アレンジと吹奏楽 その後


 こちらこちら、そしてこちらのコラムを書いてから約5年。改めてこの「編曲問題」と向き合ってみよう。


 「吹奏楽ならば吹奏楽の《オリジナル作品》をやるべきだ」。それは昔から思っているし、今でもその考えは変わらない。同じことは多くの人が「何とはなしに」そう思っているだろう。その一方で、「吹奏楽の《オリジナル作品》とは何か」ということについては、どれほどの人が考えているのだろうか。つまり、その《オリジナル作品》が『吹奏楽』という編成で書かれることの必然性についてである。とある吹奏楽の《オリジナル作品》があったとして、その楽曲が「管弦楽ではダメだったのか?」という疑念を持つ人はどれほどいるだろうか。
 果たして、その疑惑の眼差しをもって多くの《吹奏楽のオリジナル作品》を見た場合、残念ながらほとんどの作品に、「吹奏楽である必然性」が感じられない。換言すれば吹奏楽には「吹奏楽が本当に演奏すべきものが極めて少ない」ということであり、この事実を悲観的に見たならば「吹奏楽は《オリジナル作品》を演奏すべきだ」という主張の根拠というのが、いかに脆弱であるかが分かるだろう。

 この悲しい事実を打破すべく、日夜「吹奏楽ならではの音楽」を模索するのが作曲家の仕事なのであるが、そのことについて述べるのは今回の意ではない。今回の論旨はあくまでも「編曲作品」についてである。

 さて、「編曲作品」が演奏される機会、というのを二種類に大別してみる。

 まず一つ目が吹奏楽コンクールにおいて、である。個人的には「吹奏楽コンクール」というのは現代日本の吹奏楽市場において最も中心的な存在であり、作品の認知度に最も大きく関わるものであると考えるので、この場において編曲作品が演奏されるのは好ましくないと考えている。しかし、これはあくまでも作曲家としての意見であり、このコンクールはあくまでも「演奏技量を競う」場であって楽曲品評会ではないことを考えると、別に吹奏楽団が管弦楽曲を編曲して演奏することは非難の対象とはできない。各バンドそれぞれが「どのような楽曲を演奏するべきか」と考えるのは個々の自由であり個性である。ある種の使命感を持って《オリジナル作品》を演奏する、あるいは、「《オリジナル作品》に駄作しかないから」という理由で編曲作品を演奏する、というのはバンドの方針に過ぎず、突き詰めれば、それらは競い合う場である「コンクール」において「勝つためには手段を選ばない」かどうか、というある種「演奏モラル」のような話になる。吹奏楽コンクールというものを、どのように捉えているのか。そのアプローチの仕方によって、編曲作品を是とするか非とするかの価値観も変わるだろう。

 さて、今回の話の中心はもう一点の方、「コンクール以外の場で演奏される場合」である。
 吹奏楽がコンクール以外で演奏する機会は様々である。管弦楽よりも手軽な(あるいは「身近な」でもいい)演奏媒体、という扱いで吹奏楽を見た場合、「ふれあいコンサート」のような趣旨の演奏会の占めるウェイトは非常に大きい。地元密着・子どものための音楽鑑賞会・老人ホーム慰安演奏、様々な対象の違いはあるだろうが、いずれの場合にも重要な事の一つとして「よく知られた曲を演奏する」ことが挙げられる。この場合、《吹奏楽のオリジナル作品》と《管弦楽からの編曲作品》(もちろん選曲にもよるだろうが)のどちらが適切であるかは、一目瞭然である。
 また、よく言われる「教育的目的でマスター・ピースを演奏させる」という話。機能和声にのっとった楽曲で音楽的基礎力を養うという目的。あるいは、古今東西のいわゆる「名曲」に触れさせるという目的。こういった「聴かせるため」ではなく「演奏するため(プレイヤーのため)」の選曲というのも「コンクール以外の場で演奏される場合」ではよくあることだ。生涯学習の手段としての吹奏楽の在り方、とでも言えようか。

 この「コンクール以外の場で演奏される場合」。このケースにおいて「音楽」とは『手段』であって『目的』ではないことは重要である。専門教育を受けた人たちは、とかく「音楽のための音楽」で考えがちだ。よくある例えでの「芸術志向主義」とでも言おうか。無論、これはこれで必要な立ち位置である。しかし、この「専門家」がアマチュアを指導する立場に廻ったとき、学校の生徒を初めとしたアマチュアの人たちにも音楽を「目的」とすることを(無意識のうちにも)強いてしまいがちだ。求められている「成果」(結果、ではない)は何なのか。それを見誤ったときに悲劇が生まれる。

 『手段』の「手段」として考えた場合、「編曲作品」というものの別の側面も見出せよう。こうしたときに、「編曲の質」の問題が新たに浮上する。「吹奏楽における編曲問題」は「編曲という行為自体の是非」に終始しがちであるが、「どう編曲するか」に議論があまり及ばないのは残念なことである。

 私の吹奏楽への姿勢の一つとして「各々のレベルに見合った楽曲が供されるべきだ」というものがある。演奏する団体の年齢層、あるいは技量によって、演奏される楽曲は異なるべきである。中学生が無駄に難しい曲を演奏することも、大人が内容の浅い楽曲ばかり演奏することも、どうなのだろうか?上手なスクールバンドには「演奏技量はそこそこ必要だが、楽曲の理解は比較的容易」なものが望ましいだろうし、そこそこのレベルの一般バンドには「演奏難易度はそれほどでもないが、内容が深い」ものが必要だ。「誰にでも広く演奏される楽曲」は、市場的には優秀だろう。だが、実はそれはよほど秀逸な作品でなければ「誰にも必要とされない楽曲」と紙一重なのである。このタイプの楽曲の蔓延は、結局のところ吹奏楽の表現力の低迷を招くこととなる。

 これと同じことは「編曲作品」にも当てはまる。同一作品を吹奏楽に編曲する場合でも、「どの層を対象とするのか」によって編曲の内容は変化するべきなのだ。いわゆる「名曲」を素材として、簡略化・低難度にして誰にでも演奏出来るようにすることも、オリジナルに極力近づけようと様々な技法を駆使してより高度に表現できるようにすることも、どちらも必要なのだ。『手段』の「手段」に様々な段階が存在することにより、最終的な『目的』への到達が可能になるのである。
 例えば、「子どものための音楽鑑賞会」で管弦楽の名曲を演奏することになった場合、演奏する団体がプロであるか、スクールバンドであるか、という違いによって、異なる編曲版が存在したほうがいい、と考えてみると分かりやすいだろう。

 ところが、多くの編曲版というのは、「そこそこの難易度」で書かれている場合がほとんどだ。最上級の技量を持つバンドには物足りないし、多くのスクールバンドには難しすぎるか編成が大きすぎる。「編曲作品を演奏する」ことの理由はあるにも関わらず、その手段に欠けるのが現状なのである。

 漠然と「編曲する」のではなく、目的意識あるいは問題意識を持って編曲を行うことが、今後重要になっていくのではなかろうか。


 なお、私なりに考え、上手で大編成の吹奏楽団が「鑑賞されるために」より高度な表現できるように演奏するための編曲を行った例があるので、こちらも参照のこと。

 また、「音楽のための音楽」を目指した「編曲作品」というのは、これらとは全く別種のものであり、混同してはならない。それらについてもいずれ考察してみたいが、とりあえずは北海道教育大学函館校吹奏楽団が録音しCD販売を行っている田村文生の編曲作品集「TRANSFORM」や、伊左治直の作品「夕焼けリバースJB急行 〜ハイドン・ヴァリエーション・メタモルフォーゼ」、高橋徹編曲によるムソルグスキー「展覧会の絵」などがよい参考になるだろう。
 

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