No.027
ジャズとサッカーと
2001.08.29
text by RB(あーるびー)

 

 

先日、柄にもなくJazz Barなどという洒落た所に行き、初めてジャズバンドの生演奏を鑑賞してきた。ジャズというものに対する知識などあるはずもなく、知識がなくとも、美しいものは美しいと素直に感じることができるのではないかという淡い期待と、何事も経験であるという、ある種割り切った気持ちを持って、その高い敷居を跨いだ。

かなり背伸びをしてしまったかなという雰囲気の中で、私の、ジャズというものに対するあまりの無知が故に、普段よく耳にするようなポップミュージックとのギャップに大いに戸惑い、やや肌寒いステージ上で繰り広げられた熱気溢れる演奏に対して、その戸惑いは最後まで消えることはなかった。

初めて耳にしたこの音楽に対しての私の率直な感想は、ドラム、ピアノ、ベース、サックスの各面々は、本当に一定の秩序を保って演奏をしているのだろうかというものだった。私の目には、各楽器を受け持つそれぞれが己の思うがままに勝手に演奏を楽しんでいるようにしか映らなかった。専門家やジャズ好きの人にはこれが1つの美しいハーモニーとして聴こえているのだろうなと思うと、不思議で仕方がなかったし、特に、各ソロパートの部分ともなると、果たして本当にこれは、楽譜というものに代表されるある種の規則に則って演奏されているのであろうかという疑念すら抱いてしまう程であった。

と、ここまではジャズ鑑賞の感想。

で、ここからがサッカーの話。

近年のサッカーは、あまりにもシステムというものが強調され過ぎていて、個々の選手の特徴がそのシステムの中に埋没してしまっているということがよく言われる。そのため、往年のサッカーファンからは、「昔に比べてスペクタクルやファンタジーといったものが失われてしまった」、「〜年の〜代表チームが一番美しかったし、世界最強だった」というような声も聞こえてくる。

私は、自分の体験や記憶にはない’86年W杯メキシコ大会でのマラドーナの活躍や、ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾの「黄金のカルテット」を擁した’82年のブラジル代表チームに大した興味は惹かれない(理由は以前のコラムを参照)が、今回、ジャズ鑑賞という経験をし、一昔前の、システムのみが独り歩きしない、個人の創造力がチームの根幹となっていた時代のサッカーというものは、ジャズという音楽とひょっとしたら重なるものがあるのではないかなと勝手に想像してしまう。

まず、“楽譜”というシステムに縛られないジャズ演奏者(本当は、楽譜というものがあるのかもしれないが。)と、4-4-2などの型にはまらずに、ハーフウェイライン手前からゴールネットを揺らすまで独りドリブルをしてしまうマラドーナは、ジャズと一昔前のサッカーを同時に分かる人には重なって見えるのではないのだろうか。

また、1時間強の演奏の中で時折訪れる、各々が自分を思う存分アピールするジャズのソロパート部分を見て、味方からのスルーパスでDFラインの裏に抜け出し、相手GKを眼前にした時に、自らの技術をここぞとばかりに披露してやるとでも言いたげに、自らの体とは反対方向にボールをスルーして、GKを挟んで自らはボールとは反対側をすり抜けて無人のゴールを手に入れてしまう王様ペレが脳裏にオーバーラップしてくる人がいるのかもしれない。

私は、ジャズという音楽が生まれてからどれくらい時が経ったのかは知らないが、21世紀になった現在にまでそれが廃れずに残ったということを考えると、一見無秩序にも見えるものの中に、ある種の秩序のようなものを見て取ることができた時、人間はそれを本当に美しいと感じることができるのではないのだろうかとも思えてしまう。

昔のサッカーには、そんな無秩序の中にある秩序のようなものが存在していたのであろうか。存在していたからこそ、往年のファンは、’00年ヨーロッパ選手権準決勝対イタリア戦のオランダ代表チームに象徴される、システムという箱の中で選手が機械的にしか動かない現在のサッカーを見て、憂いの言葉を発するのだろうか。

これは、ジャズも昔のサッカーも知らない私にとっては解くことのできない問いであるし、上述のジャズとサッカーの対比は、あくまでも私の想像であることをここに断っておきたいと思う。

だんだんと自分でも言っていることが分からなくなりそうなので、この辺で終わりにするか…。

と、その前に。ジャズとファンタジーのあった時代のサッカーの両方を知っている方々には、是非この問いに対する答えを教えていただけたらと思う。

Copyright © 2001-2003 RB. All rights reserved.