モーツァルト と マリー・アントワネット    


   〜 悲劇のヒロインとの関係は 〜  ・・・ ハプスブルグ家そしてルイ王朝 ・・・   


  マリー・アントワネット写真−左/マウスを置くと画像が変わりますといえば空前の大ヒットを飛ばし,宝塚歌劇においても超ロングランとなった少女漫画「ベルばら(ベルサイユのばら)」〜池田理代子著〜の悲劇のヒロインであることは,皆さんよくご存知のことでしょう。長編ものでアントワネットの恋とフランス革命における悲劇とが描かれています。「彼女」はオーストリア女帝「マリア・テレジア」の娘として,そして皇帝となる兄「ヨーゼフU世」の妹として1755年ウィーンで生まれます。モーツァルトより1歳年上でした。さて,彼女を世に出したハプスブルグ家出身の有名な女性を3人挙げるとすれば,1人めは「マリー・アントワネット」2人めは「マリア・テレジア」3人めは「エリザベート」(写真-右)であろう。エリザベートはテレジア時代からみれば100年程後の登場となるが「シシー」の名で親しまれ絶世の美女と誉高い。実質的にオーストリア最後の皇帝となったフランツ・ヨーゼフの王妃となるのである。ここで「マリー・アントワネット」がなぜ1人めなのか・・・・それは,彼女が数奇な運命の悪戯に翻弄され,波乱万丈の短い(38歳没)人生を歩んだことに対する私の同情でもあろうか。

 〜ハプスブルグ家におけるアントワネット〜
 マリー・アントワネットを輩出したハプスブルグ家はヨーロッパの広大な領地を数百年にもわたって統治してきた由緒ある家系である。この王朝は13世紀から今世紀の初頭まで約700年間,ヨーロッパの政局・文化の進展に関わっている。その影響範囲はオーストリアばかりでなく,ポルトガルからポーランドまで,ドイツ,イタリアそしてバルカン半島までとまさにヨーロッパ全域に及んでいる。その広大な領地を手に入れていった政策の第一は結婚政略にある。15世紀の後半皇帝マクシミリアン時代に,ハプスブルグ家に対するある諺がが生まれる。それは「戦(いくさ)は他国に任せておけ,幸いなるオーストリアよ汝は結婚せよ」というものだ。裏を返せば戦いにはあまり強くなかったのかもしれない。それにしても幸運に次ぐ幸運が領地をヨーロッパ各地へと広げていったのは事実だ。
 そんな歴史の中で皇女マリー・アントワネットは1770年敵対する国、フランスの「ルイ16世」(写真)に15歳にして輿入れするのである・・・政略結婚であった。この時から華麗なる「ベルサイユ宮殿」での人生が始まる,そして悲劇が・・・・・。母マリア・テレジアから王妃がなんたるかの充分な教育も受ける時間もないまま,世の中の常識も知ることもなく「ベルサイユ宮殿」の華やかな貴族や王侯との色に染まって行く。やがてフランス国民の「血税」を湯水のように使う浪費家の王妃として名を馳せるようになる。無知ゆえに民衆の反感を買いフランス革命への引き金を自らの手で引いてゆくのである。これらのことを象徴する有名なエピソードが残っている,それは国民がその日のパンにも事欠いていると聞いた彼女は「パンがないならお菓子を食べればいいでしょうに」と云ったというものである。おそらくこれは後年に創られた言葉であろうと思われるが・・・ 美女であるが故の苦悩・・・美しい物への愛着,夫君「ルイ16世」は政治のことは無関心で,趣味は「狩猟」と宮殿内の工房で「錠前」を作ることであった。また肉体的にも欠陥があったらしく,数年間は夫の愛も充分には得られなかったようである。「ベルサイユのばら」では,スエーデンの貴公子「フェルゼン」と恋に落ちるのであるが・・・。ついに貴族達にも裏切られチュイルリー宮殿へ幽閉され,フランス革命の4年後断頭台の露と消える(1793)のである,38歳の若さであった。モーツァルトも35歳の若さで亡くなっている,いつの世も「スター」は早世するものなのであろうか。

 〜 モーツァルトとマリーアントワネットの出会いは? 〜
 モーツァルトは一度だけマリーアントワネットと会っている。それは6歳の時,一家でウィーンのシェーンブルン宮殿に招かれ御前演奏を行った時だ。「鏡の間」で演奏したとき,おそらくアントワネットもそこにいたであろう。そして,皇女たちと宮殿内で遊んだに違いない,そのとき床に転んだモーツァルトを抱き起こしたのがマリー・アントワネットだ。モーツァルトは彼女に向かって「君はやさしい人ですね,大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」とプロポーズしたエピソードはあまりにも有名だ。このシーンは少女漫画「ベルサイユのばら」にも描かれている。ただ残念なのはモーツァルト登場のシーンが,2冊に分かれた分厚い本の冒頭部の1ページのそれも1コマしか描かれていないことだ。作者はモーツァルトにあまり興味がなかったのだろうか,それとも音楽に興味がなかったのでしょうか。モーツァルトファンとしてはいささか残念である。
 実際に会ったのは一度だけであるが,2人の接点は間接的ではあるがまだある。モーツァルトは実はベルサイユ宮殿にも行った事があるのだ。それは,3年にも及ぶ一家の長旅の途中パリに立ち寄った時のことである,時は1764年,シェーンブルンでアントワネットに合って2年後のことだ。この年1月1日にルイ15世とマリー・レクザンスカに招待され夜食会に出席しているのだ。アントワネットがこの「ベルサイユ宮殿」にやって来るのはその6年後の1770年である。
 もう一つは「フィガロの結婚」に関することだ。マリー・アントワネットの住むフランスでは,ボー・マルシェの書いた戯曲「フィガロの結婚」が1784年に初演されブームを呼んでいた。貴族を風刺批判したこの芝居は当初ルイ16世もこの作品は《嫌悪すべき》であると非難していた。しかし上流階級からも支持を得各劇場で上演されたのである。また、アントワネットはベルサイユ宮殿内に作らせた劇場でこの芝居に自らも出演し、楽しんでいたようである。「ベルばら」では、やはりボー・マルシェの「セビリアの理髪師」にタイトルを変えて芝居を行うシーンが描かれている。オーストリアに住む兄のヨーゼフU世もフランスの妹からこの芝居についての魅力を聞かされていたはずである。ヨーゼフはこの芝居を見てみたいと思っていたに違いない。しかし世を乱すこの種の芝居を皇帝の立場上許すわけには行かなかった。一方この芝居の話をシカネーダーから聞いていたモーツァルトは是非「オペラ」として上演したいと考えるようになった。そこで,ある男爵の仲立により台本作者のダ・ポンツェを紹介された。ダ・ポンツェはスコアが出来上がった後,皇帝へこの戯曲を喜劇仕立てのオペラに変え,不適切な部分を削除した「フィガロの結婚」について述べウィーンでの演奏を願い出た。そのことが皇帝の信頼を得る結果となり上演(1786年)へとつながっていくのである。皇帝はこの芝居(オペラ)を見るための格好の口実(政治的,戦術的根拠)を得たわけで,モーツァルトにとっても「彼の3大オペラ」の一番めの上演が叶ったのである


〜参考文献〜 
江村洋 :ハプスブルク家,1990,講談社(東京)
中丸明 :ハプスブルク1千年,2001,新潮社(東京)
フリッツ・ヘンネンベルク(茂木一衛 訳) :大作曲家 モーツァルト,1993,音楽之友社(東京)
海老澤敏 :モーツァルト 改定,1961,音楽之友社(東京)
海老澤敏 :新モーツァルト考,1987,日本放送協会出版(東京)