モーツァルト と マリア・アンナ    


   〜 時代に流された姉の運命と強く結ばれていたふたり 〜
                 ・・・ 有名なナンネルの楽譜帳とは ・・・


 マリア・アンナ・フォン・ベルヒトールド・ツゥ・ゾンネンブルク(写真)は結婚後のモーツァルトの姉の名前だ。結婚するまでは、マリア・アンナ・ワルブルガ・イグナーツィア・モーツァルトで愛称「ナンネル」で知られているのはご存知のことでしょう。マリア・アンナ?はてどこかで聞いたような名前である・・・そう母の名前がアンナ・マリアである。この名前をうしろから読むと娘の名前である。
多くのモーツァルト通でもこれではこんがらがってしまいます。この時代の人物名は親子や親族にはよく似た名前をつけていることが多く名前も大変長く、本を読むのも骨が折れる。
 さて、この肖像画は結婚後のもので子供の頃の面影をよく残している。弟よりおくれて1784年に33歳で、母親の生まれたザンクト・ギルゲンの15歳年上の地方管理官と結婚し、これも何かの因縁でしょうか母親の生家で暮らしています。この結婚は主人の第一の妻の子供4人と第二の妻の子1人合わせて5人の子供を引き取り、自らも3人の子供を生んでいる。250年後の筆者から考えると、モーツァルトの姉である・・・なぜ5人も子供がいる再々婚相手との結婚なのか、また33歳までなぜ独身だったのか疑問は尽きない。子供の頃は、家族ともどもウィーン皇帝の前で御前演奏まで行ったピアノの腕前、今の時代ならきっと名のあるピアニストになった人であればなおさらである。確かにその頃は女性が社会や音楽の表舞台に立つことはあまりなく、父レオポルドもモーツァルトを大成させることで精一杯だったことは事実ではあるが・・・。国際モーツァルテウム財団のガイドブックにも以下のような事が書かれてある・・・「モーツァルトは、大好きなこの姉とは強く結ばれていた。ナンネル自身、非常に優れたピアノ奏者であったが、常に弟を励まし、自分が音楽家として世のですことが断念した。そして母の死後は、献身的に家族の面倒を見た。」・・・今でいうと家族の犠牲になったといえなくもない。モーツァルトと姉ナンネルの仲は成人するまで旅行中にとりかわされた手紙などによると微笑ましいばかりに親密なものであったが、弟が成人してウィーンへと去りザルツブルクのモーツァルト家が父レオポルドとナンネルと2人きりになる頃から、疎遠となったようで特にコンスタンツェと結婚した時からその関係はいっそう冷たいものとなっていた。1787年に父が死んだ時には遺産相続をめぐって姉弟の間には気まずいことも起こりその後も2人にゆききはなかったようで、モーツァルトの晩年の実情さえもナンネルは知らなかったようである。1801年には夫とも死別し晩年の数年間を盲目ですごし、1829年この世を去った。ナンネルが今日表舞台に登場するのは、家族で旅行した16歳ぐらいまでのことでその後は、あまり書物に登場することはない。ただ、モーツァルトの死後、史家が弟のことについて、姉ナンネルよりいろいろな回想を得ている。

 ナンネルといえば有名な子供の頃の肖像がある。 左:姉ナンネル(12歳)右:弟モーツァルト(6歳)
                  
 この2人の子供のいでたちはただものでないことは一目見ればすぐわかる。それはこの衣装は王子や王女が身にまとうものだったからだ。これらの衣装は、1762年ウィーンでの謁見の際に女帝マリア・テレジアから贈られたもで、ナンネルの白いレース飾りを凝ってほどこしたこはく織のこの衣装は、ある女王のために誂えられたものであり、モーツァルトの着ている紫地に幅の広い金モールをほどこした大礼服は皇子マクシミリアン・フランツのものだと云われている。これら絵を見てこれは凄いなと思いただそれだけで素通りしてしまいそうだが改めて眺めてみると、小都市ザルツブルクの音楽一家がやってきて、神童とうわさの子供ではあるが大礼服まで女帝が贈った事は、よほどの歓待ぶりであったことは間違いなく、当時の大ニュースとなったであろうことは疑う余地がない。しかし、このおよそ10年後には女帝からは、辛辣な表現で宮廷音楽家の道を閉ざされることになろうとは、家族の誰もが予想しなかったでことであった。

 モーツァルトが音楽に関することで姉ナンネルのあるものに大いに影響を受けたことがある。それは「ナンネルの楽譜帳」によってである。この楽譜帳はもちろん父レオポルドが7,8歳の娘ナンネルのハープシコードのレッスン用として編んだものであり、音楽の基礎・楽典の勉強用としても用いられていたものである。これは横長の比較的小型の楽譜帳で、古色蒼然とした紙表紙がついていて、レオポルドの手跡で《クラヴサン用。この楽譜帳はマリー・アンヌ・モーツァルト嬢のもの1759年》とフランス語で書き出されており50曲ほどの小品が収められている。この楽譜帳を使ったナンネルの勉強を、3歳になるモーツァルトはいつも傍らで聞いていたのである。そしてあるとき、姉の練習の後ハープシコードに近寄って、自分で三度の和音を弾き出してご満悦の様子であったことがナンネルの証言で明らかとなっている。この楽譜帳は当然のことながらウォルフガングのテキストブックとしても使われるようになり、レオポルドはこの中に息子の勉強した記録を多く書き込んでいる。これは、父親レオポルドが息子にハープシコードの手ほどきを始めたが、その才能が並々ならぬものであることに気づき、ようやく5歳の誕生日の直前になって正確な記録を残しておこうとしたようである。そして、この楽譜帳には多くのモーツァルトの初期の作品が書き込まれることとなったのである。
 この「ナンネルの楽譜帳」は彼女自身が80歳高齢で死去するまで彼女の所有であった。彼女の死後甥にあたるもの末子フランツ・クサーヴァー・ウォルフガングのてに渡った。彼の死後、2人ほどの手をへて1864年モーツァルテウムに寄贈された(注-1)。

 モーツァルトの死後ナンネルを尋ねたフリードリヒ・ルートヴィヒ・リッターフォン・ハルトマンに、彼女は「ナンネルの楽譜帳」の一葉を切り取りこれがモーツァルトの自筆譜であることを証明した一筆を添えプレゼントしている。・・・モーツァルトの晩年姉は弟のことをあまり知らなかったようだが、やはり強く結ばれていたのであろう、後世まで愛する弟の名声が残るよう望んだに違いない・・・・・・。
 



注-1):文献 1)より引用 

〜参考文献〜 
1)海老澤敏 :新モーツァルト考,1987,日本放送協会出版(東京)
2)ヨハンナ・セニグル(セルナー啓子 訳):ザルツブルクのモーツァルト 足跡と生涯  ガイドブック,   1996,国際モーツァルテウム財団(ザルツブルク)
3)海老澤敏 :モーツァルト 改定,1961,音楽之友社(東京)