モーツァルト と コンスタンツェ         


   〜 本当に悪妻だったのだろうか 〜 


 

 大作曲家モーツァルトの妻コンスタンツェ(図-左)は「世界三大悪妻」の1人に挙げられているのをご存知だろうか。では他の二人は誰かというと、哲学者ソクラテスの妻クサンティップと文豪トルストイの妻ソフィア・アンドレーエヴナである。いずれも歴史に名を残した人物の妻達である。これら有名人の妻達にはなぜか悪妻が多いようである。天才であるがゆえに凡庸な女性では飽き足らず“やや難しい”女性を選んでしまう運命なのであろうか。モーツァルトを愛する者たちにとって、その妻を悪く書く事はためらわれ、良い人物として解釈したいものである、しかしそれでは本当のモーツァルトの姿は見えてこない。後世の人々から“悪妻のレッテル”を貼られてしまうには、どんな訳、どんな事実があったのであろうか。
 
   コンスタンツェとの結婚
 コンスタンツェ
はモーツァルトが恋焦がれたアロイジアの妹だ。二人の最初の出会いはモーツァルト21歳、コンスタンツェは6歳下だから15歳の時で場所はマンハイムである。もちろんこの時モーツァルトは姉のアロイジアに興味を持っていたのであり、コンスタンツェは単にその妹として見ていたに過ぎないのである。それが何故妻にするまで”発展”したのか・・・・・。
 モーツァルトがザルツブルクと決別しウィーンで暮らし始めたのが1781年5月、結婚したのはその翌年の8月で26歳の時である、かなりのスピード結婚と云えなくもない。そのいきさつはこうだ、まずウィーンでフリーの音楽家として活動し始めるための下宿として選んだのが、アロイジアの母ツェツェリーア・ウェーバーの経営する「神の目荘」であった。この一家は主人である写譜屋のフリードリーン・ウェーバーが2年前ミュンヘンで亡くなったため、既に結婚しウィーンで暮らしていた長女の住むウィーンで下宿屋を開き、母親と娘3人で暮らしていたのである。なぜここを選んだのだろうか、それはマンハイムでこの一家とは顔なじみになっていたこともあろうが、もっと大きな理由は恋焦がれていたアロイジアとのつながりをウィーンでも切りたくなかったからであろう、この考えはおそらく正しいと思われる。また、ツェツェリーアにとっても有能な音楽家であるモーツァルトが3人の娘の誰かと結婚してくれれば将来は保障される・・・・・と考えたに違いないのだ。その証拠にモーツァルトとコンスタンツェの仲が進んだ時、結婚の契約書まで書かせているのである。同じ屋根の下で毎日顔を突き合わせていれば男と女の関係はどう展開するのかは神の目荘の「神」も予測出来無かったのだ。ザルツブルクの父レオポルドに結婚の許しを請う手紙を何度も書くが返事はいくら待っても返ってこない、遂にたまりかねたモーツァルトは父の許しのないまま1782年8月4日シュテファン大聖堂で結婚式を挙げることになる、彼の親族は誰1人として出席しないまま。父の許しが届いたのは皮肉にもその翌日だった。
 このように二人は1年半の短い付き合いで結婚したことになる。モーツァルトはウィーンで仕事を始めてまだ間もなく26歳、コンスタンツェは19歳の若さである、お互い結婚を急ぐ必要があったのだろうか。それには色々事情があったようである・・・それより二人は本当に愛し合って結婚したのだろうか気になるところである。モーツァルトは父に書いた手紙(1781年12月15日付)の中でコンスタンツェのことをこのように述べている・・・「・・・ぼくの最愛のコンスタンツェは醜くはありませんが、美人とはとても言えません。機知はありませんが健全な常識を持っていますから、妻として母としての勤めは十分に果たすことが出来ます。決して贅沢好きではありません。・・・」。この文章はかなりコンスタンツェをかばって書いたのだろう・・・このような手紙を書くことによって父にこの結婚の許しを得ようとしたのである。そして何より気になることは、この手紙を書きながら姉のアロイジアのことが頭の中にあったのではないかということだ。美貌の持ち主で歌の才能もあるアロイジアと比較すれば、モーツァルト自身が言っているようにあまり美人とはいえないし、歌の才能もあまりなかったようである。当時人気作曲家であったモーツァルトには、女流歌手や上流社会のピアノの子弟など美しい女性にめぐり合うチャンスはいくらでもあってはずである・・・・・しかし、コンスタンツェを選んだのである・・・それはなぜ。

  悪妻と呼ばれた「理由(わけ)」
 映画「アマデウス」で父レオポルドがウィーンの息子の家にやって来た時、コンスタンツェはベッドでまだ寝ていて家の中で散乱しているワインの空き瓶に躓くシーンがあるが、ここに描かれているようにコンスタンツェは、家事などはあまりしないだらしのない女性として描かれている。もっとも事実はメイドを雇っていた為やる必要もなかったようでであるが、家事にあまり興味がなかったのも事実であろう。この時レオポルドが娘のナンネルに送った手紙の中には、コンスタンツェの妹ゾフィーが食事を付き合ってくれたことや、姉のアロイジアが喜んで歌を歌ってくれたことなどが記されているが、コンスタンツェのことは何も触れられていないのだ、お互い嫌っていたようである。また、コンスタンツェは遊び好きでもあったらしく、パーティーではダンスを朝まで踊り乱痴気騒ぎを起こしたりしている。カジノも好きだったようだ、モーツァルトがバーデンに湯治に出かけた妻当ての手紙にもあるように「でも、お願いだからカジノには行かないでほしい」などの記録が残っている。 
 子育てや子どもの教育についても良い記録は残っていない。長生した二人の子どもは小さい頃から教育施設に入れたり、プラハのニーメチェクに預けられている。結局この二人はあまり大成することも無く、結婚することもなかった為、天才の血筋は完全に途絶えてしまったのだ。
 モーツァルトの死についても全く良い記録が無い。まず、葬儀はもっとも下等な第3等で行い墓穴も共同墓穴という状況だ。しかも、葬儀がシュテファン大聖堂で執り行われている時彼女はこの場にいなかったのである。理由は取り乱してしまう為知人の家にいたということだが・・・。また、墓碑も建てていないのである、このため今もモーツァルトの埋葬場所は判っていないのだ。聖マルクス墓地のどこかであることは間違いないのだが。そして、亡くなってから17年もの間墓参りに一度も行っていないのである、たったの一度も。17年目にしてようやく行った時も第三者に諭されてしぶしぶ行ったようである。
 この他にもコンスタンツェを悪く書いてある書籍は多いのである。

  良 妻 論
 ニッセン、ニーメチェクによる「モーツァルト伝」やノヴェロ(イギリス音楽出版)夫妻の「モーツァルト巡礼」などによると良妻論の材料として色々なことが書かれている。
 ・作曲する傍らでおとぎ話をしてやった。
 ・僕ほど奥さん運のよい男はいない。
 ・夫をちっちゃなだんな様と呼んでいた。
 ・プラター公園の散歩によく付き合った。
 ・モーツァルトが死んだ時その熱病を自らに病気をうつし死のうとベットに身を投げ出した。
   など等が記載されている。
 これらは後世の人々がコンスタンツェの人物像を知る上で大きな手がかりとなることは事実であるが、この程度のことで”良妻論”を展開するには批判もあるようである。・・・・これらはコンスタンツェ自身が、伝記を書く夫などに対し語ったことである為、都合の良いことを並べた可能性があるからだ。また、自分にとって都合の悪い多くの手紙を廃棄したと考えられており、これらの良妻論の証拠を鵜呑みに出来ないという意見もある。手紙を廃棄したこと自体大きな罪であるとしている。

  コンスタンツェと子供達
 モーツァルトとコンスタンツェが結婚したのは1782年8月3日、モーツァルトが亡くなったのは1791年12月5日だから2人の結婚生活は9年9ヶ月で終止符を打ったことになる。わずか10年足らずで、しかも29歳の若さで未亡人となったのである。その間に6人の子供を設けている(下表)。オーストリア女帝マリアテレジアは20年の間に16人もの子を設けている・・・これも有名な話である。

  コンスタンツェの生んだ子供達
名 前 生年 〜 没年 没年齢 生んだ年齢(歳)
1 長男 ライムレント・レオポルド 1783.6.17 〜 8.19 2ヶ月 20
2 次男 カール・トーマス 1784.9.21 〜 1958.10.31 74歳 21
3 三男 ヨハン・トーマス 1786.10.18 〜 11.15 1ヶ月 23
4 長女 テレージア 1787.12.27 〜 1788.6.29 6ヶ月 24
5 次女 アンナ 1789.11.16 すぐ没 26
6 四男 フランツ・クサーバ 1791.7.26 〜 1844.7.29
53歳 29 (12月モーツァルト死去未亡人となる)
カール と フランツ

カールは小さい頃より教育施設に預けられ、モーツァルト没後プラハのニーメチェクに預けられた。その後ウィーンに戻ったが、結局独身のままミラノの役所で簿記係として生涯を終えている。フランツは4歳の時からやはりニーメチェクに預けられ、14歳でピアニストとしてウィーンでデビューしたが大成することは無かった。兄トーマス同様独身で生涯を終えてしまったため、天才モーツァルトの血は途絶えてしまった。

 9年9ヶ月の間に6人もの子を生むのはさぞかし大変であったろう。この6人の内長く生きたのは次男カールと四男フランツの二人だけである。この時代生まれた子供の多くは早く亡くなる為、これもその当時では普通だったのかもしれないが、1〜2年置きに生んだことになり結婚生活の半分以上はお腹が大きかった事になる。身体のあまり丈夫でない女性であれば尚のこと大変であったに違いない。モーツァルトの手紙にあるように「彼女の美しいところは(略)すらりとした身体付きです。」とあることからかコンスタンツェはかなり細かったのではないかと考えられ、相当の肉体的、精神的な負担があったに違いない。バーデンによく湯治に出かけたのはこの事が原因であろう。

  わたしの弁護
 確かにコンスタンツェを悪く書いた書物が多いのは事実である。モーツァルトファンとしてその妻を弁護しようにも悪い材料が多すぎて、極めて条件が悪い。しかし、多くの書籍を調べているうち女性としてのある観点からの考察が、ほとんどの記述で抜け落ちていることに気がついた。それは「子ども」である、コンスタンツェが生んだ子供のことである。上述したようにコンスタンツェは20歳から29歳までの9年9ヶ月の間に6人もの子どもを生んでいるのである。これは人間として女性として大変だったに違いない、毎年のようにお腹は大きくなる、たびたびマタニティブルーに襲われていたかもしれない、健康状態が優れなかったかもしてない。このような状態であれば誰だっていつも正常でいられるのは難しい、時には羽を伸ばし、羽目をはずし騒ぎたくなるのも無理は無い。私は女ではないので子どもを生むことは出来ないし、その痛み、苦しみ、その喜び、そして、その死に対する悲しみ・・・は解らない。女で、母で無くては永遠に解らないのだ。つまり、本当のコンスタンツェの気持ちはコンスタンツェにしか解らないのである・・・そして、それは夫であるモーツァルトにも。
 悪妻のレッテルは後世の人々が勝手につけたものであり伝記や残された手紙を見てそう考えたに過ぎないのだ、本人と会った事もないのに。悪妻か良妻かなどというのは他人がとやかく言うようなことではない、夫婦のお互いを見る目とは別物である。モーツァルトが妻コンスタンツェを悪妻と見ていただろうか、おそらくそのようなことは無かっただろう。そうでなければ6人もの子供を作ることもなかったろう。夫モーツァルトが良ければそれで良いのではなかろうか。


 〜 参考文献 〜 
1)田辺秀樹:モーツァルト,1984,新潮社(東京)
2)江村洋 :ハプスブルク家,1990,講談社(東京)
3)フリッツ・ヘンネンベルク(茂木一衛 訳) :大作曲家 モーツァルト,1993,音楽之友社(東京)
4)海老澤敏 :モーツァルト 改定,1961,音楽之友社(東京)
5)海老澤敏 :新モーツァルト考,1987,日本放送協会出版(東京)
6)井上太郎:旅路のアマデウス,1996,NTT出版株式会社(東京)
7)ミシェル・パルティ(高野優 訳,海老澤敏 監修):モーツァルト,1991,創元社(大阪)