モーツァルト と コロレード大司教    


   〜 モーツァルトが最も憎んだ男  〜   ・・・コロレードこそモーツァルトの生みの親 ? ・・・   



  大司教とは・・・ザルツブルクとウィーンの関係


 コロレード大司教(ヒエロニムス・ヨーゼフ・フランツ・デ・パオラ・コロレード伯爵,写真)は、モーツァルトの人生に大きく影響をあたえた1人といえましょう。モーツァルトとの関係を理解する為には「大司教」制や都市「ザルツブルグとウィーン」の関係,そして「神聖ローマ帝国」について理解する必要があります。映画「アマデウス」を見ていてもこれらのことがよくわからないため「何故?」という疑問を抱きながら見た方も多いのではないでしょうか・・・私も初めてこの映画を見た時は実はその1人でした。なぜコロレードにあれほどまで縛られなくてはならないのか、なぜ自由にウィーンに移り住むことが許されなかったのか・・・。

 まず,「神聖ローマ帝国」ですがこれは古代のローマ帝国や,イタリアの首都ローマとは直接関係ない。広い意味でのドイツと同義(ドイツ語を話す地域)と思ってよく,今日のドイツよりはるかに広範な領域,オランダ,ベルギー,フランス東部,イタリア北部,オーストリア,チェコなどかなりの地域が含まれていた。なぜ「神聖ローマ帝国」と呼ばれるかといえばゲルマン民族の大移動の4〜5世紀頃までドイツを支配していたのがローマ帝国であったことに由来する。ローマ帝国の支配は早々と終わったが,帝国の基礎をなすキリスト教の方はドイツにも定着したため「神聖」とは「キリスト教信仰」する国とでも言い換えた方がわかりやすい。この「神聖ローマ帝国」を統治する者がローマ皇帝であるが,これはローマ教皇によって指名されるのではなく,なんと選挙で選ばれるのである。選ばれた者はイタリアへ赴き,ローマ教皇(法王)から帝冠を授与されて始めて皇帝と呼ばれるのである。ではこの選挙は誰に投票権があるかといえば,3人の聖職者と4人の世俗君主の7人である。聖職者はマインツ,ケルン,トリーアの大司教,君主はボヘミア王,ブランデンブルク公,ザクセン公,プァルツ宮中伯の面々である。選挙といえば今も昔も金が付き物でやはりこの時代も「ワイロ」が横行していたようで案外いいかげんなものである。「神聖ローマ帝国」は950年代に既に存在したが,皇帝の座がハプスブルグ家に移るのは1273年ルドルフ一世になってからである。ルドルフが本拠地をスイスの片田舎からオーストリア(東の国)移し,以後640年にわたってハプスブルク帝国が君臨し比類なき繁栄を謳歌するのである。しかし,ナポレオンの出現によって1805年「神聖ローマ帝国」は終焉を迎えた。モーツァルト時代の神聖ローマ帝国皇帝はといえば,女帝マリアテレジアの夫フランツ帝であったが,亡くなると同時に息子ヨーゼフ二世(モーツァルトの真の保護者)が皇帝に即位している。

 これらヨーロッパの歴史の流れの中での二つの都市を見てみよう。 ザルツブルクは古代ケルト人によって塩の町として栄え,交易の要衝でもあった。この町の大きな特徴はローマ教皇によって任命された大司教が統治し,大司教の宮廷があるカトリックの宗教的な雰囲気の町である点だ。このようなことからローマと密接な関係を持ち,ドイツのローマといわれるほどイタリア的であり,カトリック的であった。モーツァルトの時代は「ザルツブルク帝国領主大司教領」と呼ばれ小さいながら独立した一種の教会国家であり,オーストリア帝国と対等の立場にあったといってよい。今日このような宗教国家は,ローマにあるバチカン公国以外には存在しない。現在ではご存知のようにオーストリアの西に位置する美しい都市であり毎年多くの観光客が訪れている。この頃ウィーンはといえば「神聖ローマ帝国」の皇帝の住む帝都であり,オーストリアの首都でもあった。また,モーツァルトの時代のウィーンは,パリ,ロンドンに次ぐ大都会でもあった。モーツァルトや父のレオポルドにとってザルツブルクの大司教は領邦の君主であり雇い主でもあるため,自由に他国や他の都市に演奏や旅行に出かけることも出来なかったのである。このような時代背景の中,モーツァルトはフリーな音楽家としてウィーンへと移り住む事となります。それは容易なことではなく,大司教コロレードとの全面対決に勝利?しなければならないことを意味していました。

 コロレードがザルツブルクの大司教に就任したのが1772年3月,モーツァルトが16歳になったばかりの時だ。ウィーンに移り住むのが25歳だからおよそ9年間2人は対峙したことになる。なぜそのような関係になってしまったのだろうか。もっとも就任した当初はモーツァルトも「シピオーネの夢」などをコロレードのために書いたりし良い関係を築こうとしていたようだ,そのためその年の8月には無給だったコンツェルトマイスターから年棒150グルテンのを支給される正式な宮廷楽員となっている。しかし親子は10月にはウィーンへ3度目のイタリア旅行を,そしてウィーン旅行等などへ出かけている,その後も旅は続くのであった。もちろんこれらの旅はモーツァルトのよりよい職探しのために行われたものには相違なかったが,コロレードは前任者のシュラッテンバッハ伯爵(写真-右)ほどこの親子の旅行に関して寛容ではなかった。ヨーロッパ中を旅したモーツァルトにとってザルツブルクは小都市に過ぎず,この田舎宮廷音楽家で終わることはプライドが許さなかったのであろう。彼が生み出すものはザルツブルクでも受け入れられ評価は高いものであったため,このままここで音楽家としてやっていくとはもちろん可能であっただろう,しかし報酬はあまりにも少なく宮使いの身に甘んじることは断じて出来なかったのだ。また,モーツァルトはザルツブルクの同僚達の音楽的道徳的な質を厳しく批判しており,「・・・粗くて,やくざ風で,だらしない宮廷楽団」とまでこき下ろしている。コロレードはといえば芸術面ではイタリアを支持しており,モーツァルトとの音楽上の異なるところはすべて欠点とし彼の音楽の多くの点について非難していたようだ。このようなお互いの感情から互いを憎むようになっていったのは自然の成り行きであろう。コロレードはモーツァルトのことを「横着者」,「低脳」,「ごろつき」,「小僧」,「自堕落な奴」と呼び,モーツァルトはコロレードを「怪物」,「大無作法者」,「専制君主」と呼んでいるのである,どっちもどっちといったところであろうか。

 ついに決別すべき時はやってきた,それはモーツァルトの終(つい)の棲家となるウィーンの地での出来事である,1781年であった。この時モーツァルトはミュンヘンにいて,バイエルン選帝侯のカール・テオドールから謝肉祭シーズンのオペラ《正歌劇・イドメネオ》を作曲を依頼され上演する為にきていたのだ。謝肉祭でのモーツァルトは皆から大事にされたので居心地が良かったのであろう,なかなかザルツブルクに帰ろうとはしなかった。そうこうしている間に父親の病気を見舞う為部下を従えてウィーンに滞在中のコロレードから呼び出し命令がきたのである。長期の帝都滞在には名ピアニストであるモーツァルトを手元においておきたかったに違いない。コロレードはモーツァルトを「ドイツ館(ドイチェハウス)」に同宿させたが,扱いは当然のことながら音楽家といえども他の召使と同様なものであった。また,命令によりたびたび演奏をしたり,作曲をしてもろくな報酬は支払われない,なにより,自らコンサートを開こうとすると邪魔をし演奏をさせないのである。モーツァルトの憎悪は増すばかりだ,コロレードとの激しいやり取りのきっかけは,ザルツブルクへの帰郷命令であった。モーツァルトにとって,ここまで憎むべき大司教の下で働くことはもう我慢出来ない,それに小さな町のいやな音楽の同僚達とも一緒にはいられない・・・・。お互いの激しい口論の末「お前にはもう用はない」・・・「私だってあなたにもう用はありません」・・・「それなら出てゆけ」・・・事態は決定的なものとなりました。それでも大司教から仲介をまかされたアルコ伯爵はザルツブルクの職につくよう促すが,モーツァルトの態度に腹をたて,彼を戸口に追いたて「足蹴を食らわせる」という有名なエピソードへと発展する。これ以後モーツァルトは完全にザルツブルクからの決別を果たすこととなるのである。
 この事件以来モーツァルトはウィーンに住むこととなるのであるが,これはモーツァルトとしても確固たる目標があってのことではないように思われる。つまり,何度も旅に出て宮廷音楽家としての「就職口」を探し続けたが望みが叶わなかったため仕方なくウィーンに残ることになったのである。もし,ミュンヘンで話がまとまればミュンヘンで作曲活動に専念したかもしれない。他の都市で職が決まっていればそちらで仕事をしたであろう。しかし,250年後の我々にとって「モーツァルト」と「ウィーン」は切っても切れない関係であり,それが必然的なものであると思いたいし,きっとそうであるに違いないのだ。

 このような事から,もしコロレードが話の良くわかる人物で,モーツァルト親子の旅にも寛容で,音楽的にもモーツァルトをよく理解する良き支援者であったとしたら・・・・・・今日のモーツァルトはなかったかもしれない。・・・・・このように考えてみるとコロレードがいなければ,今のモーツァルトは存在しないことになり,皮肉なことに裏を返せば「コロレードが今日のモーツァルトの生みの親 」と云えなくもないのである。


 〜参考文献〜 

1)江村洋 :ハプスブルク家,1990,講談社(東京)
2)ヨハンナ・セニグル(セルナー啓子 訳):ザルツブルクのモーツァルト 足跡と生涯  ガイドブック,    1996,国際モーツァルテウム財団(ザルツブルク)
3)田辺秀樹:モーツァルト,1984,新潮社(東京)
4)フリッツ・ヘンネンベルク(茂木一衛 訳) :大作曲家 モーツァルト,1993,音楽之友社(東京)
5)海老澤敏 :モーツァルト 改定,1961,音楽之友社(東京)
6)海老澤敏 :新モーツァルト考,1987,日本放送協会出版(東京)
7)ミシェル・パルティ(高野優 訳,海老澤敏 監修):モーツァルト,1991,創元社(大阪)