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thorny path
イバラの道
あるいは無知なる道化


 現代は、ある勘違いを引き起こしているように思う。
 かつては、最高の芸術に接するためにはそれなりの苦労が必要だった。絵画ならその場所まで赴かなければならなかった。歌ならその歌われている場所まで行かなければならなかった。
 しかし、その苦労を減らすために必死で努力した結果、人類は今日、あらゆる一級品に囲まれるという贅沢を成し遂げた。あらゆる名画は、教科書に載っている。人気の音楽はすぐに街に流れている。最高級の小説が、近所の本屋で買える。インターネットはさらにその延長かもしれぬ。すばらしい芸術作品が、まったく無料で手に入ることも珍しくない。
 こうした贅沢な世界は、時として我々に錯覚を起こさせるのではなかろうか……それらの名作が、たやすく手に届くものだと。

 たしか新井素子さんだったと思ったが、星新一さんの短編集の解説にこんなエピソードがあった。星新一さんの短編を読んで、自分も小説を書こうとその気になり、すぐさま一編書き上げて、母親に見せた。母親が一読しての感想は「よくわかんない」だったという。星さんの文章は読みやすい。それを「書きやすい」と勘違いしたのだと新井さんは書いておられた。「自分にも書ける」と思ったのは間違いで、読みやすい文章を書くのは大変な事なのだと(もちろんこれは新井さんが若かりし日の話であって、今の新井さんの文章をして「分かりにくい」と言う人もあまりあるまいが)

 我々は時に勘違いをする。あまりに一級品に囲まれているために、我々もそのレベルの作品を作ることができるのだと……むしろそうでなければ価値がないのだと、考えてしまう。だがそれは実は大変に困難な話だ。100人に1人、1000人に1人という人材が長年苦労した結果が、そこらに転がっている時代なのである。そこらの人が、それに比肩する作品を仕上げるなんてことは、まずめったに無い。そんなに都合がいいことは、それこそ小説の中でしか起こらない。長い練習期間が必要なものだ。
 「自分が作る作品など、価値がなくって当たり前なのだ」という、ある意味卑屈な、ある意味で謙虚な姿勢があっていい。「いつかは価値があるものが作れる」と信じて、価値が無いものを延々と生産するのだ。そんな能天気な、そして無意味な行動を続けられるなら、いつかきっと、価値のあるものを生み出すチャンスが来る。

 先日、部屋を整理した。そしたら、押入れのダンボールから、中学・高校時代に作った文章がちょこまかと登場したのである。パラパラと眺めてみた。
だぁっ。若い。若さが爆発している。今さらこんな勢いの文章は書けない。恥ずかしいなあ。赤面しながら読みふけっていた。読み終わったあとは、改めてファイルしなおし、また大切にしまいこんだ。
 若いうちは、幸いだ。自分の文章の稚拙さが分からない。だけど、あの稚拙な文章を書き続けていたからこそ、今の自分の文章があるのだなと思う。歳を数えて分別がつき、自分の稚拙さがわかってしまうと、書いていることが苦痛になる。そこから先に進むのはイバラの道だ。

 僕にとっては、イラストがこのイバラの道だ。高校の頃に自分のイラストに見切りをつけ、これはダメだと理解してしまった。それ以来、ぱったりイラストを描くのをやめてしまった。ダメなものを描いているのが苦痛なのである。
 幸いにして、大学卒業後に能天気がぶり返した。それで、自分一人の時にだけささやかなイラストを描いている。誰にも見せない。スゴイ絵を描こうというつもりもさらさらない。もし水準の高いものを描くことにこだわっていたら、とても続けていられなかっただろう。それは画才の無い僕にとって「無いものねだり」だからだ。
 それでも、ただ描いているのが楽しい。だから、誰にも批評されずに、ひどい水準のものでもいいから描く。このおかげで続けられるようになったので、ほんの少しずつだが、上達しているような気もする。
 つまりこれは、稚拙な自分に無理を要求しないという一種の逃げ道だ。まとまったものが出来るとは思わないが、さりとてあまり苦痛を覚えることもない。それでいて、長く続けることができ、自分にチャンスを与えてやることができる……万が一、ヒョウタンから駒が登場するチャンスを。

 僕は、幸いにして、「文章のイバラの道」を若く無知な間に通りぬけることができた……いや、ホントにそうか? きっと、今の文章も、まだまだ稚拙なのだろう。実際はまだイバラの真ん中に立っているのに、それに気付かない無知で幸福な凡人にすぎないのだろう。誉めてくれる人はほんの一部の少数派なのだろう。見識ある人たち、世界の8割の人々は、僕の文章を読んでその稚拙さに苦笑するのだろう。しかしだからと言ってここで書くことを止めては、イバラの道を抜けることは決してない。イバラを抜けるには、たとえどうでも書くしかない。
 自らの稚拙さに気付かぬ阿呆を演じつつ、イバラの道を行く。

(1999 11.8)


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