No.010
「公」と「私」の線引き
2000.12.27
text by RB(あーるびー)

 

 

かわいそう。

私が嫌いな言葉。そして、20日の日韓戦をテレビ観戦していた私の耳に飛び込んできた言 葉である。

この言葉は、トルシエ監督が5人の選手交代枠を使い切り、三浦知良選手の出場の可能性が消えたことに対して発せられた。この試合に関しては、各人がそれぞれの意見をお持ちであろうと思う。しかし、テレビ解説者という立場の人間からこの言葉を聞いた時、その人物の仕事に対する考え方、そして彼に解説を依頼したテレビ局のスポーツ報道に対する姿勢を疑った。

「かわいそう」というこの言葉は、明らかに私情を含んだ表現である。私たち視聴者は、解説者に対して、プライベートな関係を背景にした特定選手に対する「思い入れ」を期待してチャンネルを合わせる訳ではない。かつて選手としてプレーした経験から、また、専門的な知識を有する立場から、いわば「プロの目」からその試合を分析してくれることを望んでいるのである。

元選手という立場柄や日々の取材を通して、現役選手との距離も近い解説者。そこに私情が生まれるのはいたしかたないことかもしれない。しかし、それはあくまでプライベートな範囲での付き合いの中に留めるべきである。テレビなどの公の場では、選手の友達ではなく、ジャーナリストとしての顔を見せるのがプロというものではないか。残念ながら、今世紀最後の日韓戦として行われたこの試合の放送に関しては、そのような姿勢は垣間見ることすらできなかった。

もし、テレビ局とそこに登場した解説者が、今回の放送に象徴されるようなスポーツ報道に対する考え方で意気投合したのであれば、私は今後、その局にチャンネルを合わせることはないであろう。

プロ化が進む選手たちを束ねる協会。その協会を監視するマスメディア。そして、そのマスメディアを評価する視聴者。企業スポーツの域を脱し、益々プロ化が進んでいくであろう今後の日本スポーツ界。選手のプロ化に対して、各競技団体の協会が旧態依然としたアマチュア精神であることの是非については、各メディアでも何度も取り上げられた。しかし、その協会を評価、監視するメディアもまた、私たち視聴者の目から見て真のプロとは言い難い。世間を動かす力さえ持つジャーナリストたち。過去、どんなに名選手として名を馳せたとしても、ジャーナリズムという世界に1歩足を踏み入れた瞬間から、その社会的立場を自らの頭で熟考し、その言動に反映させて欲しいものである。

何を見て、それをどう伝えるか。そこに私情を挟む余地はないはずである。

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