Solitaire's Company/essays/bad joke//bottom/
とある人と、メールで論争になったことがある。細かい内容には立ち入らないが、それは僕が若干腹を立てた事件について、その是非をめぐるものだった。僕は、注意深く言葉を選びながら、軽い自虐的なジョークをとりまぜた抗弁を作成し、メールで送った。
相手の反応は芳しくなかった。彼は大変に紳士的な態度で、しかし、僕がかれをバカにしている可能性を憂慮していると伝えてきた。僕はまったく彼をバカにする意図がなかった事を説明し、その点に関して心から陳謝した。
しばらくのメールのやりとりの後、お互いは相手の立場をほぼ理解したと考え、相手の意見を変えるには至らなかったものの、互いに意見を尊重しあうという状態で論争は終了した。しかし結果はこの際問題ではない。今回のエッセイのネタはその過程にあった、あの自虐的なユーモア(少なくとも、ユーモアと僕が考えたもの)である。
文章というものは、極めようと思うと大変に難しいものだということはご存知かと思う。自分が意図した通りの印象を相手に与えるためには、たいへんに注意深く文章を構成しなくてはならない。特に、読み手の立場に立って推敲するという部分が不可欠である。
文章を書くにあたって、誰もが自分の考えをそこに込める。しかし、大抵の場合、自分の考えがきちんと反映された文章というものはなかなか書けない。舌足らずの文章がそこにできあがる。相手はまた、それを相手なりに読み取るのであって、してみると「二人の人間が共通の理解に達する文章を書く」というのは実現の難しい理想……あるいは幻想……と言える。
ことに論争の場合、僕が気にするのは、自分の文章が攻撃的な印象を与えているのではないかという点である。ただでさえ、相手の顔が見えないやりとりというものは悪い印象を与えることが多い。堅い文章というものは、往々にして冷たい、非人間的な印象を与えがちである。
そこで、ジョーク。これが欠かせない。何くれとなく無駄口をとりまぜ、自分の敵意の無さを示す友好的ポーズのつもりである……そう、こちらはそういう「つもり」を込めている。しかしここにまた相互理解の壁が立ちふさがる。今度は「バカにされているのかも」といった誤解が生じる。いやはや、まさに相互理解とは越えがたい壁だ。避けて通ったつもりが、また同じ壁に突き当たる。
この一件で、ジョークというものはやはりマズいものだろうかと心配になった。真面目な話をしている時に、ユーモアやジョークを混ぜようという意図は問題ありだろうか。しかし、卓越したユーモアは激論のさなかにあってすら相手を微笑ませる効果を持つはず。してみると、ジョークが悪い、ユーモアが悪いというのではない、つまり「マズいユーモアが一番マズい」という結論に落ち着いた。
さりとて使わなければ、マズいユーモアが一層マズくなることは必至。マズいユーモアでも使い続けなければ上達は望めない。頑張って天才的ユーモアを身につけたいもの。(2000.1.29)
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Solitaire's Company
もがみたかふみ
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