巨匠ワインガルトナー来日
(1937)
(昭和十二年)


1937
新交響楽団
(指揮者:フェリックス・ワインガルトナー、同行指揮者:カルメン・ワインガルトナー)

5月31日:日比谷公会堂
ベートーヴェン/交響曲第5番
ベートーヴェン/交響曲第6番
ベートーヴェンレオノーレ序曲第3番(指揮:カルメン)

6月16日:日比谷公会堂
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」(指揮:カルメン)
ベートーヴェン/交響曲第3番

6月18日:静岡市公会堂
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」(指揮:カルメン)
ベートーヴェン/交響曲第3番

6月19日:名古屋市公会堂
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」(指揮:カルメン)
ベートーヴェン交響曲第3番

6月20日:京都朝日会館
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」(指揮:カルメン)
ベートーヴェン/交響曲第3番

6月21日:大阪朝日会館
ベートーヴェン/交響曲第6番
ベートーヴェン/交響曲第5番
ベートーヴェン/レオノーレ序曲第3番(指揮:カルメン)

6月22日:大阪朝日会館
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」(指揮:カルメン)
ベートーヴェン/交響曲第3番

6月28日:日比谷公会堂
ベートーヴェン/レオノーレ序曲第3番(指揮:カルメン)
ベートーヴェン/交響曲第5番
ベートーヴェン/交響曲第6番

6月30日:日比谷公会堂
ベートーヴェン/交響曲第8番
ブラームス/交響曲第1番(指揮:カルメン)
JシュトラウスU/美しく青きドナウ


 1936年9月。ウィーンで巨匠フエリックス・ワインガルトナーがウィーン国立歌劇場の職を辞し
たちょうどその頃、日本ではその年の初夏来日していたエマヌエル・フォイヤマンや日本オース
トリア協会の胆入りで、まもなく創立10周年をむかえる新交響楽団の常任にジョセフ・ローゼン
ストックが着任しました。彼は新響を猛烈に訓練しそのレベルを急速に向上させていきました
が、この何の関係もない出来事が翌年日本で一大イヴェントに連動していくことになるとは、こ
の時いったい誰が予想したでしょうか。(このローゼンストック着任前の新交響楽団の演奏は
1935年12月に録音された、ベートーヴェン交響曲第5番[指揮:山田耕筰]、でも聴くことができ
ます。)

 翌年3/2の朝日新聞の朝刊一面に、朝日新聞等の主催で「ワインガルトナー来日」の告知が
掲載された時、日本の音楽界全体にもの凄い衝撃が走りました。前年秋にウィーンを離れた
事によりワインガルトナーに時間的余裕が出来たことと、ローゼンストックによる徹底的な訓練
によって急速に向上している新響があったから実現したとはいえ、これは当時としてはとてつも
ない大事件でした。マーラーやニキシュが亡くなり、そしてムックが引退していたこの時期、日
本では世界五大指揮者として、ワインガルトナー、トスカニーニ、メンゲルベルク、ワルター、フ
ルトヴェングラーを称えており、年長のワインガルトナーはトスカニーニと並び特に圧倒的な賞
賛を得ていました。またレコード的にもワインガルトナーは当時日本で最大の人気を誇ってお
り、かのVPOとのベートーヴェンの「第九」は、日本からの強い要請が後押しして実現し、その
おかげで日本での異例の世界先行発売がされたほどでした。

 5/7。ワインガルトナーは30代の妻であり指揮者でもあるカルメン夫人とともに、上海経由で
客船ラワルピンディ号で午前8時に神戸に上陸しついに日本の土を踏みました。当時日本は林
銑十郎内閣の時代で、相撲では三場所連続全勝優勝した大関双葉山が横綱に昇進、野球で
は沢村、スタルヒン、水原、三原を擁した巨人が、景浦、藤村、松木、西村の阪神と優勝を争
い、漫画は人気の田河水泡「のらくろ少尉」が一円で発売、映画では「楽聖ベートーヴェン」が
公開され、流行歌では「露営の歌」「妻恋道中」がヒット、舞台では水の江龍子、さらには榎本
健一が活躍し、東京-ロンドン間を94時間で飛行し、日本最初の航空世界新記録を樹立した
「神風号」が大きな話題となっていた時代でした。

 灰色の毛糸のジャケットの上に紺のスポーツ服を着たワインガルトナーとその夫人は神戸に
上陸した後、17:30に大阪朝日新聞を訪れ山田耕筰、有馬大五郎氏等と挨拶を交した後、18:
10に大阪富田屋に着。そこで三味線の音を聴いたワインガルトナーはその音にたいへん驚き
「日本の音楽ははじめてでそのまま受け入れるのは困難だが、日本のテーマによる尾高(尚
忠)さんの作曲は近来注目すべき作品。」というコメントをしています。

 翌5/8。20:50着の臨時特急「燕」(大阪-東京8時間)で東京についたワインガルトナー夫妻
は盛大な出迎えを受け、帝国ホテルの310号室にチェックインしました。じつはワインガルトナ
ーのこの来日は公演のみでなく観光も目的ということで、滞在中はいろいろ観光にも出向いた
そうです。この時のことを当時の新聞は「健康の秘訣は3日おきにホルモン剤を飲みよく眠るこ
とというワインガルトナー(当時は「ワインガルトナー博士と記)。食事はわずかなスープと魚の
一片くらい。散歩好きで妻君をつれて写真機をさげて街の中を静かに歩く。妻君は常に喜々と
している。」というふうに描写していました。 

 5/17。夕方に歌舞伎座に出向いたワインガルトナーは、特に浄瑠璃に興味を示し「古い形
式の中にも立派にリアリズムが流れていておもしろい。」というコメントを残しています。

 5/20。「神風号」の帰還を翌日に控え日本中が熱狂する中、ワインガルトナーの来日記念
盤として前年の2/25&26(当時日本では二二六事件が起きていました)にVPOと録音した「ベー
トーヴェン交響曲第8番」SP3枚ものがコロムビアから発売されました(注)。当時他にも、カサド
とイッセルシュテットの「ドヴォルザークのチェロ協奏曲」や、ロートSQによる「鳥」などが発売さ
れていましたが、同指揮者の「第九」とともにワインガルトナーの公演間近ということもあって、
この盤の話題は群を抜いていました。

[(注):当時すべてのSPは分売可で1枚各3円として発売されていました。ただまとめて(つまり全曲)一括購入すると
価格は3円×枚数と変わらないものの、全てがアルバム仕様として収められるように、専用のアルバムがついてきま
した。これがLPやCDを「アルバム」と呼ぶ語源となっています。またものによっては一括購入の場合総譜がつく場合
もありました。]

 5/23。再度このとき関西に滞在していた夫妻は正午に車で大阪から奈良に出向き、奈良
公園・飛火野で鹿寄せに興じ、春日大社や大仏殿を訪れた後奈良ホテルに到着、その後京都
に向かい、金剛巌邸にて能「羽衣」を鑑賞します。
 ワインガルトナーはこのとき能に大きな感銘を受け「日本古典精神の記念塔」と称し絶賛しま
した。ワインガルトナーは「言葉はわからないものの、耳で聴く効果と目で観る効果がピタリと
調和している。」と語り、同行した日本の記者から「オーケストラの響きに比べると単調にすぎま
せんか?」と問われると即座にそれを否定、「単調なところに精神の寂びがある。そこに能の
生命がある。」と能について語りました。
 因みにワインガルトナーは京都や奈良だけでなく、鎌倉や富士山にも強く惹かれていたよう
です。

 5/24。夫妻で久邇宮邸を訪問。殿下に山部赤人の歌に自ら作曲した「フジヤマ」の自筆譜
を献呈し、殿下の前で「フジヤマ」を夫人の助けを借り、ピアノを弾きながら歌いました。

 5/31。遂に待望のワインガルトナーの日本公演が初日をむかえました。場所は日比谷公
会堂。開演時刻は19:30。オーケストラは新交響楽団。入場券は5円、4円、3円、2円。会場はな
んと三千人超満員(日比谷公会堂の定員は約二千人)。日本史上ある意味最も歴史的な公演
はこうして幕を開けました。

5月31日:日比谷公会堂
ベートーヴェン/交響曲第5番
ベートーヴェン/交響曲第6番
ベートーヴェンレオノーレ序曲第3番(指揮:カルメン)

(5/31):東京公演評
「極めて穏便でしかも巨匠の名にふさわしい悠々として迫らない大きさを持っていたことと、曲
中全てが伝統の重みによって裏打ちされていることに感服した。新響が緊張した演奏をきか
せ、この楽団が進歩したことはすばらしいかぎり。」(太田黒元雄)


 6/2に日本で74歳の誕生日を向かえたワインガルトナーは、日本でほんとうに国賓級の最
高の待遇を受けました。これに感激したワインガルトナーは来日中に、静岡公演時に訪れた
名園「浮月」においた受けたインスピレーションから作曲したピアノ曲「橋をゆく若き女」を朝日
新聞に献呈しただけでなく、6/18には日本人作曲家進出の為「ワインガルトナー賞」を制定し、
日本の作曲家から広く作品を公募し、入賞者の曲をVPOと「日本作曲の夕」で演奏しようという
提案をしました。このため9月末日締切で全国から作品を公募するという企画ができあがり、新
聞でも発表されました。


6月16日:日比谷公会堂[久邇宮殿下ご隣席]
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」(指揮:カルメン)
ベートーヴェン/交響曲第3番

(6/16):東京公演評
「英雄は客観的に淡々と表現。フィナーレは豊富なニュアンスに彩られた変奏曲形式の構成は
生命力に満ちたものであった。そして立派に立体的描出がなされたものであった。」(池内友次
郎)


6月19日:名古屋市公会堂
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」(指揮:カルメン)
ベートーヴェン交響曲第3番

(6/19):名古屋公演評
「オベロン序曲は典雅な香りをたたえてタクトの外からよどみなく流れ講堂に入る。その印象的
な博士の指揮態度、あるいはクラリネットの無幻的なリズムが続けば瞑想するがごとく、全聴
衆の魂を美と夢の世界に引き込んであますところがなかった。」


6月21日:大阪朝日会館
ベートーヴェン/交響曲第6番
ベートーヴェン/交響曲第5番
ベートーヴェン/レオノーレ序曲第3番(指揮:カルメン)
*20:30〜21:00迄、ラジオで大阪のみ「運命」の放送あり。

6月22日:大阪朝日会館
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」(指揮:カルメン)
ベートーヴェン/交響曲第3番

 この公演、特にワインガルトナーの指揮は日本音楽史上空前の最高の評価を得ました。ワ
インガルトナーはたしかに観光半分の来日ではあったものの、指揮となればそのベストを見事
に尽くしたようです。たしかに夫人を指揮台にあげ指揮させたりしましたが、カルメン夫人も派
手な指揮ぶりではあったものの、予想以上に「いい」指揮者だったらしくさしたる不評はなかっ
たようです。

 ワインガルトナーは他にも、5/19の曲目会議で最後は「美しく青きドナウ」でというリクエストを
受けると、スコア持参しておらず、新響も持ち合わせていない事がわかると、自らすぐにウィー
ンに連絡し、楽譜を取り寄せるという事をして演奏を実現させたり、大阪公演では会場の換気
装置による空気の対流が演奏の妨げになるといって、冷房を停止させ公演に万難を配したり
していました。
(じつはこれに先立つこと1925年に、山田耕筰指揮の日本交響楽協会の演奏の録音で「美しく
青きドナウ」が録音されているのですが、これを聴くと短縮版であったことがわかります。これ
が当時の録音上オリジナルをカットしての録音だったのか、それともこの短縮版しか当時の日
本にスコアが存在していなかったがどうかはわかりませんが、いずれにせよワインガルトナー
が指揮をするために必要としたスコアはなかったようです。)


 これ以外にもワインガルトナーは東京第1放送でラジオの放送を行いました。オーケストラは
日本放送交響楽団で曲目等は以下のとおりです。

(6/11)[19:30-20:10]
ベートーヴェン:交響曲第8番
ワーグナー:タンホイザー、序曲(指揮:カルメン)

(7/2)[19:30-20:20]
ワインガルトナー:交響曲第6番「悲劇的」ロ短調op74
Jシュトラウス:美しく青きドナウ(指揮:カルメン)

 この時演奏されたワインガルトナーの交響曲は、シューベルトの命日1828年11月19日を偲ん
で作曲されたもので、第1楽章「アンダンテ・モデラート・行進曲風に」、第2楽章「アレグロ・ウ
ン・ポコ・グラーヴェ」、第3楽章「アダージョ・ヴィヴァーチェ」となっており、第2楽章はシューベ
ルトの「未完成」の第3楽章のスケッチをもとに作曲したものとなっていました。

 ワインガルトナーはこのときとにかく新響をたいへん高く評価し「弦楽器の強化と楽器の改良
に努力すれば、何等欠点なく規律正しいオーケストラ」と称しました。オケの方は「棒を振らず
に指揮ができる」「腹から電波か何か出しているような」という具合に、なにか魔法かなにかか
けられたように、指揮者に自由に演奏されたような印象を持っていたようで、「彼こそ三軍を叱
咤する名将」と評した楽員もいたようでした。この時のオケを渡辺護氏は「新響の音がまったく
違ってきこえた」と称していましたが、これは前述した太田黒氏の評と一致しており、ローゼン
ストックにより上昇気流にのっていたオケの力を無理なく最高に完全な形で具現した、まさに当
時日本で聴ける最高の上をいくような最高の演奏を展開したようでした。この時の録音が残っ
ていないのがなんとも残念です。

 7/7。東京音楽学校で教鞭をとっていた、マーラーの弟子でもある、クラウス・プリングスハ
イムの離日による告別演奏会が東京音大大ホールで行われ、ベートーヴェンの「第九」が演奏
されましたが、ワインガルトナー夫妻はこれに出席、その演奏と先生生徒の別れの光景に大き
な感銘を受けました。

 こうしてワインガルトナーは日本中に福音をふりまき巨大な影響と足跡を残して7/8に帰国す
る予定でしたが、その直前日本中をゆるがす大事件、というよりその後の日本の行く末を決定
してしまうようなニュースを聞く事となりました。一発の銃弾からはじまった日中戦争(盧溝橋事
件)の勃発です。ワインガルトナーの来日中に林内閣が総辞職し、近衛文麿内閣が発足する
など政治の流れに多少歪みらしきものが生じていたものの、このニュースはやはり突然という
感じがしたものでした。このせいでしょうか、ワインガルトナーの帰国は一時停戦後の15日夜
半となり(ポツダム号で上海に寄港した後イタリアヘ行きそこからウィーンへ戻るというコース)
梅雨の中帰国の途につきました。

 ワインガルトナーは帰国後しばらくした10/19に、VPOとベートーヴェンの第一交響曲と「エグ
モント」序曲、さらには翌日と翌々日にかけて、ベートーヴェンの「三重協奏曲」を録音しまし
た。これはワインガルトナーとVPOによる最後の録音セッションなのですが、特に第一交響曲
の演奏はかなり気合いの入ったものとなっており、今までのワインガルトナーとはちょっと様相
が異なったものとなっています。あいかわず温厚でティンパニーの強打などない、ある意味スマ
ートな演奏なのですが、アンサンブルが多少粗い感じはするものの、以前のVPOとの一連の
録音より気合いの入った、かなり重みのある強い意志の力のようなものが、音全体に張り詰め
ているような気がします。これが日本での「ローゼンストックのオーケストラ」を指揮したことによ
る影響かどうかはわかりませんが、このためとにかくこの演奏は後にロンドンで録音される、
「献堂式」序曲やブラームスの2番や4番とならんで、私にとってワインガルトナーの録音で特に
強い印象を持ったもののひとつとなっています。(演奏時間/6:46、6:13、3:24、4:16)

 それにしてもこの後ワインガルトナーがVPOとつつがなく全集を完結させていたらどうなって
いたのでしょうか。特に「田園」を含め、ワインガルトナーにあった曲目がかなり残っていたこと
を思うとなんとも無念ですし、戦争というものにあらためて憤りというものを感じてしまいます。

 翌年の1/8にはウィーンの市立劇場で「日本の音楽」と題した講演も行い、日本から持ち帰っ
た笛、太鼓、三味線のレコードをかけたり、能楽と古代ギリシャ劇を比較論じたりするなどし
て、日本の音楽を広めようとする動きもはじめていました。

 しかしそんなおり日本とは別の暗雲がウィーンを襲いました。ナチス・ドイツによるオーストリ
アのドイツへの併合です。かくしてワインガルトナーはウィーンを去り、その活動の場をパリや
ロンドン等に移してしまいました。これにより「ワインガルトナー賞」は受賞者等は選出され発表
されたものの、それによるウィーン公演等はもろくも夢と消えてしまいました。本人は6月には管
弦楽曲「日本の姿」を作曲中と発言していたことから、この日本に対しての不本意な事態に心
を痛めていたのではないでしょうか。

 それから月日は流れ、第二次世界大戦により世界中が戦火に被われたそんなある日。1942
年(昭和17年)5月9日の新聞に、日本軍のコレヒドール要塞と珊瑚海海戦での大勝利を伝える
新聞のかたわらに、写真入りではあるものの、小さな「ワインガルトナー氏死去」を伝えるニュ
ースが掲載されていました。(亡くなった5/7という日付は奇しくも彼が日本の地におりたった日
と同じ日付でした)おそらくウィーンを去り、パリやロンドンで活動するという連合国よりの態度
をとったということで、このような小さな扱いになったのだと思います。当時の「音楽の友」も二
頁の見開きの追悼記事があるだけで、その内容も、「リストの時代の音楽を今日最も正しく演
奏出来るのは自分だけ」と語っていた事や、彼の経歴がざっと簡単にふれてあるだけでした。

一ヵ月後の6/9夜、産業会館で東京室内交響楽団第4回公演が、「ワインガルトナー追悼演奏
会」として挙行されました。曲目は、

ワインガルトナー:交響曲第6番「悲劇的」
リュリ(ワインガルトナー編):弦楽協奏曲
マーラー:アダージェット
プリングスハイム:古典形式による小組曲

 というもので、指揮は5年前自らの告別演奏会にワインガルトナー夫妻が出席し、しかもその
光景に涙までながしてもらった、クラウス・プリングスハイムがつとめ、ワインガルトナーが日本
で指揮した最後の曲でもある、ワインガルトナー自身の交響曲第6番等を指揮しました。このと
きのプリングスハイムの胸中はいかばかりだったでしょうか。

 最後に、「橋をゆく若き女」を書くきっかけとなった名園「浮月」は、静岡公演時に歓迎会が開
かれたところで、現在も静岡駅前にある「浮月楼」のことです。ワインガルトナーが訪れた後、
二度の大火にみまわれたものの、ワインガルトナーが親しんだ庭と池、そして橋はほぼ往時の
ままということです。ワインガルトナーが親しみ愛した美しい日本の思いでの多くは、戦災等で
失われてしまいましたが、この「浮月」が現存しているのはほんとうに嬉しいかぎりです。



 (ワインガルトナー雑感)


  ワインガルトナーの名前を初めて知ったのは学生時代に使用した「音楽辞典(人名編)」[昭
和30年2月]における氏への記述でした。そこには

「温厚な中にも深い理解をもった彼の指揮はとくにベートーヴェンにおいて傑れ、一時はベート
ーヴェンの指揮において彼の右に出づる者がなかった。彼のベートーヴェンの九つの交響曲
の指揮に関する著作は、今日なお権威のあるものである。」
 
 と書かれていました。当時の自分はこの記述に強く関心をもち、ここまでいわせる指揮者とは
どんな指揮者なのか?という気が強くしたものでした。ですがこの文に接してしばらくしてから、
ワインガルトナー関係でいろいろなことに出会うようになりました。

 まずTBSで山本直純氏が司会をしていた「オーケストラがやってきた」のある放送でのこと、
観客の方々が舞台にあがりオーケストラに聴きたい曲をリクエストするという企画があったとき
のこと。そのときある年配の男性の方がベートーヴェンの交響曲第8番をリクエストし、そのと
き「むかし聴いたワインガルトナーのものが忘れられないから」ということをおっしゃっていたの
ですが、この時点ですでにワインガルトナーの来日から40年近くがたっていたことをおもうと、
それほどまでに強い印象を氏の指揮から当時与えられたのかと、改めて感じさせられたもので
した。

 また相前後して当時土曜日の午後三時頃からNHKFMで放送されていましたクラシックリク
エストの番組で、ベートーヴェンの九つの交響曲各々の演奏でリクエストの一番多かったもの
を選び、全9曲を演奏するという企画がありました。このとき8番はイッセルシュテットが一位と
なりそれが流されたのですが、そのときリクエスト上位にワインガルトナーの名前があり、戦前
に録音されたベートーヴェンがまだこんなにも支持されているのかと、これにもまた驚いたもの
でした。

 そんなおりベートーヴェン没後150年の1977年。ワインガルトナー指揮のベートーヴェン交響
曲全集のLPがEMIより発売されました。自分はこの広告を自宅の側にあったレコード店でみ
かけたのですが、このときはまさに狂気したものでした。

 発売後自宅でこの演奏を早速聴いたのですが、信じられないことにあっという間に全9曲を
一気に解説を読みながらではあったものの聴いてしまったものでした。録音はたしかに旧いも
のの、演奏はまったく抵抗がない、聴いていて疲れない、でもただ音楽がなっているわけでな
い、不思議な緊張感というか、いつのまにか引き込まれるような、じつに不思議な感覚をこのと
き感じたものでした。素晴らしい演奏であることは間違いなく、たしかに感服したものでしたが、
ただこのとき「一時はベートーヴェンの指揮において彼の右に出づる者がなかった」というこの
冒頭の「一時」という意味もわかったような気がしたものでした。

 その後この演奏に関して音楽雑誌で「ワインガルトナーの音楽は、おなじ温厚なタイプの指揮
者であるワルターなどとは違い、その音楽にドラマが無い。」ということを指摘した文や、ワイン
ガルトンナーのブラームスの交響曲全集が国内盤で発売された後に発売された、小石忠男氏
の「続々・世界の名指揮者」にはアンサンブルの仕上げの粗さが後にその評価が急落した原
因のひとつ、という意味のことを書かれたりした文に接したことで、上記の「一時」という理由、
そしてこの指揮者がなぜ急速にその演奏が顧みられなくなり、LP時代にはVPOとのベートー
ヴェンの8&9番の2枚組くらいしか一時見かけられなくなったのかという、その理由も納得で
きたものでした。

 ですがワインガルトナーが他の4人に比べて死後評価が下がってしまった理由はこれだけで
しょうか。自分は上の理由にメンゲルベルクのACOのように強力な手兵を持っていなかったこ
と。そしてこの人もまた実演と録音にかなりの差があり、本人亡き後それを伝えるものが他の4
人よりも無かったため、さらにこのことに拍車がかかったのではないかという気もし、せめて彼
の本領発揮のライヴでも残っていれば、またすこしは違った評価が現在なされていたのではな
いかという気が今でもじつはしています。

 でも自分にとってそれらのことを踏まえてもなおやはりこの指揮者のもつ素晴らしさは不滅で
あると感じています。それは前述した文にもある「不思議な緊張感というか、いつのまにか引き
込まれるような、じつに不思議な感覚」によるところが大きく、けっして特に神秘的な部分が演
奏にあるわけではないものの、音楽自体から放たれるこの不思議な感覚と、ときおりさりげなく
聴かせる詩情豊かな味わいに、いつ聴いても自分は強く惹かれ続けています。特にパリで録
音されたワーグナーの「タンホイザー」や「トリスタン」の管弦楽曲や「ジークフリート牧歌」、ウィ
ーンでのベートーヴェンの1番、そしてロンドンでの1939年に録音されたヘンデルや、1940年に
録音されたワインガルトナーの一連のラストセッション(ブラームスの2番、リストの管弦楽曲、
モーツァルトの39番、等)、そしてこのときの2番を含む、ロンドンでのブラームス交響曲全集
は、自分にとって忘れられることの出来ない演奏揃いとなっています。

 特にヘンデルでは録音時間上の制約が最小限だったことからか、驚くほど活き活きとした表
情を呈した演奏に全体が仕上がっており、そこから実演等におけるこの指揮者本来の姿の片
鱗のようなものが垣間見られたような気がしたものでしたし、ブラームスではやや早めのテンポ
で推進力豊かに演奏されながら、けっして小さくまとまることなく、オケの響きにも張りや緊張感
を適度にもたせ格調高く奏でられるその音楽に、これら四曲のあるべき姿のひとつをみたよう
な気がしたものでした。(それにしてもヘンデルでのチェンバロ。ひょっとしたらワインガルトナー自身によるものな
のでしょうか?ここのところがじつはいつ聴いてもとても気になっています。)

 自分にとってワインガルトナーは、以上の事からまぎれもなく20世紀の忘れられない大指揮
者のひとりとなり今日に至っています。できればこの指揮者のライヴ録音が出てこないことか
と、かなりむつかしい夢ではありますがそれが叶うことを今でも希望を持ち続けています。

 最後に、ワインガルトナーが来日した1937年。よく彼を指揮者界の重鎮、もしくは長老という
ような扱いをした記事をみかけました。来日当時彼は73歳の誕生日を迎えたところであった
ので、今(2006年現在)でいうところのフェドセーエフやアバドあたりと同じくらいの年齢だったこ
とをおもうと、ちょっとピンとこないところがあります。

だが当時彼より年上だった指揮者は

ハンス・リヒター(1843-1916)
アルトゥーロ・ニキシュ(1855-1922)
フェリックス・モットル(1856-1911)
ロベルト・カヤヌス(1856-1933)
グスタフ・マーラー(1960-1911)

というようにすでに故人となっており、唯一

カール・ムック(1859-1940)

 が生存してはいましたが、1933年にハンブルクでの仕事を最後に引退していました。つまり
現役で活躍していた世界的に著名な指揮者としては、ワインガルトナーがたしかに上記したよ
うに「指揮者界の重鎮、もしくは長老」という存在だったのです。

 また当時の主要オケのポストにいた指揮者の年齢もたしかに世代が違う。その生年を明記し
てみるとそれは歴然でした。

ニューヨークフィル/トスカニーニ(1867)
コンセルトヘボウ/メンゲルベルク(1871)
ミュンヘンフィル/ハウゼッガー(1872)
シカゴ/ストック(1872)
ボストン/クーセヴィツキ(1874)
ロンドンフイル/ビーチャム(1879)
パリ音楽院/ゴーベール(1879)
フィラデルフィア/ストコフスキー(1882)
スイス・ロマンド/アンセルメ(1883)
チェコフィル/ターリヒ(1883)
ゲヴァントハウス/アーベントロート(1883)
レニングラードフィル/シュティードリー(1883)
ベルリンフィル/フルトヴェングラー(1886)
BBC/ボールト(1889)
クリーヴランド/ロジンスキー(1892)
ドレスデン歌劇場/ベーム(1894)

※( )内は指揮者の生年年。

 これをみても70以上はトスカニーニ一人だし、しかもそのトスカニーニもこの年にはニューヨ
ークの職を辞し、第一線から引退するようなことを当初発言していたことを思うと、こういう要職
は当時60代までが常識というかんじだったのかもしれません。それを思うと1934-36年に73歳
でウィーンの歌劇場の音楽監督にいたのは、当時としては極めて異例の高齢監督だったのか
もしれません。(現在の小澤氏はワインガルトナーと同年齢時の監督ということなのですが、そ
れを考えると今と当時とは違うという気がさらにします。)

 これを踏まえてワインガルトナーの来日というのを考えると、ほんとうにこれが奇跡的であり、
しかも日本の楽壇にとって空前の出来事であったか、あらためて実感させられるものがありま
す。あと1937年当時の指揮者界、新しい力が急速に成長しそして華開く寸前だったという気も
します。もし戦争が無かったらどうなっていたのでしょうか。


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