではないでしょうか。つまり長短2種の音階・機能和声という見事な文化・モチーフのレベルまで細分化された音楽・ソナタ(展開部の自由さ複雑さと再現部のドラマ性)…、などというものと、オーケストラ及び鍵盤楽器は見事なまでに一体化して今までやってきたのではないかと思うのです。

 現代音楽に拒否反応を示す人はいまだに多いと思うのですが(私もそうですが)、そもそも古典〜ロマン派の音楽と現代の音楽とは音楽に対する考え方そのものが違うように思います。現代は個々の作曲家が「音楽とはこうだ」という考えを示す時代でしょうか。それに比して古典〜ロマン派の音楽は、前述の機能和声ウンヌンに代表される強固な土台(考え)は既にあって、その上にどのような個性を咲かせるかという事だったようにも思えます。そしてオーケストラも鍵盤楽器も、そのような強固な土台の一部として機能してきた側面があったのではないか、とも思うのです。

 「自分を育ててくれた音楽は既に涸れてしまったのに、表現の道具たる自分だけが残ってしまった。」そんな状況がオーケストラにはあるかも知れない、と思うことがあります。もちろんオーケストラの構成には何らか普遍的と言える根拠もあると思うので、古典〜ロマン派系の音楽がおわっても、オーケストラの寿命が尽きるとまでは思いませんが・・・。


 その3
 ただ私は思うのです。古典〜ロマン派の音楽は、しょせん弦合奏(その原理は鍵盤楽器に通じる)中心の音楽だと思われます。音色面でも、弦合奏の持つうねり、粘りを管楽合奏で出そうというのがどだい間違いであることはそろそろ吹奏楽界の多数意見でしょう。

 だから古典〜ロマン派の音楽のやり方から多くを学ぶのではなく(それらの音楽と深く結びついたオーケストラから多くを学ぶのではなく)、それ以外の中世やら民謡やら民俗やら現代やら、から学ぶ方がずうっと豊かな鉱脈にぶつかるような感じがしています。

 またオーケストラ全体のあり方を吹奏楽に移植するのではなくて、オーケストラにおける管楽器のあり方(弦楽器との違いを出すためにいろいろな工夫がなされているのでは? と思います)だけに絞るなら、そこにもまた大いに学ぶべき点があるように思います。例えば、オケの管楽部分だけで吹奏楽を作るというやり方(いわゆるシンフォニーウィンドアンサンブル)などは、そうした意味では有意義ではないか、と思っていま
す。

 まあ、私には確かに民族的な音楽が好きという、そういう偏りがあることは認めますが…。しかし、私の好みの音楽以外にも、吹奏楽とは何か、という問いに対する「古典〜ロマン派の音楽のやり方から多くを学んだのではない方法」による回答はあったと思います。たとえば私のあまり関わったことのない“ジャズ”(これも管楽合奏ですよね)も、一つの回答例ではないでしょうか。

 その4
 私が吹奏楽の特質だと思っている「音の軽快・明快」「合奏内での各楽器の対等性」からは、もっと多くのものが引き出せると思っていますが、煩雑なので、以下のコメントだけでやめておきます。

 たとえば「音の明快・軽快」という特質からだけでも、“素朴、朴訥”から“クール、虚無”まで、「それは正反対の性質じゃないか」と言われるだろう表情を引き出すことができるようです。このようにさまざまな“意外な応用”(更にはより多くの“例外”)は、当然あるでしょう。「論」とは所詮大まかな傾向性を示すに過ぎません。



 この「論」が、私よりも優れた才能を持つ人々に対して、何等かの刺激となることを切に願っています。

 最後に

私はこの前スカイパーフェクTVで、ラトルが指揮するメシアンの『われ、死者の復活を待ち望む』の予告編を見ました。すっげえステキな音がしておりました。なんというか、見事な板ガラス(色ガラス含む)を何枚も何枚も惜しげなく割り、その破片を、これまた見事な、2メートル四方もあろうかという水槽にぎっしりと詰め込んだ。そういうオブジェを目の前にしたような感覚(快感)を味わいました。

 あの感覚。美しく量感ある、あのガチャガチャ感。透明なカラフル、明るさ、するどさ。プロにはああいう曲をどんどん取り上げて欲しいなあ。と心から思いました。「コンサートに定着した曲だ」と紹介本には書いてありましたが、北海道に住んでいる私なんかに言わせれば、

         「まだまだでしょう。」

 そう、吹奏楽そのものが

                                益野 大成 拝 



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