シュナイトの録音を聴く


 実力とヨーロッパでの名声にもかかわらずあまり録音に積極的ではない現代最高の指揮者
のひとり、ハンス=マルティン・シュナイト。その2004年の11月から一年後の2005年の11
月までに録音されたいくつかの感想をここに記しておきたいと思います。




[バッハ:ロ短調ミサ]

 最初は2004年の11月27に初台のタケミツメモリアルにおける、シュナイト・バッハ合唱団
と管弦楽におけるバッハのロ短調ミサの録音で、とにかく今まで自分がCDで聴いた同曲の演
奏でも最高のもののひとつといっていいほどの内容となっています。

 なんといいますか自分がこの曲に開眼するきっかけとなったクレンペラー盤やリヒター盤とは
正反対ともいえるもので、なにか「侘び」「寂び」といった趣が全編を支配しており、ロ短調ミサと
いうよりヨハネ受難曲を聴いているような感覚に陥ってしまいそうな演奏でした。随所に翌年
「古典派の偉人たち」におけるモーツァルトやハイドンそれにベートーヴェンの気配が随所に立
ち込めており、裏を返せばあのときの演奏は決して奇をてらったものでなく、バッハからいずる
ひとつの流れの中から導き出されたものであったことがわかり、この演奏会を聴いていれば、
あのときの演奏もまた違ったものに聴こえたのでは?と、ちょっと残念に思ったものでした。

 響き的にはオケと合唱が一体となって、まるで静寂をきわめた霧の立ち込める早朝の教会
の中を思わせるような響きで、どこにも角の無いそれでいて完璧なバランスを保ったものとなっ
ています。そういう意味ではウィーンで行われた林さんの指揮によるマタイの録音とどこか通じ
るものがあるような気がします。自分はかつて林さんのマタイについて

「それにしてもこの演奏のぬけるような明朗にして一点の濁りも無い清澄な響きの美しさと、そ
こから生じる音楽の詩的な美しさ、そしてこれこそが一番の驚きなのですが、バッハのもつ音
楽の「造型」というものに一聴すると固執してないように聴こえるものの、響きそのものがバッ
ハのもつ「形」を結果として成しているという、それこそ360度地平線が見渡せる風景における
大空をみているかのようで、形無きものがその形無きがゆえにどこまでも完璧なまでにバラン
スをとりながら (しかもそこに日本の庭園にみられる「くずし」ながらバランスをとっていくという
独特な感覚を、この演奏がそれらと同時に並行して行っているようにも感じました。そういう意
味ではある意味この演奏はとても日本的なものなのかもしれません。)、 しかもそれが無限の
領域までその音楽が鳴り響いているような、そんなとても不思議な感じがし、驚きそして大きな
感銘を受けたものでしたし、このとき音楽がなぜ何百年たっても色あせず、現代そして未来ま
で聴き継がれていくのかその理由のひとつをこの演奏に聴く思いがしたものでした。」

 とその演奏について書いた記憶がありますが、それと同じ感銘をこの演奏にも感じたもので
した。

 しかしこの演奏における独唱や合唱団、そしてオーケストラ(東京フィル)の素晴らしさはちょ
っと筆舌に尽くしがたいものがありますが、それは終曲における、それこそチェリビダッケ以来
と思われるほどの悠揚かつ清澄な響きがゆっくり立ちのぼり、そして次第に強大な力感とスケ
ールをともないながら圧倒的なまでに音楽を押し上げていくシュナイトの神かがったような指揮
を、ほとんど完璧なまでに表現しつくしているそれに最高の形であらわれているような気がしま
す。
 また途中随所に音楽がまるで時間を止め祈りにすべてを捧げているかのような瞬間(例えば
グローリアにおける「世の罪を除きたもう者よ」やクレドにおける「唯一の洗礼を信認す」等)な
ど、もはや形容の言葉もないほどです。

  それにしてもこのロ短調はあまりにも素晴らしいです。この演奏を実演で聴かれた方々が
ほんとうに羨ましいです。

[CD番号:WWCC−7496〜97]
ナミ・レコード





[ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」]

 続いて2005年の3月29に川崎のMUZAにおける、神奈川フィルハーモニーにおけるモー
ツァルトとベートーヴェンの録音で、これもまた今まで自分が聴いた同曲の演奏でも最高のも
ののひとつといっていいほどの内容となっています。当時この演奏を聴いた自分の感想は、

シュナイト指揮神奈川フィルハーモニー(2005:3/29)
(会場)MUZA川崎
(座席)2階RB6列6番
(曲目)
モーツァルト:ディヴェルティメント ヘ長調
モテット「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」 (S/臼木あい)
ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」

 今回の公演は今まで3年間にわたってシュナイト&神奈川フィルが行ってきた「古典派の偉人達」の特別版のようなかんじのものでした。

 最初のディヴェルティメントのエレガントな響き、続くモテットではシュナイトのオペラ指揮者としての卓越した力量がいかんなく発揮されたものとなりました。特にモテットは臼木さんの声も素晴らしかったのですが、それに絶妙な「つけ」をみせるシュナイトの棒はまさに名人芸といった趣すらあり、この指揮者のオペラも聴いてみたいという欲求が強く生じるほどのものとなりました。両曲とも羽毛のような感触すら感じるオケの音色がほんとうに満喫できた演奏でしたが、これはMUZAの響きによる力もかなり大きかったのでは、という感じがしたものでした。

 そして後半の「田園」。前回の第四のような異常な雰囲気こそなかったものの、その感銘は絶大なものがありました。第一楽章はあっさりとはじまったものの、展開部に入ると自ら指揮台を足で踏み鳴らしながら、音楽に強大な力感と雄大なスケールを引き出していくその凄さにちょっと身震いしてしまったほどで、ちょっと1月に聴いた第八を思い出してしまいました。つづく第二楽章は一転してさらさらとした叙情的雰囲気にみちた格調高い音づくりとなりましたが、ここでじつは今回シュナイトの指揮がたいへん細かいものであるということにあらためで驚かされました。

 じつは過去自分はシュナイトの指揮を真後ろからかみたことがなく、今回はぜひ横からみてみたいと思い横側の席を購入したのですが、とにかく表情豊かでしかも細かい指示を無駄なくてきぱきとだしながら、ここというときには立ち上がり全力をもって音楽を引き出しにかかるという、ほんとうに全身を使いながら、なおかつたいへん要所をしめた指揮ぶりに驚いてしまいました。今までは背中ごしだったため、いろいろてきぱきと指示を出しているのはわかったのですが、ここまで指示を出しているとはおもってもみませんでした。この指揮者の凄いまでの情報量豊かな音楽が導き出される過程のようなものが垣間見られ、とても興味深いものがありました。

 と、それまではそういうことに感心したりしていたのですが、後半三つの楽章はもうそんなことはどうでもいいほどの素晴らしい音楽がホールに鳴り響くこととなりました。第三楽章はこの楽章が農夫の踊りであるということを再認識させられるような力感と素朴さが組み合わさったものであり、嵐はティンパニーの打ち込みの鮮烈さもさることながら弦の独特なスケールの大きなうねりに耳を奪われたりし、もうその音楽の見事さに圧倒されてしまったのですが終楽章の素晴らしさはもはや筆舌に尽くしがたいものがありました。自分はこの演奏を聴いているうちに、次第になにか万感胸に迫るようなものがこみあげてきて、ついには目頭が熱くなってしまったのですが、この曲にはある種の熱さや強大さがあることは認めていたものの、このように目頭が熱くなるような共感性があるということは、そういうタイプのメロディがあることはわかっていたものの、そうなってしまうことがじっさいにあるとは夢にもおもっていませんでした。それだけにこの万感胸に迫る音楽への強烈な共感と、そこから生じた無類の感銘はおそらく生涯忘れることがないほど、自分に強い印象を植え付けていきました。ほんとうにあれは稀有なひと時でした。

 観衆は少なかったものの(最上階と舞台の側面と背面の席は今回クローズしていました。)、シュナイト&神奈川フィルの素晴らしさと、そのMUZAとの相性のよさはこの日来場されたほとんどすべての方々が実感されたのではないでしょうか。

 というものです。残念なことにモテットはこのCDに収録されていませんが、他の二曲がこうし
てCD化されたことはほんとうに素晴らしいことだと思います。

 ところでCDを聴いた演奏の感想は以前の演奏会とほとんど違わないものでしたが、聴いて
いてまず思ったのは自分が聴いたとき以上に音楽の芯がしっかりとしていたことと、「木目」の
感触のようなものがオーケストラから感じられとてもあたたかいつくり方をした録音ということで
した。

 モーツァルトの全体に感じられる楽興の時的愉悦感や、「田園」の第一楽章展開部のスケー
ルの大きさ、第三楽章のちょっと後ろへひきずるようにして農民の踊り的無骨感を出したところ
などの再確認も素晴らしかったのですが、素晴らしかったのは「田園」の終楽章。特に中盤以
降オケが唱っているのはともかくオケの背後でホールがただ響いているのではなく、これまた
オケとともに唱うがごとく響いているのがはっきりと聴き取れ、こういう演奏会だったのか、とあ
らためてその感銘の度を深くしたものでした。

 素晴らしいCDですし、ひさしぶりに「アルバム」とよべるディスクだなあという気がしました。

[CD番号:MSCD-0017]
ミュージックスケイプ


※ 尚余談ですが、この録音は当初シュナイト氏から要望があったプライベート用のものだっ
たのですが、演奏が素晴らしかったこともあり録音プロデューサーの方からの意見も受けて、
そのCD発売をシュナイト氏が快諾してのものだったそうです。





[ブラームス:交響曲第1番]
 
この公演から半月後に行われた演奏会もCD化されました。このときの感想は

シュナイト指揮神奈川フィルハーモニー(2005:4/16)
(会場)神奈川県民ホール
(座席)3階8列35番
(曲目)
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番(P/小菅優)
ブラームス:交響曲第1番
 後半のブラームスは堂々とした風格を自然体に押し出したものですが、聴いているとなかなか細かいものがありました。第一楽章序奏などを聴くと、この楽章は楷書型の演奏で押し通すのかとおもいきや、随所で音楽を退くようにしながら緩急自在の多彩な表情をみせていくといった具合で、なかなか多彩な演奏となっていました。それにしてもこのブラームス、金管を強く押し出したりする部分はあるものの、弦と木管でほとんど全体を覆ったような演奏で、ティンパニーもベートーヴェンの時よりずっとオーケストラにブレンドさせていた部分が多かったような気がします。このような響きはかつてザンデルリンクが読響を指揮した時にも感じたのですが、シュナイトの方がより弦の細かい表情が際立っていたような気がします。

 そしてこの演奏、終楽章の最後までじつにしっかりとしたバランスと素朴かつ力感にあふれた響きに貫かれたものだったのですが、終楽章のコーダでは思わず唸ってしまいました。本来ここはオケが走り加減になるもののその部分をしっかり戒め弦をあやふやにすることなく克明に響かせているのにも感心したのですが、あの有名な金管のコラールで思いっきりテンポをおとし、かつて聴いたことがないほどのスケールとまるでパイプオルガンのような重厚な響きが鳴り渡ったとき、これがほんとうに日本のオケが奏でている音なのかと、ほんとうに驚き感心しきってしまいました。

と書いています。で、CDの方ですがこちらは録音はホールのせいもあるのか田園より生々し
く 、表情の細かさも明晰に録られているように感じました。 

 それにしてもこんなに表情の豊かな演奏だったとは 聴いていて自分のいた座席でも後ろす
ぎたということが 今回のCDではっきりわかりました。 あとオーケストラが完全に力を尽くしきっ
ており終楽章の最後まで聴き終わったとき 、正直あそこまでやったらもうなにもやりのこしてい
ないだろうと 潔いかんじすらしたほどでした。(最初聴いたときはちょっといっぱいいっぱいだっ
たのかな?と感じたのですが、二度目聴いたときは余力残しながらも力使いきりという感じに
聴こえました。) 石田さんの第二楽章のソロもしっかり録られているのも満足ですし、これは長
く聴きこまれていくCDのように感じました。

[CD番号:MSCD-0018]
ミュージックスケイプ





[ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス]

 その後この年の9月、シュナイト氏ハ武生国際音楽祭で、ユースオーケストラと市民合唱団を
指揮して、ベートーヴェンの「荘厳ミサ」を指揮しました。

 これもCD化されましたが、最初聴いたときあまりの素朴にすぎる演奏と会場の音質に、正直
クレンペラーあたりに耳が慣れてしまっていたものには、少々どころではない物足りなさを感じ
たものでした。特に「グロリア」などは、ベートーヴェンが作曲した最大の音楽壁画のようなもの
であるのに、ここではじつに自然体の演奏が展開されており、たしかに細かい表情がオケに散
見されたりはするものの、ちょっと食い足りない気がしたものでした。

 それは続く「クレド」でも感じていたのですが、中盤すぎからなにかベートーヴェンが作曲しな
がらピアノを叩き床を踏み鳴らす感触のようなものが感じられ始め、終盤は決して力んではい
ないものの、たいへん充実した、ベートーヴェンの力感と興のノリが感じられる演奏になってい
ました。

 そしてディスクの二枚目「サンクトゥス」になると、音楽がさらに充実の度合いを深め、じっくり
と音楽をして語らしめるような抜け切った響きが全体を支配し、その晴朗な音楽が慎ましやか
なヴァイオリンソロとあいまって、まるでブルックナーのミサ曲を聴いているような錯覚を起こさ
せるほどの、悠揚かつ清澄極まりない音楽に昇華されていきました。

 これを聴いていると、ブルックナーの交響曲第2番の第二楽章を想起させられるものがあり、
じつにいろいろと考えさせられるものがありました。そして終曲の「アニュス・デイ」はさらにそれ
が極まったものがあり、まるでバッハのロ短調ミサを聴いているような、そんな錯覚すら感じさ
せられるものがありました。

 自分は後半のこの二曲を聴いていて、ふと昨年神奈川の音楽堂で神奈川フィルを指揮した、
シュナイト氏の指揮によるベートーヴェンの交響曲第4番の第二楽章を思い出してしまいまし
た。この第二楽章は信じ難いくらい悠揚とした演奏だったのですが、このときのことを指揮直後
のシュナイト氏が関係者の方に、「どうだ、荘厳ミサのようだっただろう」と語ったといいます。

 自分はそのときちょっとその発言に違和感を感じたものですが、この演奏を聴いたときこの
演奏を頭に描きながらあのとき指揮していたのかと、今になって初めて納得させられたもので
した。

 このCDの解説文にはシュナイト氏が「平和」というものに対し、強くこの曲に託していた部分
があることが触れられています。そういう意味でも今回のこの荘厳ミサの特に後半二曲はベー
トーヴェンの深い祈りというだけでなく、バッハからベートーヴェン、そしてブルックナーに至り、
さらにその先にある未来である現在、さらにはその先までをも貫くような「平和」への深くそして
強い意志に貫かれた祈りであるような気がしたものでした。おそらく「グロリア」や「クレド」が圧
倒的な熱狂や賛歌ではなく、市民の唱和のような感じの印象を受けたのは、この最後の祈りと
の深い関連性からきたのかもしれません。

 シュナイト氏のベートーヴェンは自分は過去、第4番から第8番までその実演に接しています
が、この演奏はそれらベートーヴェン演奏の延長線上にあるものというだけでなく、シュナイト
氏のベートーヴェンに対するひとつの帰結であるような気がします。

 技術的な部分も含めて、たしかにいろいろと不満な部分はあると思いますし、けっこう好き嫌
いがでる演奏ではあると思いますが、これもまたシュナイト氏を語る上でかならず触れなくては
ならない演奏のひとつであると思います。

 それにしても演奏終了後の長い沈黙。じっさいホールではこの演奏さらにどう聴こえていたの
でしょうか。

[CD番号:MSCD 0022-23]
ミュージックスケイプ





[バッハ:ヨハネ受難曲]

 そしてこの年の11月にシュナイト氏はシュナイト合唱団と管弦楽団を指揮し、バッハのヨハネ
受難曲を演奏している。だが自分はこのヨハネの実演を第一部しか聴いていない。同じ日に時
間はずれているが高崎で、マルティン・トゥルノフスキーの指揮する演奏会とバッティングしてし
まったからだ。このため苦肉の妥協案として第一部のみを聴き、休憩時間にダッシュで初台か
ら電車にとび乗り、そのまま新幹線をつかまえて高崎直行というものを考え出した、うまくいけ
ば高崎の演奏会の十分ほど前には会場につけるはずという超強行軍だった。

 だがそうはうまく行かなかった。前日から風邪のため発熱。夜には38度にもなった。これで
はどちらかひとつでも無理と観念したが、翌日昼には熱が下がりなんとか初台のシュナイト氏
演奏会が行われる会場にたどり着いた。だけどもうそこで心身ともクタクタになってしまい、こ
のまま最後までここにいようと決意。

 だが演奏が凄かった。その眼前で展開されるキリスト受難のドラマに自分は完全に圧倒さ
れ、そしていつのまにやら体調も回復。開演前には信じられないくら元気になり幸か不幸か、こ
のため高崎に行くことも結果できることとなった。

 だからこの演奏は自分にとってかなり複雑な思いで聴くこととなった。別にシュナイトよりトゥ
ルノフスキーの方が上というわけではない。おそらくチェリビダッケとムラヴィンスキーで同じこ
とになったら、やはり今回と同じことをやっていただろう。断腸の決断なのだ。

このときの演奏を当時自分は以下のように書いています。

 第一部のみの感想となりますが、とにかく聴き終えたときに感じたあまりにもの凄く濃密な時間感覚(実際二十分くらいの時間にしか感じませんでした)に驚嘆してしまいました。

 冒頭のオケの響きはラミンのそれが冬のような響きであったのに対し、この日のオケのそれはまるでなにかの苛立ちのような響きを感じ、すでにこのときからこの日の演奏がかなり劇的な要素をもったものになるであろうということは想像できたのですが、それは次第に予想以上の劇的緊張感をはらんだものになっていきました。

 印象としては宗教音楽を聴いているというより、群集を導く人が群集にその運命を動かされ、自分の考えと逆になってしまっていくという、悲劇的な出来事をドラマとして聴かされている、それこそ演奏会形式のオペラ公演に接している、そんな気さえするもので、その感覚は稀有なものさえ感じたものでした。

 とにかく合唱があるときは群集となりあるときは語り手となり、ストーリーを常にコントロールしながら進められていくその音楽に(特に15曲目と17曲目の表情は秀逸でした)、息を呑むような緊迫感を強く与えられたものでしたが、聴いていて、群集が登場人物を巻き込み動かしていくというそれに、自分はウェーバーの「魔弾の射手」を思い出したものでした。ただこれはラミンやリヒターのそれをCDで聴いた時には感じられなかった感覚で、実演ということや大編成による合唱等、そしてシュナイト氏の狙っているものが、そう感じさせる要因になったことはたしかだと思います。

 こうして第一部は終わり、その後聴いた方の話によりますと、第二部はそれこそ想像絶するたいへんな演奏になったといいます。自分はかつてシュナイト氏の指揮したロ短調ミサの印象について、「あたかも天から与えられた音楽を、この日のすべての演奏者と聴衆とともに、再び天に捧げるようにして全曲を閉じた」と記したことがありますが、67曲目においてそれが極まり、最後の68曲目においてはついにひとつ向こうの世界にまで音楽が到達してしまったとのこと。残念ながら自分はそれを耳にしてはおりませんので、後はCDが出るのを待つことといたします。

 因みに第一部終了後拍手が起こったものの、この物語は今はじまったばかりという気がしたことと、にもかかわらず諸般の事情でこの場を立ち去らなければならないということ。それに音楽の持つ強い緊張感によって、音楽の鳴っていないその時間においても依然「ヨハネ」の物語が進行しているという雰囲気(もしくは磁場のようなもの)と、シュナイト氏が今まで見せたことが無いほどの厳しい表情をしていたことが、シュナイト氏の中で音楽に対する高いレベルでの緊張感が、依然持続した状態で保持し続けられているということを感じたため、自分はここでは拍手をすることがどうしてもできませんでした。」


 というものです。そして今回通して聴いた印象としてはこれらの印象に加え、特に第二部はよ
り音楽の流れというか進みが早くかんじられました。

 聴いていてその展開の早さに驚きさえ感じてしまったものでしたし、途中から指揮者が曲を動
かしているのか、それとも曲が指揮者を動かしているのか、、とにかくすべてのものが渾然一
体となって唱和されていくその音楽を聴きすすむにつれ、音楽と人間との結びつきのひとつの
理想形を聴いているようなそんな感じがしてきたものでした。

 そして最後の第68曲。この渾身の歌い上げ。録音を聴いていてこれだけ万感胸に迫るもの
があるのですから、当時その場所にいた方々は、それこそもう言葉にならないほどの大きな感
銘を受けたことでしょう。

 それにしても久しぶりに録音を聴いて目頭が熱くなる演奏を聴きました。

 2007年の1月に神奈川フィルと聴いたブラームスと同じく、演奏を聴いた後に自分の中に与
えられた音楽によって、より大きな感銘へと拡がっていくことに、その素晴らしさをより強く感じ
ることができました。

 音楽というものは完成した瞬間に消滅するもの。ですがそれは物理的な面であって、その完
成した音楽はそれを聴いた人の中に永遠に受け継がれそしてあるときは問いかけあるときは
癒し、そしてあるときは人生そのものを示唆し続ける。もちろんそれはすべての人々に平等と
いうわけではないですし、ある人には取るに足らないものとなってしまう場合も当然あります。

 ですがこのヨハネと2007年の1月21日に聴いたブラームスは、自分にとって前者のように、聴
いた後にとてつもなく大きな「何か」を自分の中に残していきました。はたしてそれが何である
のか、特にこの「ヨハネ」は何度も聴きかえすことが可能ですので、それらを考えることができ
るものといえるでしょう。

 でもそれを言葉としてみつけることに何の意味があるのかという、そういう疑問もじつはありま
す。そう感じられれば何も言葉でその答えを探さなくともそれならそれでいいのではないかと。

 これは音楽が言葉の範疇を超えたものであるということを、あらためて痛感させられた音楽
でもあります。

[CD番号:WWCC-7540]
(同時収録、バッハ:マグニフィカート)
ナミ・レコード





 こうして2004年の11月から1年の間に録音されたシュナイト氏の録音を続けて聴くと、バッ
ハからベートーヴェンを経てブラームスに至る流れというものが、ひとつの線で繋がれていると
いうことが改めて感じられるということだけでなく、その線がさらに先、そう、現在に至るまでの
流れを指し示しながら、さらには聴き手に対してはその先、未来に対してまでもそれらが受け
継がれていくような、そんな音楽のもつ不滅の流れのようなものさえも強く感じさせられるものと
なっています。

 それにしてもシュナイト氏の音楽をこれだけ実演で聴き続けることができ、しかもその演奏会
がCDで何度も繰り返し聴くことができる。なんと幸せなことでしょうか。


シュナイト雑感
シュナイト演奏会感想集成
シュナイト音楽堂シリーズ記録


トップへ
トップへ
戻る
戻る