シンフォニー・オブ・ジ・エア来日
(1955)
(昭和三十年)


 この日本初の海外オケの来日公演はNHKと毎日新聞、そして米国芸術協会(ANTA)の主
催で行われました。じつはこれ以前にも、フィルハーモニア管弦楽団、サンフランシスコ交響楽
団、ロサンゼルス・フィルハーモニー、コロンヌ管弦楽団に対して来日の要請があったのです
が、すべて経費の問題等で立ち消えになってしまいました。

  1955年の3/18の毎日新聞朝刊に、シンフオニー・オブ・ジ・エアは「元NBCトスカニーニ
交響楽団」という名前をそえて公演を発表しました。これは大きな反響をよびました。(この年
は放送開始30周年[1925(大正14)年3月22日午前9時30分、「JOAK、JOAK、こちらは東京放
送局であります」の第一声とともに、日本初のラジオ放送がはじまりました。(NHKより)]というこ
ともあったのでNHKはその一環として招聘に加わったものと思います。因みに、このシンフオ
ニー・オブ・ジ・エア公演の発表は、放送記念日の4日前にあたりますので、当時毎日新聞だけ
でなく、NHKでもこの公演についてこの前後もいろいろと放送していたのではないでしょうか。)

 毎日新聞は招聘元のひとつということで、前売り前日の3/30にはカーネギーホールビルの
11階にある事務所におけるドン・ギリス会長や団員のインタビューなどを掲載していました。こ
の中の記事で、元ボクシングのチャンピォンであった打楽器首席のサミュエル・ボロドキンが、
自分の子息が立川基地の空軍大尉だったことから来日公演決定後、そのご子息から日本楽
壇の話を毎日送られてきたためか、団で一番の日本通になったといことでした。

 前売りは4/1の正午からでしたが、当日雨にもかかわらず発売二時間前には、前売り券
の発売所のひとつである東京毎日新聞社前にすでに徹夜組を含め1500人がならぶという状
況でした。(東京公演入場料金/A:1800、B:1500、C:1000)前売りは発売初日でほぼ完売。
この盛況を受けて5/23の後楽園球場での公演が追加で行われることとなりました。

※因みに東京公演の入場券発売所は、銀座プレイガイド本支店、上野・銀座松坂屋、日本楽器ガイド、赤木屋、渋
谷東急サービス、N響案内所、日比谷サービス、鳩居堂、白木屋、国際観光会館プレイガイド、毎日新聞社事業部。

 尚、この公演に先立ち、3月初めに用務の為ニューヨークに帰っていたトスカニーニに対し、
当時のシンフォニー・オブ・ジ・エアの会長だったドン・ギリス氏から「指揮をしなくてもいいから
来日だけでもしてくれないか」という打診がされましたが、それはけっきょく実現しませんでし
た。その後ギリス会長は4/29に来日した直後の記者会見で「特に前指揮者のトスカニーニ
は(この公演の)大成功を期待している。」というコメントを出しています。

 4/17の毎日新聞朝刊には来日メンバーの横顔として、指揮者のヘンドル、ジョンソンの他
に、コンサートマスターのティボー門下だったダニエル・ギレー、第二VN首席のエドウィン・バッ
クマン、チェロの首席ベナール・ハイフェッツ等の記事が掲載されました。(因みに全メンバー
の名前は公演初日の5/3毎日新聞朝刊に一挙掲載されましたが、公演パンフにはそれがあ
りませんでした。)

 オーケストラは4/28夜にニューヨークのラガーディア空港をTWA2機に分乗しサンフラン
シスコまで行き、そこで軍用機2機に乗り換え、ハワイ・ホノルル経由で羽田へと向かいまし
た。こうしていよいよ日本初の本格的な外国オーケストラの来日が実現となりました。

 5/1の午後10:40にホノルル経由で軍用機で羽田空港に来日したシンフォニー・オブ・ジ・エ
アは(コンサートマスター、ダニエル・ギレー他92名で、第一VNの中には後に日本POのコン
サートマスターとなる、ルイ・グレラーの名前もありました。)、翌日午後4時半から丸の内東京
会館で行われたNHK主催による歓迎レセプションにのぞみ、いよいよ公演初日を迎えることと
なりました。

 5/3。いよいよ公演初日を迎えましたが、この公演に先立ちチケット売り切れの為、公演を
聴けない方々から、「せめて練習風景でも」という強い声があがり、午前9時半からの練習を公
開とし、急遽整理券1400枚発券したものの、たちまち無くなってしまいました。

 こうして公開練習後、夜には待望の公演の初日を迎えました。たしかにこの初日に対しては
多くの賞賛がよせられたものの、この公演は当初アジアツアーの一環としての、GIの慰問+日
本ツアーみたいなところもあり、「指揮者はオケのためでなくお客様のためにいる」というふうに
いわれたり、、「オケの力量は凄いが指揮者からは何も感じられない」という芳しくない評価も
少なくなく、「パリのアメカ人」くらいしか評価できないという評さえありました。

 ただ指揮者のヘンドルもかなりたいへんだったらしく、ふつうならトスカニーニのオケというこ
とでNBCのライブラリーを使用すればいいものの、その使用スコアはまっさらでまったく書き込
みが無いものを使用していたようです。団員がトスカニーニが去った後、多少異動があったこと
や、使用したところでその結果が「良」となるとは思えなかったのでしょう。ですがブラームスの
1番など弦のボーイングがまちまちで、個々のプレイヤーの力量はたいしたものであるのに、
演奏会がすすむにつれ、「オケが勝手にやっていて指揮者がそこにはいないというかんじにな
っていった」というかんじになり、けっきょく前述したような批評を受ける原因をつくってしまった
ようです。

 ですが一般の関心はひじょうに高く、当時銀座四丁目にあった喫茶店にはこのときのTV中
継を店内で流したところ、たいへんな盛況となったようでしたが、このままではなかなか店内の
人が動かないのでチャンネルを変えたところ、一騒ぎおきたためまたもとに戻したということで
した。

 ふつうならこの公演、そのままのただの消化演奏会になりかねなかったのですが、オケにと
ってその気持ちに劇的な事がこの初日の夜おきることとなります。

 翌4日、じつは追加公演として、5月16日に日比谷公会堂で大学生の為の演奏会が開か
れ、そのチケットを発売することとなったのですが、その券を入手するためになんと三千人もの
人たちが徹夜で並びました。この光景を楽員が次々とみにあらわれていたのですが、あまりの
ことに多くの楽員が自分達に対する期待というものにうたれたようでした。ギリスと指揮者のヘ
ンドルはあまりのことに驚きそして感激したため、急遽ならんでいた人たちをねぎらいサイン会
をしたくらいでした。とくにギリスは「こんなことはNBC17年間で一度もなかったこと」とひどく感
激したようでした。

 ですが、日比谷公会堂の収容人員を大きく超えた列のため、関係者は途中で列を切り釈明
をしましたが、あとからあとからどんどん入場希望者が会社前に集まり、最後は追加公演の署
名活動がそれらの人たちの間ではじまったほどでした。この光景に楽員のひとりコントラバス
のワルターは毎日新聞の事務局に夜中の三時までねばり「五千人でも六千人でもいいから、
かまわないから入れろ」と主張し、ネムコム、タイロン、エドワード、ブラウンは急遽弦楽四重奏
団を結成し、大阪をはじめ2〜3の都市で無報酬で演奏会を開いたりしました。
 (その後このときの署名活動が効をそうしたのでしょうか、5/10の毎日新聞には翌11日発売
で、オーケストラが離日する前日に急遽告別演奏会として、追加公演を行うことを発表しまし
た。)

 このせいでしょうかその後の演奏の素晴らしさを語るこんなエピソードが生まれました。

 三沢基地での慰問演奏会でのこと、天井のハリの上でネズミが1曲聴き終わるまでじっとして聴いていた。その後拍手に驚いたのかひっこんでしまったが、しばらくすると、子ネズミと二匹いっしょにあらわれ、今度は拍手にも動じず最後のアンコールまで、二匹ともその演奏にじっと聴き入っていた。

 さて指揮者のヘンドルは途中から10日遅れて来日したソーア・ジョンソンと交代すると、なか
なか勉強熱心な一面をみせ、まずN響の定期を聴きに行き、その後桐朋に視察にいったり、
山田耕筰や日本の指揮者と会合したり、アメリカ文化センターで熱心な音楽ファンへの質問に
答えたりと、かなり活発に行動していました。

 ツアーは全国どこでもたいへんな盛況を博しましたが、日程はたいへんきつく、福岡から東京
への移動には、軍用機で立川基地へ移動したほどでした。このため楽員はなかなか日本を見
物することができず、静岡から東京に行く車内で東京見物がしたくて「品川で降りてもいいか」
という楽員がいたほどでした。

 こうしてツアーもいよいよ大詰め。一人でも多くの人の為にとして、前述した後楽園球場での
特別演奏会が、5/23になんと一万七千人もの人を集め挙行されました。この球場公演には
当時の皇太子殿下(現今上天皇)がご臨席されており、となりに池田勇人氏の夫人が同席され
ているという、たいへん貴重な写真も当時撮られていましたが、この公演はかなりたいへんで、
最初はかつてN響が行った野外演奏会を参考にして、スピーカーを配し演奏会を始めたので
すが、途中から風が強くなり音が上に飛ばされることにより、場所によって音が二重に聴こえる
事態が起きたため聴衆からも指摘されたこともあいまって、N響との合同演奏のときはスピー
カーをきってしまいました。ところがこうすると今度は音が後ろにまでととかず、一部観客が演
奏中に前に押し寄せる事態などがおき、かなりいろいろな事が生じてしまったようです。

 いろいろあった前日の球場公演の翌日5/24、署名活動等によって実現した最後の追加
公演[告別演奏会]は恙無く挙行され、アンコールに「オベロン」序曲と「蛍の光」が演奏された
後、今では考えられないことですが、観客席から花束だけでなく紙テープも投げ込まれ、盛大
な拍手と歓声の中、公演はすべて終了しました。

 じつはあまり知られていませんがこの最終公演はたいへん濃い内容だったらしく、特にジョン
ソン指揮のベートーヴェンの交響曲第7番は野村光一氏をして、「トスカニーニによって訓練さ
れ獲得されたベートーヴェンの演奏に対する同楽団の体質を著しく彷彿とさせるもの。」という
ほどの、たいへん強烈なダイナミズムに彩られた名演であったようです。

 シンフォニー・オブ・ジ・エアは、翌5/25午前11時に立川基地から軍用機で、一ヶ月の東南
アジアツアーで韓国に向かう為、賛否両論の話題を残し離日しましたが、この公演が日本の楽
壇に与えた影響は大きく、その実力差に絶望的なものさえ感じさせはしたものの、ホルンの千
葉馨氏のように「孫の代にはおいつけます。」という前向きな発言もでているように、いい意味
でやる気と目標を指し示した演奏会ともなりました。

 こうしてこれが日本における初の本格的交響楽団来日公演の第一歩となりました。戦前幻と
なったフルトヴェングラー指揮ベルリンPOの公演が話題にのぼってから、20年近い歳月がか
かっていましたが、フルトヴェングラーがはたせなかった海外オケの日本公演を、トスカニーニ
のオーケストラが最初にはたしたというのも何かの縁かもしれません。

 ※追加された公演のうち「大学生の為の演奏会」(東京、大阪)、「少年少女の為の演奏会」
(東京)での収益金から、学生結核療養所を含む社会福祉事業に寄付金が贈られました。(内
訳は「大学生の為の演奏会」から469500円を学生サナトリウムへ、「少年少女の為の演奏会」
からはエリザベス・サンダース・ホームへ18万、日赤乳児院へ5万。)

 因みにこの公演はアメリカ本土でもたいへん注目されたようで、NYタイムスの社説でも何回
かに分けて詳しくとりあげられていたようです。


 ところで日本を離れたシンフォニー・オブ・ジ・エアは、その後、ソウル、台北、那覇、マニラ、
シンガポール、バンコック、クアラルンプール、コロンボと公演を重ね帰途についたのですが、
その帰路の途中6/2820:50羽田着の飛行機で一行は一時日本に立ち寄っています。帰国
を翌日に控えた同行指揮者ヘンドルは、この時のアジア公演についていろいろとインタビュー
に応えています。(ヘンドルはオーケストラより一日早く6/27に日本に到着していました。)

 ソウルでは観客がたいへん熱狂し、そのため服が破られそうになったりしたとか、マニラでの
三度の演奏会は毎回5〜6千人が来たということ。クアラルンプールでは昼に「少年少女の為
の演奏会」、そして夜の演奏会各々に3500人が聴きに来たという話、そしてコロンボでは昼間
に5000人程が集まった「少年少女の為の演奏会」では、その会場が飛行機の格納庫であった
ものの音響が驚くほどよかったこととか、そこに行くため自分はヘリに乗ったが、聴きに来た人
の中には150マイルも離れたところからバスで来た人もいたということなど、当時のアジアの状
況が垣間見られる話もありました。またヘンドルの話では那覇、クアラルンプール、コロンボで
は初めてオーケストラを聴く人が多かったということを話していました。(各地の曲目は日本で
行われたものと同じということです。)

 こうして6/29にシンフォニー・オブ・ジ・エアはすべてのアジアツアーを終了し帰米しまし
た。このオーケストラが再度アジアの地を踏むことはありませんでしたが、このオーケストラが
日本、およびアジア各地に残していった足跡は決して小さくないような気がします。トスカニーニ
がNBCに遺した足跡、決して完全な形ではないもののそれらに接し、そしてオーケストラの魅
力、音楽の魅力を知った当時のアジアの人達の歓びはいかばかりだったのでしょうか。これは
二十世紀の音楽史上に残る偉大な公演のひとつではなかったかと、自分は最近感じるように
なりました。シンフォニー・オブ・ジ・エア。このオーケストラがアジア各地にどれだけの種を蒔い
ていったのか。我々はもう少しこのことを知るべきなのかもしれません。





指揮者略歴(1955年現在)

※ワルター・ヘンドル
1917年生、ピアノ奏者として出発。ライナーとクーセヴィツキに師事。ロジンスキーのピアニスト
兼副指揮者としてNYPOに。その後病気のロジンスキーの代役でNYPOを指揮し成功を収め
る。NBC交響楽団の指揮台にもあがる。ダラス交響楽団指揮者。
(ヘンドルはこの公演の18カ月前にも旅行で日本に来ています。)

※ソーア・ジョンソン
1913年生、ワインガルトナー、マルコ、アーベントロート、クーセヴィツキに師事。戦時中軍隊で
交響楽団を組織し活躍、36人の候補者(その中にはポール・パレーもいた)からシンシナティ
交響楽団指揮者に選ばれる。青少年の音楽教育にも力を入れる。
(ジョンソンはこの三年後、政府芸術諮問委員として来日し、日本POの練習などに立会い、そのさらに二年後日本P
Oの客演の為来日しています。55年の来日以降たいへんな親日家となり、日本の作曲家の演奏にも力をいれ、55
年の後楽園球場で演奏した芥川の作品は、この1960年時点ですでに海外で百回以上指揮していました。)


 この二人の指揮者は正反対で、ヘンドルは練習ではあまり何もいわないが、その本番の指
揮ぶりはたいへん克明で、ジョンソンは練習は細かく指示は出すものの、本番の指揮はたい
へんおおらかなものだったそうです。



 余談ですがシンフォニー・オブ・ジ・エアを招聘した毎日新聞は、この年の秋アメリカのニュー
ヨークからもうひとつの団体を招聘しました。それがかのMLBの名門ニューヨーク・ヤンキース
で、日本の各チームを相手に、16戦して15勝1分という、単独MLBチームの来日しては歴代
唯一の勝率10割の戦績を残しました。


シンフォニー・オブ・ジ・エア来日公演曲目


シンフォニー・オブ・ジ・エア来日メンバー



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