| この作品は、「ぴんぽんだっしゅ」さんがまだ「もおきん亭」というタイトルだった頃、「ウェディングプラン」をテーマにしたイラストや小説を集める企画に参加して提供したものです。同じサイトの「クリスマス」企画に参加した「聖夜」の続編になっていますので、未読の方はそちらを先にお読みください。「ぴんぽんだっしゅ」さんがの作品が置いてあったサーバーのサービスが終了したのに伴い、ファイルが削除されたので、QPハウスで復活することにしました。もおきんるいさん、これまでありがとうございました。 ――キューピー/DIANA:2004年9月7日 |
| 「フィリア、ヴァル。お待ちどう様」 ゼロスは両手に生きた鶏を2羽ずつ入れた籠をぶら下げて、部屋の入り口をくぐりました。部屋の中は、ベッドが一つと、入り口と反対側の壁に小さな窓が一つあるだけの殺風景な景色です。彼の妻フィリアはベッドに腰を下ろし、床に置いた籠の中でぴくぴくと動いている竜の赤ん坊をあやしていました。 「ありがとう、あなた」 フィリアは籠を受け取ると、慣れた手つきで鶏を取り出し、首をひねって絶命させます。これがヴァルの朝ご飯です。生まれて一月足らずのヴァルは、食欲旺盛。しかもこの時期の竜の子供は、殺したばかりの動物の肉が好物なのです。 フィリアは鶏の羽根をむしり取り、肉を包丁でさばくと、床に置いたまな板の上で、包丁の背でトントンと叩いて柔らかくし、ヴァルに食べさせました。 ゼロスはその間にベッドに腰を下ろし、フィリアが用意してくれていたオートミールと野菜のスープの朝食を済ませます。 ここは二人が出発したベツレヘムから遠く離れた港町です。二人が船を待つための人々に提供されている宿泊所に入ったのが三日前。ここから次に出発する船で、フィリアとヴァルを追っているだろう屋からの土地から離れよう、ということになったのです。 目的地は特にない、とゼロスはフィリアに言いましたが、彼は巧みに計算して、ちゃんと群狼の島へ行く船に乗れるタイミングでこの街に入っていました。が、そのような下心以外は、彼は妻や竜の赤ん坊にたいへん優しく、しっかりと家族の生活を支えていました。 「どうやら群狼の島へ行く船が最も早く出るようですよ」 ゼロスは妻に声をかけました。 「その船に乗れるでしょうか?」 「ええ、まだ乗員に余裕があるという話でした」 「竜の赤ん坊も乗せて構わないのでしょうね?」 「それはもう、大丈夫ですよ」 フィリアは次々と肉を叩いてはヴァルに食べさせ、しばらく黙ってその作業を続けていましたが、やがてぽつりと言いました。 「群狼の島とはどんなところなのでしょう?恐ろしげな名前ですけれど……」 「ご心配なく。ちゃんと人も住んでいますし、そこそこの町もあるそうです群狼とは、たくさんの小島が回りにあることから付いた名だそうですよ」 ゼロスはほがらかに言いましたが、かえってフィリアはますます不安げになりました。 「町があるのですか?……神殿などもあるのではないでしょうか?」 彼女が、火竜王の神殿に居所を突き止められるのを恐れていることを、ゼロスは敏感に感じ取りました。彼は食器を床に置き、まだ肉を叩いているフィリアの横に跪きました。そしてそっと彼女の肩を抱きます。 「そんなに心配しないで。僕たちがベツレヘムから来たと言うことは誰も知りません。それに彼らが探しているのは『竜の卵を携えた巫女』で、『竜の赤ん坊を連れている若夫婦』ではありません。大丈夫。見つかりませんよ」 「若夫婦」の言葉に、フィリアが頬を赤らめてゼロスを見詰めました。 肉を叩く手が止まり、食いしん坊のヴァルは不満そうに「ギャーギャー」とわめきました。ゼロスとフィリアは同時に吹き出し、フィリアはまた鶏の肉を叩き始めました。 若い大工が美しい妻と竜の赤ん坊を連れて船に乗ったのは、それから三日後のことです。船旅は天候に恵まれ、五日の後、無事に群狼の島の港に到着しました。 事件が起きたのは人々が船から降りていた時です。 港町を警護している兵隊の指揮官が、すれ違いざまにフィリアが目深に被っていたフードを鞭の柄に引っ掛け、彼女の素顔を露わにさせました。顔を隠していても、気品溢れるフィリアの姿に好奇心を掻き立てられたようです。 ゼロスは慌てず、さりげなく彼女を背後に隠して指揮官の前に立ち塞がりました。 「人の妻に、いささか無礼ななさりようではございませんか?」 「ほう?そなたの妻とな……」 その声は、指揮官のものではなくゼロスたちの背後からしました。振り返ると、そこには馬に乗った、明らかに金持ちと分かる、立派な身なりの男が居ました。軽装の兵を護衛につけているところから、この男性が島の権力者であることを察し、ゼロスは無言で頭を下げました。フィリアは地面に跪き、深々とお辞儀をして同時に顔を見られないようにじっと俯きました。ヴァルの入った籠は脇に置いてあります。 「確かに、今の振る舞いは無礼と言わざるを得ないな」 男は言って、警備兵の指揮官に引き下がるよう命じました。その上で、ゼロスとフィリアについて来るように言いました。 二人が連れて行かれたのは、警備兵の詰め所でした。そこで尋問が始まりました。まず名前を確かめられた二人は、関係について問い質されたのです。 「二人の関係と申しましても……僕たちは夫婦です」 「本当にそうか?」 ソロモンという街の権力者は疑わしそうに言いました。 「何をもってお疑いになられるのでしょうか?」 ゼロスがムッとして言うと、ソロモンは、 「フィリアというそちらの女。とても男を知っているようには見えん」 とさらりと言いました。ゼロスは眉をひそめ、フィリアは真っ赤になります。 二人は指摘されたように、まだ身体を重ねたことはありませんでしたが、傍目にはそれはとても不自然に思われることでしょう。 「夫婦と名乗りながら女は処女。これは何か裏がある、と思うのは当然であろう。この島を訪れたのは何故だ?」 「恐れながら……僕たちが夫婦だと言うのは本当です。ただ……お察しの通り床を共にしたことはまだございません。それというのも、彼女は元々巫女でして、還俗(げんぞく)するにあたり、半年は契ることは出来ぬ定めなのです。僕たちが結婚して既に五ヶ月。後一月でその定めの期間も終ります。確かに不自然かもしれませんが、しかし、僕たちが夫婦であることは律法に照らして真実です」 ゼロスは主張し、新天地で新しい生活を始めるために群狼の島に来た、と話しました。 しかし、ソロモンはフィリアが乙女であることを知ると、彼女を奪いたいと考え、ゼロスを投獄してしまいました。その上でフィリアを自分の屋敷に閉じ込め、彼女にゼロスとの関係は夫婦ではなく兄妹であると認めろ、と迫りました。彼女が人妻でなければ、ソロモンが彼女を妻にすることが出来るからです。 しかし、フィリアは頑として断りました。 とうとうソロモンは、ゼロスの命を盾に彼女を脅迫しました。 「あのゼロスとやらがあくまでお前の夫だというのなら、偽りの夫婦を名乗り、邪(よこしま)な目的で入国したかどで処刑させることも出来るのだぞ」 これにフィリアは顔色を失いましたが、ちょうどそこに、召使が大慌てでやって来ました。ソロモンの飼っている羊のうち、最も良い子羊を生む雌たちと最も強い雄たちが、突然現われた狼の群れを恐れて、散り散りに逃げてしまった、というのです。 驚くやら腹を立てるやら、落ち着きをなくしたソロモンに、懇意にしている占い師が言いました。 「あなたが人妻をかどわかしたことに天が怒り、罰を下されようとしている。早くその女を夫の元に戻し、二人に償いをしなさい。さもないとあなた自身にさえ災いが振りかかる」 すっかり恐れおののいたソロモンは、ゼロスを釈放してフィリアも解放し、更に二人に償うために、自分の領地の片隅にある小屋に住むことを許しました。二人が再会した頃、ソロモンの羊たちは一頭の欠けることもなく戻って来たということです。 ゼロスは、同じソロモンの領地で暮らす羊飼いやぶどう畑の農奴の助けを借りて材木を集め、小屋をしっかりとしたものに作り変えました。 これは、新しい生活の場を居心地の良い者にするだけでなく、ゼロスの大工としての腕前を披露するためでした。おかげで、彼にはいろいろな仕事が舞い込んできました。これまで腕のいい大工が居なかったということで、近所の羊飼いたちの家やソロモンの狩猟小屋などは、あちこち手を加えなければならない状態だったのです。ゼロスはそれらの仕事をコツコツこなしながら、自分の家も少しずつ手を加えていました。 まず最初に作ったのがヴァルの揺りかごです。これまでの籠よりもずっと大きく、頑丈な木で作り、素朴ながら味わいのある浮き彫りも施しました。フィリアはたいそう喜びました。 続いて自分たちの寝台も作りましたが、これはとても簡素なものでした。 群狼の島での暮らしが始まって二週間、ゼロスは一日の大半を外の仕事に費やし、家に戻ると毎日少しずつ、テーブルや椅子、棚などの家具をこしらえました。 一通り家具が整ったところで、その日ゼロスは約束の仕事を手早く済ませ、家に戻ると寝室にこもって何かを作っているようでした。 「あなた?何をなさっているの?」 もう寝室に必要なものは揃っているのに、と、フィリアが尋ねると、ゼロスは、 「寝台を補強しているんですよ」 と言いました。見ると、始めは二つあった寝台が一つにくっついています。 「……どうして?」 「ええと……つまり、二人で一つの寝台に入ると、ちょっと重いかな、と考えまして。二つを一つにして、なお補強すれば、二人で上に乗っても大丈夫」 「………………」 ゼロスの言わんとすることを了解して、フィリアは顔から首まで朱に染めました。そんな彼女に、ゼロスは心配そうに言いました。 「だめですか……?その……竜の姿でないと夫婦の営みはできない……とか」 そんなこと、経験のないフィリアには答えられません。彼女は真っ赤になって、思わず手に持っていたまな板をゼロスに投げつけてしまいました。 飛んでくるまな板を受け止めようとした拍子に、使っていたノミがゼロスの左手に浅く刺さり、血が流れました。フィリアは驚いて夫に駆け寄り、治療の呪文を唱え、彼のキズは瞬くうちに癒され、傷跡もありません。 「純潔でなくなれば、こういう奇跡も起こせなくなるのでしょうか……」 ゼロスはポツリと言い、フィリアが夫の顔を見ると、寂しそうな表情が浮かんでいます。彼は妻を軽く胸に抱き締めました。 「あなたは多くの人間が羨むほどのものをいくつも持っている。美貌もそうだし、その魔法も……そんなあなたを望む僕は……身の程知らずなのでしょうか?」 フィリアはただかぶりを振るだけ。こうして夫に抱き締められると、嬉しさと同時に恥ずかしさと不安がこみ上げて、どうしていいか分からなくなります。しかし、互いに恋して夫婦となった以上、肌を触れ合うのが当然だということは分かっています。ゼロスの悩みとは裏腹に、彼女は自分のかりそめの姿に引け目を感じていました。果たして自分は夫を幸せに出来るのか――彼女はその不安を口にすることが出来ません。 ゼロスがフィリアに唇に優しく口づけします。彼女は身じろぎもせず、ただ彼の為すままにしていました。一度離れた唇が、今度は大胆に重ねあわされます。彼女はそれも受け入れました。 このまま、何が起こるのだろう、とフィリアが身を固くした時、隣の食事室からけたたましい叫び声が上がりました。ヴァルがおなかをすかせて夕食を催促しているのです。 ゼロスは苦笑してフィリアを放しました。 「僕はまだ仕事が残っています。ヴァルの面倒をみてあげて」 そしてまた、妻は赤ん坊と夫の食事の支度に、夫は寝台を頑丈にする作業に取り掛かりました。 日も暮れる頃、おなかいっぱいになった黒い竜の赤ん坊はすやすやと揺りかごで眠りました。入れ替わりにゼロスが食卓に着きます。この日の夕食はいつもより交わされる言葉数が少ないまま終りました。 そして夫婦は連れ立って寝室に入り、遅い初夜を迎えたのです。 この時を待っていた筈なのに、二人ともどこかためらいがちで、まるで儀式のように時が過ぎ、肌を密着させた後、そそくさと寝台の端と端に離れてしまいました。ゼロスは向こうを向いているフィリアの後ろ頭を見詰め、何か言葉をかけたいと思いましたが、彼女の雰囲気がそれを許しません。 結局、切ないため息をついて、彼はまどろみに落ちて行きました。 次に彼が目を覚ました時、フィリアの姿は部屋にありませんでした。ぱたぱたと忍ばせることもない足音が隣の部屋で響き、ゼロスは寝台から飛び出しました。何か嫌な予感がしたのです。 彼が隣の部屋に踏み込むと、ちょうどフィリアが家の戸を開けて外に出るところでした。 「どこへ……」 行くの、と言おうとしたものの、新妻が振り返りもせず外へ出てしまったのを見て、ゼロスは慌てて後を追いました。 外へ出ると、金色の髪を揺らしてフィリアが軽やかに駆けて行きます。まっすぐに。遠くに。 「フィリア!」 とうとうゼロスは叫びました。それでも彼女は振り返りません。彼は全速力で後を追いました。しかし、ゼロスが彼女との距離を半分ほどにまで縮めた時、突然、フィリアは寝間着を脱ぎ捨て始めたのです。 「フィリア?いったい何を!」 さらにゼロスは慌てました。こんな真夜中のこと、誰も回りに人がいないにも かかわらず、彼女の裸身を誰にも見せたくない、と思ったのです。が、唐突に、彼の足が止まりました。 硬直するゼロスの目の前で、フィリアの背中から黄金に輝く大きな翼が生えます。金色に波打つ髪はたてがみと化し、細いうなじが伸びて力強いカーブを描きます。闇にひときわ眩しい、美しくも猛々しい存在がその真の姿を現したのです。 黄金竜の姿に戻ったフィリアは、力強く翼をもたげ、次の瞬間夜空に舞い上がりました。そして一散に飛んで行きます。 「フィリア!フィリアーーー!」 ゼロスは暗闇にまたたく星に溶け込むように、どんどん小さくなっていく光を追いかけながら叫びました。 どうして?どうして? せっかく身も心も一つとなったと思ったのに!どうして!? 魔の力を使えば簡単に追いつけたかもしれません。しかしゼロスはやみくもに走り続け、何かにつまいて転んではまた起き上がって走り、疲れ果てるまでフィリアが飛び去った方角を目指しました。 しかし、とうとう足がもつれて倒れ、起きることも出来ない自分に気がつきます。彼はうつ伏せに突っ伏し、両の拳で地面を叩いて泣き叫びました。 突然、風を打つ音が頭上に響き、見上げるゼロスの目の前に、ゆっくりと黄金竜が降りて来ました。 「ゼロス、乗ってください」 「乗る?」 「ええ、これが竜の結婚の儀式なのです。あなたは私の夫。どうぞ私と一緒に飛んでください」 彼女が何を言っているのか理解しないまま、それでも戻って来た彼女と離れがたく、ゼロスは竜の背中の翼のすぐ上にまたがり、たてがみを両手でしっかりとつかみました。 再び、フィリアが飛び立ちます。 さすがはドラゴン・ロードと呼ばれる地上最強の生物の飛翔。すさまじい風圧と小さな人間をもてあそばんばかりの重力変化。ゼロスは必死にフィリアのたてがみにすがります。ほんのわずか、魔の力を発揮すれば、どんなに激しい動きも乗りこなせるでしょう。しかし、それをすればフィリアに自分の正体がバレてしまう。 彼女に正体を知られてはならない。そうなったら彼女は僕の元を去ってしまう。 両腕でしっかりと竜の首にしがみつき、ゼロスはフィリアが言った「結婚の儀式」の意味を考えました。 鳥や虫の中には、求愛の踊りを交わすものがある、という。これもその一つ? 竜たちは繁殖期になると、発情した雌が空を飛び、雄がそれを追いかけるという行動を繰り返します。その時の雌の飛翔は非常に速く、追いつき、捕まえるだけの力のある雄が選ばれることで、強い子孫を残せるのです。 フィリアの飛翔はまさにそれでした。彼女は本能的な衝動で竜本来の姿になり、夜空を思う存分飛び回りました。その間も、ゼロスが彼女の名を呼びながら追いかけてくるのを知っていました。 伴侶と共に空を飛びたい―― 彼女の種族としての性(さが)が、ゼロスを背に乗せての飛行に彼女を駆りたてたのです。 凄まじい速さで縦横無尽に空を駆るフィリアの背中で、ゼロスが半ば意識を失いかけた時、ようやく黄金竜は高度を下げ始めました。 地面に降りた途端、ゼロスは激しく戻し、失神してしまいました。 ゼロスが目覚めたのは夫婦のベッドの上でした。人間の姿で寝間着をまとったフィリアが、目を閉じ、呪文を唱えています。どうやら、精根尽き果てた彼の体力を回復させているようです。 「……フィリア」 ゼロスが自分でも驚くほどしっかりとした声で呼びかけると、彼女の目がパッと開きました。その瞳に、いつもの彼女とは違う輝きを見出し、ゼロスは彼女の身に何が起きているのか、直感しました。 結婚の儀式とは、人間の場合、対外的に夫婦と認められるための形式的な意味が大きいのですが、動物の場合、その後の生殖行動の前戯と言ってもいいのです。フィリアも、初めて感じる身体の欲求に戸惑いながらも、抑えることも隠すこともできず、瞳のうちに情念の炎を点していたのです。 人間の身で、彼女の欲求を満足させられるのか―― 不安を感じながらも、ゼロスは初めての時とは違って遠慮なく、むさぼるほどに妻の身体を求めました。フィリアも日頃のおとなしさをかなぐり捨て、積極的に夫の愛をせがみます。 とうとう彼女が至福を極め、忘我に投げ出されるまで、ゼロスはフィリアを愛しました。そして彼自身も、経験したことのない充足感に満たされ、眠りに就きました。 翌朝、二人をたたき起こしたのは、ヴァルの怒った鳴き声でした。気がつけばすでに日は高く上り、朝食の時間はとっくに過ぎています。 慌ててフィリアが台所に行き、ゼロスが揺りかごを覗くと、なんと、空腹に耐えかねたのか、ヴァルが揺りかごの木枠をかじって、いくつもの歯形を残していました。 「おやおや……」 つぶやいてその歯型をそっとなでたゼロスの指に、ヴァルが噛み付きます。 「いたたたたたたっ!」 夫の悲鳴を聞いて、台所から駆けつけたフィリアが、ヴァルの頭を持っていた包丁の背でこづきました。 「お父さんになんてことするんですかっ!」 ヴァルは揺りかごの中でひっくり返って泣き喚きます。しかし、待ちに待った鶏肉を差し出されると、すぐに泣き止み、おなかいっぱい食べてまた眠ってしまいました。 「フィリア、何もあんなに怒らなくても……。ヴァルはまだ赤ん坊なのだし」 「私たちを支えてくれているのはあなたのこの手です。お仕事ができなくなったらどうするんですか?さあ、キズを見せて」 ゼロスが素直に指を差し出すと、フィリアは両手で傷ついた箇所を覆い、呪文を唱えました。昨夜と同じように、彼の指には傷跡一つ残りません。 「……まだ魔法が使えるのですね……」 ぽつりと漏れた言葉に、フィリアは昨日の会話を思い出し、真っ赤になりました。そんな彼女の額にそっと口づけをして、ゼロスは仕事に出かけました。 ゼロスの指の傷は跡さえのこしませんでした。しかし、ヴァルが揺りかごを噛んだ歯形は、いつまでも残りました。ゼロスもフィリアも、それを削ったり、作り直す気が起きなかったのです。 それは夫婦にとって、さんざんだった――しかし紛れもなく幸福な夜の思い出でした。 後に大きくなったヴァルが、「このキズなあに?」と尋ねると、フィリアはただ苦笑し、ゼロスは「それは秘密だよ」としか答えません。そして二人で顔を見合わせ、いたずらっぽい微笑を交わすのです。 ゼロスとフィリアとヴァル――この奇妙な家族の短い幸せな日々が、平穏に過ぎて行きました―― |
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