シャリアピンが来た(1936)
(昭和十一年)
 

 1936年(昭和11年)のシャリアピン来日公演というのは、戦前来日した音楽家の中でもきわ
めて異色な感じでした。というより彼の来日はクラシック・ファンだけでなく、普段そういう音楽と
は無縁の人達もまきこんだ、クラシックの枠を大きく超えた話題をもってむかえられました。こ
れはシャリアピンの歌う「ヴォルガの舟歌」や、フランス映画「ドン・キホーテ」などの人気による
ものが大きく、シャリアピンの来日はクラシックの大家というより、世界的スーパースターの来
日という感じで受け取られていたようでした。

 前年マルセイユを船で出発したシャリアピンは香港、上海を経由して1/23に神戸に上陸しま
した。来日発表が公演間近の1/5であったことや62歳という年齢、しかも多少第一線からは退
いた印象があった当時のシャリアピンでしたが、来日が近づくにつれ彼の名前が次第に底力
を発揮し、来日した頃には彼への歓迎ムードはかなりのものがありました。(これは1980年に
オーレックス・ジャズ・フェティバルに来日した、ベニー・グッドマンのそれを思わせるものがあり
ます。)彼が公演の為東京に到着した時彼を出迎えた人達は、山田耕筰、藤原義江、ニコライ
大使教、市丸、といった具合で、その名前をみても彼がいかにクラシックという枠を超えた存在
だったかというのがよくわかると思います。

 彼は東京で1/27、30、2/1、4、6、に日比谷公会堂で、その後名古屋、そして2/12、14、16、と
大阪で公演を行いました。入場料は、6、4、2円というものでした。初日、彼が姿を現わすと拍
手とどよめきがおきました。シャリアピンのその巨体に驚いた観客が多かったためです。当時
の新聞は彼の身長を六尺四寸五分、もしく六尺五分と記していますが、一尺が約30.3センチと
いうことから計算すると、彼の背丈がかなりあるということがよくわかると思います。たしかに当
時の彼のリサイタルの写真をみると、右手をピアノの上に、そして左手で表情をつけるような仕
草をみせている、ぱっと見にはよくある光景なのですが、よーくみると彼の腰がピアノの上あた
りにまできているのがみることができます。

 この公演の評価は、「声に多少衰えを感じるものの、歌詞の内容に伴って変化するその声に
は比類がない」という事を太田黒元雄氏が書いた事がすべてだったようで、当時彼を聴いた歌
手の藤山一郎氏もその表現を絶賛していたようでした。ただ太田黒氏の評は初日のもので、
シャリアピンは公演を重ねるにつれ次第に調子をあげ、大阪公演ではかなり調子がよかった
ようです。それは東京公演初日が19:30開演で終演が21:30だったのが、東京最終日では終演
が21:50大阪公演ではついに22:00になってしまったのが、それを物語っていると思います。

 ところでこの公演では普段のクラシックの演奏会ではあまりみかけない光景もありました。東
京初日では3曲歌い終わったところで観客席からロシア語で「のみの歌を歌ってくれ」という言
葉がかかると「まだ演奏会はまだはじまったばかり。まああわてないで。」と切り返して客席をな
ごませたりしていたのですが、大阪公演初日では一通りプログラムが終わったところで、公演
主催の大阪朝日新聞の村山会長のご令嬢が、黒の紋服と足袋と草履を舞台上でプレゼント。
日本語で「アリガトウ」と礼をいうと、なんとその場でそれらの入った箱をあけて紋付きを羽織
り、「のみの歌」を突然歌い出すという大サービス。そしてその後紋服を着て「モスクワの踊りの
歌」まで歌うということまでやったのですから、これはこの種の演奏会としては破格の盛り上が
りとなったようでした。

 この公演の翌日シャリアビンは京都見物にいきました。東本願寺や知恩院をみて感嘆した
後、川島 繊物工場を見学し、新門前町の骨董店に行きました。彼はここで「どら」を探したよ
うですが、「気に入った音のものがない」と言って残念そうに帰途につきました。

 14日は彼の誕生日で、公演後新大阪ホテルでレセプションが開かれ、上機嫌になったシャリ
アピンは突然「カルメン」の一部を歌いだしたりして、このレセプションを大いに愉しみました。

 翌16日、いよいよ最終日、ここでまたしてもハプニング。なんと舞台上のシャリアピンに客席
にいた僧侶から突然「どら」がプレゼントされたのです。これは先の京都見物で「どら」がみつ
からなかったというのが新聞にのり、それをみた僧侶がシャリアピンに「献呈」したのでした。

 こうして尻上がりに調子をあげ、そして多くの人々から愛されたシャリアピンの演奏会は終了
しましたが、この最終日の中央会堂での公演には、なんと四千人もの人が集まったということ
でした。シャリアピンは日本(特に大阪)が気に入ったらしく、「大阪の靴はじつにいい。三足注
文してきたよ。」というほどでした。(またシャリアピンは来日前に日本のファンからたいへんい
い「釣竿」をもらったらしく、「できれば釣もしたい」といっていたようでした。)

 こうして翌年のワインガルトナーとはまた違った意味の福音を多くの人達に与えたシャリアピンは21日に神戸を出、その後ハルピンで25日27日と公演を行った後、いわゆる外地で公演を行い、その後4月に再度来日、5月10日と13日に日比谷公会堂で告別公演を行った後離日、帰路についています。
※当初の記事でこの4月再来日の部分が欠落していました。申し訳ありませんでした。

尚、この来日時に歯の痛みに悩まされていたシャリアピンが、帝国ホテルに頼んでつくったもらい、歯の痛みにも悩まされることなく食べられることができたものが、シャリアピンステーキといわれるものです。

この2年後シャリアピンは66歳でこの世を去っています。この当時の日本の聴衆はほんとうにこの巨人を聴くギリギリの機会を得たのでした。

 余談ですが、このシャリアピンのハルピン公演時に日本であの二二六事件がおきます。シャ
リアピンのハルピン公演から以前触れましたワインガルトナーの離日時におきた日中戦争勃
発まで一年半足らず。歴史の歯車が狂出だすといかにその動きが早く、しかもとめられないも
のか。シャリアピンやワインガルトナーの事を調べていて、その記事と一緒にこれらの記事が
掲載されている部分を読みすすめていると、そのことも強く感じ考えさせられてしまいました。こ
れらの素晴しい演奏に接した人達が、その後の戦争に巻き込まれていくという事実。シャリア
ピンの来日から玉音放送まで10年ないということも、このとき初めて知りました。

 なおこの来日公演のあった2月4日にたいへんな事がおきました。おりから降り出した雪が、
なんと49年ぶりの大豪雪となり、首都の交通等が完全に停止してしまい、演奏会に行ったほと
んどの人が帰宅の足を奪われ、公会堂で一晩をあかすこととなってしまいました。もっともこれ
は日比谷公会堂だけでなく、銀座の映画館も、そして歌舞伎座でも泊り込みの人たちが多数
でた模様で、翌日の新聞はそれらの写真が新聞紙面をかざったものでした。それにしてもこの
時公会堂に泊まった人たち、おそらく中にはその日の演奏等の音楽談議に花を咲かせていた
人たちもいたのではないでしょうか。ちょっとそれはそれでたのしそうな光景でもあるような気が
します。

 この月は23日にもかなりまとまった雪が降り、そしてその雪がまだ残る26日朝に上記の事件
がおきました。

 最後にシャリアピンは宿泊先の帝國ホテルで柔らかめの肉料理を所望したそうですが、それ
がシャリアピンステーキとなり現在に至っています。


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