教育と吹奏楽

 「吹奏楽の現状」で書いたとおり、今の吹奏楽の主な演奏の場は、学校教育の現場においてが実に多い。年一回の吹奏楽コンクールをはじめ、「学生による」演奏活動が軸となった音楽活動の展開が見られる。 それゆえに吹奏楽の曲というものも教育的色彩が随所に見られるものがほとんどだ。 今回は「吹奏楽をとおして教えられること」と「教育に関わることによる作曲」の二点から述べたい。

吹奏楽をとおして教えられること

 前にも書いたと思うが「多くが集まり一つのものを創り上げる喜び」を身をもって体験できる絶好の場が吹奏楽である。 他の分野ではなかなか上手くいかないかもしれない。 合唱では、あまり個人に責任が感じられない。体育では、個人の能力の差が前面に出てしまう。演劇では、「主役と脇役」という差別が明らかである・・・・・etc.
 「音社会」という言葉がある。「音」という各々の「個」が多数集まって「曲」という一つの「社会」を創り上げている、ということを端的に表した言葉の一つだろう。 社会である以上、「個」同士の関わり合いというものが重要視される。吹奏楽の演奏の場合は、それが「モティーフ同士の関連性」という形で表されたりもする。だから、合奏の指導をするにあたっては「ああしろ、こうしろ」とただ自分の解釈を押し付けるのではなく、「なぜこうするのか」とか「君のこの部分は、あの人から受け継いで、この人に渡すもので、そのときその人が補佐してくれている」ということを逐一示してあげることが大切だと思う。
 現代のポップスの音楽などの傾向にも「他を従属させる」スタイルがよく見うけられる。Jazzのセッションのような「掛け合い」が少なくなっているのだ。「スポットライトを浴びる」ことに意識が集中して、伴奏の人たちを度外視する演奏が多くないだろうか。 「なるべく他人と関わらない」現代の風潮も手伝ってか、今の若い人達は「社会の一員」であることを自覚しにくいのではなかろうか。 吹奏楽をとおして、このことを教えることができたらいい、と思う。
 付け足しだが、吹奏楽部は「限りなく体育会系に近い文化系」の部活動ではなかろうか。全国的に「先輩後輩の上下関係」が厳しいようだ。それなりの礼節も身につくのではなかろうか。もっとも、ステージの上ではそんなものは関係ないのだが。


教育に関わることによる作曲

 バロック、古典派などの時代は、いわば「聴衆のための」音楽だった。十二音技法やミュージックセリエルといった時代は「作曲家自身のための」音楽だったとも言えよう。とすると、これからの時代は「演奏する人のための」音楽を目指してもいいのではなかろうか。吹いてて気持ちいい、聞く人なんてどうでもいい(極論だが)、なんてのもありではなかろうか(このような考え方を「実用音楽主義」と言う。代表作家はヒンデミット)。かといって、中身の無いがらくたな曲も困りものだ。やはり内容の高度なものを創りたい。
 しかしながら、実は「教育」を意識すると非常に作曲技法が制限されてしまう、という困った事態がある。 まずは私の中学時代の友人の証言を引用ておこう。
 テューバ担当T君 「なんでマーチって四分音符ばっかなわけ?これから半年なにを練習するわけ?課題曲がこれぢゃ、やってらんね〜よ。自由曲に期待すっか。・・・・・なにこれ、ずっと伸ばしなわけ?なに?保続音?別にいいけどさ、8分の曲に音が3種類しかないんだよ?基礎練のほうがまだ面白いよ、いや、マジで。」
 クラリネット担当Yさん 「いつも思うんだけどさ、私っていつもソロと旋律なのよ。なんか、高飛車にみえない?間違えられないしさぁ、プレッシャーなのよ。あとさ、私達やけに黒い楽譜多くない?すこしは他の人達にも回せないのかしら。休みなしでこれだと指がおかしくなっちゃうよ。」
 
 効果的な音楽表現のための作曲法と、演奏する側にとって喜ばしい作曲法。このギャップは皆さんが思っているよりはるかに大きい。 特にマーチに関しては吹奏楽の独壇場である以上、避けられない形式なのだが、先のT君のような不満も出てくるだろう。 えんえんと四分音符の低音、裏打ちのトロンボーンとホルン、2回目の旋律のときに入るユーフォとテナーサックスのオブリガード・・・・・ 形式としてはもっとも簡潔で、かつ効果的なこの作曲技法も、いつもいつもこれだと演奏する側には苦痛でしかない(もっとも、「だからいいんだ」というサディスティックなテューバ奏者もいるが)。 マーチに限らず、旋律が一回も無いとか、同じ物の繰り返しとか、何の為にやってるのか分からない、などの「演奏してていや」な曲は多数ある。プロの演奏家のための音楽ならば「我慢しろ」ですむが、教育の現場となるとそうは言えない。

 私自身に関して言えば、私自身トロンボーンやっていたので「マーチの裏打ち地獄」は体験している。だからと言ってはなんだが、例えばマーチを書く機会があったら「ちょっとひねった」マーチを書くだろう。 、また、「教育の現場でやるための」音楽と「吹奏楽の可能性を求めるための」音楽の二種類を書き分けていきたいものだ。どっちも必要なものなのだから。 いずれ、この二者がもっとも適切な形で融合したスタイルを身につけられたら、と思う。


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