ムラヴィンスキーの思い出


 1958年にレニングラードフィルは、フェスティバル・ホールの柿落としがらみで、大阪フェスティ
バル協会の招聘で初来日を行いました。しかしこの時常任であったエフゲニー・ムラヴィンス
キーは長年悩まされた胃病の手術の回復が遅れ来日を断念しました。

 公演そのものは大絶賛でしたし、代行のガウクの評価もたいへんなものであったこと、さらに
ヤンソンスと東京交響楽団の関係の素晴らしい関係もこのとき築かれたこともあり、言う事な
しの公演ではあったのですが、ムラヴィンスキーが来日しなかったというのはやはり多くのファ
ンを残念がらせたものでした。
 
 それから12年後、今度は大阪万国博覧会にあわせてレニングラードフィルは12年ぶりに再
来日をしました。しかしこの時も来日直前に出国ビザが下りず(表向きは急病の為)、代わりに
彼の弟子である、当時35歳であった、アレクサンドル・ドミトリエフが来日しました。

 (当時6月16日の毎日新聞朝刊には来日中止の理由を「心臓病」と発表していましたが、レニ
ングラードフィルハーモニーが来日した直後の記者会見において、当時の同団団長は「4月に
肺炎、その後気管支炎を併発、下旬には回復したものの、その後悪化し現在はドクターストッ
プがかかり入院中。」というコメントを出しています。)

 この時の関係者やファンの落胆は大きく、特に年齢的に近いセルやバルビロリが相次いで
急逝したため、日本にはムラヴィンスキーはもう来日しないのではないかと思われたりしまし
た。しかし実際にはムラヴィンスキーはこの年の暮れには、東ドイツのベートーヴェン生誕200
年記念の一環の演奏会を行ったり、72年にはモスクワ公演(この時のライヴはメロディアからも
発売されています)、そして西ドイツやオーストリア公演も行っていたため、まだ多くの人たちは
希望をすててはいませんでした。


1973

5月26日:東京文化会館/ムラヴィンスキー
ベートーヴェン/交響曲第4番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

(TVで観た演奏会)


 そんなある日、突然としてムラヴィンスキーの初来日が実現することとなります。1970年の万
博時に初来日を果たしたリヒテルの再来日が突然本人の急病により無期延期となっしまいまし
た。ソ連当局は前年日ソ平和条約締結交渉をはじめていたこともあり、ここは自分達の面子上
どうしても日本の聴衆が納得する代わりをたてなければならない状況になりました。このため
当局は70年には来日を阻止したムラヴィンスキーに来日を挙行するという命をくだしました。こ
うしてこのコンビの来日は急転直下決定をみることとなりました。

 主催の毎日新聞は73年の2月21日の朝刊に社告として告知をだしました。チケット発売は2
日後の23日。この時日本公演の初日にあたる京都公演まではたった三ヶ月しかありませんで
した。公演プログラムは前年の10月から11月にかけて行われた、西ドイツ・オーストリア公演で
演奏されたものを中心に組まれました。そして来日間近の4/28.29の両日、本拠地レニングラ
ードではこの来日公演のプロからの曲による演奏会が行われ(この時のライヴもメロディアから
発売されています[一部はビデオ化])、10日後の5/9に飛行機嫌いのムラヴィンスキーは、じつ
に150時間にもわたるシベリア鉄道の旅につきました。その後ナホトカで後発したオケの面々と
合流した後、客船バイカル号に乗り継ぎ5/18の午後4時に横浜大桟橋に到着しました。この
時ムラヴィンスキーはオケの後から最後に上陸し、淡いグリーンのコートに身をつつみ、「約束
をはたしにきましたよ」といって笑顔で挨拶をしたそうです。その後新幹線で移動したムラヴィン
スキーは、5/21に京都で歴史的な日本公演初日のタクトをとることとなります。

 この時日本公演初日にあたる5/21プロの京都公演の模様を小石忠男氏は、

「ショスタコーヴィチの交響曲第6番が極度に緊張した透明な響きを起伏させると、本当に荘厳
な儀式が行われているような気分が襲ってきた。それほどムラヴィンスキーの音楽は厳しく透
徹したものである。−(中略)−、この演奏ではチャイコフスキーの持つ古典的な構成感が浮き
彫りにされ、実に強靭な表現が生み出され。それは毅然とした感動的な人生を肯定した音楽
であった。」

  と評していました。ムラヴィンスキーは後日別のインタビュー時に、その見事な指揮ぶりを賞
賛されると、

「そういわれるのは本当にうれしいが、オーケストラというのはもともとそのようなものではない
か。もう35年すみずみまでしつりつくしているのはあたり前のことだし、ただ指揮者だけの力と
は思わないでほしい。オーケストラと両者の力があつまって演奏を生むのだから。」

 と答え、また公演初日となった京都の印象を聞かれると、

「そこには古い歴史が息づいている。伝統のよさが生かされている。この歴史について思いを
めぐらしているうちに、それは火を吐くドラゴン(地震?)との戦いではなかったか。という感想
にたどりついた。このたたかいにきたえられて日本人は素晴らしい建物をつくった。汽車だって
素晴らしい。
 日本の聴衆は自分たちの音楽をよくわかってくれる。それは永年の経験というもので、背中
にピンと伝わってくる。日本の聴衆に心からのあいさつをおくりたい。」

  その後5/26は東京公演の初日がトロヤノフスキー駐日ソ連大使等も臨席した中演奏されま
した。この時の模様は5/31にTVでも放送されました。(この模様は現在Altusから発売されて
います)。尚この初来日時に、ある在京オケの方が6/1のプロを聴かれたとき、チャイコフスキ
ーの5番の第2楽章のホルンのソロを「とてもホルンの音とはおもえなかった。まるでトロンボー
ンのように力強く響くその音に驚嘆した。」というコメントをしています。このソロこそ、ソ連史上
最大のホルン奏者、ブヤノフスキーのものなのですが、この時のレニングラードフィルはムラヴ
ィンスキーの強大な音楽を表現することのできる、まさに史上稀に見る巨大なオケでもありまし
た。

 この公演でムラヴィンスキーはたいへん親日家になりました。このあたりのことは「評伝ムラ
ヴィンスキー」等で詳しく述べられていますので、ここではあえてふれませんが、おかげでムラ
ヴィンスキーはその後、75,77,79年と来日することとなりました。 

 ムラヴィンスキーが初来日した1973年。この初来日公演が終了してしばらくたった後のこと、
自分がリヒテルとムラヴィンスキーのチャイコフスキーの協奏曲のLPを買って帰る途中で友人
に 「ムラヴィンスキー評判悪かったみたいだよ。指揮も小さくてみえないしなんかあんまりよく
なかったみたいだね。」といわれてしまい、この公演に行かなかった自分は「ああ、そうなんだ。
なんかがっかりだね。」という返事をしたものでした。当時自分にとってムラヴィンスキーはまだ
その程度の指揮者だったのです。

 自分はこのときの公演を、それからしばらくして放送されたNHKのTV放送でしかみてないな
いのですが。このとき観たショスタコーヴィチの5番!とにかく指揮が激しい!第一楽章途中で
その激しい指揮により胸の勲章がこれまた激しく揺れる映像もまた印象的だったのですが、演
奏終了後こちらが「おお、すごいなあ」と思った瞬間、指揮者が客席を振り返らない。激しい歓
呼と爆発的な拍手にもかかわらず、口をもごもごさせながらスコアを見、不機嫌な表情でなに
かを点検してるではないか。

 「師匠、駄目なんですか!ここまでやっても」

と正直絶句したものでした。また文化会館の照明のせいか妙に頬の辺りに影ができてしまい、
顔に深い影を落として指揮をしていたその表情に、またなにか異常なほどの不気味さを感じた
ものでした。

 この絶大なインパクトから、自分はムラヴィンスキーの演奏をLPで集めようと思いました。当
時ムラヴィンスキーのLPはモノラル時代の録音のものが1枚1000円(ただ73年の秋から塩
化ビニールの値上げ等の為1枚1300円になりましたが…)、けっこうあちこちのレコード店で
容易に入手できたのでこれは自分にとってとても好都合でした。この翌年ムラヴィンスキーが
早くも1975年に「第一回ロシア・ソビエト音楽祭」の一環で再来日することが決定しました。73
年の来日が2/21に新聞発表、二日後の23日にチケット発売、そして5/18に横浜港に一
行上陸後、21日には京都で初日という、異常な程の日程だったことを思うと、これだけ余裕を
持って発表してもらうとたすかると思ったものでした。


1975

 ところがこの公演。今度はなかなか曲目が決まらない。主催者の新芸術家協会に聞いても
「先方から何の連絡も来ない」とお手上げ状態のようでした。で、やっとこさ曲目が決まり無事
発売されたかと思うと、今度はベートーヴェンの交響曲第5番が演奏される日のうちの3公演
が曲目変更。このため当時の「音楽の友」のチケットの掲示板にはかなりこの日のチケット売
りますという文字が踊っていました。また自分が行くことになった5/21の曲目もじつは最後ま
で発表が伸び伸びになっていた日で、ようやくプロコフィエフの交響曲第6番とショスタコーヴィ
チの交響曲第5番と発表されたのですが、なぜこんなに曲目決定の遅れや変更があったのか
といぶかしげに思ったところ、ムラヴィンスキーが来日歓迎のレセプションで発言した言葉がそ
のすべてを語ってくれました。

 これは当時の毎日新聞に写真入りで紹介された記事にその事が書かれていますが、それに
よると「来日前に体調を崩してしまい、ショスタコーヴィチの交響曲第8番を仕上げることが出
来ずもってくることができなかった。」ということだったようです。このためプログラムの組みなお
しや、代替の曲目選定に時間がかかったみたいです。ただ「日本だからまた来たのです」とい
うことも話ているように、この来日は本人の強い希望なくしては実現しなかったようです。(余談
ですがこの一連の日本でのベートーヴェンの交響曲第5番がこの指揮者最後の同曲演奏とな
ったようです。)


5月21日:NHKホール
プロコフィエフ/交響曲第6番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番


  この日の演奏。まず最初にプロコフィエフの交響曲第6番。まったく知らない曲だったのです
が、演奏の凄さにとにかくまいってしまいました。弦の異常なほどの弱音における冷ややかな
響きはホール全体の室温まで下げてしまったように感じるほどで、特に終楽章の垂直断ちとも
いえる音の立ち上がりと音の断ち切り方には、戦慄さえ感じさせるほどでした。ですが後半の
ショスタコーヴィチは明らかに不調。冒頭の弦のバシーンという強烈な入りはともかく、その後
管のぶっきらぼうな表情が随所にみられただけでなく、かなり全体的にミスしている部分が多
く、1年前に聴いたマゼール指揮のクリーヴランド(1974)の方が遥かにオーケストラとしての
アンサンブルや表情付けが上という気がしたものでした。(このときチェレスタとピアノの両方を
演奏する女性の方がコントラバスの間を抜けて行ったり来たりしている姿が妙に印象に残りま
したが…)

 ところが終楽章でのこと、終楽章の途中から調子がでてきたせいか、かなり聴き応えのでて
きたさなか、コーダに入りオケが大きく立ち上がった頂点における最初のシンバルの一撃の直
後に響いた、コントラバスを中心とした低音部のその圧倒的な響き!その瞬間あの巨大なNH
Kホールが横に倍以上に押し広げられたのではないかというくらい、とにかく尋常ではないほど
の巨大な音がホール全体に響きわたりました。この衝撃的な一瞬がムラヴィンスキーという指
揮者と自分との決定的な結びつきとなりました。


1977

 ムラヴィンスキーが三度目の来日を果たしたのは1977年(昭和52年)のことでした。この年
の来日は珍しくも秋で、自分は9/27の東京文化会館のワーグナーとブラームス、それに10
/19のNHKホールでのシベリウスとチャイコフスキーを聴きに行きました。この年は来日ラッ
シユで、スウィトナー&ベルリン国立歌劇場(1月)、ベーム&ウィーンフィル(3月)、ハイティン
ク&コンセルトヘボウ(5月)、ショルティ&シカゴ(6月)、チェリビダッケの読売日響客演(10
月)、カラヤン&ベルリンフィル(11月)と続きました。

 そんな中でのこの公演は他の公演と違い、客層がたいへんおちついた、それこそ国内オケ
の定期公演のようなかんじでしたが、ムラヴィンスキーが現れるとその雰囲気に緊張と集中が
自然と加わるという、独特なものもありました。


9月27日:東京文化会館
ワーグナー/マイスタージンガー、第1幕への前奏曲
ワーグナー/ローエングリーン、第1幕への前奏曲
ワーグナー/タンホイザー、序曲
ブラームス/交響曲第2番


 9/27のワーグナーとブラームスは正直意外なものでした。最初の「マイスタージンガー」の
第1幕への前奏曲は、驚くほど落ち着いたしかも古典的ともいえるほど端正な造詣と響きを主
とした演奏で、65年のモスクワでの「ローエングリン」の第3幕への前奏曲のLPでの演奏が印
象として残っていた自分としてはかなり意外な気がしたものでした。それは三曲目に演奏され
た「タンホイザー」序曲でも同じでした。ただ二曲目の「ローエングリン」の第1幕への前奏曲。
これもたしかにそれらと同じ方向性のものだったのですが、冒頭の弦が鳴った瞬間そのまった
く不純物の無い、完璧に清澄しきった透明で、しかも「繊細かつ質の強い」響きに、全身鳥肌が
たったものでした。この完璧に無垢ともいえるような輝くような白一色の音というのを聴いたの
はこの時だけで、この指揮者とオーケストラによるひとつの究極の姿を聴いたような気がしたも
のでした。

 後半のブラームスの第二交響曲は劇的要素を排した穏やかかつ軽やかな演奏で、特に終
楽章のコーダはティンパニーを抑えることにより狂騒に音楽が走ることを戒め、軽快に滑走す
るように響かせていたのがとても印象的でした。

 とにかく二年ぶりに聴いたこのときのムラヴィンスキーは西側のスタンダード集といったかん
じの曲目でしたが、そのオケの響きといい、指揮者の特長といいいろいろなことが聴き取れた
公演でもありました。これは前回ムラヴィンスキーを聴いてからの二年間、特にこの年に入って
から聴いた三団体との聴き比べが大きく、これがなければムラヴィンスキーをもっと平板、もし
くは一面的にしか聴けなかったのではないかという気が強くしたものでした。それにしてもあの
ローエングリンにおける弦の響き。ベームの田園ともハイティンクのマーラーともまったく違う、
ほんとうに今まで聴いたことの無い響きでした。色というものを超越した音色というべきものな
のかもしれません。あれは奇跡のような音でした。


10月19日:NHKホール
シベリウス/トゥオネラの白鳥
シベリウス/交響曲第7番
チャイコフスキー/交響曲第5番


 10/19のシベリウスとチャイコフスキーは先の演奏会とは逆に従来のムラヴィンスキーの
印象どおりの演奏となりました。一曲目の「トゥオネラの白鳥」は漆黒の響きが素晴らしく二曲
目の第七交響曲ともどもその奥行きの深さに感嘆してしまいましたが、全体的に65年のLPよ
り響きがやや丸くなり、特に第七交響曲ではLPに比べて冒頭のアクセントが弱くなり有名なト
ロンボーンのテーマがやや抑えられビブラートが控えめになっていました。(ムラヴィンスキー
の前回迄の来日は峻厳さが表だっていたのに、この来日以降音の響きの豊かさが表に立つ
ようになっていったような気がします。)

 そして後半のチャイコフスキー。これ以前はもちろんおそらく今後も聴くことのできない「奇跡」
の連続のような演奏となりました。そしてこの後、ムラヴィンスキーのチャイコフスキーというと
自分にとって「=交響曲第5番」であり「=1977年10月19日NHKホール」というかんじになっ
てしまいました。

 ですがじつはこの時のチャイコフスキーの5番はこの指揮者の数ある同曲の演奏の中でも、
極めて特異なものであったという気がしています。

 ムラヴィンスキーが1973年4月に本拠地で録音したライブや、1975年に日本公演で録音
されたきわめて厳しい音質によるライブは、それまでの峻厳な中にバランスよく音楽を刻み込
んでいく50年代末期から続くムラヴィンスキーのスタイルが踏襲されています。また1980年
以降のそれでは、音楽に清澄さと静かなバランスのよい風格が備わった演奏となっています
が、この1977年の日本公演での演奏や、翌年のウィーンライブにおけるそれはそのどちらと
も違う、ある意味均衡やバランスのよさを二の次にしたような演奏となっています。それは厳し
い造型の下にいつもは隠されている、この指揮者の激しい感情の吐露が一気にその割れ目
から噴き出してきたようなかんじでして、しかもそのことによっておきた今までにはなかったよう
な激しい表情の変化が、次から次へと表出されていくその様は、音楽が生き物であるというこ
とを痛感させられるくらい鮮烈なものがありました。
 
 しかも随所にこちらの予想しない表情があらわれては消えと明滅していくのですから、これは
もうただごとではないというかんじがしたものの、同時に途中からは正直に言えば自分の器の
小ささに悔しさも感じたものでして、こんな演奏もう一生聴けないという一期一会的な感覚と、自
分に対する激しい憤りが交錯するという、今まで一度たりとも経験したことがない状況に自分
は直面したものでした。(このときの第2楽章冒頭の弦の完全に静態したままの響きなどはい
まだに忘れがたいものがあります。また終楽章でのコーダで一瞬音が小さくなる部分で、いき
なり音がムラヴィンスキーの背中の一点から響くような音の絞込みをした瞬間はなにが起きた
か一瞬わからなくなるくらい驚嘆したものでした。)

 ところでこの終楽章。展開部に入るときティンパニーのトレモロにのって弦が滑るように細か
い音を弾くところがあるのですが、この曲をアルヴィド・ヤンソンスの下で演奏したことのある人
の話を聞いたところ、「ここの最初の部分は↑から弓を入れるが途中音が大きくなるところで
は↓に変更する」という指定をされたそうです。ふつうは最初から↓のようにどこのオケもやっ
ており、たしかにヤンソンスのいうとおりにすれば効果はあるものの、それは結構困難なことな
のでその旨を伝えると、「レニングラードではこうやっている」といわれ、それができるまでやら
されたそうです。これは当然ムラヴィンスキーもおこなっており、こういうところにこの指揮者と
オケの凄さの一端をみた思いがしたものでした。

 またこのときは、ムラヴィンスキー独特の音底をキックするような感覚というのがたいへん如
実に感じられた演奏となりました。ムラヴィンスキーは音を推進させるとき、他のロシアの指揮
者と違い、ティンパニーや低弦を重く響かせることよりも、音の底の部分を強くキックして音を
はねあげたり、前進させたりして音楽を運ぶ指揮者なので、これがドイツ古典派等でも無類の
力を発揮したりするのですが、このときのチャイコフスキーはその感覚が大変絶妙かつ、最高
の力を発揮したものとなりました。(これはAltusの77年ライヴでも、特に終楽章のコーダでか
なりはっきりわかるような気がします。)

  それにしてもNHKホールがこれほど雄大に鳴った演奏というのを自分はあまり聴いた記憶
がありません。四ヶ月前にショルティ指揮のシカゴによる「幻想交響曲」やアンコールでの「タン
ホイザー」序曲でさえこんなことはありませんでした。たしかにシカゴの場合は音の方向にある
ものに対しては圧倒的な力を誇示するものの、その方向からずれるとややその力が弱まって
感じられるふしがありました。それがレニングラードの場合は、弱音に強く聴き手の耳を意識さ
せ研ぎ澄まさせるということをさせた上でのということもあるのでしょうが、音の進行方向の直
線上だけでなく、そのホールの背後というか側面からも響きをつくりあげている部分があるた
めか、その音の進行方向の直線上にいない人にも圧倒的な音を誇示することを可能としてい
たようです。

 (聴き手の耳を弱音に集中させ自らの懐にひきこむことにより、これらの事象を強く聴き手の
感覚ベースに浸透させその結果、直線的な音とその背後や側面から響かせる音、この二つの
種類の音をより実感させ、その上でこれらの音が渾然一体となってホールに圧倒的に鳴り渡
ることを聴き手により痛感せしめた。いわばムラヴィンスキーとこのオーケストラのみしかでき
ない音楽が、このときNHKホールにこれ以上考えられないほどに理想的に鳴り響いていたの
です。まさにこれは「奇跡」の時間そのものでした。)

 たしかに翌年聴いたオーマンディとフィラデルフィアのシベリウスや、オーレル・二コレも絶賛
したチェリビダッケと読売日響によるローマの松にも似たようなところがありましたが、それは
神奈川県民ホールや東京文化会館でのこと。これがあの巨大なNHKホールでおきたというとこ
ろに、言葉にならない凄まじさを感じてしまいます。

 とにかくこの10月19日は自分にとって極めて特別な日と今現在もなっています。


1979

 この年はプログラムが発表されると、「なんだショスタコもチャイコフスキーの交響曲もやらな
いの?グラズノフ?大丈夫?NHKホールガラガラにならない?」みたいな発言がとびかったも
のでした。たしかにその二年前も、さすがに二年おき三度目の来日となると、もう今度は聴く方
もかなりなれてきており、そういう部分が気持ちにあったのかもしれません。

 自分が行ったこの1979年の5月21日文化会館における、ワーグナー&田園プロも、当日
売まもなく来日するバーンスタインのNYPOによるショスタコーヴィチやマーラーを期待する声
を、会場のあちこちで聞いたりとなんか在京オケの定期公演と同じような雰囲気になっていた
ものでした。(実際現在のテレビ朝日がこの時のNYPOの演奏を放送していました。)


5月21日:東京文化会館
ベートーヴェン/交響曲第6番
ワーグナー/トリスタンとイゾルデ、前奏曲と愛の死
ワーグナー/ジークフリート、森のささやき
ワーグナー/ワルキューレ、ワルキューレの騎行


 前半の「田園」はきわめて古典的な演奏で77年のブラームスを随所ニ思わせるようなおちつ
いた佇まいと格調の高さを誇る見事な演奏でした。また「嵐」の音量はさほど感じられなかった
ものの、その弦が垂直に林立するかのような峻厳な佇まいには背筋をよりピンと伸ばされて聴
かされたものでした。(実際にはありえないのですが、何か座席の上で正座をして聴いていたよ
うな感じさえしたものでした。)

 この公演。東京文化会館に行くと予想通り5段階の席種中、上三つは当日券有り。「こりゃガ
ラガラ」とおもって入ってみたら、以外と満遍なくそこそこ埋まっている。ところが「田園」終了後
の休憩時間後にちょっと様相が変わってしまいました。自分のいた5階席が妙に空いている。
向かいの5階席もこれまたさっきより空いている。いや5階だけではない、4階席も多少前半よ
りあいている。「まさか!」と思って一階を含む下の階の席をみたら、なんと前半よりかなり席
が埋まっている。そう、休憩時間後に民族大移動が万有引力の法則に従って行われたのだ。
今までいなかった舞台向かって左端の最前列あたりにも突如人影があらわれていた。当時は
会場内に係りの人などいなかったので、こういうことは今より圧倒的に野放図におこなわれて
いたのです。この光景、オケや指揮者はどうみえていたのでしょうか?

 後半のワーグナーはもはや空前絶後のものとなりました。「トリスタン」のそれはかつての「ロ
ーエングリン」同様清澄かつ不気味なほどの透徹としたうねりが戦慄的で、特に「愛と死」の弦
のすべるようなせり上がりは唖然とさせられてしまいしまた。つづく「森のささやき」の千変万化
する絶妙な木管のニュアンスとその背後で響く壮大なホルンの持続音とのコラボレーションが
あまりにもすばらしく、時がたつのを忘れてしまうほどでした。そして最後の「ワルキューレの騎
行」。このムラヴィンスキーの魅力のすべてを5分足らずの曲にぶちこんだような世紀の名演
は、ちょっと言葉では語り尽くせないほどで、その疾走感は天馬空を往くような、しかもその巨
大な音の渦が最後はホール内で回転しながら疾走しているようで、完全に圧倒されつくしてし
まいました。あれはいまだに昨日のことのように鮮明に覚えています。

 この日の演奏終了後万雷の拍手が起きたのですが、自分はこのとき拍手がまだ鳴り響いて
いる最中にホールを出て行きました。たいていは拍手が終わるまで会場にいるのですが、後に
も先にもこの時だけは別でした。理由はあまりにも凄い演奏であったために、この演奏を出来
るだけ自分の内にとどめて置きたいと思い、拍手等などの「その時鳴っていた音楽以外の音」
を出来るだけ耳にしないようすばやくホールを後にしたのです。それくらい衝撃のある演奏でし
たし、「事件」のような出来事でした。

 けっきょく終わってみれば、あいかわらずの壮演であり圧倒的な名演となっており「ああ、来
てよかった」という声をあちこちで聞いたものでしたが、自分にとってはムラヴィンスキーという
指揮者の凄さをあらためて痛感させられた演奏会ともなりました。

 この演奏後、自分はムラヴィンスキーをもう一度聴く機会があったのですが、けっきょくそれ
を蹴って、アルヴィド・ヤンソンスが指揮したプロコフィエフとベルリオーズの日の公演に行きま
した。自分はまだこの時点でヤンソンスの実演に接していなかったので、どうしても聴いておき
たかったのです。(この自分がムラヴィンスキーを蹴ってまで行った公演はヤンソンスがレニン
グラードとの日本での最後の公演となってしまいました。)そしてこれを決めたとき、あの日の
ムラヴィンスキーが最後になってもいいという覚悟もしていました。結局これが後に現実のもの
となったため、そういう意味でもこの5/21の公演は忘れられないものとなっています。(ただそ
の蹴って聴いたヤンソンスのプロコフィエフとベルリオーズもこれまたかなり強烈なものがあ
り、聴かなかったらこれまた一生の大後悔ものではありましたが…。)

 このヤンソンス(6月6日)とムラヴィンスキーの日本最終公演(6月8日)の間に楽員の亡
命、そして翌年のモスクワ・オリンピックボイコットなどがあり、ムラヴィンスキーの最後の来日
はかなり慌しい幕切れとなってしまいました。

 余談ですが、最近この日の演奏を聴いた、東京文化会館の5階R2列30番の席に久しぶり
に行ってみました。久しぶり、というより1979年のこの日以来に来たこの場所は、記憶とはかな
り違い信じ難いくらい高い場所で、指揮台のムラヴィンスキーをほとんど真上からみているので
は?という錯覚をするくらいの絶景ポイントでした。ただこの場所だと、後半の「ワルキューレの
騎行」のときに、強烈なまでにティンパニーを引っ叩き、それこそ大地鳴動するが如く、しかも
その巨大極まりない音楽をまるで天を駈ける如く疾走させた、あの名手イワノフがみえていな
かった可能性があります。自分はこのときイワノフのもの凄い叩きっぶりをはっきりみています
ので、ひょっとすると自分は前半の「田園」の後、後半をもう少し5階R地区の中央付近に移動
して聴いていたのかもしれません。それくらい空いていたということなのですが…。

 そういえば文化会館でムラヴィンスキーを聴いたこの日と1977年のブラームスとワーグナー
の日。そのどちらの日にも共通していたのですが、自分がみていた場所(ともにRブロックただ
し1977年は5階〜3階の間という記憶しかありません。)で、どちらの日もムラヴィンスキーの棒
がある高さにくると、その棒先が(照明の関係でしょうが)ときどきキラッと光りを放って見えた
のが、他の指揮者ではこの現象をみた記憶がないせいか、今でもとても強く印象に残っていま
す。


1981

5月29日:神奈川県民ホール
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

6月26日:NHKホール
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

(行く予定であった公演)


 その後1980年にムラヴィンスキーの来日が予告されました。前年来日公演時に勃発した楽
員の亡命騒ぎ、そしてその年の暮れに起きたソ連のアフガニスタン侵攻と、それに対する日本
のモスクワ・オリンピック・ボイコットがあったにもかかわらず、来日が発表されたことはとても
意外でしたが、この一報を目にした時は多少安堵したものでした。

 またこの来日公演前に久しぶりの新録音、「ウィーンのムラヴィンスキー」というLP4枚組が
ビクターから発売され、その音質の拙さにもかかわらず演奏の素晴らしさが大きな反響をよび
(この録音についてはイコライザーが駄目だったという説と、録音が突然不許可となり指揮者
のみえない位置にいくつか無理やりマイクをたたせたためという説等があるようです。)、その
ため来日直前には久しぶりに一般レベルにまで浸透するような大きな話題を集めた公演となり
ました。

 ですが来日十日ほど前にハマ音から送られてきた一通のDMがすべてを打ち砕いてしまいま
した。「ムラヴィンスキー急病のため来日中止、次回の来日を期待。」というものでした。この
演中止が何を意味しているのか、急病というのが事実ではないことを自分はうすうす感じてい
たのですが、そんなことはどうでもいいくらい、とにかくこの報はショックでした。そしてこのとき
これでムラヴィンスキーはもう来日しないだろうという予感もなぜかしたものでした。

 自分はムラヴィンスキーを聴く時、これが最後になるという意識が一度の例外を除いて(1977
年の9月の文化会館での演奏会が唯一の例外。これは三週間後にNHKホールでの演奏会が
予定しとてあったためです。)常に心の中にありました。ですから79年にヤンソンスの「幻想」
を聴くためムラヴィンスキーのグラズノフを切ったとき、「これで生き別れとなっても悔いてはい
けない、自分の判断でそうしたのだから」という言い聞かせはしていたものの、それでもやはり
現実問題としてこういうことに直面すると、覚悟はある程度していたとはいえこのことには想像
以上にこたえたものでした。

(余談ですがこのとき金欠だった自分はこの年演奏会に二回分しか行けず、そのすべてをムラ
ヴィンスキーに投入したのですが、結局これがダメになり払い戻しを受けると、当初は予定が
入ってて早々に行くのを断念していたものの、その後日程的に急遽行けるようになったオーマ
ンディの演奏会の最終日を即購入、さらに当初予定のなかったブロムシュテットとドレスデンに
よるブルックナーの4番にも行くこととなりました。このどちらも素晴らしかったのがせめての救
いでした。
 因みにプロムシュテットの演奏会はNHKがTVの収録をしていました。これは自分が行った
海外オケの演奏会で初めて収録があった演奏会となったのですが、後日それがLDになったも
のを見た時、演奏終了後この数ヶ月前にあったことをふと思い起こし、いろいろと感慨にふけ
ったものでした。)


1986

9月25日:昭和女子大人見記念講堂
[ショスタコーヴィチ生誕80周年記念演奏会]
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番
チャイコフスキー/交響曲第5番

(マリス・ヤンソンスに指揮者変更)


 その後、その翌年、そしてさらにその翌年と来日の報せを待ったものの、その報せはありま
せんでした。ですがもうあきらめていた1986年、ソ連がゴルバチョフ体制になり大きく変化し
たのを受けてか、レニングラードフィルの来日が5年ぶりに発表となりました。指揮者は1977
年にも同行したマリス・ヤンソンス、そして三公演のみではあるものの、待望のムラヴィンスキ
ーの名前もみえました。

 この時ビクターは当時ビクターが売り出していたVHD用のソフトとして、その公演を収録しC
DとVHDの両方で発売する計画をしており、関係者も一般音楽ファンも、あとは来てくれること
をただ祈るようにして待つのみだったのですが、けっきょく来日直前に体調不良による来日中
止となり、それはかなわぬこととなりました。ただヤンソンスの指揮においても、演奏はあいか
わらずこのオーケストラの健在ぶりをしめす公演となったことは不幸中の幸いでした。


 余談ですが、1986年のレニングラード・フィルハーモニー日本公演のプログラムにはムラヴィンスキーの肩書きとし
て以下のものが記されています。

※首席指揮者(レニングラード・フィルハーモニー・アカデミー)
※ソ連邦人民芸術家
※レーニン賞受賞
※ソ連邦国家賞受賞
※アルトゥール・ニキシュ賞(DDR)受賞
※レーニン勲章受賞
※ウィーン楽友協会会員


 そしてこの公演がムラヴィンスキーの来日が予告された最後のものとなりました。

 1988年の1月にムラヴィンスキーが亡くなったというニュースが流れたとき、自分にとっても
ひとつの時代の終わったような気がしたものでしたが、ムラヴィンスキーの思い出とこの巨人
指揮者の残してくれた偉大な音楽ははいつまでも終わることなく、むしろムラヴィンスキーの音
楽はこれからその真価をさらに発揮していくのではないかと、このとき感じたものでした。


1989

10月10日:オーチャードホール/指揮:ユーリ・テミルカーノフ
ショスタコーヴィチ/祝典序曲
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第1番(P/ワレリー・クレショフ)
マーラー/交響曲第1番


 ムラヴィンスキー没後、新体制になったレニングラードフィルが来日したこの公演は、オケの
モチベーションも低く、かなり集中力が散漫で、パワーの制御が効かないことによるバランスの
悪さが目立つという、とにかく今までのこのオケには考えられないような演奏が多く、指揮のテ
ミルカーノフとオケの呼吸もすれ違いの連続で、居心地の悪さが極まったような出来となってし
まいました。(しかもマーラーの第二楽章ではけっこう大きな地震までおきる始末。)

 ところがアンコールでムラヴィンスキーの十八番でもある、あの「くるみ割り人形」のパ・ドゥ・ド
ゥを演奏したその瞬間、まるで奇跡がおきたように突如としてオーケストラがかつてのあのムラ
ヴィンスキーの音楽を奏ではじめたのです。 あの強靭かつ柔軟、そして一瞬たりとも表情が
単調にならない集中力と厳しさ、それに豊な雰囲気も兼ね備えた、あのムラヴィンスキーの音
楽がそこにあったのです。

 「ムラヴィンスキーは生きている」。

 そのとき全身に鳥肌がたつほどの、それはすごい衝撃でした。そしてそれと同時にムラヴィン
スキーを聴いていたあの70年代に戻ったようで、ただただこの時間がいつまでも終わってほし
くないと願いつつ、そのパ・ドゥ・ドゥを聴いたものでした。

 この時自分はムラヴィンスキーがオケを通して、日本の聴衆に別れを告げにきたような、そ
んな気がして、こみ上げてくるものを抑えることができなくなりそうになりました。これがほんとう
に最後のムラヴィンスキーでありレニングラードフィルだった、といっていいのかもしれません。
これもまた生涯忘れることのできない演奏会となっています。

 その後最終日に渋谷のオーチャードで聴いたマリス・ヤンソンスによる「ローマの松」は、それ
までの不振を吹き払うようなじつに見事で壮麗な演奏となりましたが、そこにはあのとき聴けた
かつてのムラヴィンスキーとレニングラードフィルの面影はなく、これからのこのオケの方向性
を指し示す、今のサンクト・ペテルブルグフィルのそれを予感させるようなかんじの演奏となって
いました。





(あとがき)

  ムラヴィンスキーの4度の来日は自分にとってかけがえのないものとなりましたが、当時自分
にとってムラヴィンスキーは決して雲の上の存在でもなければ神様でもない、身近に聴くことが
できる偉大な指揮者という印象でした。三度目の来日以降、文化会館での自分が行った二つ
の公演も、まわりには比較的空席もあり(上から三つ目くらいまでのランクの席は当日券があ
りました)、開演前も緊張感よりリラックスした雰囲気が会場にはありました。でもそこから得ら
れたものは大きく、現在でも自分の音楽のベースとなっている部分が少なくありません。 ムラ
ヴィンスキーのもついっさいの妥協を拒否したその真摯な音楽への姿勢とその強大な音楽は、
ほんとうに圧倒的かつある意味空前絶後のものがありました。

 自分にとってのムラヴィンスキーは、音楽というものを聴く姿勢やその価値観というものに巨
大な影響を与えてくれたかけがえのない恩人のような指揮者なのですが、それだけに一部に
あるような軽挙妄動的な神格化発言には同調できないものがあります。イージーに神格化する
ことはムラヴィンスキーに対しての冒涜ではないかという、つまり神格化することにより、ムラヴ
ィンスキーの本質や音楽のもつ根本や本質を考えようとする努力をイージーに放棄しているの
ではないか、という疑問がそこにはあるのです。尚、自分個人のムラヴィンスキーへの考えは
ムラヴィンスキー雑感をよろしければご覧になってください。

 最後に、ムラヴィンスキーの日本公演の79年を除く全公演に同行したコンサートマスターの
ヴィクトル・リベルマン(リーバーマン)は、その後亡命しオランダのアムステルダム・コンセルト
ヘボウに入団(因みに、カルロス・クライバーがコンセルトヘボウを指揮したベートーヴェンの交
響曲第4番と7番のライブ映像において、当時コンマスだったヒュー・ビーンの横で演奏してい
るリベルマンの姿を観ることができます。)、後にここでもコンマスとなり、日本でもヨッフムとブ
ルックナーの交響曲第7番の名演奏を86年に繰り広げていきました。この人は日本でヨッフム
とムラヴィンスキーという両巨匠の下で演奏した唯一のコンサートマスターとなりました。

 余談ですが、その後93年にリベルマンがコンセルトヘボウと来日したとき、リッカルド・シャイ
ー指揮によるチャイコフスキーの交響曲第5番が演奏されました。この曲はシャイーにとっても
ウィーン・フィルとデッカに録音して名を上げた、いわゆる十八番の曲でもあるのですが、にも
かかわらずその前半において、ムラヴィンスキー風の音楽が随所に聴かれちょっと驚かされた
ものでした。このとき「こんなところにまでリベルマンを通してムラヴィンスキーの影響があらわ
れるものなのか」とそのとき強い驚きをもったものでしたし、あらためてムラヴィンスキーの巨大
さを痛感したものでした。




エフゲニー・ムラヴィンスキー
(1903:6/4-1988:1/19)
その思い出と記録。そして雑感。

ロシア・ソビエトのオーケストラ

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