モーツァルト と ヨーゼフ二世    


   〜 音楽好きの専制君主 〜   ・・・ モーツァルトは何を望んだか・・・   


 
ハプスブルグ家に於けるヨーゼフ二世とその政治手腕

 ヨーゼフ二世(写真)は、女帝マリア・テレジアの長男として1741年に生まれる。女帝は19歳で結婚しその後20年の間に16人の子どもをもうけるが、天然痘が蔓延していた時代ともあいまって長生したのはそのうち10人で、王子4人と6人の王女である。この兄弟のうちよく知られているのが、ヨーゼフ二世と、次の皇帝となる弟のレオポルド二世そしてフランス革命の4年後、断頭台の露と消えた末娘のマリー・アントワネットである。ヨーゼフ二世は女帝の後を受け皇帝となりさまざまな改革に取り組む事となる。
 18世紀プロイセンのフリードリッヒ大王とともに典型的な啓蒙専制君主として位置付けられている。対外政策の面では失敗も多かったが、社会制度を多面的に亙って改革し、教育制度を見直し、農業をはじめ、商工業の進行につとめ、文化面でも既に親政以前に始まった「ドイツ国民劇場」の創設などその業績は高く評価されている「ヨーゼフ主義」と呼ばれるものはもともと彼の対教会政策を示す言葉であるが、さらに一般化されて1780-90年にいたる10年間のヨーゼフ二世の統治の根本思想とその施策を意味するものとなった。・・・(注-1)

 皇帝の在位 と ウィーンのモーツァルト 
 ヨーゼフ二世は、モーツァルトがウィーンにやって来る16年前(1665年)から皇帝の地位にあったが、女帝マリア・テレジアが親政を執り続けていたため、彼が名実ともに真の皇帝となるのはその翌年、女帝が亡くなった1780年からといえる。つまりモーツァルトは女帝がなくなってからウィーンで作曲家の仕事を始めたことになる。ヨーゼフ二世の在位は25年に及びモーツァルトが亡くなる前年(1790年)に没した。次の皇帝は弟のレオポルド二世に引き継がれるが、この皇帝は音楽にはあまり興味を示さなかったようである。

 ウィーンのオペラ事情
 モーツァルトが生まれた1750年代からフランス文化に倣う風潮が正面に押し出され、オペラ・コミックの作品が多いに好まれた。そうしたフランスの喜歌劇がドイツ語で翻案されてウィーンのジンク・シュピールが登場したのだった。しかし、そのようなドイツオペラ作曲の動きもマリア・テレジアの死去やヨーゼフ二世の音楽趣味の変化などで、1780年の初めに終わりを告げる。モーツァルトの「後宮からの誘拐」はウィーンにおけるドイツオペラの最後の作品といえる。その後は殆どイタリア人作曲家によるイタリアオペラ《オペラ・ブッファ》が舞台を独占していくことになる。1783年から3年間の短い間に「ブルク劇場」で初演されたオペラの数は30曲を超える。この中には、サリエリ、サルティ、チマローザ、パイジェルロなど現代も耳にする作曲家がいる。1780年代のこのようなヨーゼフ二世時代のウィーンオペラ界において、モーツァルトが発表した作品は「フィガロの結婚」、「ドン・ジョバンニ」、「コシファン・トゥッティ」のわずか三曲の作品を発表したに過ぎない。イタリアの作品の氾濫の中でモーツァルトの活躍の場はけっして大きくはなかった。しかし、モーツァルトのこれらの作品はその後のオペラ界の根幹を示す作品として、評価を受け現代における、世界のオペラ劇場のスタンダードプログラムに加えられる事となったのである。・・・(注-2)

 モーツァルトは何を望んだか
 ウィーンではもちろん宮廷楽長なることを望んでいたに違いない。しかし、その時の宮廷楽長はボンノで次に宮廷楽長になるのはサリエリであろうとモーツァルト自身も述べている。このような中でウィーンでフリーの音楽家として生きていくいには、皇帝であるヨーゼフ二世に気に入られる必要がある。音楽好きの皇帝との出会いは映画「アマデウス」では、つたないピアノを弾きながらモーツァルトを迎えるシーンがある。このシーンはおそらくフィクションであろうが皇帝はピアノもかなりうまかったようである。その後も2人が出会う場面がいくつかある。「後宮からの誘拐」のオペラを観た皇帝がモーツァルトにこの曲は「音符が多すぎる」と言ったところ、モーツァルトが「不必要な音符は一つもなくすべてが必要だ」と反論している。この言葉からみても皇帝と音楽の関係がよく分かる。皇帝が見たいと思っていた芝居「フィガロの結婚」においてもマリー・アントワネッのページで記述したが、ヨーゼフ二世はチャレンジャーなザルツブルク生まれの作曲家を買っていたと思われる。それは、その頃台頭していた居並ぶイタリア出身の作曲家からの申し出がない中で、唯一モーツァルトのみがこの危険な芝居を「オペラ化」する勇気を持っていたからだ。また、この「フィガロ」を作曲していたころ1786年皇帝からオランダ総督のウィーン来訪を祝すためのシェーンブルン宮のオランジュリー(大温室で音楽会場)での祝祭用の曲「劇場支配人」の作曲なども依頼され、フィガロの作曲を中断してこの曲を作曲したとある。このように皇帝といくつかの接点はあったものの数多いものとは云えず、むしろ自らが売り込みに行ったものが許可されたに過ぎない。「フィガロ」のプラハでの成功のあと「ドン・ジョバンニ」の大成功をチェコで収めることとなるが、ウィーンの市民や音楽界からはだんだんと話題に上らなくなってくるのである。モーツァルトの晩年に近い1787年暮れには《皇王室宮廷作曲家》の称号が与えられるが、それもモーツァルトが真に望んでいた職とは程遠いものであった。しかし、1789年8月には「フィガロ」の再演をきっかけにして、皇帝から新たなオペラの依頼を受けることになる、《コシ・ファン・ツゥッテ》である。この題材は皇帝自らが選んだものだ。このオペラは1790年1月26日に上演され成功を収めるが、寛大ではなかったがモーツァルトの真の保護者であったヨーゼフ二世が2月にこの世を去るのである。このような中、だんだんと晩年の貧困へと向かって行くのである。


〜参考文献〜 
江村洋 :ハプスブルク家,1990,講談社(東京)
フリッツ・ヘンネンベルク(茂木一衛 訳) :大作曲家 モーツァルト,1993,音楽之友社(東京)
海老澤敏 :モーツァルト 改定,1961,音楽之友社(東京)
海老澤敏 :新モーツァルト考,1987,日本放送協会出版(東京)
ミシェル・パルティ(高野優 訳,海老澤敏 監修):モーツァルト,1991,創元社(大阪)

(注-1、2)・・・海老澤敏 :新モーツァルト考,1987,日本放送協会出版(東京) より引用