管楽合奏から見る洋楽史  −軍楽隊とその影響を通して


 このコラムは、私が大学院1年のゼミの学年末レポートとして作成したものを、そのまま転載したものです。そのため、当サイト内の別のページと内容が重複する箇所が多々あります。
 「洋楽」という単語は、この場合は「日本における西洋音楽」という意味で用いられています。「洋楽史」は「日本における西洋音楽受容史」だと思ってよいかと思います。
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  序論

 日本における西洋音楽の受容課程に関する研究は数多く行われている。よく知られているように日本における最初期の本格的な洋楽導入は軍楽によるものであった。だが、1879(明治12)年の伊澤修二(1851-1917)による音楽取調掛の設立以後に関しての研究では、軍楽隊の密室的とも言える体質もあってかそこに対する視点が著しく不足している。しかし、軍楽隊による音楽活動が多くの局面において主導的な立場を担っていたことは明白である。
 また、第二次世界大戦後の旧制軍楽隊解散後も、隊は名を変え、あるいは隊員は所属を変え、その後の日本の様々な音楽シーンに影響を与え続けている。近年のカルチュラル・スタディーズの隆盛において、管楽合奏を所謂「ポップスとクラシック」の橋渡しをしている存在として捉え直す試みもある(注1)
 本稿は日本における洋楽史を軍楽隊およびそこから派生した各種管楽合奏の視点から捉え直すことにより、既存の通説に対する補足、あるいは疑問の提示を行うことを目的としている。

  洋楽導入の前史

 後述する1869(明治2)年に薩摩藩によって開始された軍楽伝習の以前より、小規模ではあるが既に日本で西洋音楽を耳にする機会が皆無ではなかったことはよく知られている。1543年のポルトガル人の種子島への漂着、1549年のスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエル Francisco Xavier (1506-52)の渡来以後、日本へは主として二種類の手段により西洋音楽が聞かれるようになる。一つがキリスト教で使用される音楽であり、もう一つが小規模な軍楽隊による音楽である。特に16世紀では前者の方が多く、教会の儀式や布教のための行列などに長ラッパやシンバルなどが使われたという記録があり、管打楽器による演奏が日本においても耳にすることができたことが想像される。(「新版吹奏楽講座7 吹奏楽の編成と歴史」 1983:113) 後者は軍楽隊と呼ぶには語弊があるかもしれないが、南蛮貿易において諸外国の商船が駐留する際に小規模な音楽隊を随行させ、有力者に謁見する際に奏楽しながら行進を行ったことを指す。これは1601年の鎖国政策以後もオランダに限っては許されて継続して行われていたことであり、外国商人達が音楽隊を同伴させていたことは長崎市市立博物館や同市にある出島博物館などに所蔵されている当時の様子を描いた絵画より知ることができる。また、蘭学研究の一環として兵法研究も行われ、そこに用いられていた軍隊用の実用音楽に対する研究も行われていたのではないかと推察する(注2)
 日本において本格的に西洋音楽が導入されるようになるのは、アメリカのペリー M.C.Perry(1794-1858)来航によって鎖国が終わる1853年以後のことである。開国後、アメリカを含む諸外国の公使と謁見する機会が急増するのであるが、当然諸国の公使は軍隊を伴ってくるのであり、そこに海軍軍楽隊を同乗させていたことは容易に推測できる。西洋式軍隊の必要を感じた幕府および諸藩は洋式兵制の導入へと動きだし、その一環として軍楽、鼓笛隊の導入を行う。1854年より長崎においてオランダ式の海軍伝習が行われ、1859年まで軍楽として鼓笛隊も伝習された(注3)。この伝習には日本各地の諸藩より伝習生が集まり、ここで学んだ伝習生が諸藩へ戻りさらに伝習を行った(注4)。また、徳川幕府も1864年に洋式兵制を導入しており、こちらはフランス式の兵制を採用している。幕府の軍楽はラッパを含むものでギュティッグ(L.Guttig[姓は不明、ルイLouisの可能性が高い]、生没年不明)によって指導された。 これらにより日本各地において一斉に西洋音楽を耳にすることが多くなる結果となった。ただ、これらはあくまでも兵の統率や軍事行進のための軍事用に用いられたものであり、編成としても太鼓と笛、時にはこれに信号ラッパを加えたものであり、今日でいうところのMilitary bandの編成とは全く異なるものである。
 1867年に大政奉還が行われ、徳川幕府は倒れる。翌1868年(明治元年)に天皇制となると、儀礼的行事である行幸が行われるようになる。これによりパレードでの軍楽の使用も勿論のこと、式典においても軍楽による奏楽を行う必要に迫られた。当時の諸藩の兵制は藩によって英仏蘭と様々であったために複数の藩での合同演奏も困難であったと考えられる。こうした事情から用兵術とは異なる、奏楽用の軍楽隊が作られることとなったのであり、その先駆となったのが薩摩藩軍楽伝習隊である。無造作に「日本における洋楽の受容は薩摩藩による伝習隊から始まった」と記述されている例は多いが、そこに至るまでにこのような過程があったことは無視できないことである。

  明治期の洋楽伝習

 その薩摩藩軍楽伝習隊であるが、これにも見落とされてしまいがちなことが数点ある。1869(明治2)年、戊辰戦争終結により新体制への移行が本格的に始まり、薩摩藩は18歳前後の士族30余名(30名、32名、36名という説がそれぞれある。おそらく、伝習中に死亡した者がいたために誤差が生じていると考えられる)が横浜において、駐留していたイギリス歩兵隊第十連隊第一大隊付軍楽隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントン John William Fenton(1828-1883)より伝習を受けた。なぜ薩摩藩だったのか。なぜ薩摩藩はオランダでもアメリカでもフランスでもなくイギリス式を選択したのか。そこには1863年の薩英戦争が大きく関係しているのは疑う余地がない。薩摩の伝習生達は1869年9月よりフェントンより伝習を開始されているのだが、楽器がなく、ロンドンのベッソン社にフェントンが注文した楽器が到着したのは1870年6月のことである。それまでは一般軍事教育と基礎的な音楽教育、それと鼓笛隊による軍楽であった(注5)。楽器が到着すると、現代のMilitary bandに近い編成となり、本格的な洋楽伝習が始まるのであるが、この薩摩藩軍楽伝習隊の編成を山口常光「陸軍軍楽隊史」(三青社:1968:22-23)記載の隊員表より楽器別に整理してみる。(特に数字の無いのは1名)

ピッコロ、小クラリネット、クラリネット 7、バスクラリネット、トランペットアルト?、小コルネット、コルネット3、ビューグル、フレンチホーン 3、ベンチルホーン、トロンボーン2、アルト、バリトン、バース2、サイドドラム、ドラム 
(以上、原文ママ)

 上記の内、ピッコロはフルートと持ち替え。ビューグルは他の書物によってはフリューゲルホルンと書かれることもあるが、両者は同じ者と考えてよいだろう。ここで問題となるのはベンチルホーン、アルト、バリトン、バースという楽器だろう。ベンチルホーンはピストン式のホルンのことである。アルト、バリトンはおそらく前者がE♭管のサクソルン属の楽器、後者はB管のサクソルン属の楽器を指すと思われるのであるが、ブラスバンド(金管バンド、サクソルンバンド)の本場であるイギリスでは、日本でアルトと呼ぶ楽器をTenorhornと表記する。なお、アメリカではこの楽器をAlto hornと表記しており、日本での現在の呼称は終戦後にアメリカのスタイルが持ち込まれたためにここに由来する。サクソルン属の発明者であるアドルフ・サックス Adolphe Sax(1814-1894)自身はAlto Saxhornと命名している。また、日本の金管バンドではE♭管のサクソルン属(アルト)のことをE♭管ホルンと呼ぶこともあるが、これもベンチルホーンと混同されやすい。はたして当時のイギリス人はどう呼称しており、薩摩藩軍楽伝習隊の楽器が果たしてどの楽器であるのか、疑問が残る。他、上記バリトンに関しても、これをユーフォニアムとしている書物もある。しかし、サクソルン属の楽器であるバリトンとヴィルヘルム・ヴィープレヒトWilhelm Wieprecht (1802-1872)の開発したテューバ属の楽器であるユーフォニアムは似てはいるものの全く別の楽器である。バース(バスのことであろう)に関しても書物によってはこれをE♭管のもの(いわゆるボンバルドンと呼ばれる楽器の音域)とB管のもの(現在でテューバと呼ばれる楽器の音域)に分けていることもある。これもテューバ属の楽器なのかサクソルン属の楽器なのかが不明瞭である。
 ここで、イギリス本国の軍楽隊の編成がどうであったかも併記してみよう。1876年のイギリス砲兵隊軍楽隊の編成を「新版吹奏楽講座7 吹奏楽の編成と歴史」(音楽之友社:1983:17)より抜粋する。

フルート 3、オーボエ 3、バスーン 3、E♭クラリネット 5、B♭クラリネット 22、バスクラリネット 1、B♭コルネット 10、B♭トランペット 2、B♭ビューグル 1、ホルン 6、アルトトロンボーン 1、テナートロンボーン 1、バストロンボーン 2、バリトン 1、ユーフォニアム 3、E♭・Fバス 2、B♭バス 2、打楽器 6

 薩摩藩軍楽伝習隊にダブルリード系の楽器が入っていないのは楽器が高価であったり習得するのが困難な楽器であったからであろうか。薩摩藩軍楽伝習隊にあったアルトやベンチルホーンの姿が見られず、ユーフォニアムの姿があることも、薩摩藩軍楽伝習隊に入っていた楽器が何であったかに疑問を呈する材料となる。なお、この当時、アメリカやフランス、ロシアの軍楽隊にはサキソフォーンが既に採用されていたのだがイギリスやドイツ、イタリアにおいてはまだ採用されていなかった(注6)。このことと、規模こそ違うものの編成上のバランスなどを考えると、やはりフェントンは薩摩藩軍楽伝習隊にイギリスの軍楽隊のスタイルをそのまま移そうとしていたのだということが伺えよう。
 薩摩藩軍楽伝習隊に楽器が到着したのが1870年6月。しかし、彼等に帰藩命令が出されたのは1870年9月のことである。つまり、彼等は楽器を手にしてわずか三ヶ月で伝習を打ち切られたのである。このような短期間では楽器から一通り音を出せるようになるだけでも難しいことであるはずであるが、彼等は『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』などの楽曲を数曲演奏できるほどに上達している。また、フェントンの作曲の初代『君が代』および現行『君が代』を初演したことはよく知られている。さらに、彼等は郷里の薩摩に戻りそこの土地で指導者としても活動しており、1871(明治4)年には150人を超える人数の軍楽隊となって再上京し、明治政府兵部省の軍楽隊の基礎となっている。
 なお、フェントンは1876(明治9)年に雅楽局式部寮に赴任していることも追記しておく。

  初期の軍楽隊

 1871(明治4)年5月、明治政府は兵部省に前述の薩摩藩軍楽隊を基礎とした軍楽隊を設置する。同年7月、兵部省は陸軍部と海軍部に分かれ、9月には軍楽隊も陸軍軍楽隊と海軍軍楽隊に分かれる。
 海軍はイギリス式の兵制をとっていた。軍楽教師にはフェントンを迎えた。その1871年での編成を楽水会編「海軍軍楽隊」(1984:224)より抜粋する。( )内は(パート数X1パート当たりの人数)

フリュートピッコロ 1、E♭クラリネット 1、B♭クラリネット(3X3)、バスクラリネット(2X1)、B♭コルネット (2X2)、フリユゲルホーン 2、E♭トロムペット(2X1)、E♭オルトホーン(4X1)、B♭テノルホーン(2X1)、テノルトロンボン(2X1)、ベストロンボン 2、ユーフォニオン(2X1)、E♭ベス 2、B♭ベス 1、小太鼓 1、大太鼓 1 
(♭の表記と奏者数以外の表記は原文ママ)

 なお、テノルトロンボン(テナートロンボーンであろう)はヴァルブ式のもの、ベストロンボン(バストロンボーンであろう)はG管のものであったと言われている。(「新版吹奏楽講座7 吹奏楽の編成と歴史」 1983:142) 薩摩藩軍楽伝習隊の楽器と同一のものか名称が変わったものかが不明のものも多いが、フェントンが引き継いだこともあり、薩摩藩軍楽伝習隊のスタイルをそのまま受け継いだと言っても差し支えないであろう。
 これに対し、陸軍はフランス式の兵制を取り、軍楽隊もフランス式のものを採用する。軍楽教師にフランス軍事顧問団の一員であったギュスターブ・シャルル・ダグロン Gustave Charles Desire Dagron (1845-1898?) を招く。陸軍と海軍で兵制が異なるのは強大な外国に配慮してのことではないかと推測する。陸軍軍楽隊には薩摩藩軍楽伝習隊での伝習経験者はおらず、海軍によりもかなり遅れたスタートを切ったと言える。その初期の編成に関しては残念ながら資料が見つからなかった。山口常光「陸軍軍楽隊史」(三青社:1968:38)においてダグロンがまずフランス方式による一隊四十二名編成を目標にする、と述べたという記述がある程度である。参考として、1867年でのフランス騎兵軍楽隊の編成(計:62名)を「新版吹奏楽講座7 吹奏楽の編成と歴史」(音楽之友社:1983:16)より抜粋する。なお、フランスには騎兵軍楽隊のほかにギャルド軍楽隊もあるが、両者の編成にはそれほど大きな違いは認められない。

ピッコロ 2、フルート 2、オーボエ 3、E♭クラリネット 3、B♭クラリネット 12、ソプラノ・サクソフォーン 1、アルト・サクソフォーン 2、テナー・サクソフォーン 1、バリトン・サクソフォーン 1、バス・サクソフォーン 1、コルネット 4、トランペット 3、ホルン 3、トロンボーン 5、E♭ビューグル 1、B♭ビューグル 2、アルト 2、バリトン 2、ユーフォニウム 6、E♭バス 3、B♭バス 2、打楽器 1

 陸軍軍楽隊の編成がはっきりと確認できるのは1910(明治43)年にロンドンで開催された日英同盟記念親善博覧会のために編成された36名によるものがもっとも古いが(「新版吹奏楽講座7 吹奏楽の編成と歴史」音楽之友社:1983:127)、そこに載っている編成は多彩な金管群、サキソフォ−ン属を一通り含む、バスーンを持たない、という当時のフランス式編成をまさに踏襲したものである。陸軍は1876(明治9)年に兵制自体はドイツ式へと方針を変更するのであるが、軍楽隊はフランス式を貫き通す。1884(明治17)年にダグロンの任期は切れるのであるが、後継者のパリ音楽院卒のシャルル・エドアール・ガブリエル・ルルー Charles Edouard Gabriel Leroux (1851-1926)もフランス式をさらに押し進めた。なお、このルルーは『抜刀歌』や『扶桑歌』などの軍歌的性格を持つ行進曲の作曲を行った人物としても知られている。
 これに対し、海軍の方は多少事情が異なる。海軍は1877(明治10)年にフェントンを解雇するが後継者を決めかねた。後継者が決定したのは1879(明治12)年であるが、それはドイツ人のフランツ・エッケルト Franz Eckert (1852-1916)であった。これにより海軍軍楽隊はドイツ式へ方針転換を行う。その改編後、1886(明治19)年での編成を楽水会編「海軍軍楽隊」(1984:224)より抜粋する。( )内は(パート数X1パート当たりの人数)

フラウトピッコロ 1、E♭クラリネット 1、B♭クラリネット(3X2)、I コルネット 2、II コルネット 1、E♭トロムペット(2X1)、ホルン(3X1)、B♭テノルホーン(2X1)、ポザウネ(2X1)、バスポザウネ 1、バリトン 1、E♭バス 1、B♭バス 1、小太鼓 1、大太鼓 1
(奏者数以外の表記は原文ママ)

 サキソフォーンを含まないなどの点でイギリス式に似た点が多いが、比較的小規模になった感がある。
 軍楽隊という枠で一括りにされてしまいがちな陸軍軍楽隊と海軍軍楽隊であるが、その両者には活動方針の違いが見られるのは注目すべき点である。陸軍の方は吹奏楽編成を遵守し、1880(明治13)年には東京に第二軍楽隊を、1886(明治19)年に大阪鎮台軍楽隊を創設するなどしており、その規模の拡大を幾度となく計っている。また、1882(明治15)年にはCl奏者の工藤貞次(生没年不明)とOb奏者の古矢弘正(生没年不明)をフランスのパリコンセルヴァトアールへ、1896(明治29)年には古矢をドイツのベルリンへ、1902(明治35)年には永井建子(1866-1940)をフランスのリヨンおよびパリへ、1925(大正14)年には大沼哲(1890-1944)をフランスのパリ・スコラ=カントルムへ、1930(昭和5)年には山口常光(1894-1977)をフランスのパリ=ギャルドレピュブリケーヌ吹奏楽団へと留学させている(注7)。幸田延(1870-1946)がアメリカへ留学したのが1889(明治22)年、滝廉太郎(1879-1903)がドイツへ留学したのが1901(明治34)年であったことを考えると、いかにこれが早かったかが分かる。このように早くから海外の先進技術を取り入れ後進を育てようとする姿勢は1888(明治21)年に移転した陸軍戸山学校での音楽教育に顕著であり、1879(明治12)年に音楽取調掛が設立された以後も依然として管楽器教育はそこでは行われず軍楽隊によって行われ続けた。音楽取調掛において管楽器を用いた作品が演奏される際には軍楽隊の隊員を招くことが多かった(注8)
 陸軍は管楽器奏者の育成に心血を注いだのに対し、海軍は様々な分野に手を出している(注9)。海軍は陸軍に比べて遠征して外で演奏する機会が多かった。天皇の行幸に随行したのはもちろんのこと、1872(明治5)年の新橋・横浜間の鉄道開通記念式典でも演奏をしているし、博覧会や企業の開業、学校の式典などにも出張して演奏を行っていた。日常において西洋音楽に接することが少なかった一般庶民が実演に触れ、身近なものとして認識していくようになったのは、学舎の中で研究された音楽取調掛の活動ではなく、このような軍楽隊の野外での演奏によるところが大きかったのではないかと推察できよう。また、海軍軍楽隊は管楽器以外の楽器の導入にも積極的であった。1879(明治12)年には隊内にドイツ人、アンナ・レール Anna Lohr(生没年不明)を招き軍楽部員に基礎音感教育としてピアノを伝習させている。このとき同時に松野クララ(生没年不明)も招き、海軍軍楽隊内で伶人へのピアノ伝習も行っているのは注目すべき事実である。なお、海軍軍楽隊は後になって弦楽器群を加えて管弦楽団として演奏することも吹奏楽形態と並行して行うようになる。
 陸軍の古矢は『国の鎮め』、永井は『山桜行進曲』などの作曲者としても知られているが、このように日本人による作曲もこの頃より行われるようになっている。特に海軍の瀬戸口藤吉(1868-1941)『軍艦行進曲』は現在でもよく知られた作品であるが、これが作曲された年は1901(明治34)年である。この年は滝廉太郎が留学した年であることも考えると、日本初の作曲家は滝である、という俗説が完全に誤りであることが分かる。

  明治後期より昭和まで

 日本の西洋音楽黎明期において軍楽隊が担った基礎の部分はこれまでに述べた通りであるが、1879(明治12)年音楽取調掛設立の設立以後は学術的研究などはそちらが主流となる。ある程度の演奏形態を整えた軍楽隊は以後大きな変更を見せることなく演奏活動を展開していく。革新的な変化こそ起こさなかったものの、その長い演奏活動によって様々な影響を日本の洋楽シーンに与え続けていった。
 前述したように軍楽隊は一般市民に近いところでも演奏活動を行っていた。ホテルやダンス場などでも演奏が行われていたことから、これを民間の手で行おうと1888(明治21)年に管楽による演奏団体である株式会社東京市中音楽隊が作られた。海軍軍楽隊出身の加川力、井上京次郎の二人を教師とし、生徒36人を募集し活動を始めた。このころはまだ限られた場所が活動場の主流でそこまで大衆的であったとは言えなかったのだが、1894(明治27)年よりの日清戦争により軍歌が爆発的に流行すると軍楽隊と同様の編成である民間の管楽合奏体もこれをレパートリーとして取り入れるようになり(注10)、管楽合奏の一大転機となる。この頃より野外でも、また行進しながら演奏できる管楽合奏が企業宣伝の媒体として優秀であることが広告宣伝業者に注目され始める。軍楽隊を退役し民間で活動を行うものも表れはじめ、民間に管楽器はさらに身近なものとなっていく。1909(明治42)年に東京日本橋の三越デパートに少年音楽隊が組織され、1925(大正14)年に解散するまで活動をした。その後東京以外にも大阪などに、デパート以外にも遊園地などにも同様の管楽合奏団が組織される。このようなサービスバンドや街頭宣伝バンドには退役軍楽隊員も多かった。他にも頼まれて街頭を宣伝目的で演奏パレードを行ったり、映画の附随音楽を担当したりするバンドもあり、それらを含めてこれらのバンドはヂンタという名称でやや軽蔑的な意味をこめて呼ばれていた(注11)
 視点を劇音楽へと変えてみる。1882(明治15)年頃より軍楽隊は陸軍・海軍ともに横浜ゲーテ座において演劇の附随音楽を演奏している。演劇およびその附随音楽は多くの人に受け入れられ、やがて日本人の手によるオペラの創作も行われるようになる。1905(明治38)年に初演された北村季晴(1872-1931)作曲『露営の夢』は、その前年に発表された叙事唱歌『露営の夢』が元となっているが、その叙事唱歌版の編成は唱歌者・ヴァイオリン・ピアノ・オルガン・合唱・婦人独唱者(合唱中の一員)・アマチュアの吹奏楽団であった。このようなアマチュアによる大規模なオペラは浅草オペラとして大正後期に盛えるのであるが、このような一般市民、特に婦人連中によって余暇として演奏された合奏体には管楽合奏の形態で行われていたものも多い(注12)。これは、弦楽器やピアノなどよりも管楽器の方がある程度のレヴェルまでであれば比較的容易に習得できたためであろう。
 以上のように、明治後期より第二次世界大戦に至るまで管楽合奏の展開は、日本における西洋音楽のアカデミズム化ではなく、日本における西洋音楽の大衆への浸透へと向かっていったことが分かるであろう。

  第二次世界大戦時の軍楽

 大正時代から昭和初期にかけては軍楽隊・民間音楽ともにそれまでの活動の延長であり、大きな変化はなかった。両方の管楽合奏にとって大きな変化があったのは1940(昭和15)年頃、第二次世界大戦で時局も押し迫ったときである。
 1937(昭和12)年に音楽家達が自主的に結成した愛国音楽連盟にはじまり1940(昭和15)年に政府によって作られた日本音楽文化協会によって、それまでにあった数々の音楽家集団が一元化された。戦時中の一時期については敵性音楽であった欧米の作品の演奏禁止や、それまでにあった作曲集団の解散などの理由から不毛の時代であったと考えられがちである。しかし、それはこの時期の日本の音楽事情の一面しか捉えていない。多くの作曲家が、望んでか望まないでかはそれぞれではあるが戦意高揚のための作品を書いている。全ての作品および演奏を自国内のみで賄う必要が生じたため、邦人のみによる演奏会が数多く開かれた(注13)。皮肉なことではあるが、このことによって日本の音楽は自身を見直し、発展する契機を得たと言ってもよいだろう。
 特に吹奏楽形態であった軍楽隊のための作品が短期間のうちにこれだけ集中して数多く書かれた時期は他に例を見ない。野外で演奏するという条件も勿論であるが、戦場によって随従する軍楽隊の規模が異なり、戦局によって隊員数も常時変動するため、決まった編成というものが厳密には存在しない吹奏楽形態が軍楽隊に最も適していたということは疑い無い。わずか三年ほどの間に軍楽隊関係の作曲家はもとより、民間の作曲家によっても膨大な量の吹奏楽作品が書かれている(注14)
 また、陸軍戸山学校において團伊玖麿(1924-2001)や芥川也寸志(1925-1989)をはじめとした多くの作曲家が軍楽隊に所属していたことはよく知られている。当時20歳そこそこであった彼等の初期の音楽経験が吹奏楽によっていたことは注目したい。
 敗戦直後、GHQのダグラス・マッカーサー Douglas MacArthur (1880-1964)が厚木へ到着した際に軍楽隊が歓迎式典でアメリカ国歌に次いで演奏したのが伊福部昭(1914- )が海軍軍楽隊のために書いた吹奏楽曲『古典風軍楽《吉志舞》』であったという事実は象徴的ですらある。(小林淳「伊福部昭の映画音楽」:ワイズ出版:1998:210-212)

  終戦後

 終戦直後、日本はアメリカ文化を取り入れようとしたのだが、音楽においてその象徴となったのはジャズであった。時代が前後するが日本におけるジャズの歴史を振り返ってみる。
 日本においてジャズは戦後に入ってきたものと言われることが多いが、事実はそうではない。大正期には既に入ってきていたのである。ただし、ジャズという単語の意味は現代において使われるものとは多少異なり、一般大衆向けの音楽を総称してジャズと呼んでいた時代があったことは注意したい(注15)。そのことを書いた文章を内田晃一「日本のジャズ史 戦前戦後」より抜粋する。(スイングジャーナル社:1976:4)

サーカス、町回りのジンタ、映画楽士など、社会的地位の低いミュージシャンたちによって演奏されていたが、彼らの生活が放縦すぎてとらえどころがなかったことや、当時の風潮としてジャズそのものがまともな音楽と見られなかったこと、などから(中略)長い間無視されてきたからのようである。

 なお、アメリカのODJB(オリジナル・ディキシーランド・ジャズバンド)がジャズ史上初めて録音を行ったのは1917(大正6)年である。それを1919(大正8)年に菊池滋弥(1903-?)がレコードを持ち帰り、そのスタイルをコピーして演奏活動を行うようになったのであるから日本のジャズは世界的にみてもかなり早いスタートを切っていることが分かる。以後、浅草オペラとの関連や、デパートなどでの演奏などでその活動が展開されるが、大戦が始まると敵性音楽としてジャズは禁じられる。結果としてこの頃より欧米で栄えたモダンジャズの母体であるバップが入ってこなかったことが日本のジャズの進展を妨げた。終戦後、アメリカ文化の大量流入によりジャズも一気に流行するのだがこの本場志向が後々になって、何をもって日本独自のジャズとするのか、という問題を引き起こすこととなった。
 一口でジャズと言ってもそのスタイルは様々である。その中に大量の管楽器で構成されるビッグバンドのスタイルがある。終戦後の軍楽隊の退役兵もジャズミュージシャンとして活動をするものが多かったが彼等もまたビッグバンドの一員となり、やがてポップスのミュージシャンとなるものも多くいた。戦後日本の大衆音楽の再出発もまた管楽合奏より始まったことは興味深いことである。また、黛敏郎(1929-1997)のように、この大規模な管楽合奏体によるジャズに大きく影響を受けた作曲家も少なくない。
 ジャズミュージシャンにならなかった軍楽隊員は1945(昭和20)年10月に再編成された東京市音楽団などに入るものも多かった(注16)。現在の陸上自衛隊中央音楽隊は1951(昭和26)年に警察予備隊創立一周年記念式典挙行のために急遽編成されたものが母体である。その編成を「新版吹奏楽講座7 吹奏楽の編成と歴史」(音楽之友社:1983:157)より抜粋する。

ピッコロ、フルート 2、 オーボエ 1、 E♭クラリネット 2、 B♭クラリネット 8、B♭ソプラノ・サクソフォーン 1、 E♭アルト・サクソフォーン 2、 B♭テノール・サクソフォーン 2、E♭バリトン・サクソフォーン 1、 B♭バス・サクソフォーン 1、 B♭コルネット 5、B♭トランペット 2、 E♭アルト・ホルン 4、 バリトン 2、 ユーフォニウム 2、 トロンボーン 3、E♭バス 2、 B♭バス 2、 打楽器 4

 これはそれまでの日本の軍楽隊とは異なりアメリカ式の編成を取っていることが分かる。なお、海上自衛隊音楽隊も陸上自衛隊音楽隊と同じ1951(昭和26)年にその母体が旧海軍軍楽隊出身者を中心に結成されている。航空自衛隊航空中央音楽隊だけは設立が遅く、1958(昭和33)年に仮編成が行われている。
 日本には他に警察音楽隊と消防音楽隊もある。前者の母体は1948(昭和23)年に創設されたもので40名の警視庁警察官を数名の旧陸軍軍楽隊出身者が指導している。後者の母体は1949(昭和24)年創設であり、こちらは旧海軍軍楽隊出身者23名によって結成された。なお、編成はやはりアメリカ式である。
 戦後の吹奏楽においては教育の場において行われる部活動としての吹奏楽を抜きには考えることはできない。その傾向を大きく左右するのが全日本吹奏楽連盟および朝日新聞社の主催によって開催される全日本吹奏楽コンクールである。第一回目のコンクールが開催されたのは戦前の1940(昭和15)年、大阪市でのことである。このときの吹奏楽部門の課題曲は海軍軍楽隊作曲の行進曲『大日本』であった(注17)。翌年および翌々年の第二回・第三回のコンクールにおいても課題曲は軍楽隊の作曲である行進曲であった。このことからも軍楽隊がアマチュアの吹奏楽団に与えた影響が絶大なものであったことが伺える。吹奏楽コンクールは第二次世界大戦によって中断、第四回目として再開されたのは1956(昭和31)年のことであり、それから5年間の課題曲は数曲の例外を除いてアメリカの作曲家によるものであった。なお、1962(昭和37)年以降の課題曲は基本的に邦人作曲家によるものである。
 現在日本のアマチュアの吹奏楽団の活動は、もはや学生ではない一般や職場のバンドにしてもこの部活動の延長線上にあると言わざるを得ず、それは長所ともなるが、同時に停滞を招く結果ともなっている。あまりにもアマチュアの活動のほうが主導的になっている分野であるがゆえに、未だその可能性は未開拓であると言えよう。むろん、アマチュアのよさというものも存在するのであるから、それも尊重しつつ、教育としての吹奏楽・エンターテイメントとしての吹奏楽・表現としての吹奏楽、この三者の住み分けを上手く行っていくことが肝要であろう。

  結論 −今後の課題−

 今回述べたことは極めて概論的なことであり、個々の事象についてはもっと掘り下げるべきものである。しかし、こうして概観してみると、現在、管楽合奏に対する研究があまり為されていない理由が何となく浮かび上がってくるのではないだろうか。それは、まず管楽合奏というものがその性質からに機会音楽的なものを演奏することが多く、音楽史における決定的な変革をもたらすことがあまりなかったことが挙げられよう。次に、軍楽隊という性質からあまり触れるべきものではない、という暗黙の了解のようなものがどこかにできてしまっていることも考えられる。そして、今現在の吹奏楽の状況が教育現場で使用されているレヴェルを脱しておらず、また、音楽関係者の多くが自身の音楽経験の初期に関わっていることから「そのようなもの」という先入観がどこかにあるのではないだろうか。しかし、本論で述べたことを一瞥してみても、あまり気付かれないような部分で確実に日本の音楽界全体に対して様々な影響を与えてきたのだ、ということは明白である。妙な先入観を捨て、新たな視点から管楽合奏を見直すことで見えてくる様々な点を明らかにすることを今後の研究の課題としたい。




 [注]
(1)軍楽隊より派生した管楽合奏をポップスの観点より考察したものとしては
   阿部勘一「ブラスバンドの社会史 軍楽隊から歌伴へ」(青弓社:2001)
   が詳しい。  本文に戻る
(2)江戸期の蘭学研究において西洋音楽単体に対する研究も行われていた。
   宇田川榕菴(1798-1846)の研究がそれである。その内容については
   塚原康子「十九世紀の日本における西洋音楽の受容」(多賀出版:1993:
   15-64)に詳しい。  本文に戻る
(3)「新版吹奏楽講座7 吹奏楽の編成と歴史」の片山正見『海軍軍楽隊』(音楽
   之友社:1983:141)によれば、それ以前にも軍楽は存在していた。1841年、
   高島秋帆の歩兵・砲兵の調練に附随した鼓笛隊である。  本文に戻る
(4)ここで使用された楽曲のなかで最も知られているものが『和蘭一八六一年式
   太鼓教練譜』である。ここに含まれるものの一つが『維新マーチ』として知
   られているものである。なお、「宮さん宮さん〜」という歌詞で知られている
   日本初の軍歌と言われる曲のことも維新マーチと呼ぶことがあるがそれは誤りで
   ある。これはこの二曲が繋げて演奏されることが多いことから起こった誤解であり、
   堀内敬三「音楽五十年史」(鱒書房:1942:4-6)によれば、後者は品川彌二郎
   作詩、大村益次郎作曲によるものではないかとされている。  本文に戻る
(5)増井敬二「日本の洋楽史」によると、イギリスの「ファーイースト」紙の記事に
   この薩摩藩軍楽伝習隊が写真入りで紹介され、それによると彼等は外国の楽器を
   見様見真似で模造したものを手にしていたという。勿論、本来の楽器とは性能や音色
   は比べるべくもないものであったであろうが、少なくとも何らかの音を出すことは
   出来たという。定説とは異なるが、これが事実であるとすればわずか三ヶ月で相当
   のレヴェルに達したという奇跡のような事象にもうなずける。  本文に戻る
(6)Saxが特許を取ったのはSaxophoneが1846年、Saxhornが1845年である。
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(7)陸軍よりの留学先がフランスとなっているのは、ルルー自身やその知己がかの地で
   教鞭を取っていたからに他ならない。  本文に戻る
(8)音楽取調掛と関係を持ったのは陸軍よりも海軍のほうが多かった。  本文に戻る
(9)もちろん海軍からも留学者はいなかったわけではない。1889(明治32)年には
   Cl奏者の吉本光蔵(1862-1907)がドイツのベルリン高等音楽院へ留学している。
   吉本は『君が代行進曲』の作曲者としても知られている。  本文に戻る
(10)軍歌と同名のタイトルを持つ行進曲というものが多く存在するが、これは必ずし
   も全く同一のものであるわけではない。例えば軍歌『○○』というものと行進曲
   『○○』というものがあったとすれば、後者の行進曲はA-B-Aという三部形式の
   Bの部分(トリオ)の主題が『○○』という軍歌のものを用いている、というもの
   であることが非常に多い。ゆえにAの部分は完全にオリジナルである場合も多い。
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(11)堀内敬三によれば、ヂンタという名称は大正初期に出来たもので、『ヂンタ、
   ヂンタ、ヂンタカタッタ』と鳴る特異な音響から由来したという。(『ヂンタ以来』
   :アオイ書房:1935:24)  本文に戻る
(12)例えば吾妻婦人連中という新吉原江戸町の俵屋福松という人物によって結成された
   と言われる、俗に「ゲイシャ・ブラス・バンド」と呼ばれる管楽合奏団の演奏は
   日本初の洋楽曲のレコード吹き込みであるとされている。(2000 『君が代のすべて』
    キングレコード KICG 3074)  本文に戻る
(13)例えばどのような演奏会が開かれていたかの例としては、『別冊レコード芸術
   Summer 1999』の片山杜秀《架空音楽日誌「山本元帥戦死の頃」》に詳しい。
  (音楽之友社:1999:104-116)  本文に戻る
(14)戦時中に書かれたこれらの作品のほとんどを現在では耳にすることはできない。
    多くの作曲家が自身の作品リストからその存在を抹消している。また、この時の
    印象から吹奏楽を軍隊の象徴として捉え、以後そのための作品を書こうとしなく
    なった作曲家も少なくない。こういった印象を持ち続けている人は作曲家以外にも
    数多くおり、これらの作品は文字どおり闇に葬られ、現在の吹奏楽に対しても目を
    向けようとしない一因となっている。しかし、社会的背景を一切切り捨て、ただ単に
    音楽作品としてこれらの作品を見直せば、当時の作曲の多様性をこれまでとは異な
    った視点から検証することが可能であろう。  本文に戻る
(15)故に日本におけるジャズの祖として前述の三越デパート少年音楽隊を挙げる場合も
    ある。なお、「日本のジャズ史」によると日本初のジャズバンドは東洋音楽学校
   (現:東京音楽大学)の卒業生、波多野鑠太郎(生没年不明)らが渡米後に結成した
    ものだとしている。(前掲書:16-26)  本文に戻る
(16)東京市音楽団は山田耕筰を団長とした音楽団である。管弦楽部と吹奏楽部からなり、
    前者が後の東京フィルハーモニー交響楽団、後者が東京消防庁音楽隊である。
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(17)当時の吹奏楽コンクールは吹奏楽部門だけではなく喇叭鼓楽部門なども設けられて
    いた。なお、第一回コンクール喇叭鼓楽部門の課題曲は大沼哲作曲『野営の篝火』
    である。  本文に戻る


[参考文献一覧]

音楽之友社 編
  1983 「新版吹奏楽講座7 吹奏楽の編成と歴史」 (東京:音楽之友社)
塚原 、康子
  1993 「十九世紀の日本における西洋音楽の受容」 (東京:多賀出版)
阿部 、勘一 他
  2001 「ブラスバンドの社会史 軍楽隊から歌伴へ」 (東京:青弓社)
山口 、常光
  1968 「陸軍軍楽隊史 −吹奏楽物語り−」 (東京:三青社)
楽水会 編
  1984 「海軍軍楽隊 −日本洋楽史の原典−」 (東京:国書刊行会)
中村 、理平
  1993 「洋楽導入者の軌跡」 (東京:刀水書房)
堀内 、敬三
  1942 「音楽五十年史」 (東京:鱒書房)
  1935 「ヂンタ以来」 (東京:アオイ書房)
富樫 、康
  1956 「日本の作曲家」 (東京:音楽之友社)
音楽之友社
  1999 「音楽芸術別冊 日本の作曲20世紀」 (東京:音楽之友社)
片山 、杜秀
  1999 「架空音楽日誌 山本元帥戦死の頃」 『別冊レコード芸術 Summer 1999』(音楽之友社:104-116)
磯田 、健一郎 編
  1999 「200CD 吹奏楽 名曲・名演 魅惑のブラバン」 (東京:立風書房)
小林 、淳
  1998 「伊福部昭の映画音楽」 (東京:ワイズ出版)
内田 、晃一
  1976 「日本のジャズ史 戦前戦後」 (東京:スイングジャーナル社)
全国歴史教育研究協議会 編
  2000 「改訂新版 日本史B用語集」 (東京:山川出版社)
クリストファ・N・野澤
  2000 「円盤レコード最初の君が代」 『君が代のすべて』 (東京:キングレコード)
秋山 、紀夫
  1998 「全日本吹奏楽コンクールとその課題曲について」
   『吹奏楽コンクール課題曲集vol.1(1962〜1969)』 (東京:ソニー・ミュージックエンタテイメント)



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