Solitaire's Company/essays/remmings//bottom/
「動物のうちで人間だけが笑うことができる」とはよく言われている。ワライハイエナがこれに意義を唱えるかどうかはともかく、「こっけいさを解する」生物は人間だけだろう。それは人間が高度であることの証拠だと言われている。なるほど確かに、笑うということは高度な精神性の現われであるに違いない。
もうひとつ、動物と人間を隔てる違いがあるように思われる。自殺である。動物が自殺したという噂は聞いたことがない。あるかもしれないがごく稀だ。人間にとって、自殺はそれほど稀な事例ではない。「自殺することを考えてみたことがあるか」という質問に、結構な割合の人がイエスと答える。人間にとって、自殺は割と日常的な衝動の一つである。もし動物に同じアンケートをしたら、1パーセントにも満たないだろう。
レミングは集団自殺をすると言われているが、あれは人間の高度なそれとは意味合いが違う。一般には「個体数増加に伴うカタストロフを回避するため」と考えられている。つまり、種を生かすために、一部が犠牲になる。自分を犠牲にして町を救ったとか、そういった自己犠牲の精神と比較することはできるかもしれないが、「生が嫌になったから」という自殺とは、精神性において比べることができない。人間の方が高度だと考えていいだろう。レミングの自殺は、少なくとも種族全体で見ればメリットがある。しかし「生きるのがヤになる」のは人間だけである。
「生きるのが嫌になる」という行動自体が一種の間引きであるという見方は可能かもしれない。つまり「生きるのが嫌になる人間」を残しておくと種にとって不利益であるので、そういう人間は自殺するようになっている、ということだろうか。
しかしながら、人類という種族そのものを滅ぼす「種としての心中」になると、動物にはまったく追いつくことができない。レミングが、レミングという種を根絶するために何かするなどということがありうるだろうか? 自殺しようとするレミングに「そんなに集団自殺したいなら、まるごと絶滅さしてあげようか」と言ってみるといい。決して首を縦には振らないだろう。彼らの自殺は種を保存するための一時的措置である。
人間だけが「自分の種を根絶すべきか否か」という意見を真剣に検討することができる。これはもはや本能では説明がつかない。
Solitaire's Companyでは基本的に性的な話題はご法度であるが、しかし同性愛について疑問に思っていることがある。同性愛者は子孫を残すことができない。いわば、短命種である。
現在、同性愛を認めようという動きがある。同性愛の保護を訴える大変真面目な団体があって、同性愛の人間を差別するのをやめて欲しいと訴えている。近年では、文学作品にも同性愛を扱ったものがたくさんある。別に悪いとも思わない。そういうものかな、と思う。
だが、もし人類すべてが同性愛になったとしたら、人類は一世代で滅亡する。そうなのだ。同性愛は自殺同様、種としてかなり奇妙な事態なのである(これこそが、いくつかの宗教が自殺と同性愛をタブー視した理由だろうと推測する)。言っておくが、この文章には彼らを差別しようという意図は少しもない。だが。
同性愛は種としてのゆるやかな自殺なのか。それともそれは人口過剰を抑制するレミング的衝動に過ぎないのか。体外受精は同性愛を正当化するだろうか?(XY染色体の2人からなら男女どちらも生まれうる……XX染色体の2人からは女性しか生まれない) 同性愛は“罪sin”なのか? それともそれは「人間が本能から遠ざかった証」として歓迎されるべきなのだろうか?
同性愛の問題はさておき。本能から遠ざかる道が自滅につながっているのだとしたら、それでも哀れなワライレミングたちはその道を進むだろうか?(1999.12.13)
Solitaire's Company/essays/remmings//top/
Solitaire's Company
もがみたかふみ
solitair@wa2.so-net.ne.jp