カール・ベームとウィーンフィル
(1975-1980)
(昭和五十年〜五十五年)


 カール・ベームの招聘の話はかなり早い時期からありました。その最も早いものは1959年
の日本フィルにおけるものでしたが、これは実現せずに終わりました。その後ベームは1963
年のベルリン・ドイツオペラの引越し公演で初来日を果たし、特にその「フィデリオ」の公演では
圧倒的な賞賛を得たものの、来日は以降長く途絶えることとなります。

 その後ベームが数多く共演しているベルリンフィルやウィーンフィルは度々来日しているもの
のベームの来日の話は無く、その後十年以上が経過した1974年。突如ベーム再来日が、な
んとウィーンフィルと実現するという望外の朗報がもたらされることとなりました。当時のベーム
はベルリンフィルとのモーツァルトやシューベルトの交響曲全集、ウィーンフィルとのベートーヴ
ェン交響曲全集やブルックナーの交響曲、さらにはモーツァルトのオペラをはじめとする多くの
オペラの録音等が発売されており、ほとんどフルトヴェングラー以降最大のドイツ・オーストリア
音楽の権化というかんじで受け取られていたものでした。(ただそこには人気絶大だったカラヤ
ンに対するアンチテーゼといったものもあったと思います。)

 招聘はNHK。チケットは二年前のカラヤン&ベルリンフィルのNHKホールのこけら落としと
同じく、葉書による抽選で当選した方のみによる購入というやり方で、徹夜などが起きぬような
配慮が施されましたが、その反響はすさまじく、NHKには何十万通もの応募葉書が殺到した
ため、どの公演もたいへんな倍率となってしまい、何十通も葉書を出したのにすべて当たらな
かったという人も決して少なくない状況となってしまいました。(因みに1975年の1月〜6月に
かけてはベーム指揮のウィーンフィル以外にも、フェドセーエフ指揮モスクワ放送、ムラヴィン
スキー指揮レニングラードフィル、ブーレーズ&グローヴス指揮BBC交響楽団、クーベリック指
揮バイエルン放送、小澤征爾指揮サンフランシスコ交響楽団が来日しましたが、ベームとウィ
ーンフィルの人気は群を抜いていました。)

 ベームとウィーンフィルによる公演初日は3月の16日。会場は渋谷のNHKホール、開演は
19時。プログラムはベートーヴェンの交響曲第4番と第7番。冒頭当日の演奏曲目に先立ち、
日本とオーストリア国歌の演奏が行われました。

 ところでこの君が代が演奏されるとき、その最初の練習でベームがこの曲をかつて聴いたこ
とがないほど遅く演奏したため、あわてて関係者が標準的なテンポを教えたということがあった
ようですが、かつてミュンシュがやはり同じようなことをしていという話を後に聞き、年齢も近く、
しかも戦前同じドイツのザクセンで音楽を学び演奏していた二人が、君が代に同じような感覚
を持っていたことにじつに興味深く感じたものでした。

 ベームとウィーンフィルの来日は招聘元がNHKということもあり、その来日直後の様子から、
練習風景や日本での様子、さらにはTVでの特番を組んでのインタビュー等、かなりの時間そ
れらが放送され、またこのベートーヴェンを含む公演の様子も、全プログラムがFMでの生中
継を含むラジオ放送や、TVにおける中継録画でもかなり放送され、これらもまた大きな話題と
反響をよぶことになりました。

 このときのベームとウィーンフィルの公演は、カール・ベームにとって12年ぶりの、しかも待望
のウィーンフィルとの来日ということもあり、とにかく空前のもりあがりをみせました。それはお
そらく日本の音楽界空前絶後のものだったといっていいと思いますし、唯一比較できるものとし
ては、戦前における当時世界五大指揮者のひとりとして最高の人気を日本で誇っていた大指
揮者、ワインガルトナーの来日公演以来のものではなかったかという気がします。特に聴衆の
熱狂は凄まじく、どの公演もアンコール終了後スタンディングでの拍手が三十分以上も続き、
オケかいなくなった舞台に何度もベームが呼びだされたほどで、ベーム自身もこの熱狂に大き
な感銘を受けたようでした。

 また評論家での評価も絶大で、「かつてはセル指揮のクリーヴランドこそ最高と思ったが、ベ
ームとウィーンフィルの方が音が綺麗な分より素晴らしい。」という最高級の賞賛すら出たほど
て、このベームの後残りのウィーンフィルの公演を任された、当時気鋭の指揮者として売り出し
ていた、これが初来日のリッカルド・ムーティもすっかり影が薄くなってしまったものでした。
 
 自分はこの1975年のベームの日本公演があった直後、東京文化会館小ホールでのモーリ
ス・ジャンドロンの演奏会で学生さんと思われる二人連れの方が、この時の公演に対して「ベー
ム老いたり!」と発言されているのを耳にしました。たしかにかつての来日公演やレコーディン
グに比べると、そういうふうに聴こえる部分もあったかもしれません。綺麗で隙の無い演奏では
なかったですし、疲れや押しの弱い部分もたしかにあったように感じる部分もあります。ですが
それでもやはりこの一連の演奏会におけるそれは、自分は当時の放送や後に発売されたLP
やCDでしか知らないものの、いつも強くひかれるものがあります。


 この公演時のあまりの反響の大きさに感激したベームは再度の来日を約束、そしてそれは
意外にも早く、2年後の1977年3月に再度実現をしました。この年はベートーヴェン没後150
年の年にあたっていたため、ベートーヴェンが集中して演奏されました。

 このとき83歳だったベームは前回は東京NHKホールのみであったのに対し、今回は3月9
日には大阪フェスティバル・ホール、そして同11日には東京文化会館にも登場し、健在をアピ
ールしました。その指揮ぶりは椅子も使わず矍鑠たるもので、堂々と、しかも気合あふれるも
のでした。

 この時のもようは3月2日のNHKでの公演がNHKで、そして3月の11日の公演がFM東京
で放送されました。これは今回の招聘がNHKではなく、新芸術化協会によるものだったからで
す。自分はNHKの収録があった翌3日に聴きに行きました。前日2日の「運命」がFMで生放
送されたのを聴いたときには、その轟轟とした圧倒的な響き、一線を越えたようなホルンの咆
哮と渾身の力をこめたティンパニーのうちこみに異常なほど興奮したものでした。以下にこの
サイトのCDコーナーにおけるベームの日本ライブ1977年を回顧するの1〜4月の項のそれ
と多少重複する内容となりますが、当時のこの演奏会の感想を記しておきたいと思います。



 前日2日のこの演奏の模様をNHKFMが生放送したものを聴いた自分は、そのあまりにも
強烈な演奏、特に後半の「運命」のじつに凄絶かつ強大な演奏に完膚なきまでに叩きのめされ
たもので、翌日の演奏会に異常なほどの興奮を覚えたものでした。

 翌3日、会場の雰囲気はすでに自分と同じく前日の演奏をラジオで聴いた方もかなりいたの
でしょう。ちょっと独特の雰囲気というか興奮がそこにはありました。それにしてもこの日の演
奏も素晴らしく、前半の田園の悠然かつ厳しさも同居させた聴き応えのある演奏からすでにこ
の日の演奏に自分はかなり巻き込まれていたようでした。

 特に後半の凄絶の限りを尽くした「運命」がホールに轟いたときのその興奮はいまだに忘れ
がたいものがありました。たしかに自分のいたNHKホールの3階はFMに比べ音量的にやや
乏しかったものの、FMで聴いた、いやむしろそれ以上の鬼気迫る演奏がそこには展開されて
いました。1975年に行われた一連の演奏に比べると、わずかに造形が緩やかに感じられる
ものの、83歳の指揮者が体当たりで渾身の力をこめながら音楽に立ち向かい、鬼のような気
迫で音楽を叩き出すその凄まじさには言葉がなく、ウィーン・フィルも音の美しさをたもちなが
ら、ベームの尋常ならざる気迫に音楽をもって音楽の一線を越えようとしているようで、音楽を
ギリギリのところまで追い込んでいこうとしているような、なにか殺気のようなものすら感じたも
のでした。

 特に終楽章はそれらが完全に一本化され、まさに一音一音が「入魂」という言葉でしか表現
できないような圧倒的な説得力と、もうこの演奏とともに燃え尽きて悔い無しといわんばかりの
尋常とは思えない「燃焼」が、分厚い響きをともないながらベートーヴェンの音楽を抉り出しそし
て炎上していく、そんなかんじの音楽が展開されていきました。(これらはたしかに現代の感覚
からいうとキズが多い古いタイプの演奏かもしれませんが、これはこれで後世に残る音楽遺産
のひとつだと思っています。)しかもそこには「音楽の大きさを感じさせる」巨大な風格も存在し
ており、終演後熱狂する観客の中で、自分は言葉すら発することができないほど打ちのめされ
てしまったものでした。

 その終演後隣の席のひとが連れらしい人に「もう今ここで死んでもいい」と拍手しながらいっ
ている言葉が聞こえてきました。さすがに自分はそこまでは思わなかったものの、この言葉の
真意はいたいほど感じたもので、終演後30分以上続いた拍手の嵐は、同じような気持ちにな
った聴衆が自分やその人だけではなかったことをと如実にものがたっているように感じました。

 因みにこの当時のウィーンフィルの主要メンバーは以下のとおりです。

 コンサートマスターに、
 ゲルハルト・ヘッツェル、ライナー・キュッヘル、エーリヒ・ビンダー、ウェルナー・ヒンク。
 第2ヴァイオリンには、ウィルヘルム・ヒューブナー。
 フルートには、ウェルナー・トリップ、ヘルベルト・レズニチェク、ヴォルフガンク・シュルツ。
 オーボエは、ゲルハルト・トゥレチェク、ワルター・レーマイヤー。
 クラリネツトに、アルフレート・プリンツ、ペーター・シュミードル。
 ファゴットに、エルンスト・パンペル、ディートマル・ツェーマン。
 ホルンがギュンター・ヘグナー。
 トロンボーンに、ルドルフ・ヨーゼル、ユゼフ・ローム。
 トランペットが、アドルフ・ホラー、ワルター・ジンガー。

(表記は当時のまま)。



  そしてベーム最後の来日となった1980年の公演も「フィガロ」やベートーヴェンの演奏会など
がNHKで放送され、ベーム最後の至芸が多くの聴き手に感銘を与えることとなりました。高齢
のため椅子を使用しての指揮となりましたが、その指揮姿はまだまだベーム健在という気がし
たのと同時に、この指揮者の生き様のようなものをみせられ、強くその音楽と指揮姿が心に刻
まれたものでした。

 翌年87歳の誕生日を前にした8月14日に亡くなられたとき(すでに前日から「ベーム氏危
篤」のニュースが流れていた)、新聞やニュースでは異例といっていくらいの紙面や時間をさい
てこのニュースを報道し、NHKはTVやFMでベームの日本公演を放送しその死を悼みまし
た。カール・ベームの死はまさに「音楽が死んだ」くらいの重みと衝撃を日本に与えました。(特
にこの年は、カール・リヒターやキリル・コンドラシンも亡くなっていたため、その報はより大きな
ものとなっていました。)

 カール・ベームの1975年から80年にかけての来日はある意味日本のクラシック音楽、特に
オーケストラにおいて空前の盛り上がりをみせる要因ともなりました。特に1975年の来日は
その中でも最大のものであったという気がします。1980年にベームが亡くなったとき、まだ指
揮者界には、ボールト、オーマンディ、マタチッチ、ヨッフム、ムラヴィンスキー、カラヤン、バー
ンスタイン、ジュリーニ、クーベリック、ヴァント、ショルティ、チェリビダッケ等々がいたことをお
もうと、これは驚くべきことだったと思いますし、いかに特別な状況であったかということが伺え
ると思います。

 カール・ベームとウィーンフィルの来日はそういう意味においても、日本の音楽界にとって極
めて特別な出来事であったという気がしますし、それが四半世紀以上たった現在ではほとんど
話題に上らない、むしろ当時その話題のためにおしやられてしまった感のある、セルとクリー
ヴランド、そしてムラヴィンスキーとレニングラードの来日公演の方が話題に上ることが多いこ
とを思うと、じつに不思議な感慨があります。ですがこの公演もまた日本の音楽史において大
きな一頁を築いた公演として記憶し記録されるべきものだと思います。今年(2006年)で、もう没
後二十五年。当時を経験したものにとってはほんとうに早いものです。

カール・ベーム(来日公演一覧)


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