音楽大学に在籍して思う



 先頃、私は大学を卒業した。ありきたりではあるが、四年間で感じたことを書いてみたいと思う。こうしてみるとかなり不満たらたらに学生生活を送ったものである。
 そして、これから書くことは、しばしば吹奏楽でも問題となる「アマチュアとプロとの違い」ということの根底に流れているものの一つであるかもしれない(個人レヴェルではあるが)。

 このサイトを運営していると、このサイトを見た他の作曲科の人間から感想を聞くことがよくある。そのほとんどが「よくわからない」というものだ。そして「わからない」まますませ、それ以上知ろうとするものはほとんどいない。 しかし、将来的に職業作曲家として活動するのであれば、望む望まないに関わらず必ず吹奏楽を手がけなければならない事態に直面するだろう。それは作曲ではなく編曲かもしれない。しかし、いずれにせよ吹奏楽と関わることは必ずある。そして、依頼者は「作曲家なら吹奏楽も扱える」と思って頼んでくる。そのとき「知らない」ではすまされないはずだ。
 今の時点で「知らない」のは恥ずかしいことではない。生まれた時から全てを知っている人間などいないのだし、これから先知れば良いのだから。しかし、「へ〜、そうなんだ」と受け流し、詳しく知ろうとしない人間は一体なんなのであろうか。自分の専門であるのに知らないことへの危機感を持たないことが私には恐ろしい。
 このような「自分の専門のことなのに知らないことを平気でいる」というのは作曲科に限らず、全ての専攻(特に声楽・ピアノ・弦楽器)において言えることだと思う。このサイトを見ている作曲以外の音大生もいるかもしれない。その人は上の文の「作曲」を自分の専攻に、「吹奏楽」を「現代モノ」にと読み替えてみてほしい。
 それでは、何故このようなことになっているのだろうか。

 それは「客観性の欠如」という一言につきるのではなかろうか。音楽家の活動とは主観によって成されるものだと思われがちだ。自らの演奏解釈や感覚によって音楽(作曲も演奏も含む)は創られるものだと。 しかし実際には音楽は主観のみによっては創られない。客観的な事象が前提として存在しているのであり、その枠組の中の主観によって音楽は創られるものだと私は思う。この「客観的な事象」というのは分かりやすくすると「時代様式」や「先例」などに言いかえることができるだろう(他にもあるが、とりあえずはこの2つにしておこう)。
 例を挙げよう。例えば、私はBachの「Das Wohktemperierte Klavier Teil II」の中のa-mollのPraeludiumをペダルを長く踏んで演奏するのが好きだ。次々に重なる不協和の倒錯した響きに酔いしれる。誰がなんと言おうが、私はそう演奏するのが好きだ。私の主観である。しかし、これは正統な音楽解釈としては成立しないことは分かっている。それはBachの音楽の「時代様式」という客観的な尺度から許されないことであるからだ。 音楽家というのはこのようにスタイルを規定する客観的な枠組の中に主観を交えて自己表現を成すものだと私は思う。「個性的」であるだけなのは簡単なことなのだ。「やってはいけない」ことをやればいいのだから。だが、真の個性的な「表現」というのはやってはいけないことをやるのではなく、枠の中で「誰もやらなかった」ことを「発見」し「実践」することで成し得るのではなかろうか。そして、「時代様式」というものは近現代に近づくにつれ、「作曲様式」と名称を変え、より多彩かつ複雑になるのである。 「音楽家としての主観」と「客観的事象」の関係は、「ゲーム」における「ルール」の関係に似ている。どんなに面白いゲームがあったとしても、そのルールを熟知しなければ楽しむことはできない。複雑なゲームになればなるほど覚える量は多くなる。しかし、ゲームで勝つにはその全てを覚え、かつ「ルールの抜け穴」を発見して誰も思いつかなかったような奇抜な策を駆使しなければならない。
 作曲家にとっては「時代様式」よりもむしろ「先例」のほうが重要となろう。今までに「なにがなされてきたのか」を知らないと新しいものを発見することはできないはずだ。既存の音楽作品という「客観的事実」を知らなければ何が新しく、何が面白いのかを判断することはできないはずだ。 これは演奏家にも言える。現在までにどのような試みがなされてきたのかを知らなければ、見せかけだけの面白さでしかない「紛い物」を見抜くことはできないのだ。吹奏楽で「オリエント急行」という曲が流行った時期があったが、オネゲルの「パシフィック231」などを皆が知っていたら、果たしてあそこまで流行っただろうか?(別の理由で流行ったかもしれないけれど)

 演奏科でも作曲科でも、音大生で現代作品を敬遠する人間は少なくない。たしかに、好きな曲だけを聴き、それだけを演奏する(あるいはマネて作る)のは楽しいだろうし、ラクでいいだろう。だが、それでは音楽大学に在籍する意味はないと思うのだ。そういった「個人的な」音楽は結局アマチュアの域を出ていないのではなかろうか。あらゆるスタイルの音楽を、外部からのあらゆる要求に応じ(または外部へむけて問題提起をし)、そこに自らの主観を織り交ぜて表現できなければ「職業音楽家」とは言えないのではなかろうか。与えられた曲を与えられた楽器で、ときには与えられた解釈で楽曲を「消費」するのが音大生ではないはずだ。 「消費的な音楽家」ではなく「創造的な音楽家である」こと。そのためには現代作品に関する知識と技術を習得することは必須であるはずだ。技術だけならなんとかあるかもしれないが、それを裏付けるべき知識が欠如しているがために、結局表現として成立するには至っていないのではなかろうか。
 私は、このように「職業音楽家」を目指すのであるなら、それなりに自分の専攻と関係するあらゆる知識を得ておかなければならないと思っているのだが、大半の音大生は例え自分の専攻のものでも好みでなければ知ろうとしない。薄っぺらな技術だけによる音楽。それが私が大半の音大生の表現から受ける印象だ。無思慮な自己満足の結果としてのオンガクを、純朴な聴衆(作曲家の場合は演奏者も含める)に押し付けるのは、これはもはや「罪」ではなかろうか。
 断っておくが、知った音楽を全て好きになる必要はないし、それをレパートリーとする必要もない。だが、好みではないものも習得し、表現できるくらいの基礎力と知識を持つのは、これは職業音楽家としての「義務」ではなかろうか? 職業音楽家の責務はたんに演奏する(作曲する)のみではない。後進を育てるのも大切な役目の一つであるはずだ。将来自分が生徒を教えるようになったとき、その生徒が自分の好みでない傾向の音楽に大変な才能を持っていたらどうだろうか。「知らない(好きではない)から教えない」なんてことが許されるだろうか?

 「マニアックなことよく知ってるね」と言われることもしばしばある(そこまで知っているわけでもないのだが、というのは置いておこう)。しかし、私に言わせればちょっと違う。「マニア」というのは自分の楽しみの延長上にあり、好きだからこそ普通の人が知らないようなことまで諳んじてしまうような人のことを指す。私の場合はちょっと違う。嫌いなものでも必要であるならば、一通り覚えるようにしている。 例えば、はっきり言ってミュージック・セリエリなどの作品は嫌悪の対象である。しかし、その技法は一応学習したし、その技法で一曲創れと言われれば創ることは可能なようにはしてある(それの出来がいいかは別として)。 他にも、このサイトで高く評価しているような作曲家・作品も個人的にはキライなものも多数あるし、逆に「音楽的にくだらない」と分かっていても大好きなものもたくさんある。同様に、嫌いなものでも音楽史的に重要な作品はそれなりに勉強したつもりである。
 何が言いたいか。それは、自分の好きな作品(主観的な見方による名曲)が他の人にとってもいい作品であるか、さらには歴史に残すべき作品(客観的な見方による名曲)であるか、というのは分からないということだ。だが、様々な作品を聴き、分析し、その結果から導き出した「客観的な判断基準」によって、ある曲を「どの位の価値の作品なのか」を位置付けることはできよう。自分の主観に左右されず、客観的に作品の音楽的価値を判断する。しかし、このことができるだけの知識を持った、いや、持てるようになろうとしている音大生がどれほどいよう?


 「音楽大学」という同じ穴の狢ばかり集まるところにいたら自分がどれほどのことを知っているかは分からない。だが、一度この「保護してくれる場所」から外に出ると、自分がどのくらいものを知らないかを痛感することとなる。はっきり言って、音大生ごときよりも一般の音楽愛好家のほうが「専門の」知識を多く持っている。
 散々偉そうなことを書いているが、かく言う私もそれほどの知識を持っているわけではないし、人に胸を張って自慢できるほど努力ができたわけではない。だから、私は知らないのはしょうがないとしても、新しい知識を得る努力だけは怠らないようにしなければ、と思い、そのようにできたらと思う。それが職業音楽家を志す者の最低限の義務だと信じて・・・・・

 最後になったが私にもごく数人ではあるが、確かな知識と技術をもった尊敬できる人物が音大生の中に確実にいることも断っておきたい。


 これは蛇足。
 四年間の在学中、他の人からよく言われた現代作品(たいして知りもしないくせに)を批判する言葉。「音楽って『音を楽しむ』もんでしょ」。 音楽ははたして「楽しむ」だけのものなのであろうか?漢字での「音楽」という文字のみに踊らされ、「music」のもつごく一面しか見ていないのではないか?典礼音楽は、葬送音楽は?あれは「楽しむ」ためのものなのか? そうではない。音楽は「楽しい」ということを含めたあらゆるメンタルなものを司る精神芸術だ(ときには数理的な様式美による芸術でもあるが)。時には悲しみ、怒りや苦しみなどを扱うこともありえよう。 「楽しくないから音楽ではない」なんていうのは勘違いも甚だしい。それに、「楽しいゲンダイオンガク」というのも数多く存在する。 音楽をある一面からしか見れない人はなんて不幸なのだろうか、と私は思う。

 なお、以上のことは全て私個人の考え方である。音楽に対する考え方は全ての人間それぞれが違うものを持っているべきであり、それが結果として音楽の多様性をうむ。賛成するも反発するも全くもって自由なのだ。音楽に正解というものはない。それだけは忘れないでいたい。もしかしたらいつの日か私自身が全く違った考え方をするようになるかもしれないのだから・・・・・



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