モーツァルト と アロイジア    


   〜 モーツァルトが恋した歌姫そして妻の姉 〜 



 アロイジアを語るには,モーツァルト21歳のマンハイム〜パリ旅行から始めなければならない。
 1777.9.23モーツァルトは母とともに職を求めて,ザルツブルクを出発した。翌日にはミュンヘンに到着,宮廷音楽監督などに面会したがここでの宮廷音楽家としての就職は欠員がないことから困難であった。次は父レオポルドの生まれたアウクスブルクに向かう,11日到着したが,ここには宮廷はない。次に向かったのはマンハイムだ28日到着。当時ここにはプファルツ選帝侯カール・テーオドールの宮廷があった。この頃マンハイムはドイツ文化の中心地の一つに数えられており,特に宮廷オーケストラはヨーロッパ随一と言っても過言ではないほどであった。当然モーツァルトは計り知れない音楽的な刺激をここで得たと思われる。しかし,ここでは彼の人生とって重要な女性との出会いが待っていたのだ,その女性とは生涯彼の脳裏から離れなかったと思われる「アロイジア・ウェーバー」である。この女性は青年モーツァルトにとって本格的な初恋といえるものであったに違いない。モーツァルトはオラーニエン公妃の住むキルヒハイムに行く時に写譜屋のフリードリーン・ウェーバーを同行しているが,彼女はその娘にあたる。この人物の弟は,有名なマリア・ウェーバーの父にあたる事から,この家系には音楽の才能があったようである。フリードリーンには4人の娘がいる,長女がヨゼーファ,二女がアロイジア,三女が後にモーツァルトの妻となるコンスタンツェ,四女がゾフィーであるが,モーツァルトは特に歌がうまかったアロイジアに心を奪われたのだ。これ以降彼女のために多くの歌曲を書いている。
 モーツァルトはもっと長い間この地に留まりたかったに違いない・・・彼女への思いはますます深まるばかりであった。しかし,旅の目的であるパリに行かなくてはならない,彼女への切々たる思いをやっとの思いで断ち切り,母とともにパリへ向かったのであった。パリでは多くの作品を残したものの,彼を待ち構えていたのは悲しい母の死であった。このような中でもモーツァルトはアロイジアのための曲を書いているのだ。結局パリでも受け入れられなかったモーツァルトはザルツブルクに帰郷するしかなかったのである。その帰途父レオポルドにあれほど行くなと云われていたにもかかわらず,アロイジアのいるマンハイムに立ち寄るのである。しかし既にウェーバー一家はそこにはなくミュンヘンに居を移していたのだ。モーツァルトは更に彼女を追いかけるようにミュンヘンに行き着く,そこでウェーバー家に寄宿することになる。しかしここでまた新たな悲しみに遭遇する,それはアロイジアが彼の求愛を拒否したことである。パリにいる時も彼女のことを思い彼女のために作曲までしているのである。彼の心境いかばかりかである。悲しみに打ちひしがれながらザルツブルクへと帰郷したのであった。1779年1月15日であった。
 モーツァルトは,ウィーン滞在中のコロレードに呼びつけられ1780年12月ウィーンにやって来る。これ以後ウィーンで音楽活動を開始するのであるが,アロイジアはといえばおよそこの2ヶ月まえ,宮廷付きの俳優ヨーゼフ・ランゲの第二の妻として結婚してしまっていたのである。ウェーバー一家はアロイジアがウィーンの劇場と契約した為,ミュンヘンから家族で引っ越してきていた。そのウェーバー家にまたしてもモーツァルトは,1781年5月から寄宿しているのである。振られた女性の家にである・・・モーツァルトはやはり人間として未成熟なところが見受けられる。そして,三女のコンスタンツンツェと結婚へと発展していくのである。

 アロイジアの夫ランゲはアマチュア画家でもあったため,1789年にはあの有名な未完成の「ピアノに向かうモーツァルト(図-右)」を描き残している。亡くなる2年前の肖像画となるが,少し不思議に思うのは,いくら義理の兄にあたるとはいえ,また過去のこととはいえ,恋焦がれながらも捨てられた人の夫に,快く肖像画を描かせるだろうか。モーツァルトの精神状態がよくわからない。確かにこの絵はピアノに置かれた譜面を見ているようにかかれてはいるが,少し遠くを見つめうつろな目をしているようにも見えなくない。この譜面の先に永遠の恋人「アロイジア」を見つめているのだろうか。

〜 参考文献 〜 

1)海老澤敏 :モーツァルト 改定,1961,音楽之友社(東京)
2)海老澤敏 :新モーツァルト考,1987,日本放送協会出版(東京)