ヤンソンスと橋本東響楽団長
(1964)
(昭和三十九年)


 日本の音楽史に絶対風化させてはいけない、そして二度と起こしてはいけない出来事があり
ます。それは1964年(昭和39年)におきた東京交響楽団の解散と、橋本鑒三郎東京交響楽団
楽団長の身に起きた事件のことです。ここでは当時同団の名誉指揮者であったアルヴィド・ヤ
ンソンスが、その事件の直後「音楽の友」や新聞に語ったインタビューを中心にここに記してお
きたいと思います。



 アルヴィド・ヤンソンス(1914:10/24-1984:11/21)はラトヴィア生まれのソ連の指揮者で、1952
年よりレニングラードPOの指揮者になりムラヴィンスキーやザンデルリンクとともにこのオーケ
ストラと活動をともにしました。極めて厳格な指導と情熱な指揮ぶりで有名なみの指揮者が初
めて来日したのは1958年。大阪国際フェスティバルの招きでレニングラードPOの来日公演に、
ガウク、ザンデルリンクとともに来日しました。

 ヤンソンスはこの来日時にひとりの日本人と親交を持つこととなります。当時上田仁指揮す
る東京交響楽団の団長だった橋本鑒三郎氏でしたが、このふたりの出会いはまさに偶然の産
物でした。

 1958年の5月10日。この日はラジオ東京の創立七周年にあたっていました。関係者はこの日
の記念行事として公開放送をやろうということで日比谷公会堂を押さえ、当日何をしようかとい
う事を考えていました。

 時同じくして東京交響楽団は、前年8月に初来日したときボリショイバレエのオケを担当した
というつてもあり(因みにこのときの指揮者は当時若干26歳だったゲンナジ・ロジェストヴェンスキー)、来日中
のレニングラードPOに「来日している三人の指揮者のうち誰か一人貸してもらえないか」という
打診を行いました。その結果「ヤンソンスなら5月に入れば空いているので大丈夫だ」という答
えが返ってきました。東響側は一瞬よろこんだものの次の瞬間には困りはててしまいました。
東響の一番近い演奏会が4月30日の定期公演でその後はしばらく予定がなかったからです。
急に開こうにも東京の主要会場は空きがなく、このままではこの千載一遇のチャンスを失って
しまうと思った関係者は、東響と専属契約を結んでいたラジオ東京を通して会場の空きを打診
してみたところ、先の創立七周年の公開放送の件が判明、たちまちヤンソンス指揮東京交響
楽団という豪華版をメインとした放送決定へと事が運んでいきました。

 この日の公開放送は午後1時から3時まで同系列TV曲のKRテレビが生放送を行いました。
この時の曲目は以下のとおりです。

モーツァルト/後宮からの誘拐、序曲(指揮/上田仁)
ドヴォルザーク/チェロ協奏曲(VC/ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、指揮/上田仁)
ベートーヴェン/エグモント、序曲(指揮/上田仁)
ベートーヴェン/交響曲第7番(指揮/アルヴィド・ヤンソンス)

※ドヴォルザークは4/30の定期での同コンビによる演奏の再演となりました。

 ヤンソンスはこの時5/8から三日間、延べ9時間も練習時間をとりベートーヴェンをしあげまし
たが、このときヤンソンスと橋本氏の出会いがあったようです。

 ヤンソンスは橋本氏と離日ぎりぎりでこの年の10月に東響に客演する約束をし、そして再び
10月7日に約束どおり来日をはたしました。

(これは東響の上田仁との指揮者交歓の一環でもあり、上田仁もこのあと10月13日にレニングラードに向かっていま
す。因みに上田がレニングラードで指揮した初日、10月18日の曲目は

渡辺浦人:野人
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番(VN/ボリス・グートニコフ)
プロコフィエフ:交響曲第7番

というもので、このうちのモーツァルトは後に25cmLP[PH−29]として発売されています。)

 当時をふりかえりヤンソンスは橋本楽団長をこう語っています。

「橋本さんは交響楽団の楽団長という高い地位にあり、すごく頭がよく、教養豊かな人で
あることを認識しましたが、何よりも私の胸を打ったのは、橋本さんが生活の全部をオー
ケストラのために捧げていることでした。悲しみも喜びも、すべてオーケストラのためだけ
にあって、自分のことは全く考えなかった人です。橋本さんはまた、音楽家としても立派
に教育された人間でした。オーケストラの財政に頭を痛めていましたが、常に演奏を第
一義に置いて、オーケストラをよくするためにすべての犠牲を意にかけなかったので
す。」
ヤンソンス東響定期初登場(第94回.1958:10/17)
*プロコフィエフ:ロミオとジュリエット、第2組曲
*スーク:弦楽セレナーデ
*ブラームス:交響曲第1番

 この時の来日は二か月以上にのぼり、ヤンソンスは自分だけでなく、コーガンとの共演も実
現させました。この来日公演当時「鉛を金に変えた」と絶賛され、日本に客演した指揮者として
は、カラヤンや戦前のワインガルトナー以来のものとさえいわれました。ヤンソンスはムラヴィ
ンスキーからオーケストラの指導力に関して全幅の信頼を受けており、しかもその実現のため
にはいっさいの妥協に応じない、極めて厳格な指揮者でした。このため東響での練習もレニン
グラード同様、いっさいの妥協無く、しかも「レニングラードではこうやっているのだから」といわ
んばかりに、その理想まで徹底的に練習を行いました。ヤンソンスはこの時のことを、

「私はものすごく厳しい指揮者です。練習のときは何回も何回もやり直しをします。私は
東京交響楽団を愛していたので、ことさら厳しい訓練を課しました。しかし橋本さんは私
の愛の鞭を心から喜んで練習時間がどれほど永くなっても、苦情をいうどころか、それを
確保するために惜しみなく努力を払いました。橋本さん自身、そのオーケストラを深く愛
していたからです。」

 この公演は絶賛を博し、11月の下旬にヤンソンス指揮東響による、スークの「弦楽セレナー
デ」が九段会館で録音される運びとなりました。これは前述した定期で演奏されたもので、本人
もチャイコフスキーの「弦セレ」より好きな曲だったらしく、この曲を東響の レパートリーに入れ
ようとしたくらいでした。録音は朝から夕方までかけて行われ、夜8時から翌午前3時まで、指揮
者立ち合いのもとテープ編集と放送用テープを作成し、翌年4月に新世界レコードから25セン
チLPとして発売されました。この演奏はたいへん素晴しいもので、当時の東響がこの指揮者の
下でいかに凄い演奏を展開していたかを知る貴重な資料となっています。因みにヤンソンスは
ビクターのスタジオでこの録音とターリヒ&チェコPOの録音と比較しながら、それぞれの特長や
良さを嬉しそうに語っていたということでした。

 東響はこの公演以降ヤンソンス以外にも多くの名指揮者が指揮台に立つようになりました。
ルモーテル、プレヴィターリ、マルコ、スメターチェク、ヨーフム、ペータース、そして初来日した
若き日のマゼールというぐあいにです。(独奏者としては、コルトー、バックハウス、フランソワ、
コーガン、シゲティ、ロストロポーヴィチ、ヘルシャー、シャフラン等)またヤンソンスもこの来日
時に名誉指揮者の称号を授かり以降も東響、特に橋本楽団長との友情は続き、ヤンソンスが
東響客演のため来日した地方公演時には、ヤンソンスは橋本氏といっしょに魚釣りをしたり、
ヤンソンスが日本に来れない時など、わざわざレニングラードのヤンソンスのところに橋本氏
が尋ねていったほどでした。橋本氏がレニングラードに来たときの事をヤンソンスは、

 「私は名所を全部案内していちばんいい所を見せてあげました。また音楽のことを一緒
に話し合って、東京交響楽団の将来についても熱心に相談しました。そして最後に、東
京交響楽団を世界で一番いいオーケストラにしようと二人で約束したのです。橋本さん
が私の家を離れるとき、飛行場まで送って行きました。

 それが、橋本さんの姿をみた最後でした。」

 じつはこの時期あたりから東響は深刻な経営状況となっており、橋本氏はヤンソンスにも、
招きたいが経済的に苦しんでいるということを文書で送っていたようでした(この経営危機には
先にあげた巨匠達の出演費用もからんでいるようでした)。

 このような時期にヤンソンスはイワノフとともにソビエト国立響と来日する事となりました。
1964年4月のことです。その時に数回東響を指揮してほしいと橋本氏から依頼を受け承諾し、
シベリウスの2番やかつて東響と録音したスークの弦楽セレナーデ、そして定期初登場時の記
念すべき一曲目であリ当時大きな反響を巻き起こした、プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」
などを指揮する予定でした。が、

「しかし、私が日本に出発する一週間くらい前に橋本さんから電報が来て、オーケストラ
が財政的に行き詰まって私に指揮してもらうことが不可能になったと知らせてきました。
私はその電報をみてとても心配になったので、すぐ返電を打ちました。

『東京交響楽団に対しては自分は全力をもって援助したいから金銭上の心配は不要だ』

 ということを知らせたのです。旅行の途中ウラジオからもう一度電報しました。

『自分は、今、日本に向かっている。横浜に向かっている。横浜に出迎えて欲しい』

 という電文でした。橋本さんは私の電報を受け取らなかったようです。波止場で私は一
生懸命に彼を捜してみましたが、橋本さんをみつけることはできませんでした。」

 東響はヤンソンス来日前の3月26日に経営上の理由から解散していました。そしてその直後
から橋本楽団長は行方不明となり、捜索願いが警察に出されていました。

 4月9日午前6時頃、荒川放水路で一人の男性の水死体が発見されました。死後二週間たっ
ていたその男性は橋本氏その人でした。ヤンソンスが横浜埠頭で橋本氏をけんめいに捜す4
時間前の事でした。

 ([上着のポケットに同楽団名入りの茶封筒があり、表に「申しわけない」なかのワラ半紙には三行にわたり「解散
の責任…。」「死んで皆さんにおわび…。」「死ぬのはわびしい…」と読みとれる万年筆書きの遺書があった]と当時
の毎日新聞4月10日付けの朝刊には記してあります。)

 ヤンソンスも数時間後にはこの件を知りましたが、この一報を聞いたヤンソンスは

 「なぜ橋本は俺に相談しなかったのか、そんなにも追い詰めていたのか。」

 といい号泣してしまいました。翌日憔悴しきり目を充血させながらヤンソンスは来日記者会見
に応じていましたが、その後ヤンソンスは東響再建に協力するため、来日中の4月30日に共立
講堂で再結成された東響を急遽指揮することとなりました(これは再結成公演の3回目にあた
ります)。曲目は、橋本氏に捧げ聴いてもらう曲として以下のようになりました。

*チャイコフスキー:ロミオとジュリエット
*シューベルト:交響曲第8番「未完成」
*ブラームス:交響曲第1番

 特にブラームスはヤンソンスが「自分の交響曲」とよび、初めて東響定期のメインで指揮した
曲目でもありました。ヤンソンスはこのように語っています。

 「橋本ほど日本のオーケストラを世界的なものに近付ける努力をした人も少ないだろ
う。橋本は帰らないが東響はなくしてはいけない。それは日本人の責任だと思ってい
る。」

 クリュイタンスがパリ音楽院と来日公演を行い、10月の東京オリンピック開催の為、東海道
新幹線が建設されている時期の話です。
 
(翌月28日には新宿百人町の東響の練習場で、上田仁指揮の東響による「英雄」の第二楽章が演奏される中、信
時潔、小澤征爾、安川加寿子、淡谷のり子、井口基成、マンフレット・グルリット、プリングスハイム を含む三百人の
有志によって橋本団長の追悼会が行われました。そこでは「不幸な終わりの前に、なぜ私をたよってくれなかったの
か」という、会場でハンカチを目にあてていた山田耕筰氏の言葉が代読されたということです。)
 
 ヤンソンスはその後

「橋本さんが音楽のために命をかけていたことを、全部の人に見習ってほしいのです。」

 という自らの言葉を実践するかのように、心臓を病み健康を害したその晩年まで東響との関
係を保ち続け、亡くなる年の6月まで東響に断続的ではありますが客演し、橋本氏への友情を
貫きとおしました。

 ヤンソンスはそれから五ヵ月後に持病の悪化で演奏中に倒れ、11月21日にこの世を去りま
した。橋本氏が亡くなられてちょうど20年という歳月が流れていました。

 
 その後も東京交響楽団は長くその活動を続け、2004年に40年もの長きにわたり同団を音
楽監督兼常任指揮者として率いてきた名指揮者、秋山和慶氏が惜しまれつつ勇退されたもの
の、その後継に世界的名指揮者ユベール・スダーンをむかえ、さらに川崎にできた日本一とも
いわれる音響をもったMUZA川崎にも新しく本拠をかまえ、今まで以上に活発かつ充実した演
奏活動をおくり現在に至っています。。

 もし橋本氏がこの現在の東京交響楽団の姿をみたらどれほどよろこばれたことでしょうか。
東京交響楽団にむけておくられたヤンソンスの言葉が今万感の想いをもって自分に迫ってくる
ものがあります。

 「東京交響楽団のメンバーはみんな立派な腕をもっているのですから、も
う駄目だというような弱音を吐かずに、いっそう自分の技術を磨いて頑張り
とおすことです。音楽はどこの国、どの国民にも<必要>なのだということを
絶対忘れずに。」





 ここで紹介しましたヤンソンスのコメント(青字)は、この東響事件を報じた1964年6月号の
「音楽の友」に掲載された、ヤンソンス自身による橋本氏への「追悼文」から抜粋したものを中
心に掲載したものです。この「追悼文」は3ページにわたるもので、正直涙なくしては読めないも
のがありました。またこの号には野村光一氏も2ページ分の追悼文を寄せています。

 あと本文でもふれましたが、ヤンソンス指揮東響による、スークの「弦楽セレナーデ」を個人
的にCD化を強く希望します。東響のというより日本のオケにおける偉大な記録であり、この二
人の関係が幸せであった頃のかけがえのない記録であるからです。因みに演奏時間は、5:
59、5:27、9:54、6:57、というものです。当時は¥1000で発売されていました。
(尚、この時期に録音されたCDも:現在廃盤状態とのこと、ぜひ復刻してほしいものです。)

 この事件の8年後、今度は日本フィルハーモニーが、そして2001年には新星日本交響楽団
がそれぞれ解散、分裂、吸収合併といったことに直面しています。なんとも悲しい話ですが、橋
本楽団長のような悲劇は幸いにも起きていないようで、それだけがせめてもの救いとなってい
ます。

 この事件は日本の楽界にとって決して忘れてはならない事件であるというだけでなく、このよ
うな事件を二度と引き起こしてはいけないという警鐘として、今後も絶対風化させてはいけない
事件だと思っています。


東京交響楽団公式サイト
アルヴィド・ヤンソンス日本公演

ロシア・ソビエトのオーケストラ


 余談ですが、そんな矢先、

「今年(2002年)2月に約3億円の負債を抱えて倒産したFMW(フロンティア・マーシャルアーツ・
レスリング株式会社)の社長だった荒井昌一(あらい・しょういち)氏が5月16日午前6時20分
ごろ、東京都葛飾区の水元公園で首をつっているところを通行人に発見された。すぐに近くの
病院に運ばれたが死亡した。36歳だった。亀有署によると家族にあてた遺書のようなものを
身につけていたといい、自殺とみられる。インディー最大といわれた団体の倒産が悲劇を引き
起こした。」

 という記事がとびこんできました。荒井社長もまたひたむきにプロレスを愛し、FMWを愛し育
ててきた人でした。クラシックとプロレスの違いこそあれ、どうして「ひたむき」な人達がこうも悲
しい目にあわなければならないのか。ほんとうに断腸のおもいでこの記事に接したものでした。
あるプロレス・ファンの方も自らの掲示板で「もう言葉もないよ」と嘆き悲しんでいました。
この事件も絶対忘れ去られてはいけない事件だとおもっています。



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