ヨーゼフ・カイルベルト
(1908:4/19〜1968:7/20)
1965
NHK交響楽団

12月25-27日:東京文化会館
ベートーヴェン/交響曲第9番

1966
NHK交響楽団

1月12-13日:東京文化会館
グルック/アウリスの イフィゲニア、序曲
ブラームス/交響曲第3番
モーツァルト/交響曲第39番
Rシュトラウス/ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯

1月19-20日:東京文化会館
ウェーバー/魔弾の射手、序曲
ハイドン/交響曲第99番
Rシュトラウス/サロメ、七つのヴェールの踊り
ブラームス/交響曲第2番

1月24日:愛知県文化会館講堂
ウェーバー/魔弾の射手、序曲
ブラームス/交響曲第3番
モーツァルト/交響曲第39番
Rシュトラウス/ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯

1月25日:フェスティバルホール
ウェーバー/魔弾の射手、序曲
ブラームス/交響曲第3番
モーツァルト/交響曲第39番
Rシュトラウス/ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯

2月2-3日:東京文化会館
モーツァルト/交響曲第38番
ワーグナー/ジークフリート牧歌
ブラームス/ハイドンの主題による変奏曲
シューマン/交響曲第1番
:
2月9日東京文化会館
ベートーヴェン/交響曲第4番
ヒンデミット/いとも気高き幻想
ワーグナー/マイスタージンガー、第1幕への前奏曲

1968
NHK交響楽団

4月30日-5月1日:東京文化会館
ベートーヴェン/コリオラン、序曲
ベートーヴェン/交響曲第8番
ブルックナー/交響曲第7番

5月7-8日東京文化会館
ヘンデル/合奏協奏曲op3−2
ベートーヴェン/交響曲第2番
Rシュトラウス/ツァラトゥストラはかく語りき

5月13-14日東京文化会館
ハイドン/交響曲第94番
ヒンデミット/フィルハーモニー協奏曲
ブラームス/交響曲第1番

5月21-22日:東京文化会館
モーツァルト/交響曲第41番
ブルックナー/交響曲第4番


バンベルク交響楽団

5月15日:東京文化会館
ウェーバー/オイリアンテ、序曲
ヒンデミット/画家マチス
ベートーヴェン/交響曲第3番

5月20日:東京文化会館
ハイドン/交響曲第101番
Rシュトラウス/ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯
ブラームス/交響曲第4番

5月25日:松山市民会館
ウェーバー/オイリアンテ、序曲
ヒンデミット/画家マチス
ベートーヴェン/交響曲第3番

5月27日:福岡市民会館
ハイドン/交響曲第101番
Rシュトラウス/ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯
ドヴォルザーク/交響曲第9番

5月28日:広島市公会堂
ハイドン/交響曲第101番
Rシュトラウス/ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯
ブラームス/交響曲第4番

5月29日:フェスティバルホール
ハイドン/交響曲第101番
Rシュトラウス/ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯
ブラームス/交響曲第4番

5月30日:愛知県文化会館文化講堂
ウェーバー/オイリアンテ、序曲
ヒンデミット/画家マチス
ベートーヴェン/交響曲第3番



往年の巨匠ヨーゼフ・カイルベルトは1965年に初めてNHK交響楽団を指揮し、その後この楽団
の名誉指揮者となりました。そして1968年には手兵のバンベルク交響楽団(岩城宏之が同行)
と待望の来日を果たしました。カイルベルトはその実直かつ誠実な人柄そのものの音楽の持
ち主で、客演していたN響の楽員を魅了し信頼されていました。この68年の公演時中にもN響
に客演していたのもそのあらわれのひとつでした。

 この東京公演はすべてNHKがTVとFMで収録し、その一部はキングからCD化されたりしまし
た。
 この公演はけっして派手な話題をふりまかなかったものの、日常性と温和な響きの中に、力
強さとスケールの大きさを兼ね備えた名演奏とたかく評価されました。この当時のカイルベルト
を「彼の誠実な振るまいはNHK交響楽団を魅了して、次第に彼に信頼感おくようになり、ひいて
は演奏が日増によくなっていった。」というふうにその様子をあらわした文がありました。当時の
コンサートマスターだった、海野、川上両氏も口を極めてカイルベルトを絶賛し、その言葉から
は尊敬というだけでなく、上の文を裏付けするような信頼や敬愛をも強く感じさせるものがあり
ました。

 このように楽員や聴衆からも大きな信頼と評価を得たカイルベルトでしたが、意外なくらい評
論家受けが低く、バンベルクとの来日直前に発売された「音楽の友」でも、彼はその評論家人
気投票のベスト11にも入りませんでした。(カラヤンの30票ほぼ満票に対して、カイルベルトは
わずか7票というものでした。)当時のこの結果を野村光一氏は「演奏家に噂や下馬評はつき
ものだが、専門家の間にも作用しているとはいえ、この二人にこれほど価値に違いがあるの
か。」と評したものでした。

 帰国後、2年後の1970年にも日本に行くことが決まったことを(これはN響によるベートーヴェ
ン交響曲全曲演奏会ではないかといわれていますが確認できませんでした。この公演はカイ
ルベルトの後任としてミュンヘンに着任した、同じ名誉指揮者であるザヴァリッシュによって
1970年挙行されています。)たいへん喜びながら話していたこの親日家の巨匠に運命の日が
やってきました。1968年7月20日。カイルベルトは「トリスタンとイゾルデ」の上演中に倒れこの
世を去りました。指揮者としてはまだこれからという六十歳での急逝で、このことは楽壇に大き
な衝撃を与えました。(当時「その場」にいた東大の独文学教授である、内垣啓一氏は68年10
月の「音楽の友」にその時の模様を克明に書き記しています。)

 バンベルク交響楽団とNHK交響楽団を指揮したこの1968年の来日公演は、結果としてこの
指揮者日本最後の公演となってしまい、バンベルク交響楽団の来日公演も1982年までじつに
14年間も途絶えてしまいました。

 カイルベルトのことをもうすこし。

 かつてカイルベトとN響のCDが4枚発売された時、そこにカイルベルトを敬愛していた元コン
サートマスターの川上さんが次のようなコメントをよせています。

 「その当時私たちは氏について、「大変厳しくて気難しい」指揮者だと聞かされ、皆、緊張して
おりました。しかし実際には、大変親切な暖かい方で、指揮台の上に、まるで大きな岩か何か
のように、どっしりと立たれ、声も静かで、棒もほとんど動かさず、全く無駄のない的確な練習
で、オーケストラを見る見るうちに整理していかれる様子は、実に見事でした。もちろん本番の
演奏が感動的だったのは、いうまでもありません。ちょっと私事になりますが、第一回目の来日
の時、私は、娘が重い病気になり、朝、病院に連れていったため、練習に遅れたことがありま
した。遅刻した理由をヴァイオリンの蓬田さんが、先生に話してくれましたところ、先生は「そん
な時には、父親は娘のそばにいてやるものだ」と、すぐ帰るように言われ、感激したことを覚え
ております。また第二回目の時だったと思いますが、ブラームスの交響曲第一番の練習の時、
コンサートマスターの海野さんが、ちょうどその夜、自分のリサイタルを控えていて、そのことを
偶然お知りになった先生が、さりげなく、練習を早めに切り上げられたこともありました。大指
揮者でありながら、そのお人柄は、いかにも暖かいドイツの親父さん、といった感じでした。」

 その海野さんも別のところで、最初はマタチッチやサヴァリッシュのような、強烈なインバクト
はなく、演奏しているときも、100%の力を80%にとどめられているようで、はがゆかったもの
の、その録音を聴いたときは、それがじつに感銘ぶかい圧倒的な演奏であり、しかもいつもの
N響よりはるかに音色が豊かで、しかもムリがなくハッタリのない正統な音楽だった、ということ
を述べていらっしゃいました。しかも怒らず、ひとりとひとりに丁寧に絶えず気配りをし、決して
どなったりせず、熱心にやさしく導いてくれたそうです。

 カイルベルトもN響に対してかなりの信頼をしており、ブラームスの3番の時、最初の部分を
ひとつ振ったあと、そのあとしばらく振らなかったことがあったそうですが、これはカイルベルト
が完全にN響が自分の意図どおりの音楽をしていたからだといわれています。

 このカイルベルが、その最後の来日時にバンベルクを指揮したブラームスの4番を野村光一
氏は、その演奏の素晴らしさに「めったに演奏会ではないのだが、このときは興奮してしまっ
た。」という絶賛の言葉を与えていました。

 ある意味これからがこの指揮者の本領発揮という時期の急逝はほんとうに残念でしたが、そ
の最高の時期に日本でその演奏を披露していってくれたのは、なんともありがたいことだと思
います。1968年の日本公演は、バンベルク交響楽団といいNHK交響楽団といい、そのすべ
てがヨーゼフ・カイルベルトを語る上で、けっして無視することのできないものだと思います。


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